【改稿版】ハージェント家の天使

「けれども、全ての貴族が我々に賛同している訳ではありません。当然、反対する者もいます」

 新しいことをするということは、その分、反対して、反発する者も多い。
 それはどこの世界でも同じなのだろう。

「中には我々の邪魔をする者もいます。それもあって、まだまだ支援が完璧とは言えません」

 風が吹いて、川下からゴミと汚物が混ざった不快な臭いがしてきた。
 息を吸うことさえ憚られる中でも、マキウスは話し続ける。

「私だけが害されるだけなら構いません。けれども、このことが原因で、もしかしたら私の大切な者たちが傷つけられるかもしれません」

 マキウスはモニカを見つめた。
 
「私はそれを恐れています。私は貴女とニコラを守ると誓っていますが、私の手が届かないところで、二人が傷つけられたらと思うと……。怖いです」

 マキウスは事あるごとに、モニカとニコラを「守る」と言っていた。
 もしかしたら、この貧民街の支援が関係していたのかもしれない。
 
「大切なモノが増えるということは、守ることが難しくなる、という意味でもあるのですね。私はようやく気づくことが出来ました」

 ニコラが生まれて、モニカを愛して、いつの間にかマキウスの周りには「大切なモノ」が増えたのだろう。
 守る対象が増えれば、その分だけ守るのは難しくなるから。
 
「マキウス様……」
「貴女に相談もせずに、この活動をしていたことは謝ります。
 貴女がこれからもこの活動を認めてくれるなら、私はこれからも続けていくつもりです。でも、認めてくれないなら……」
「続けて下さい!」

 モニカは即答していた。
 これにはマキウスも意外だったのか、アメシストの様な目で瞬きを繰り返していた。

「マキウス様がされていることは、何も間違っていません。貴族や騎士以前に、ヒトとして当たり前のことをしています」

 モニカが俯くと、目線を地面に落とす。

「私、知らなかった。身分社会なら、こんな場所があってもおかしくないことを……。煌びやかな場所があれば、暗い場所があってもおかしくないのに……。
『モニカ』なら、この場所を知っていたかもしれないのに……。私が『モニカ』じゃないから……」
「それは違います。貴女は先程、確かに言いました。『貴族じゃなければ、出来ないこともある』と。あれは富んだ者たちの裏側に、貧しい者たちがいることを知らなければ、出て来ない言葉です」

 モニカは顔を上げると、橋の袂で握りしめたままのマキウスの手を両手で包んだ。

「でもこれからは、私もマキウス様やお姉様の活動を応援したいです。いえ、協力したいです!」
「モニカ……」
「私に出来ることがあれば教えて下さい。私も大切なマキウス様のお役に立ちたいです!」

 マキウスは口をぽかんと開けていたが、やがて笑ったのだった。
 
「そうですね。何かあれば、妻を頼るとしましょう」
「はい! 私ももっと夫に頼られたいです!」

 二人が顔を見合わせて笑い合っていると、モニカの後ろから、複数の足音が聞こえてきたのだった。
「あれ~? マキウスじゃん!」
「ほんとだあ!」

 モニカが後ろを振り返ると、そこには先程まで川下に居た子供たちがいた。
 十歳ぐらいまでの年齢がバラバラの真っ黒な顔をした子供たちが、首を傾げていたのだった。

「きょうはキシダンのふくじゃないんだ?」

 子供たちの中で、一番歳上と思しき男の子が首を傾げる。

「ええ。今日はお休みなんです」
「じゃあ、きょうはおやつはないんだ……」

 その男の子と手を繋いでいた五、六歳くらいの女の子は肩を落としたのだった。

「そんなことはありませんよ。はい、みなさんで分けて、仲良く召し上がって下さい」

 マキウスは懐から干し果物や砂糖漬けの花びらが入った革袋ーーここに来る前にマキウスが市場で買っていた、を女の子に渡したのだった。
 女の子は頬を赤く染めて目を丸くし、周りの子供達は、女の子の掌の革袋を見つめたのだった。

