「元の世界での私は貴族ではないので、貴族の夫人として相応しい教養やマナーが身についているとは思えません。
今は貴族の女性らしくになれるように、ペルラさんから教養やマナーを教わっていますが、まだまだ付け焼き刃の程度です。マキウス様の隣を歩くにはまだまだ未熟です」
「気にする必要はありません。そんなものは、これから身につけていけばいいんです。時間をかけて、ゆっくりと……」
マキウスの言葉が胸に染み入る。
モニカは膝を抱えると、そこに顔を埋めるようにして続ける。
「それに、私はこれまで育児や結婚どころか、男性と付き合ったことさえありません。……男性が怖いんです」
「男が怖い……?」
聞き返したマキウスに、モニカは小さく頷く。
「それにも関わらず、結婚して、子供が欲しいとも思っていました。……身の程知らずにも、かつての私は」
御國だった頃、学生時代の同級生や職場の人たちから、恋人が出来たという話を聞く度に、羨ましいと思った。
結婚して、子供が出来たという話を聞くと、もっと羨ましくなった。
「友人や職場の人たちから、彼氏や夫の話を聞く度に羨ましい気持ちになって、その人を妬んでばかりいました。
私は恋人も結婚も出来ないのに、どうしてこの人は出来たんだろうって。……最低ですよね」
「そんなことは……」
言葉に詰まったマキウスに、モニカは苦笑しつつそっと首を振った。
「私も勇気を出して、恋人を作って、結婚して、子供を産めばいいだけの話なんです。
でも、どうしても出来なかった。怖いから……」
そうして、モニカは自分で自分の身体を抱きしめたのだった。
「今の私はマキウス様に触れられたい、もっと親密な関係になりたいーー愛されたいと思っています。けれども、どこかで触れられるのが怖いとも思っています」
「そうだったんですか……?」
モニカの言葉が意外だったのか、マキウスは驚いているようだった。
そんなマキウスに、どこか後ろめたさを感じながら、モニカは口を開いたのだった。
「私、子供の頃に男性に乱暴されたことがあります。ーー強姦されそうになったんです。それから、ずっと男性が怖いんです」
宵闇の中で、マキウスのアメシストの様な目が大きく開かれたのを見ながら、モニカは自分の過去について話し出したのだった。
「あれは、私がまだ中学生ーー学生だった頃です。たまたま、同じクラスになった男子学生がいたんです。とても優しい人で、マキウス様ほどではありませんが、見目麗しくて、文武に秀でていました。性格も明るくて、学年中の人気者でした。
対して、あの世界での私は、取り立てて良いところはありませんでした。
勉強も運動も普通で、顔はあまり良くなくて。性格も暗くて、教室の隅で本を読んでいるようなタイプでした。
明らかに、私とその男子学生は真逆の存在でした。けれども、その男子学生は、何故かそんな私に気兼ねなく話しかけてきたんです」
その男子学生は話しかけてきただけではなかった。
モニカの代わりに、重い物を持ってくれて、勉強でわからないところがあれば、何でも教えてくれた。
学年でも男女問わず人気のある男子学生だったが、そんな彼が何も取り柄がないモニカにも優しくしてくれたのだった。
「最初こそ、その男子学生を警戒しました。けれども、それが半年も続く頃にはすっかり気を許していました。
だから、その子が優しくしてくれる分、私もその子に優しくしました。誰かに優しくされたら、その人にそれを返す。まだまだ未熟だった私は、そう信じていたんです」
モニカは大きく息を吐き出すと、絶え間なく星が流れていく空を見上げる。
「秋が終わりかけのある日、私の近所に住む友人が自宅にやって来ました。男子学生が私に会いたがっていて、でも御私の自宅がわからないから、その子の自宅で待っていると言って。その頃には、男子学生に対する警戒心は全く無くなっていたので、愚かにも私は何も不審がることもなく、その友人の自宅に行きました」
それが、そもそもの間違いだった。
