たとえ、僕が永遠に君を忘れても

「ノート……貸してあげたのに……」

 思わず、走り出した足を止めてしまった。

「授業中も答え……教えてあげた……何度も、何度も……」
「うっ」

 こ、こいつ……良心に訴えかけてきやがった。
 やめてくれ、その技は俺に効く。

 ただでさえこっちは日頃から冷たい態度をとっては罪悪感に襲われているんだぞ、追い打ちをかける気か。

 背後からゆっくりと俺に近づく足音が聞こえてくる。まだ涼しい時期だというのに額から汗が噴き出てきた。

「そっか、私のことは助けてくれないんだ……私は助けてあげたのに……」
「そ、その手は卑怯だぞ……」

 俺の真後ろに立つと冬木は肩に手を乗せてきた。そして、耳元で悪霊のような声で「ブカツ、ガンバッテネ……」とひと言。

 ……これは、ああ。俺の負けだな。

「二十分……いや、十分で勘弁してくれ」
「やったあ! さすが誠くん!」

 こいつはあれか、俺の扱い方でも心得ているのか。
 まあいい……訳ではないが、諦めよう。
 冬木に恩があるのは事実だし、ここでまとめて清算しておけば今後は今のように理不尽な要求をされても心置きなく断れる。

「ちなみに、写させてあげたノート一ページにつき十時間の手助けを要求します!」
「ぶっ飛ばすぞ」

 とうとう口に出してしまった。

「ふふ、冗談だよ。さあレッツ図書室!」

 俺の暴言など全く気にすることなく冬木は鼻歌交じりに廊下を歩き始めた。
 十分だけ、十分だけだぞ……。

 そう心に誓ったものの、結局一時間も付き合わされた。
 もちろん仮入部には行けなかった。絶対に許さない。
――四月十七日(金)

 昼休みに入り、いつもの場所で弁当箱を開けると階下から軽やかな足音が聞こえてきた。こちらに近づいてくるにつれ次第に足音が反響していく。

「やあ誠くん!」
「はい出た」

 当然のように現れた冬木は当たり前のように隣に座ってきた。

「ご飯ご一緒してもいいかな!」
「もう好きにしてくれ……」

 諦めたように言って俺はスマホを取り出した。どうせ拒否しても結果は変わらない。
 もういい、こいつのことはお喋りなラジオ番組とでも思ってスルーしておこう。

「聞いて聞いて! 今日ね――」
「ああ、そうだな」
「それでねそれでね!」
「わーそれはすごいなー」

 そんな会話が何度か続いた。適当に相槌を打っていたからどんな話を聞いていたのか全く覚えていない。全部右から左にすっぽ抜けていった。

「でさでさ! それでねー!」

 適当にあしらわれていることに気付いているのだろう、冬木が話題を振ってくるスピードがどんどん早送りになってくる。
「あ! 弁当箱にタレが垂れた! タレだけに! なんつって!」
「…………」
「なんつって! なんつって! ねえねえ」

 ――うぜえ!
 なんなんだこいつ、全然画面に集中できねえ!

「わかった、わかった。話があるなら聞くから」

 スマホを置いて両手を挙げた。降参の意思表明だ。

「七かける六は?」
「四十二」
「よし、ちゃんと聞いているようですね」
「いいからさっさと要件を話せ」

 さりげなく九九の中で一番難しい七の段を出題するな。

「誠くん! 今週の日曜日一緒にお買い物に行こう!」
「悪いが断――」
「はいストップ!」

 言い終わる前に口に手を当てられた。よほど俺を喋らせたくないのか、前歯が折れるくらいの勢いで押し付けてきやがる。というか、断られるのがわかっているなら誘おうとしないでもらいたい。

「日曜日、お昼に駅の東口に集合ね! 来てくれるまで永遠に待ち続けるから!」
「いや、俺は――」
「それじゃ私教室戻るから!」

 冬木はどこからか取り出したメロンパンを俺の口に詰め込むと三段飛ばしで階段を駆け下りていった。

「あいつ、断られる前に逃げやがった……」

 いくら何でも強引すぎる。しかもタチが悪い。何だよ、来るまで待ち続けるって。自分を人質にとった脅迫はやめろ。
 あいつの場合、忠犬ハチ公よろしく本当に待ち続けそうだから余計に悪質だ。

「くそ、完全にやられた」

 それでも怒りがわいてこないのが不思議だ。むしろ笑えてくる。
 まあでも、どのみち日曜はテニス用品を買いに外出する予定だったし、ついでと思えば別にいいか。

 それに、俺には秘策がある。

「くくく、何でもお前の思い通りに行くと思うなよ……」

 屋上前でひとしきり笑った後、恥ずかしくなって真顔に戻った。
 ――四月十九日(日)

 とうとう日曜日が来てしまった。
 待ち合わせの駅まで電車で向かい、改札を出ると人の多さに目がくらみそうになる。
 たったひと駅離れているだけなのに俺の住んでいる地区とはまるで景色が違う。

 近場で最も栄えているこの街は、少し歩けば大型ショッピングモールや水族館、規模は小さいが遊園地まである。そのせいか休日になるとそれなりに混んでしまうのだ。とはいえ、大都会みたいにパーソナルスペースを確保できない程ではない。

「やっほー!」

 人の流れに合わせて歩いていると、やたらとハイテンションな声とともに私服姿の冬木が駆け寄ってきた。無地の白Tシャツに水色のジーパン、足元に目を向ければ白い運動靴を履いている。
 まるで近場のコンビニにでも行くような恰好だ。冬木のことだから気合の入った派手な服でも着てくるのかと思っていたが予想が外れたようだ。