「いいの? もらっても」
「ええ。構いません。その代わりに喧嘩しないで分け合って下さいね」
「ありがとう! マキウス!」

 マキウスは子供たちの汚れた頭を順繰りに撫でていた。
 マキウスが子供が好きな理由は、もしかしたらここにあるのかもしれないと、モニカはこっそり微笑んだのだった。

 そんなマキウスを微笑ましい気持ちで見守っていると、モニカに気づいた七、八歳くらいの男の子が指差してきた。

「なあなあ、マキウス。そのおねえさんは?」
「もしかして、マキウスのおんな?」

 別の男の子が訊ねると、子供たちは口々に騒ぎ出した。
 それを面白く思ったのか、マキウスがモニカの腰に手を回すと、抱き寄せてきたのだった。

「彼女は私の女ではありません。私の妻です。そうですよね、モニカ?」
「は、はい。そうですね!」

 マキウスに答えるようにモニカは頷くと、子供たちと目線を合わせるようにしゃがんだ。
 なるべく子供を怖がらせないようにという考えからだったが、そんなモニカが意外だったのだろう。
 子供たちはおっかなびっくり見つめ返してきたのだった。

「初めまして。マキウス様の妻のモニカです」

 モニカは微笑むと、子供たちは「わぁ」と声を上げた。

「かわいいおねえさんだ!」
「う、うん。そうだね……」

 七、八歳くらいの女の子は目を丸くすると、恥ずかしそうに一番歳上の男の子の後ろに隠れてしまった。
 モニカは女の子に近づくと、微笑んだ。

「私ともお友達になってくれるかな?」
「え、でも……」

 怯えるように見つめてくる女の子に対して、ニコラに話しかける時の様に、優しく、穏やかに声を掛ける。

「お友達になって欲しいんだけど……。ダメかな……?」
「……いいの? わたしたちと?」
「勿論!」

 モニカが満面の笑みを向けると、女の子の周りにいた子供たちは、「やったー!」とモニカを囲んだ。
 男の子の後ろに隠れていた女の子も、笑いながらモニカの側に寄って来てくれたのだった。

「やれやれ。これは妬いてしまいますね」

 マキウスが苦笑していると、「誰か~!」と男の声が聞こえてきた。

「どうしましたか?」
「あっ! マキウス様!」

 モニカたちの後ろから走ってきた若い男は、マキウスの姿に気づくと走り寄ってきた。
 薄汚れた格好をした若い男は、マキウスの前で立ち止まると、肩で息をしたのだった。

「あっちで、この男たちが揉めていて……。多分、一人は強盗だと思うんですが……。それで……」

 マキウスは男が指差した方を確認すると、顔を引き締めた。

「私が行きます。貴方は広場に出て、巡回中の騎士か、いなければ騎士団に連絡をするように店の者に伝えて下さい」
「はい!」

 それだけ言うと、男はモニカたちの横を通って走り去って行った。

「モニカは子供たちとここに居て下さい」

 それだけ言うと、マキウスは男がやって来た方に走って行ったのだった。

「マキウス様、大丈夫かな……」
「しんぱい?」
「え、ええ……」

 マキウスが去って行った方を見つめていると、モニカの手やドレスの裾を引っ張ってきたのだった。

「おねえさん。ぼくたちもいこう」
「うん。あたしもきになる!」
「でも、ここで待つように言われたし……」
「いいから! マキウスがしんぱいなんだろう! はやくいこう」

 子供たちに囲まれたモニカは子供たちに背中を押されるようにして、マキウスの後を追いかけたのだった。
 モニカが子供たちと共にやってくると、そこには怪我をした貧民街の住民を庇うように、マキウスが立っていた。
 マキウスが向き合っているのが強盗だろう。
 頭からカーネ族特有の耳が出ている以外は、全身が黒色の布に包まれていたのだった。
 