それ以前に、そのモニカを呼びに来たという友人は、子供の頃はほどほどに仲が良かったが、中学生になってからはほとんど話していない友人だった。
いくら男子学生が仲介を頼んだとはいえ、そんな友人がわざわざモニカの自宅に来て、モニカを呼びに来たことさえ怪しむべきだったのだ。
「その友人の後について、友人の自宅まで行きました。友人は自宅で待っているという男子学生を呼んでくると、自宅に戻りました。
友人の自宅から出て来た男子学生は、私を近くの公園に連れて行きました」
連れて行かれたのは、住宅街の中にある小さな公園だった。
秋暮れの時期だったので辺りは暗く、街灯も少ない公園だったが、近くの民家からの明かりもあって、ほどほどに明るかった。
「男子学生は、その公園のベンチに座ると、隣に座るように言いました。そうして……」
その時のことを思い出して、だんだん息苦しくなってきた。
唇が震えて、心臓が嫌な音を立て始めた。
心なしか身体を抱きしめていた手まで震えているような気がした。
そんなモニカの様子に気づいたマキウスが、そっと背中をさすってくれた。
「辛いなら、無理に話さなくても大丈夫です」
「大丈夫です。マキウス様には知って頂きたいんです。御國のことを」
モニカはなんとか息を吸い込んで、心臓を落ち着かせると、そっと口を開く。
「言われた通りに隣に座ると、男子学生は私をベンチに押し倒して……襲い掛かってきました」
「なっ!?」
それまで、黙ってモニカの話を聞いていたマキウスだったが、今のモニカの言葉に叫びそうになったのか、顔を逸らすと、大きく息を吐き出して、気持ちを抑えているようであった。
そうして、「すみません。続けて下さい」とすぐに謝ってきたのだった。
「ベンチに押し倒されて、必死に抵抗しました。何も考えられなくなって……無我夢中でした」
「それから、どうなったんですか?」
「ベンチから転がり落ちるように離れて、なんとか男子学生から逃れることが出来ました。……本当に間一髪でした」
「何も無くて良かったです」
マキウスは安心したのか、肩の力を抜いたようだった。
それがどことなく嬉しくて、少しだけあの時の雪辱を晴らせた様な気がした。
「それで、私は聞いたんです。『いきなり何をするの!?』って。
そうしたら、その男子学生は納得がいかないような顔で言ったんです。
『ヤらせてくれるから、ここに来たんじゃないの?』って。
その言葉に私は頭に血が上りました。それで、公園を後にしようとしました」
怒り心頭に発していたモニカは「最低!」とだけ吐き捨てると、男子学生を置いて公園の出入り口に向かっていた。
「公園の出口に向かっていると、後ろから舌打ちが聞こえてきました。足を止めて振り返ると、今度は後ろから背中を蹴られました。
その場にうつ伏せに倒れると、近づいてきた男子学生は私の背中を踏みつけました。
そして私の髪を引っ張ると、側頭部を殴ってきました」
「女性を殴るなど言語道断です。まして、モニカを殴るなど許せません!」
「でも、そもそも私がついて行ったのが悪いので……」
「貴女は何も悪くありません! 優しい貴女を利用して、自分が誘ったら貴女がついて来る様に、あらかじめ親切にする振りをして用意していたんです! 下衆がやる手口です!」
これまで見たことがないくらい、声を荒げて激怒してくれるマキウスに、またモニカの胸中が軽くなっていくのを感じていた。
(やっぱり、マキウス様に話して良かった)
馬鹿みたいに簡単に男について行って、強姦未遂に遭ったと話したら、呆れられて、嫌われるんじゃないかと、ずっと心の中で恐れていた。
ーー実際に御國だった頃、この話を聞いた周囲は呆れ返っていたから。
「男子学生に言われました。『なんだよ。使えないな』、『この為に、こんな身体以外良いところのない、生きている価値のない奴に優しくしてきたのに』って」
男子学生は吐き捨てるように言うと、足を退かした。
その隙に逃げようとしたが、痛みと衝撃から身体に力が入らなかった。
