その年は暑くなるのが異常なほど早かった。瞬く間に梅雨が終わり、まだ世間が夏へと気持ちが切り替わらないうちに陽射しはアスファルトを灼き、陽炎を作り出していた。

 その灼熱にこの都会のビル群もその化けの皮を剥がすのではないかと思いながら一橋は喫茶店の中から外を眺めていたが、そんなわけはなくただ景色がゆらゆらとゆれるだけだった。

 そうしていると、見知った顔が視界に入る。気づかなかったふりをしたが、向こうも気づいてしまったらしく、いつもどおりの軽薄な笑みでこちらに手を振ってきた。

 それでも無視を決め込んでいたのだが、あちらから喫茶店に入ってこようとしたので、慌てて自分から店をでる。

 チェンが笑いながら挨拶をしてきた。一橋は自分の時間を邪魔された抗議の表れとして無視をするが、案の定チェンはお構いなしである。

「あの件以来、たまに来るんダ」

 あの件、というのは察しがついたが、場所がどこのことを指しているかは分からなかった。

 頭の中にクエスチョンマークを浮かべたが、構わずチェンはスタスタと歩き出した。自分から絡んでおいてどういうことかと思ったが、気になるのでついていく。

 少し歩くと、秋帆と出会った公園に着いた。

「ここのことか」

 一橋はその公園のことを忘れていた。存在自体を忘れていたというよりは、意識しなかったので先ほどまで自分がいた場所がこの公園の近くだと言うことを忘れていた。

「夕方に来るとたまに会うヨ。制服じゃないから気づかなかったけど、学校帰りみたいネ。たぶん私服通学の学校ヨ。ま、会うと言っても、お互いにちょっと会釈をする程度だけれどモ。この間は友達と楽しそうにお喋りしながら歩いてタ」

 チェンが木陰になっているベンチを見つけて腰を下ろす。一橋も同じベンチに座る。二人組にしては遠いが、他人にしては少し近いような、絶妙の距離。

「珍しく良い報告だな」

「イッチャンも会ってみたラ?平日の夕方にいつも通るヨ」

「冗談じゃねえ。安否確認は一人で十分だ」

 そう言ってベンチを立つ。もう少しくらい、と引き留められるかと思ったが、チェンの放った言葉は一言だけだった。

「またネ」

 いつもは「ばいばイ」と言って別れるチェンがそう言ったことに少し違和感を抱く。今チェンが口にした言葉は、別れの挨拶であり、再会の約束でもある。

 二人が会うのは、魔眼を使う必要が生じた場合である可能性が高い。だが、チェンの言葉に悲壮感はない。むしろ、再会を楽しみにしているような響きさえあった。

「ああ、またな」

 チェンの約束に応える形で言ったその言葉は、自分でも驚くくらい爽やかだった。この暑さのせいで自分の頭が馬鹿になったのかもしれない、いや、むしろそうだろう、などと頭の中で無理矢理納得する。

 本当にその女の子の笑顔が自分たちのおかげで保たれたものなのか、自信はない。もしかしたら、自分たちが余計な手出しをせずに放っておけば、あんなことはなく、平和に女の子は暮らしていたのかもしれない。母親の死からもしっかりと立ち直って、父親と二人で。自分たちが女の子に与えたものは、余計なものだけだったのかもしれない。

 だから、報酬は未来に受け取る。報酬はワインのように年月とともに熟成されるはずだ。今はまだ酸味が強すぎる。もっと時間が経てば、味わいが出てくるだろう。なんなら、自分たちが死んだ後でもいい。むしろ、そのほうが良い。その女の子が長生きをして、大切な人に囲まれて、幸せに息を引き取る。その時にもらうのが、一番良い。

 今年の夏は熱くなればいい。普段は暗く湿った場所にも、少しだけ太陽の恵みを運んでくれるといい。そう思いながら、一橋は眩しさに目を細めながらも空を見上げた。思わず笑ってしまうほどの青が、広がっていた。