「へっ! 素手で俺たちに敵うのか?」

 強盗は一人だが、手にはナイフを構えていた。
 一方のマキウスは素手であった。
 今日は仕事が休みなのもあって、帯剣していなかったのだった。

「貴方たちなど素手で充分です」
「はっ!? オレを舐めているのか!?」

 強盗はマキウスに向かって行った。
 マキウスは男の攻撃を難なく避けながら、怪我をしている住民に向かって叫んだ。

「今の内に、早く逃げなさい!」
「けど……」
「早く!」

 マキウスの叫び声に、近くにいた他の住民が怪我をした住民を連れて行った。
 その間に、マキウスは強盗の腹を蹴り飛ばす。
 そのまま強盗は吹っ飛んでいき、壁に叩きつけられた。
 呻いている強盗に近づいてナイフを奪うと、マキウスは睨みつけた。

「まだ、続けますか?」
「クッ……」

 いつにないマキウスの怒気を感じて、モニカが息を飲んでいると、同じくマキウスたちを見守っていた住民たちが「騎士団が来たぞ!」と声を張り上げた。
 モニカが視線を移すと、無数の足音を立てながら騎士団の制服を来た数人が走って来たのだった。

「しまった!」

 その姿を見た強盗は、慌てて走り去って行こうとした。

(良かった……)

 モニカが安心したのも束の間だった。
 強盗は懐にまだナイフを隠して持っていたようだった。
 怒り任せにナイフを振りかぶると、「クソが!」と言って、ナイフを投げてきた。
 投擲された先には、モニカを連れて来た子供たちがいたのだった。

「危ない!」
「モニカ!?」

 モニカが子供たちの元まで走って行き、彼らを庇ったのと、マキウスが叫んだのがほぼ同時だった。
 マキウスがモニカに向かって走って来るが、到底、間に合いそうになかった。

(刺さる!)

 モニカが衝撃を覚悟して、目を閉じた時だった。
 向かってくるはずだったナイフは、何か硬い物に当たって、音を立てて落下したのだった。
 
(えっ……?)

 モニカが恐る恐る目を開けると、目の前に金色の布が広がっていた。
 それが布ではなく、モニカたちを庇うように立っている者の長い髪だと気づいた時、相手は振り返ったのだった。
「大丈夫か?」

 声からしてマキウスと同い年くらいの若い男だった。
 衝撃で固まっていたモニカだったが、「はい……」となんとか答えたのだった。

「それなら良かった」

 金髪の男は安心すると、構えていた盾を下ろした。
 男の足元に強盗が投げたナイフが落ちているところから、どうやらナイフは男が持っている盾に当たって落下したらしい。
 男がナイフを拾っていると、マキウスが駆け寄ってきて、モニカを抱きしめたのだった。

「モニカ! 大丈夫ですか?」
「私は大丈夫です。マキウス様は?」
「大丈夫です。怪我一つ、負っていません」

 マキウスはモニカを離すと、「どうしてここに?」と訊ねてきた。

「すみません。マキウス様が心配だったので、子供たちにお願いして、ここまで案内してもらいました」
「私は待っているように言いましたね。こんな場所に来るなんて……」

 マキウスから怒気を感じて、咄嗟に子供たちを庇うが、モニカの背後にいた子供たちが「ちがうよ!」と、口々に言い出したのだった。

「おねえさんはわるくないよ! ぼくたちがわるいんだ!」
「そうだよ! わたしたちがつれてきたの」
「マキウスがしんぱいだったんだ。なぁ!」

 子供たちが頷くと、マキウスも何かを言う気力が無くなったのか、立ち登るようだった怒気が収まったのだった。

「全く……。けれども、無事で安心しました」
「ご心配をおかけして、すみません……」

 マキウスは安心したように目を細めると、微笑んだのだった。
 駆けつけて来た騎士団は、ナイフを投擲した後、どこかに逃げた強盗を追いかけたようだった。
 様子を見ていた住民たちも、怪我をした者の手当をするか、そのまま立ち去ったようで、その場にはモニカたちとモニカを助けてくれた金髪の男しか残っていなかった。