「地面に手をついて、なんとか起き上がろうとすると、今度は私の背中に馬乗りになって、服の中に手を入れてきました。必死に抵抗しましたが……下着の上から胸を掴まれ、揉まれました。執拗に何度も」
触られた時、身体中を悪寒が襲ってきた。
嫌な汗が流れてきて、どうにか身体を退かせないかと手足を動かしてもがいた。
「『止めて!』って叫んだら、『うるさい』と言われて、また髪を引っ張られて、顔を殴られました。地面に叩きつけられた時、口の中に入った砂の味を今でも覚えています。ジャリジャリして、どこか塩辛い味までしてきて。
そうしている間に、男子学生は私の下着を脱がそうとしました」
そこは未熟な男子中学生と言えばいいのか、ブラジャーのホックの外し方がわからなかったようで手間取っていた。
その隙にモニカは男子学生をつき飛ばすと、脇目も振らずに、自宅へと逃げ帰ったのだった。
「下着を脱がされる前に男子学生を突き飛ばして、どうにか自宅に帰ると、すぐに部屋に駆け込みました。
男子が触った胸ーー特に胸の乳房の辺りが気持ち悪くて、何度もタオルで拭きました」
モニカはドレスの上から、自分の胸の頂に触れた。
今でも、この男子学生のことを思い出すと、胸が痒くなり、擦ってしまいそうになる。
モニカは胸を擦らないように、強く手を握り締める
「赤くなって、皮膚が破れて、タオルに血が滲んでも、何度も拭きました。とにかく気持ち悪かったんです……吐き気がしました」
乳房とその周辺から血を流しながら、何度もタオルで擦っていた時を思い出して、また気持ち悪くなってくる。深く息を吸い込んで、どうにかして気持ちを落ち着かせる。
落ち着いた代わりに、モニカの両目からは自然と涙が溢れてきた。
それをマキウスに見られないように、モニカは目線を落としながら話しを続けたのだった。
「その時になって、ようやく気付きました。私は男子学生に利用されたんだって。私には身体以外、何も取り柄がないんだって」
これは後から知ったが、この時のモニカは学年でも胸が大きく、発育が良い方で、水泳の時間や体育などの薄着になる時に、男子学生たちはモニカの身体を舐める様に見ていたらしい。
御國の頃の話を聞いたマキウスは、爪が食い込むまで両手を強く握りしめて、歯を食いしばっていた。
「やはり、許せませんね。モニカに……女性にそのようなことをするなど。その時に私がいたら、相手が後悔するまで苦しめたというのに……」
「もう昔のことです。それに、その男子学生も怒られたはずです。その日の内に、私の異変に気付いた親に事情を聞かれて、白状させられたので……」
嗚咽を殺して、泣きながら何度もタオルで胸を擦っていると、異変に気付いた母が部屋にやって来た。
事情を聞かれたがら、安易に男子学生について行って、強姦されそうになったのが恥ずかしくて黙っていた。
「さすが母親と言えばいいのか……娘の顔に殴られた痕があって、手足に擦り傷まで作って、自室にこもって泣きながら出血するまで胸を擦っていた様子から、異変を悟った母に説得されて、話さざるを得ませんでした」
その夜の内に、母親は学校に電話をすると、事の次第を話した。
次の日、男子学生は学校に登校するなり、すぐに担任に呼び出された。そうして、その日は授業が終わっても、教室に戻ってくることはなかったのだった。
「それから男子学生は口を聞かなくなりました。次の年にはクラスが別れたので、この日以降、一度も口を聞きませんでした。でも、問題はその後です」
「その後? それで、解決しなかったんですか?」
マキウスの問いかけに、モニカは小さく頷く。
「表向きは解決したことになりました。でも、男子学生がその話を広めたようで、しばらくは学年中で話題になりました。話はすぐに収まりましたが、そうしたら、今度は私が同じ学年の女子たちから虐めを受けるようになったんです」
「どうして、貴女が虐めを受けるんですか? 貴女は悪くありません。悪いのは、貴女を辱めようとした相手です」
