たとえ、僕が永遠に君を忘れても

「ジャ、ジャマナンテシテナイデスヨー」

 露骨に焦りながら冬木は俺から目を反らした。その頬を伝う汗は暑さや運動によるものではなくおそらく冷や汗なのだろう。

「誤魔化さなくもいい。別に怒っているわけではないから」
「……そうなの?」

 意外そうな眼差しを向けてくる冬木に「ああ」と短く頷いてみせる。

「お前が良い奴なのは話していたら誰だってわかる。ただ、どうして俺にばかり話しかけてくるのか、何故俺の邪魔をするのか、それがわからないんだよ」
「それは……」

 冬木は俯いて黙り込んだ。
 時折何かを言いたげに顔を上げてはすぐに言葉を飲み込み、そしてまた黙り込む。それの繰り返し。

「……ごめん、それは、それだけは言えない」

 やがて諦めたように、かつ罪悪感にまみれた苦しそうな顔でそう謝ってきた。

「まあ、悪意がないのはわかるから別にいいけど……」

 結局深く問いただすことはできなかった。
 謎を解消すべく質問を重ねれば重ねるほど、より疑問が深まっていくような気がした。今だって何故そこまで思い詰める必要がある?と逆に疑問を感じているのだから。
「安心して、夏休みは邪魔しないから」
「本当か?」
「うん、だって合宿中はどのみち熱――」

 言いかけた冬木の声を、どこからともなく響いてきた猫の鳴き声がかき消した。
 どこから鳴き声がしたのかと視線をさ迷わせると、いつの間にか冬木の足元に白猫が佇んでいることに気付く。

「げ」

 もはや間違いようがない、あの猫だ。
 ついにテニスコートにまで現れやがった。

 白猫はぴょんと冬木の膝に飛び乗ると、ごろごろと喉を鳴らして丸まった。

「ふ、冬木……その猫……」
「あー、えっと……知り合いの飼い猫みたいな感じかな。私に懐いちゃっているみたいで、どこにいてもついてくるんだよね」

 そう言って冬木は白猫の背を撫で始める。

「そ、そうなのか」

 だからあの日、冬木の家の前にいたのか。
 いやでも、それだとうちの前にもいた理由がわからない。たまたま通りかかっただけか?

 どちらにせよ不気味な猫だが、大人しく冬木に撫でられている姿を見る限り本当に誰かしらの飼い猫なのだろう。せめて首輪くらいは付けてほしいものだが。

 しばらく撫でられて満足したのか、白猫はすっと立ち上がると大きなあくびをひとつ。そのまま地面に降りて走り去っていった。

「そろそろ俺たちも帰るか」
「そうだね」
「空気入れよろしく」
「あ、忘れてなかったんだ」

 当然だ。って、あまり誇らしく言えることでもないが。
 ともあれ夏休みの初日から練習ができたのは幸先がいい。今から合宿が楽しみだ。
 ――七月二十二日(水)千歳の部屋

 私は大馬鹿者だ。

『千歳です。今日はテニス楽しかったよ、ありがとう♡』

 そんなメールを送った直後、スマホを放り投げてベッドに倒れこんだ。

「ごめんね、誠くん」

 枕に顔をうずめ、後悔をひとつ。
 ……ここまでは上手くいったと思う。最終的にはバレちゃったけど、自然に彼の練習を邪魔することができている。

 私は、彼が昼休みになるとあの場所に行くことを知っていた。だから私もそこへ向かった。

 私は、彼が義理人情に弱い人だと知っていた。だからたくさんの恩を売った。

 全ては彼の邪魔をするため。

 もちろん、こんなこと、やりたくてやっているわけじゃない。
 無邪気な笑みを見せて彼を振り回すたびに少しずつ心が壊れていくのが自分でもわかる。

 私は誠くんが好きだ。
 理由まではわからないけれど、彼がテニスのために人を遠ざけていることは知っている。誰よりも熱心に打ち込んでいると私は知っている。

 本当は邪魔なんてしたくない。まっすぐ彼を応援したい。
 でも、それでも、私は彼の邪魔をしなくてはいけない。

「……仕方ないよね」

 何があっても、誠くんを県大会に行かせるわけにはいかない。予選で負けてもらわなくちゃいけない。
 なんとしても、邪魔をしなければいけない。

 だって彼は――。
 だって彼は、県大会当日に――死んでしまうのだから。

 だから私は、半年後の未来からここに戻ってきた。

 ――全ては、誠くんの死の運命を変えるために。
 ――八月三日(月)