「マキウス様は追いかけなくていいんですか?」
「先程、壁に叩きつけたので、そう遠くには逃げられないはずです」

 モニカの言葉に、マキウスは強盗と騎士団が去って行った方を見たが、すぐに視線を戻した。
 どうやら、強盗の追跡は騎士団に任せるつもりらしい。
 モニカは怪我をした住民を見送っていた金髪の男に近づくと、声を掛けた。

「先程は助けて頂き、ありがとうございました。お怪我はありませんか?」
「ああ。心配無用だ。気遣いに感謝する」

 モニカの言葉に振り返った金髪の男は、モニカやマキウスより、少し歳上の人間ーーユマン族だった。
 マキウスに負けず劣らずの端正な顔立ちに、澄んだ海の様な深い青色の瞳、モニカの金髪よりも濃い色をした長い金髪を背中に流していた。

(これ、何の鳥だろう?)

 金髪の男は銀色の甲冑で全身を包み、翼を広げた何かの鳥の絵が書かれた銀色の盾を持っていたのだった。
 モニカがじっと盾に書かれた絵を見ていると、何かを考え込んでいたらしい金髪の男は、急に声を上げたのだった。

「モニカ?」
「えっ?」

 モニカが男に視線を移すと、金髪の男は満面の笑みを浮かべる。
 その男の笑顔に、モニカの胸が高鳴ったのだった。

「やはり、モニカだな。元気そうで良かった……会いたかった」

 そうして、金髪の男は戸惑うモニカを抱きしめてきたのだった。
「えっと、あの……」
「すっかり男爵夫人らしくなって、最初見た時は誰だかわからなかった。
 最近まで階段から転落して意識を失っていたと聞いたが、変わりはないか?」
「えっと、はい」

 金髪の男は「良かった」と喜んでいた。
 その隙に、モニカは思い出そうとしていた。

(この人、誰だっけ? 私の知り合いではないような……)

 そもそも、この世界にモニカの知り合いは少ない。
 更に人間の知り合いはいないはず。
 となると、「モニカ」の知り合いの可能性が高い。

(『モニカ』さんの知り合いなら……)

 モニカになった日に、「モニカ」から引き継いだ記憶ーー「モニカ備忘録」の中に、答えはあるかもしれない。
 モニカ備忘録を思い浮かべたモニカは、本のページを捲るように、「モニカ」の関係者を探していくと、すぐに該当する人物を見つけたのだった。

「……お兄ちゃん?」

「モニカ」の記憶の中で最初に出てくる人物にして、「モニカ」がこの国に嫁いでくるきっかけとなった両国を巻き込んだ事件を解決し、両国の危機を救った英雄。
 孤児だったモニカを拾って、家族として育ててくれた人物。

 モニカが呟くと、金髪の男はーー「モニカ」の兄は嬉しそうに笑顔を浮かべたのだった。

「ああ。そうだ! いつもと違って、反応がないから心配になったぞ!」

 モニカはギクリとした。
 それもそうだろう。誰だって、久しぶりの知り合いとの再会なら、もっと喜んでもおかしくない。
 それなのに、モニカは素っ気ない態度を取ってしまった。
 相手が不安になるのも、おかしくない。

「そ、そうだった? そういうつもりは無かったんだけどな……」

 モニカが誤魔化すように笑っていたその時、辺りに怒りを含んだ静かな声が響いた。

「……いつまで抱き合っているんですか?」
「ま、マキウス様!?」

 マキウスは兄からモニカを引き離すと、自分の後ろに庇った。

「私の妻に何をしているんですか?」

 モニカを引き離された兄は、何度も瞬きをしていたが、ようやく合点がいったのか笑ったのだった。

「妹の旦那殿ですか。これは失礼しました」

 兄は胸に手を当てると、優雅に一礼した。
 その絵になる姿に、モニカが見惚れていると、兄は口を開いたのだった。

「ご挨拶が遅くなりました。私の名前はリュドヴィックと言います。孤児の為、姓はありません。どうかご了承の程、お願いします。
 私のことは、どうぞリュドとお呼び下さい。
 妹がお世話になっています。旦那殿」