「その男子学生、学年の女子たちの間で人気の高い男子だったんです。以前から、私と男子学生が親しくしているのが気に入らなかったみたいで……」
男子学生に優しくされていた頃から、なんとなく女子の中でも派手なグループから睨まれているような気はしていた。
ずっと気のせいだと思っていたが、強姦未遂の後から気の所為ではなくなった。
「この話がどこかで間違った形で広まったみたいで、それを信じたみたいです。この機会に私を懲らしめようと、様々な虐めをされました」
「間違った形で広まったんですか?」
「『私が男子学生を誘惑して、行為に及ぼうとした。けれども、それを誤解した私の母が、男子学生が娘を強姦したとして、男子学生を学校に言いつけた。だから男子学生は被害者で、悪いのは私だ』といった感じに広まったらしいです」
もしかしたら、間違った形で広まったのではなく、最初から男子学生が違う形で広めたのかもしれない。今のモニカには、もう確かめようが無いが……。
「理解出来ません。何故、そんな話が広まって、貴女が虐めを受けねばならないのですか。貴女は被害者だというのに……」
マキウスはまるで理解が出来ないというように、 頭を振っていた。
マキウスの気持ちもわからなくない。モニカも最初はそう思った。
「人伝てに伝わっていく内に、話に尾ひれがついたのかもしれませんし、男子学生がわざと違う形で話を広めたのかもしれません。
それからは、ずっと虐めを受けていました。男子学生との話が収まっても、男子学生とクラスが離れても、中学校を卒業するまで、ずっと……」
「無実を訴えなかったんですか? 誰かに相談することも」
「誰も信じてくれなかったんです……。先生や親に相談しても何も変わらなかった……。それどころか、虐めはますます悪化して、私は孤立しました」
男子学生との話が広まってから、仲の良かった友人たちは距離を置くようになった。女子たちからの虐めが始まってからは、ますます誰も近寄らなくなった。
「悪口は当たり前、持ち物が無くなるのも、壊されているのも当たり前。体育の授業中は石や砂をぶつけられて、雪が降った日には雪玉をぶつけられました。先生に相談すれば、『被害者ぶるな』、『大して可愛くないのに誘惑するな』、『ブス』、『キモい』、『死ね』などと書かれた紙を、机や鞄、下駄箱に入れられました」
「そんな凄惨な過去を経験されていたんですね……」
言葉を失っているマキウスを安心させる様に微笑みかけると、これ以上、不安にさせない様にわざと明るい調子で続ける。
「今となっては、そんなことは別に大したことじゃないんです。あっ! でも、たくさん書かれた中でも、『死にたいなら、いつでも手首を切っていいよ』と書かれた時が一番傷つきました。
あの頃、虐めが辛くて、私が死にたがっていたこと、見抜かれていたんだって……。でも、一番傷ついたのは、母の言葉です」
「何を言われたのですか……?」
「『お前が安易に男について行って、隙を見せるからこうなったんだ』って。その頃には、母も学校から私が虐めを受けている話を聞いて、頭を悩ませていました。
物を壊したり、無くしたりしているので、それを買い直すのに負担をかけてしまったんです。うちは普通の家庭で、お金とかあまりなかったので、それなのに無駄にお金を使わせてしまったので……。仕方がないですよね。きっと、本音が出てしまったんだと思います。そして、それは本当のことだと思っています。全ては私の相手に付け込まれる隙の多さが原因だって」
今でも癇癪を起こした母に言われた言葉を一字一句思い出せる。
母の言う通りだった。モニカがもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかった。
モニカが母に負担をかけてしまった。だから、全てはモニカが悪い。虐められる理由を作ったのも、無意識に男子学生を誘惑していたモニカが悪いのだと。