 ……最悪だ。
 合宿初日、練習に励む部員たちを俺は日陰に座って眺めていた。隣では冬木がパタパタとうちわを扇いでくれている。

「俺は今、猛烈に死にたい」
「気を強く持って……」

 苦笑いしながらスポーツドリンクを手渡してくる冬木。
 俺はちびちびと焼酎を飲む中年男性のように少しずつそれを口に含み、ひと息ついてから現状への愚痴を垂れる。

「なんで俺が熱中症なんかに……」
「どんまいだよ……」

 なんでとは言った手前、理由はわかりきっている。
 ただ張り切りすぎた、それだけだ。

 今まで冬木に邪魔された分を取り戻すべく、ろくに休憩も取らなかったつけが早くも回ってきたのだ。

「今日はもう練習休もう? 誠くんち近いし、送っていくよ」
「いや、せめて練習風景だけでも見させてくれ……」
「だめ! こんな暑いところに居たら治るものも治らないよ。体調が悪いままずるずる練習するよりも、涼しいところで安静にして完全に体調が良くなってから練習するほうがずっと効率的でしょ!」

 完璧な正論だった。

「ほら立って、帰るよ」
「うぐぐぐ」

 俺の手を掴んで立たせようとする冬木に反抗し、できる限り踏ん張った。冬木の言い分が正しいのだと頭ではわかっていても、体がそれを拒絶してしまう。

「もう、玩具売り場で駄々をこねる子供じゃないんだから……」
「ぐううう」

 些細な抵抗も虚しく、結局俺は帰らされることになってしまった。
 程なくして玄関先まで送ってくれた冬木に「ありがとう」と小さく礼を言うと何やら苦笑いを返された。

「とても感謝している人の顔には見えないけどね……」

 どうやら冬木から見た俺の顔はこの上なく不機嫌なようだ。実際機嫌がいいとはとても言えない。

「ちゃんと体調がよくなったらまた練習復帰させてあげるから! とりあえず今日と明日は自宅待機! いいね?」
「……わかった」
「それじゃあ私戻るから、お大事にね」

 俺は泣き出したい気分を抑え、去って行く冬木の後ろ姿を見送った。

 ◇ ◇ ◇

 合宿二日目、俺はベッドの上で茫然と天井を眺めていた。

 体調はそこまで悪くない。無理をしなければ練習には参加できる程度には回復はしているだろう。だが、早朝冬木にメールをすると『完全に治るまはでダメ』とばっさり断ち切られてしまった。

 大会予選まであと二か月、この調子では先が思いやられる。

「暇だな……」

 今頃みんなは楽しく練習中か。いや、もうすぐ午前の練習が終わって昼休憩といったところだろうか。

 などと考えていると、突然インターホンが鳴りだした。それも、何度も連続で。まったくもって迷惑だ。そして誰がこの迷惑行為を働いているのかわかってしまう自分が嫌になってくる。
 嫌々ながら玄関のドアを開けると案の定、そこには冬木がいた。

「やあ誠くん! だいぶ顔色が良くなったみたいだね!」
「おかげさまでな。で、何の用だ?」
「お見舞い、という口実で練習をサボりにきました!」

 クズだなこいつ。

「誠くんが居ないテニス部なんているだけ暇だもん。ほらほら、みかんゼリーとかぶどうゼリーとか桃ゼリーたくさん買ってきたよ。一緒に食べようよ」
「ゼリーばっかりだな」
「私ゼリー好きなんだよね。誠くんもきっと気に入るよ。さあ、食べよう!」