 兄はーーリュドヴィックは、顔を上げると、敵意はないというように、笑みを浮かべたのだった。

 リュドヴィックの正体を知ったマキウスは、ようやく肩の力を抜いたようだった。
 リュドヴィックに近寄ると、優雅に一礼したのだった。

「モニカの兄上ですか。これは失礼をしました。私はモニカの夫のマキウス・ハージェントです」
「マキウス殿ですか。若輩者の身ではありますが、よろしくお願いします」

 マキウスが子供たちを帰すと、三人は貧民街を後にした。
 モニカを挟む様に三人並んで歩きながら、モニカは気になっていたことをリュドヴィックに訊ねる。

「ところで、お兄ちゃんは、どうして貧民街にいたの?」
「私は待ち合わせをしていたのだが、道に迷ってしまってな。そうしたら、何やら騒ぎが起こったと聞いて駆けつけたんだ」
「待ち合わせですか?」

 モニカを挟んでリュドヴィックの反対側を歩いていたマキウスは、怪訝な顔をしたのだった。

「はい。私がこの国に滞在する間の身元保証人になって頂く方です。確か……」

 リュドヴィックは思い出そうと、考えながら話す。

「侯爵家の方で、女性が家督を継いだと言っていたかな……? 騎士団で士官をされているとか……」

 それを聞いたモニカとマキウスは、顔を見合わせた。

「マキウス様、その方って、もしかして……」

 モニカの言葉に、マキウスは苦い顔をしたのだった。

「……この国で、騎士団の士官を務めている女性侯爵は一人しかいません」

 それは、モニカとマキウスのごく身近な人であった。
 モニカたちは広場に待たせていた馬車に乗ると、ヴィオーラが住んでいるブーゲンビリア侯爵家にやって来た。
 初めて来たブーゲンビリア侯爵家は、手入れが行き届いた広い庭と、豪華なヨーロッパ風の屋敷のいかにも貴族の屋敷といった風情であった。
 けれども、屋敷中がどこか騒がしい雰囲気であった。

 マキウスは屋敷の玄関についていた呼び鈴を鳴らした。
 しばらくして、足音が近づいて来たかと思うと、内側から扉が開かれたのだった。

「失礼。私はマキウス・ハージェントです。当主のヴィオーラ姉上に取り次いで頂きたいのですが……」

 扉を開けて出て来たのは、金色の髪を頭の上で二つに結び、白色のフワフワの毛が生えた耳と、金色の瞳が特徴的な年若い女性メイドであった。

(わあ、可愛いメイドさん……!)

 アマンテが奥ゆかしい屋敷のメイドだとしたら、目の前のメイドはメイド喫茶で働いているメイドと言えばいいのだろうか。
 愛らしさがあり、可愛いがりたくなる。
 妹の様な、どこか庇護欲さえ感じられたのだった。

 そんなモニカの様子に気づくことなく、マキウスはメイドに話しかけたのだった。

「アガタか」
「お久しぶりです。マキウス様」

 アガタと呼ばれたメイドは、金色の瞳を嬉しそうに細めた。
 そうして、モニカとリュドヴィックに気づくと、マキウスに問いかけたのだった。

「マキウス様、そちらは奥様ですか?」
「ええ。妻のモニカと、モニカの兄上のリュドヴィック殿です」

 次いで、マキウスはモニカとリュドヴィックに向き直ると、紹介してくれた。

「モニカ、リュドヴィック殿、彼女の名前はアガタ。私の屋敷でメイド長を務めるペルラの娘で、私とモニカの娘であるニコラの乳母を務めるアマンテの妹です」
「初めまして。モニカ様。アガタと申します。母と姉から、お話は伺っております」

