【午後四時五十五分】

 電車から降りて、僕らは朝の公園に向かって歩いた。このまま学校に戻ることも考えてたけど、「きっともう授業も終わっているから完全にサボる!」と割りきってしまったらしい。電車の中での気まずい空気はもうなくて、また馬鹿馬鹿しい話で盛り上がった。
「雪路、しーちゃんと連絡先交換したんだから、ちゃんと静香ちゃんに教えてあげなよ?」
「教えるけど、しーちゃんから今日あたりでも連絡するって言ってたし。教える前にわかるんじゃねぇ?」
「うわっ不親切……優しくしないとモテないぞー」
「別に俺、モテなくてもいいし……」
「でも学校に戻ったら絶対冷やかされるよ! あんだけ一人で大きな声を出して走ったんだから!」
「一人って、お前も叫んだだろーが!」
 公園に着くと、僕らは決まってブランコに腰かけた。近くの時計塔は四時五十七分。
「あー……もう終わっちゃうのか」
 行きと帰りをあわせた、僕らが電車に揺られた四時間。僕の知らない雪路も、あの頃と変わらない雪路も知ることができた。それだけじゃない、ガキ大将の大ちゃんも、お姉さんっぽくなった静香ちゃんも、ずっと探していたしーちゃんにも会えた。
 ああ、やっぱり今日飛び出して良かった。
 僕にとって最初で最後で最高の、「特別な日」だった。
「天馬、次はいつ帰ってくる?」
 ブランコに揺れながら雪路が聞いてくる。
「えーっと……いつかなぁ。とりあえず明日は学校に……」
 学校に行く。――その一言が今、どれだけ自分の心を抉っただろう。
 口ごもった僕を見て、雪路はブランコから腰を上げて僕の目の前に来る。僕のパーカーの胸ぐらを掴み、目線を合わせるようにして屈んだ彼の顔はすでに涙でグシャグシャだった。
「なんて、顔してんの? そんなに泣いて……」
「悪いかよ……だって、信じたくないんだよ」

「明日も明後日も、これから何年何十年経っても、お前がこの世にいないなんて」

 胸ぐらを掴んだ手に更に力が加わる。それでもパーカーにこれ以上シワが増えることなく、代わりに雪路の手に爪が食い込んだ。
「……なんだ、わかってたの?」
「わかるさ。今日だって、忘れるわけがない。お前の言う特別な日は――三年前、夏休み中に送られた小学校のアルバムが届く前に事故に遭って亡くなった、天馬の命日だ」

 ――三年前の、夏。新天地へ足を踏み入れ、中学生になった僕に降りかかった災難。次に僕が目を覚ました時には、棺の中で眠っている自分がいた。驚くことなく、冷静に見つめている自分がいて、何が遭ったのか納得してしまったけど、その近くで泣いている雪路がいたのを見て、何もできない僕でも叫びたくなった。「ここにいるよ」って伝えたかったのに。
 暫くして、自分の着ていた服のポケットにしーちゃんのキーホルダーが入っていることに気付いた。あまり覚えていないけど、恐らく返そうと思ってずっと持ち歩いていたんだと思う。
 神様に「これを返してあげるにはどうしたらいい?」って聞いたら難しい顔をしていて。
「三年後の命日に一人だけ、貴方が会いたい人に会わせてあげましょう。その代わり、金輪際会えないという条件がありますが、どうしますか?」
 やけに詐欺師っぽく言うから半信半疑だったけど、それでも僕は会うことを望んだ。

「キーホルダーを返したいからなんて、正直建前だった」
 僕の言葉に、雪路は目を見開いて驚いた。わかってる。僕らしくない言葉だってことくらい。
「きっかけはなんでも良かったんだよ。僕はただ、……赤なのに横断歩道を渡ろうとした雪路を止められたら、それでよかったんだよ」
 僕が居なくなってすぐ、雪路はわざと車の前に飛び出そうと試みていた。それを大ちゃんが必死になって止めてくれたのも知っていた。最近は落ち着いていたけど、引きずっているのが目に見えていた雪路を、僕は見ていられなかった。
「……初めて俺に声をかけてくれた時のこと、覚えてるか?」
 雪路は服の裾で涙を拭うと、真っ直ぐ僕の目を見据えた。
「目に映るものすべてが恐ろしくて怯えていた俺を、天馬が助けてくれたんだ。何度も何度も、声をかけてくれた。……あの時からずっと、天馬は俺のヒーローだった。ろくに礼も言えず、知らぬ間に勝手に遠くにいきやがって……もう、お前の隣に立って笑うこともできないってわかったら、全部が嫌になった。大輔が止めてくれても、何度も死のうとした。……でも死にたくなくて、死ぬのがこわくて……高校に進学してから今日まで、何も考えてなかったよ。何がしたいとか、将来の夢? 将来も何もねぇよ、天馬が居なくなってから三年間、ずっと前を向けなかった奴がしたいことなんて、考えられるわけねぇじゃん!」
 ずっと溜め込んでいた雪路の本音が公園に響く。震える肩に手を添えて、ようやく自分の体が透けていることに気づく。せいぜい、あと一分ってところだろう。
 僕は雪路の額に今朝より威力の弱いデコピンを食らわすと、一瞬だけ彼の頬が緩んだ。
「……お前、また突き指するぞ」
「いいよ。それで雪路が前を向けるのなら勲章にもなる」
 ああ、もう感触がない。すごく眠い。
 本当にタイムリミットが来たようで、僕はできる限りの笑みを浮かべた。
「雪路、僕の声を大ちゃんや静香ちゃん、しーちゃんに届けてくれてありがとう。僕が本当に今日したかったことを、我儘を聞いてくれてありがとう」
 特別な日――強いていうのなら、日下部雪路という最高の相棒と出会えた日。僕が生きた十二年間で、一番最高なできごとを今日にしよう。この再会が良い方へ向くように。
「――僕が生きた証を、雪路がこれからも生きて証明してくれよ。僕の声が届かなくても、お前が前を向けるまでちゃんと近くで叫んでるから」
「……なん、だよ……それ。そんなこと言われたら、長生きしなくちゃな」
 また溢れ出す涙を拭うことなく、雪路は笑ってくれた。
「また会おう、雪路!」
「……またな、天馬」
 最後に浮かべた雪路の笑った顔は、今日一番の、昔の雪路のようだった。