モニカの心には、あの男子学生に強姦未遂されたのが恐怖として刻まれた。
更にその後の虐めが原因となって、モニカは異性恐怖症になったのだった。
「これ以上、母に負担をかけさせたくなかったので、学校は毎日通いました。本当は行きたくなかったんですが、自分に嘘をついて、心配してくれる先生たちにも平気だと言って、卒業まで我慢して通いました」
中学校を卒業すると、モニカは地元から遠い女子高校に入学して、そのまま付属の女子大学に入学した。
学生の間はなるべく異性とは関わらないようにしていた。大学生になると、同級生は合コンやコンパに行っていたが、モニカは目立たず、大人しくして、たとえ合コンやコンパに誘われても、何かしら理由をつけて断るようにした。そうして、静かな学生生活を送ったのだった。
「仕事を始めてからは、男性と話す機会も増えました。けれども、仕事と割り切って我慢をしてきました。それでも、今でも同年代の男性と話すのは苦手です」
大学を卒業して就職すると、さすがに男性とも話さざるを得なかったが、そこは仕事と割り切って我慢し続けた。
ある程度、良い雰囲気になりそうになる前に、自分から身を引くことで、自分を守り続けた。
そうしなければ、モニカの心は壊れてしまいそうだった。
例えるなら、モニカの心は、今にも溢れそうな水の入ったコップの状態であった。
「仕事以外でも男性と……特に同年代の男性と、話すのは苦手です。
外出する際は、不用意に声を掛けられないように、耳にイヤフォンをして、音楽再生プレーヤーで音楽を聴きながら、目立たないようにしていました。それでも、声を掛けられる時は、掛けられますが……。
イヤフォンと音楽再生プレーヤーは以前、夢の中でお見せしたかと思いますが、覚えていますか?」
マキウスが頷くと、モニカは流星群の空ではなく、目の前の暗い草原をじっと見つめた。
「おかしいですよね。結婚したいと思っている反面、男性が怖いなんて……。男性が怖いなら、いつまでも結婚は出来ないですし、子供なんてまだまだ先の話で……」
いつだって、モニカの心には母が放った「安易に男について行って、隙を見せるからこうなった」という言葉があった。
もっとしっかりしなければならなかった。周囲に隙を見せず、安易に男について行かないような人間にならなければならなかった。
そう考えている内に異性との距離が計れなくなり、どうすればいいのか分からなくなった。
やがて両親はモニカが中学生の時に起こったことを忘れたのか、結婚を勧めてくるようになった。「早く孫の顔が見たい」とも言われた。
子供は好きだったので、モニカも少しずつ恋人や結婚に憧れるようになった。
でも、どうすればいいのか分からなかった。
どう異性と知り合って、どう親しくなって、どう恋仲になればいいのか分からなかった。
中学生のあの時までは、知っていたはずなのにーー。
どうすることも出来ないまま、ただ悪戯に時間だけが過ぎていった。その間にもモニカの同級生や職場の後輩たちは、恋人を作って結婚した。寿退社をした人もいれば、早い人だと子供も産まれていた。
それなのにモニカだけは、何も前に進めないまま、何も「成長」出来ないままでいた。
まるで、中学生の時の強姦未遂に遭った秋暮れの公園に取り残されているかのようにーー。
「そんな私が、マキウス様に相応しい訳が無いんです。ニコラの母親だって、本当は相応しく無いんです……」
モニカの目に自然と涙が浮かんできた。これは悔し涙なのか、それとも愚かな自分に対する涙なのか。モニカにも分からなかった。
「そのようなことはありません。以前も言いましたが、貴女は充分過ぎるくらい、私とニコラに相応しい」
「でも……! 私は最低な人間なんです! 汚い人間なんです! モニカになると決めた時だって……!」
膝に顔を埋めて肩を震わせながら、モニカは叫ぶ。