 一礼したアガタに対して、モニカはドレスの裾を掴むと、ペルラに教わった通りの挨拶をしたのだった。

「初めまして。アガタさん。私はモニカ・ハージェントです」

 最近、育児の片手間に貴族の女性として相応しい振る舞いや挨拶、マナーをペルラから教わっていた。
 ハージェント男爵夫人の「モニカ」として、生きていく以上、貴族の集まりやパーティーに顔を出さねばならない日も来る。
 それに備えて、今から勉強した方が良いだろうと、自らマキウスに頼んだのだった。

 マキウスは「ニコラの育児で大変なのに、休む時間だけでなく、私と過ごす時間も減ってしまうのでは……」と渋っていたが、何度も頼むと、やがて根負けしたのか、講師としてペルラを呼んでくれたのだった。

 マキウスによると、ペルラはヴィオーラとマキウスの乳母を務めていた際に、姉弟に貴族としての礼儀作法を教えていたことがあったらしい。
 新しく作法の講師を探すより、ペルラなら信頼もあって大丈夫だと、マキウスのお墨付きもあった。

 ペルラの負担を増やしてしまうのは申し訳無かったが、マキウスのお墨付きなだけあって、ペルラの教え方は分かりやすく、モニカのペースに合わせてくれるので、覚えやすかった。
 今後もペルラには講師をお願いするつもりであった。

「私はリュドヴィックと言います」

 モニカに続いて、リュドヴィックも頭を下げると、アガタは顔を綻ばせたのだった。

 よくよく見ると、アガタはペルラと同じ色の瞳であった。
 アマンテとはあまり顔形が似ていなかったので、アマンテは父親似なのだろうか。
 アガタはリュドヴィックに視線を移したのだった。

「貴方がリュドヴィック様ですね。ヴィオーラ様が探していました。待ち合わせの場所に来ないとのことで……。今、ヴィオーラ様を呼んで来ますね!」

 そうして、ペルラは「ヴィオーラ様!」とパタパタと足音を立てながら、階上へ消えて行ったのだった。

「……マキウス様、私たちはここに居たままでいいのでしょうか?」
「さあ……」

 案内されることなく、その場に取り残されたモニカはマキウスと顔を見合わせたのだった。
 それから、途方に暮れていたモニカたちに気づいた他の使用人によって、三人は応接間に案内された。
 さすが侯爵家と言えばいいのか、客間は赤い絨毯が引かれており、調度品も豪華なものであった。
 そんな部屋を眺め回していると、パタパタと足音が近づいてきて、客間の扉が勢いよく開かれたのだった。

「マキウス! モニカさん!」
「姉上!」
「お姉様!」

 客間に駆け込んで来たヴィオーラは、どこかに出掛けようとしていたのか、外出着であった。
 ヴィオーラはソファーから立ち上がったモニカに抱き着くと、安堵の息をついたのだった。

「良かった……! 騎士団から貧民街で強盗に襲われていたと聞いたので……。マキウスのことだから、大丈夫だとは思っていましたが……。無事で本当に良かったです」
「お、お姉様……」

 急に義姉(あね)に抱きしめられて、緊張と困惑でどうすればいいか分からず戸惑っていたモニカだったが、ヴィオーラはすぐに身体を離すと、マキウスと同じアメシストの様な目を細めて、泣きそうな顔で笑ったのだった。

「すみません、お姉様。ご心配をお掛けして……」
「いえ。いいのですよ。それよりもリュドヴィック様をお連れ頂き、ありがとうございます。これから、探しに行こうと思っていました……」

 すると、ヴィオーラは一点を見つめまま、アメシストの様な目を見開いて固まっていた。
 ヴィオーラの視線を辿って振り返ると、そこには同じ様に、澄んだ青い目を見開いてヴィオーラを見つめ返すリュドヴィックの姿があったのだった。

「貴方が……リュドヴィック様ですね」
「ええ。ご挨拶が遅れました。私はリュドヴィックと申します。この度は我が身元をお引き受け頂きありがとうございます」
「こちらこそ、お迎えが行き違った様で申し訳ありません。
 私はヴィオーラ・シネンシス・ブーゲンビリアと申します。現在のブーゲンビリア侯爵です」