 お前、自分がゼリー食べたいだけだろ。

「断る。寝るから帰ってくれ」
「ふっ。千歳ちゃんは賢いので誠くんがそう言うと思って既に交渉材料を用意しておきました」
「なんだと?」

 冬木はジャージのポケットからスマートフォンを取り出すとおもむろに画面をこちらに向けてきた。

「こ、これは……!」
「そう、昨日誠くんが熱中症でダウンする前の練習風景を収めた動画です。これがあれば休んでいる間も自分のどこがいけないか問題点を洗い出せるだろうね! まあ誠くんが帰れって言うなら帰るけどね! あ、スマホの容量少ないから後でこの動画消しとこうかなー」

 冬木は勝ち誇った様子でちらちらとこちらを伺っている。俺が断れないのを知っているのだ。悪魔め。
「……見せてください」
「ゼリーは?」
「食べる」
「一緒に?」
「一緒に」
「よーし!」

 ガッツポーズを決める冬木の前で俺はがっくりと肩を落とした。
 くそ、なんだこの敗北感は。試合で負けた時なんかよりもずっと悔しいぞ。

「……上がってくれ」
「お邪魔します!」

 冬木を自室に通し、来客用のローテーブルを黒絨毯の上に置く。テーブルを挟んで向かい合って座ると冬木はきょろきょろと俺の部屋を観察し始めた。

「あんまり人様の部屋をじろじろ見るな」
「ごめんごめん。結構綺麗だなーって。もっとぐちゃぐちゃなのかと思ってた」
「ああ、たまにみなみが押しかけてきて勝手に掃除して帰っていくんだよ」
「なにそれ羨ましい」

 妖怪お節介女なんて言ってはいるが、かなり助かっているのが事実。父さんは仕事で家にいないことが多いし、家事をやってくれていた母さんがいなくなったこともあってうちは散らかりがちなのだ。

「よし、じゃあ今度から私も掃除しに来てあげるよ!」
「逆に散らかりそうだから遠慮しとく」
「あはは、よくわかってるね」

 みかんゼリーの蓋を開けた冬木が笑いながら「はいどうぞ」と差し出してくる。

「美味しい?」
「ああ」
「よかった。思いのほか元気そうで安心したよ。さっきはサボりにきたなんて言ったけど、実は心配だったの」
「そ、そうか」
 こいつにもちゃんと人間の心が残っていたんだな。
 しかしなんだ、面と向かってそう言われるとどうにもむず痒い。いつもふざけたことばかりを言っている冬木が相手だとなおさらだ。真面目な顔で心配だったなんて言われるのは慣れていない。

「あ、あれってもしかして昔の誠くん!?」

 そんな俺の考えなど知りもせず、相変わらずきょろきょろと周りを観察していた冬木は机上の写真立てに目を付けた。以前家族三人で遊園地に来た際、父さんに撮ってもらった写真だ。

「ああ。五年くらい前のやつだな」
「この頃の誠くんはまだ幼いね! 一緒に写っているのはお姉さん?」

 机に駆け寄った冬木が目を輝かせながら返答を求める。

「いや、母親だ」
「うっそ! めちゃくちゃ若い! そして美人!」

 ひとりではしゃぐ冬木をしり目に俺は黙々とゼリーを食べ進めた。
 なるべく表情を崩さないよう、細心の注意を払って。

 何故そう務めるのか、それは次に冬木の口から発せられる言葉が予測できてしまうからだ。

「今度誠くんのお母さんに会う機会があったら挨拶しなきゃ!」

スプーンを握る手の力が強まった。予測していても、体がそう反応した。

「……無理だぞ」
「なんで?」
「もう死んでるから」

 一切の感情を込めずに、ただ機械的に答える。そうしなければつい弱音を吐いてしまいそうだった。その話はしないでくれ、思い出させないでくれ、と。
 一年の時が経った今でも、俺にとっては進んで語りたいとは思えない過去なのだ。