「打算的な考えが全くなかった訳じゃないんです……! 最初はマキウス様の元でモニカとして生きていけば楽できるって。苦労しなくていいって……! マキウス様がニコラを抱えて生きていくのは大変だから、助けてあげようって……同情心もあったんです……!」
そうして、モニカは声を上げて泣き出したのだった。
「モニカ……」
マキウスが労るようにモニカの肩を支えてくれる。
いつもなら安心するその優しさが、今は刃物のように鋭い刃先となって胸を貫いてくる。
「最低ですよね。嫌われても仕方がないと思っています。だって、自分が生きていく為に、マキウス様を利用したのも同然なんですから……!」
これこそが、マキウスから、「ここが嫌なら出て行っても構わない」と言われた時、モニカが考えた自分の醜さを表した「悲しいもの」であった。
「あの時、私はこの世界で一人生きて行くことを考えました。そして、母親がいなくなったニコラと、そんなニコラを抱え、育てていくマキウス様のことも。
そんな、マキウス様を失礼にも『可哀想』だと、母親がいないニコラが『可哀想』だと思ったんです……」
それにーーここにいれば、少なくとも路頭に迷わずに済む。食べるものも、着るものも、住む場所もある。
あの時、マキウスはモニカが「優しい」からここに残ってくれたと思ったかもしれない。
けれども、実際はそんな温かいものではなかった。モニカはマキウスとニコラへの「同情心」を、モニカはこの世界で生きていく為に利用することにした。
こんな利己的な考えを持つようになったのも、あのモニカの全てを変えた強姦未遂事件が原因だろうか。
もしもあの日をやり直せるのなら、モニカは純粋な心優しいままで居られたのだろうかーー。
「今でも、そう思っていますか?」
静かな声で淡々と問いかけてくるマキウスが、どこか怒っているように聞こえてきた。
モニカは首を大きく振った。
「今はそう思っていません。マキウス様と暮らして、ニコラを育てて、二人のことが好きになりました。愛して、愛されたいと、思うようになりました。二人のことが好きだから……」
マキウスの優しさと、日に日に成長していくニコラに触れる度、モニカの心の中には、だんだんと愛情が芽生えていった。
二人に必要とされたいーー愛されたい、と考えるようになった。
「その為にも、私は強姦されそうになった時に抱いた、男性に対する恐怖心を克服しなければならないんです。マキウス様に触れられたいから。いつまでもマキウス様に気を遣われる訳にはいかないから……」
これまでマキウスはモニカが嫌がるからと、モニカに触れようとして止めたことがある。
ただマキウスを繋ぎ留めたくて、何も考えずにモニカから口付けてしまったこともあったが、マキウスが触れようとして止めてしまう度に心のどこかで、モニカはマキウスが気を遣ってくれたことが嬉しい反面、気を遣わせてしまったことを後悔していた。
これ以上、マキウスの厄介者になりたくなかった。その為にも、モニカは異性恐怖症を克服しなければならなかった。
いつまでも中学生の秋暮れの日ーーあの強姦未遂をされた子供の時のまま、止まっている訳にはいかないから。
「早くふたりに相応しい人になりたいと思うようになりました。マキウス様の妻として、ニコラの母親として、一人の女性として。けれども、私には経験が無いんです。何も無い……」
御國だった頃のモニカは、結婚も育児もしたことが無ければ、貴族でも無く、貴族の妻として相応しい振る舞いさえ知らなかった。
「そもそも、私は誰かを愛したことなんて無いんです。愛せる自信がないから……。そんな私が、誰かに愛されたいって思ってはいけないんです!」
誰かに愛されるためには、モニカも相手を愛さなければならない。自分のことさえ愛せないモニカが、相手を愛することが出来るのだろうか。
「そんな私が高潔なマキウス様と、無垢なニコラに相応しい訳が無い……。本当はここにいるべきでは無いんです……。こんな綺麗な『モニカ』の身体には似合わない、汚くて、醜い人間なんです……!」
