「どうも、お世話になりました」

 そう言って秋帆と岳彦が事務所を後にした。足音が遠ざかっていく。

「今度こそ間違いねえだろうな」

「それより、病院に行ったほうがいいんじゃなイ?あれだけ盛大に電気を浴びたんだかラ」

「必要ねえ。それより、本当に大丈夫なんだろうな?」

「大丈夫ヨ。二人とも眼に仕込みがないことは確認しタ」

「記憶はどんな風に?」

「相変わらず、医療訴訟の代理人である僕のところに来たってストーリーだヨ」

「それじゃあ二人ともここに来たのがおかしくねえか?」

「おかしくないヨ。秋帆ちゃんに関しては僕ら二人についての情報は消してないかラ。消したのは、お父さんが僕らを襲ったという部分だケ」

「はあ?」

 一橋が怒った顔でチェンを見る。

「もっと正確に言うと、お父さんが僕らに関わったことでトラブルが起きそうになったから、お父さんの記憶を僕が『overwrite』した、というストーリーにしタ。だから、秋帆ちゃんがお父さんに対して僕らのことを話すことはなイ。もしお父さんから秋帆ちゃんに僕らの話をしたとしても、『overwrite』された記憶だと思って適当に話を合わせてくれるヨ」

 一橋はなるほどといった顔をしてみせたが、すぐにもう一つの疑問に気づく。

「確かに問題は起きねえかもしれねえが、俺らの記憶を残しておいた理由になってねえぞ」

 チェンは仕方ないなあと言いながらいつも通りニコニコしている。

「理由は二ツ。一つは、秋帆ちゃんがお母さんから魔眼を受け取ったという記憶までは消せない以上、秋帆ちゃんは今後の人生でどうしたって魔眼と付き合っていくことになる。だったら、万が一魔眼を使ったり話題にしてしまったりした場合には僕らのところに相談に来られるようにしたほうが安全だってこト」

 そう言って事務所内を歩き、ブラインダーを閉ざして陽の光を遮断した。室内が暗くなったので、蛍光灯をつける。だがそれでも、太陽の光には及ばない。

「もう一つは?」

 チェンはその質問には答えず、ブラインダーの隙間を開いて外を眺めた。秋帆と岳彦が車に乗り込み、駐車場を出ていくところだった。

「イッチャンも人が良いね。僕らを殺そうとした人を記憶を書き換えるだけで許すなんテ」

 一橋は少し極まりが悪そうにする。

「それは俺だけの判断じゃねえだろ。それに、一般人に下手なことをしてみろ。面倒になるだけだ」

 チェンの視界から二人が乗った車が消えた。外の夕陽はすでに西の山の稜線に消えようとしているところだ。これから街は自身に明かりを灯す。一つ一つの光が、ストーリーを描く。良いストーリーと悪いストーリー、どちらが多いだろうか。

「それにな、あの親父さんが何か悪さをしたか?家にネズミが出たら、病気を運ぶ前に自分や家族のために駆除しようとするだろ。それと同じことだ。何も悪いことはしてねえ」

「フフッ。イッチャンらしいネ」

チェンはいつものように笑顔で取り繕う。だが、その笑顔にいつものような軽さはない。

「でも、ネズミだって生きいル。たまに、ふと思うんじゃないかナ。なんで僕は生きているんだろう、なんでいつも人間に狙われるんだろう、自分だって何か人間の役に立っているんじゃないかな、なんテ」

 何かに困ったような、どんな顔をしていいのかわからないような、間違っていると分かっているけれど口から出さずにはいられない時の子どものような、笑顔。

 返答がないのでチェンは振り向いて一橋を見たが、目は合わなかった。一橋が見ていたのは、この事務所からはるか離れた、どこか遠く。眉間にしわを寄せ、何かを探すようにじっと目を凝らしている。

 チェンは一橋のその様子が何かに似ているなと思う。そうだ、星を探している人の目だ。それも、一等星や二等星ではない。見えるかどうか分からないぐらいの淡い光の星を探している人の目。

 やっぱりズルかったかもな、と思った。年下の女の子に任せず、自分で見つけるべきだ。魔眼を持って生まれたことや、自身のこれまでの生き方を呪う暇があるのなら、自分でできることを探すしかない。無責任でも、厚かましくても、そうやって未来を歩いていくしか道はない。そして見つけたら、何を言われようが自分を信じて進むしかない。そうしないと、自分も魔眼もいつまでも腐ったままだ。

 チェンの笑顔がいつもどおりになったのをどうやって感知したのか、一橋が顔を向けた。

「で、もう一つの理由は?」

「ふふ、なんだったかナ。忘れたヨ。適当な男だからネ」

 チェンは散らばった本を拾い、元あったように重ねる。そう、できることから始めればいい。一つずつ、一つずつ。