 ヴィオーラが一礼するのに合わせて、リュドヴィックも胸に片手を当てて、二人は優雅に挨拶を交わしたのだった。

 ヴィオーラの説明によると、リュドヴィックを迎えに行かせた侯爵家の使用人から、リュドヴィックが待ち合わせ場所に現れなかったと聞いて、使用人たちと行方を探していたらしい。
 その最中に、モニカたちが貧民街で強盗に襲われていたと騎士団の関係者から聞いて、心配していたとのことだった。
「それでは、姉上が話していた急な来客というのは、リュド殿のことだったんですね」

 四人が応接間のテーブルに着いた頃、アガタがカートを押して飲み物を持って来てくれた。
 それを並べて貰っている間、モニカたちはヴィオーラから詳細を聞いていたのだった。

「そうです。国からリュドヴィック様が我が国に入国を希望しており、その身元保証人として我が家を指名してきたという話を聞きました」
「でも、どうしてお兄ちゃんは、お姉様を指名されたんですか?」
「最初、リュドヴィック様は、入国時にモニカさんを身元の保証人として指名されたそうですが、身元保証人になれるのは爵位が伯爵以上の者のみとなります。そこで、モニカさんの義理の姉であり、侯爵の爵位を持つ私の話を聞いたリュドヴィック様が私を指名し、その話が私に来ました」

 レコウユスとガランツスが友好関係になったとはいえ、両国を行き来するには厳しい審査と、入国するに相応しい余程の理由が無ければならなかった。
 加えて、国に滞在している間に、その者の身元を保証し、滞在先を含めたその者の滞在中の責任を負える者が必要であった。

「そうだったの? お兄ちゃん」

 モニカが尋ねると、隣に座っていたリュドヴィックは「ああ」と頷いたのだった。

「モニカさんとリュドヴィック様が兄妹(きょうだい)であることは、マキウスがモニカさんを花嫁として迎え入れた時に、私も独自に調べて知っていました」

 マキウスに視線を向けると、マキウスは不機嫌そうに「なんで、姉上がそこまで……」と小声でぼやいていた。
 それをマキウスの隣席に座っていたヴィオーラが、肘で突いて黙らせたのだった。

「また、リュドヴィック様の入国理由が、「この国に嫁いだ妹に会う為」ということでもありました。それで私がリュドヴィック様の身元の保証を引き受けました」
「そうだったんですね。すみません。お姉様。お手間をお掛けして」

 モニカが申し訳なさそうに話すと、ヴィオーラは「気にしないで下さい」と、首を振ったのだった。

「兄妹が会えない悲しみを、私は知っていますからね。会える内に会った方がいいです」
「そうですね。私もそう思います」

 ヴィオーラとマキウスの姉弟は、ウンウンと頷いた。
 二人には、互いに会いたくても会えなかった時期があったから、尚更そう思うのだろう。
 
「そうですね。おふたりがそう言うのでしたら」
「私からも礼を申し上げます。ブーゲンビリア侯爵殿、ハージェント男爵殿」

 リュドヴィックが頭を下げると、姉弟は首を振ったのだった。

「礼には及びません。それと、私のことはどうぞ、ヴィオーラとお呼び下さい。畏まる必要もありません」
「私もマキウスと呼んで下さい。リュド殿はモニカの兄上。ならば、私たちの家族も同然です」

「そうですね、姉上?」と、マキウスがヴィオーラに問うと、ヴィオーラも頷いたのだった。

「私たちがこういう話し方なのは……まあ、子供の頃からの癖の様なものですので、気にしないで下さい。モニカさんも、私たちの前ではもっと楽にして下さい」
「はい。お姉様」
「ありがとうございます。なら、お言葉に甘えさせて頂きます。私のことも、どうかリュドと呼んで下さい。ヴィオーラ殿、マキウス殿」