この身体になってから鏡の前に立つ度に思う。清らかな「モニカ」には、穢らわしい御國は似合わない。
マキウスが「天使」と称した「モニカ」。でも、その中身は醜い御國。
御國が「モニカ」の中にいればいるほど、美しい「モニカ」は汚れてしまうのではないかと不安になった。清廉な「モニカ」が、御國によって汚されていく姿を見ていられなかった。
あまりにも清浄で眩しい「モニカ」を直視出来なくて、モニカはなるべくこの姿を見ないようにしていた。
「今まで、ずっと言えなくてごめんなさい……。こんな死に損ないが、隣にいてごめんなさい……。側にいない方がいいなら、居なくなります。すぐにでも目の前から消えるので……」
「何もかも、勝手に決めつけないで下さい!」
突然、マキウスが叫んだ。これまで激情したマキウスの姿を見たことが無かったモニカは、息を止めて見入ってしまう。
「勝手に決めないで下さい……。私も貴女に話していないことがあるんです」
悲痛な表情を浮かべたマキウスの横顔を、顔を上げたモニカは、ただ呆然と眺めていたのだった。
「誰かが、貴女は私に相応しく無いと言った訳ではありません。それなのにどうして、貴女自身が私に相応しく無いと、勝手に決めつけてしまうのですか?」
「それは……」
ここまで、マキウスが激昂したのは、モニカの夢の中以来だった。
マキウスの怒声に驚いて、モニカが言葉に詰まっていると、怯えさせたと思われたのか、マキウスは膝を抱えていたモニカに腕を回すと、そっと抱きしめてきたのだった。
「すみません。怖がらせてしまいましたね」
「い、いえ。悪いのは私なので……」
「その、自分を責める癖はもう止めましょう。貴女は何も悪くないんです。
貴女を傷つけたのも、貴女を悩ませ、苦しめたのも、全て貴方の周囲の人間です。
貴方は悪くない。ならば、堂々としていればいい」
「それでも、私がマキウス様とニコラを利用したのは事実で……」
「あの状況では、私たちを利用するのが一番安全です。あのまま屋敷を出ていたら、貴女が何も知らないのをいいことに、貴女の凄惨な過去よりも酷いことをされて、辱めを受けていたことでしょう。貴女は何も間違っていない」
「気を遣わないで下さい。本当に私は酷い女で、マキウス様には相応しくありません。今になって、ここを追い出されても、文句は言いません」
モニカの耳元に顔を寄せてきたマキウスは、そっと囁いてきた。
「私は貴女が相応しく無いなどと、思ったことはありません。むしろ、私の方が貴女とニコラに相応しく無いのではないかと、不安になるくらいに……」
「そんな……。マキウス様が相応しく無いと思ったことはありません!」
モニカがマキウスの顔を見上げると、何故かマキウスは泣き笑いの様な表情を浮かべていた。
「私の方こそ、貴女とニコラに謝らなければなりません」
「マキウス様が、私に謝ることなんてあるんですか……?」
きょとんとして見つめていると、マキウスは苦笑と共に小さく頷いた。
「ええ。ニコラの出産に関してです。元はと言えば、私が『モニカ』を犯してしまったのが全ての始まりです。前後不覚になっていたとはいえ、それが原因で『モニカ』は傷つき……喪う結果となりました」
「……何があったのか、聞いてもいいですか?」
モニカの言葉にマキウスは頷くと、そっと口を開いたのだった。
「『モニカ』が私の元にやって来てから数ヶ月経った頃、ガランツスから『モニカ』宛に贈り物が送られてきました。その中に、私たちカーネ族にとって、催淫効果のある香が混ざっていたんです。それを吸引してしまった私は、不覚にも嫌がる『モニカ』を抱いてしまって……」
「モニカ」から引き継いだ「モニカ備忘録」の中には、今の話はなかった。
人は自分の心身に耐えられないことが起こると、自分を守る為に、その出来事を忘れてしまうと聞いたことがあった。
もしかしたら、「モニカ」は恐怖から、その記憶を封じてしまったのかもしれない。
「そうだったんですね……」