 意外とお洒落には無頓着なのだろうか。まあ俺は俺で灰色のパーカーに紺のズボンという何のひねりもない服装だからあまり人のことは言えないが。

「よう」
「ごめん待った!? ううん、今来たとこ!」
「ひとりで何言ってんだ」

 相も変わらず朝から騒がしい。そしてそれに慣れつつある自分が恐ろしい。

「それじゃ早速いこう!」
「いや待て」
「?」

 不思議そうに首を傾げる冬木を横目に、俺は背後の人物を呼んだ。

「こんにちはー。入学式の日にちょっとだけ会ってるんだけど、覚えてるかな?」

 その人物は大人びた黒のロングスカートを歩みとともに揺らしながら俺の横に並ぶと、落ち着きつつも気さくな笑みを見せた。
 白ブラウスの肩にはどこか高級そうな栗色のショルダーバッグがかけられており、俺や冬木と違ってあからさまに気合の入った服装は今日という日を楽しみにしていたことがうかがえる。

 そう、この人物こそが俺が用意した秘策であり最強の切り札みなみだ。
 どうせ暇だろうからと昨日の夕方あたりに誘ったところふたつ返事で了承されたので連れてきた。
 俺の作戦は至ってシンプルだ。
 冬木とみなみをふたりで行動させ俺は離脱。その後スポーツ用品店で買い物を済ませてから帰宅するという、徹頭徹尾無駄のない完璧な作戦だ。これならば冬木を待ちぼうけさせることも、俺が振り回されることもない。

 俺の作戦など知りもしない冬木は嬉しそうにみなみの両手をとると、湯切りをするラーメン職人を思わせる激しさでぶんぶんと上下に振り回した。

「覚えてる覚えてる! みなみちゃんっていうんだよね! 今日は一緒に遊んでくれるの!?」
「うん、お邪魔じゃなければ!」
「やったあ!」

 さすが冬木とみなみだ、ほぼ初対面の相手と一瞬で打ち解けている。
 これならば問題なさそうだ。あとは女子ふたりに任せて俺は撤退するとしよう。仲睦まじい女の子の間に男が入る余地はない。女子は女子、男子は男子というのが一番話が弾むのだ。

「それじゃ、俺はこれで」

 作戦を決行すべく、ふたりに背を向け颯爽と足を踏み出した。
 しかし二歩目を踏み出す直前、背後から人間とは思えない握力で腕を掴まれた。
「いや、逃がさないよ」

 振り返ってみると、さぞ嬉しそうな顔のみなみの姿。しかし目が笑っていない。
 腕には爪が食い込み、意地でも俺を逃がすまいとする意志が痛みとして伝わってくる。

 なんと恐ろしい反応速度だ。たった一歩だぞ、たった一歩踏み出した瞬間に俺が逃げることを察知したというのか。

「さてはお前――最初から俺の狙いを……」
「もちろん! 何年一緒にいると思ってるの?」

 あろうことか、みなみは俺が逃げ出す瞬間を見計らっていたのだ。まるで犯人が行動を起こすまで泳がせている刑事のように。
 切り札に裏切られた瞬間だった。

「ほら、たまにはいいじゃん。誠だって息抜きした方がいいよ」
「いや――」
「いいからいいから。グリップとかガットくらいなら私が奢ってあげるからさ」

 その言葉に僅かに心が揺らいだ。だが、そんな甘言に惑わされてはいけない。みなみに作戦がバレていた以上、ここを逃せばもう抜け出す機会はなくなってしまう。

「物で釣るとはな。俺がそんな手に乗ると思うか?」
「乗るよ。だって誠、毎月のお小遣い五百円じゃん」
「……やめてくれ」

 こら、恥ずかしいからバラすな。
 仕方ないだろ、我が家はまとまったお金が貰えるのは正月くらいで、「そのお金で一年間やりくりしてお金の大切さを学べ」なんていう教育方針なのだから。
 お年玉だってそこまでたくさん貰えるわけじゃないから年中金欠だよ。

「はあ……今日だけだぞ」

 みなみを連れてきたのは完全に人選ミスだ。こいつはおそらく、俺が金欠なのを見越したうえでこの提案をしてきたに違いない。とんでもない悪女だ。
「それじゃあ早速行こっか。ええっと、冬木ちゃんって呼んだ方がいいのかな? 今日はよろしくね」
「こちらこそよろしくー! 私のことは千歳って呼んでほしいな!」

 呼び名を確認し合うふたりを俺は意気消沈気味に眺めていた。いや、眺めるというよりただぼうっと視界に収めているだけという表現が正しいだろうか。

 逃げ出せなかった精神的ショックのせいか上手く焦点が定まらない。冬木ひとりでも厄介だというのに、みなみまで一緒となればもう逃げ道などない。

 というか冬木め、こんな当たり障りのない会話ができるのならどうして俺にはやってくれないのだ。まあ普通に話しかけられても普通に無視するんだけど。

 微かな不満を抱きつつも、ショッピングモールへ向かい始めたふたりの後を俺は大人しく追うことにした。

「それにしても千歳ちゃんって肌白いよね~羨ましい」
「みなみちゃんの方が白くない? ちょっと手出して! 比べっこしよー」

 道中、そんな会話をしながら女子ふたりが前方を歩く。俺はその後ろを背後霊のように虚しく歩くだけ。