 そうして、ヴィオーラたちと暫し談笑をすると、モニカとマキウスは屋敷に帰宅したのだった。
「あー」
「あー」

 リュドヴィックがヴィオーラの元に滞在し始めてから、数日が経過した。
 昼食を終えたモニカは、自室でニコラと一緒に遊んでいた。

「うーうー」
「うーうー」

 ベッドの上に丸めたタオルを横向きにすると、タオルの上にニコラの胸がくるように慎重に腹這いの体勢にする。
 首が座ってきたので、これでもニコラは充分自立出来た。

「ニコラ、おもちゃはここだよ」

 そんなニコラの前で、音が鳴るおもちゃを鳴らすと、小さな身体をじたばたとさせて、それを掴もうと腕を伸ばしてくるのだった。

 アマンテによると、そろそろニコラもハイハイの練習に備えて、うつ伏せの体勢に慣れた方がいいとのことで、この遊びを勧められた。
 ニコラぐらいの赤ちゃんは、この頃になると音の出るおもちゃを目で追いかけるようになる。
 以前も、モニカが音の出るおもちゃをニコラの顔の前で振っていたら、ニコラはじっと目で追いかけるようになっていた。

 また、最近では親指が発達してきたのか、顔の前で振っていたおもちゃを掴もうする回数も増え、おもちゃを持たせると口に近づける回数も増えてきた。

 それを利用して、腹這いの体勢にしたニコラの目の前で音の出るおもちゃを振って、うつ伏せに慣れさせようと、この遊びをさせてみることにしたのだった。

 モニカは最初こそ腹這いにしたニコラが窒息してしまうのではないかと不安になったが、胸の下に丸めたタオルを入れて、顔を高くすれば大丈夫だと説得された。
 実際に顔を高くすれば窒息の心配は無くなったが、それでも吐乳(とにゅう)する危険があった。また、物を掴めるようになったことで近くの物を誤飲する可能性があるので、ニコラを腹這いにさせている時は決して目を離さないように厳しく言われたのだった。

「ブー」
「ブー」

 先程から、ニコラが声を発していたので、それをモニカが真似すると、ふっくらとした柔肌の頬を、熟したリンゴの様に赤く染めて、ニコラは嬉しそうな顔をしていた。
 言葉の発達にも繋がるので、ニコラが声を発した時は、なるべくモニカも真似して繰り返すようにしていたのだった。

「今日もニコラは可愛いね!」

 その言葉が分かったのか、ニコラは母親を見ると、花が咲いた様な笑みを浮かべたのだった。

 ボールの様な音の鳴る丸いおもちゃを動かしながら、おもちゃを握ってブーブーという音を鳴らしていると、部屋の扉が叩かれた。

「失礼します。モニカ様。ティカです。お手紙をお持ちしました」
「はい。どうぞ」

 モニカが扉を振り返ると、手紙を持ったメイドのティカと一緒に、ニコラの乳母のアマンテも休憩から戻って来たのだった。

「恐れながら、モニカ様。ニコラ様をうつ伏せにしている時は目を離さないように、あれほど言いましたよね……」
「あっ、そうでした。すみません……」

 呆れ顔のアマンテが代わりにニコラを見るとのことだったので、アマンテにニコラを任せると、ティカから手紙を受け取った。

「私宛に手紙って誰だろう……? お姉様かな?」
「届けに来たのは、ブーゲンビリア侯爵家の使用人でしたが、送り主は……」

 ティカの言葉を聞きながら、流暢な文字でモニカの名前が書かれた白い封筒を裏返すと、そこにはリュドヴィックの名前があった。

「お兄ちゃんからだ。どうしたんだろう……」

 赤い封蝋で留められた封を、ティカから渡されたペーパーナイフで開けると、中からは一枚の便箋が出てきた。
 それをざっと読んだモニカは、目を丸く開いたのだった。

「ええっ!」

 モニカの叫び声に、ニコラまでもがモニカをじっと見つめたまま固まったのだった。