「後からアマンテが聞いてくれたところによると、『花嫁』に選ばれた『モニカ』を妬んだガランツスの者が、『モニカ』に宛てて送ってきたようです。『モニカ』はそれが何か分からないまま焚きしめ、そこに部屋を訪れた私が吸ってしまったのではないかと。
最も、私は催淫効果のせいで、この時のことはほとんど何も覚えていないんです。わずかな記憶が残っているだけで……。
目が覚めた時には、私は何も衣服を纏っておらず、傍らには破れた衣服を身に纏った『モニカ』が、怯えるように私を見て泣いていました」
そこで、マキウスは大きく息を吐き出した。
「……事の詳細は、後にアマンテが『モニカ』から全て聞いてくれました。この時の私が『モニカ』に何をしたのかも、全て含めて……」
モニカたちユマン族が使用している香水や、食している食べ物の中には、鼻が効くマキウスたちカーネ族にとって、毒や催淫効果を持ったものがある。
身体能力に優れている分、そうしたものに身体が反応してしまうらしい。
「催淫効果のせいで、獣のように襲ってしまったことで『モニカ』は心身共に傷つき、部屋に閉じこもってしまいました。
それまでは、使用人たちには反応しなかった『モニカ』も、私が機嫌を伺いに行くと、顔を見せてくれたんです。……その日を境に、それさえもしてくれなくなりました。
そうしている内に、ある日、『モニカ』が部屋の中で倒れているのを、食事を運んだ使用人が見つけました。近くに住む医師に診てもらったところ、『モニカ』が子を身籠もっていると告げられたそうです……そこで、また私は過ちを繰り返しました」
マキウスは顔を歪ませた。
「私は出産を甘く見ていました。……子を産むという行為が、命懸けの行為であることを。私は母上を見ていたので知っているはずでした。それを完全に忘れていたのです……」
「モニカ」が倒れたと聞いたマキウスが部屋を見舞った際、ようやく、顔を合わせてくれた「モニカ」から、「妊娠した」と告げられたらしい。
「私は『モニカ』を傷つけてしまった後ろめたさもあったことから、ただ『そうですか』と答えました。余計なことを言って、ますます彼女を傷つけるよりは、それがいいかと思ったのです。
けれども、それが彼女を更に傷つける結果となってしまいました」
そこでマキウスは息をついた。
二人が話している間も、幾つもの星々が頭上を流れて行った。
「『モニカ』から『子を身籠もった』と言われた時、私は自らの失態を恥じていたこともあり、『モニカ』の気持ちに全く気づけませんでした。
もし気づいていれば、『モニカ』を喪わずに済んだのではないかと……そう思えてなりません」
マキウスは悔しげに掌を強く握りしめると、自らの太腿に拳を落とした。
彼女がどんな気持ちで妊娠を告げたのかーー望まぬ形でマキウスの子供を身篭ってしまったのか。その気持ちに気づいてあげられなかった。
そう、マキウスは後悔しているのだろう。
「私の言葉を聞いた『モニカ』は肩を落とし、ただ『休みたい』とだけ言って、私を部屋から追い出しました。それから、部屋に籠って、私とも顔を合わせてくれなくなりました。……その日から、部屋に閉じこもった『モニカ』が泣き叫ぶ日々が始まりました」
この話は、以前もマキウスから聞いたことがあった。
「モニカ」が泣き叫び、暴れて、周囲を怖がらせたことが原因で、使用人からは恐れられるようになったと。
「放っておけば、子供は勝手に産まれる。そう思っていました。だから、何も用意をしていませんでした。
当時の使用人たちは不用意に『モニカ』に関わって、傷つけられるのが嫌だったのです。『モニカ』に恐れた使用人たちは次々と辞めていきました。使用人が減り、人手が不足していたこともあって、誰も『モニカ』の出産の用意まで考えが巡りませんでした」
「ペルラさんやアマンテさんは、屋敷にいなかったんですか……?」
何も用意していなかったのなら、姉弟の乳母だったペルラや、ニコラの乳母のアマンテがいる訳がない。
そういう意味で尋ねると、マキウスは苦笑していた。