一橋は岳彦が行動できないように手足と口を縛る。

 チェンは秋帆を宥め、ソファへと座らせる。なぜ秋帆がここにいるのかは聞かず、丁寧に丁寧に、ことのいきさつを説明した。秋帆はチェンの説明をじっくりと聞いてくれたが、どこまで頭には入っていっているかは疑わしい。
少しすると、一橋がやってきた。

「大人しくしているよ。声を出そうとも藻掻こうともしない」

 疲れ果てたようにチェンの隣に腰を掛ける。

「どこまで説明した?」

「ほぼ全部だヨ」

「そうか……」

 静寂が訪れる。時計の針の音と少しずつ整っていく一橋の呼吸のおかげで世界が回り続けていることをなんとか実感できる。秋帆は一点を見つめたまま動かない。

 どれくらい時間が流れただろう。一分と経っていないような気もしたし、一時間経ったような気もした。最初にその空気を壊すことになったのは一橋だった。

「『console』のおかげだ」

 何のことかと思ったが、すぐに理解できた。一橋があのスタンガンを浴びてすぐに動けるようになった理由だ。

「意識はあったし幸い心臓にも影響はなかった。ただ、体が動かなかった。動け動けと思っていたら、以前聞いた足音が近づいてくるのを感じた。入ってきたらすぐに眼を見て、『ban』を発動した。声を出すな、ってな」

「なるほど、それで何の物音もせずにイッチャンが回復していたわけネ」

 チェンは秋帆を見る。まだ、一点を見つめたままだった。先ほどのやり取りは聞こえていなそうだが、一つだけ言わなくてはいけないことがある。

「来てくれて、ありがとウ。助かっタ」

 そう言ってチェンは頭を下げたが、秋帆はそれが自分に向けられたものだということも気づいていない様子だった。優しかったはずの父親が他人を襲ったという事実のダメージはあまりにも大きい。

 チェンは、もう一つ言わなくてはいけないことに気づく。

「ごめんなさイ」

 そう言って頭を下げる。一橋も何も言わずに頭を下げる。

 どこで違えたのだろう。こうなるはずではなかった。いくらでも回避することはできた。最初にチェンと秋帆が会った時に、チェンが変に怪しまずに気のせいだと思えていたら。ここで魔眼の説明をした時に、一橋の言うとおりに『overwrite』を使っていれば。岳彦が来た時に、魔眼について知らないと言って追い返していたら。だが、そのすべてが後の祭りだ。

「どうして……」

 ふり絞るように秋帆は震えた声を発した。

「もしかして、嘘なんじゃないですか?何もかも。そうだ。チェンさんは眼の能力で記憶を書き換えることができるんですよね?どこかで私の記憶を書き換えたんじゃないですか?そうですよ。だって、父が人を殺そうとするなんてありえないですよ。あの優しい父が……」

 狼狽しながら早口で一気にまくしたてると、左目から一筋の涙がほほを伝った。自分の言っていることが事実ではないのだと、本当は理解している証だった。

 少し冷静になって、俯く。

「父がここに来ているだろうことは、知っていました。家に帰って母との写真が写ったアルバムを開くと、あの日挟んだチェンさんの名刺の向きが逆だったんです。一目で分かりました。ああ、父もこのアルバムを開けたんだなって。自然にページを開けた拍子に名刺が落ちて、向きが分からなくなったんだって。そう考えたら、私にばれる前に父がここへ行くであろうと思って、私も急いでここに来たんです。でも、まさかこんなことになるなんて……」

 秋帆の言葉はどんどんぐしゃぐしゃになっていく。

「ちがう。ダメですね。こんな言い訳みたいなこと言って。私が悪いのに。私が人前で眼を使ったりしなければ。私がお二人のことを父に話さなければ。こんなことにならなかったのに。ごめんなさい。最低ですね、私……いや、私たち」

そこまでが限界だった。あとは、嗚咽だけが響いた。チェンと一橋はすぐに気づいた。嗚咽がもう一つ聞こえてくることに。意識を取り戻し、話を聞いていたのだろう。

傾いてきた陽差しが事務所のブラインドから漏れ、部屋にまだら模様のシルエットを映していた。光と闇の対比が、やけに目に眩しい。

「5歳ぐらいから盗みを繰り返していたガキもいる」

 一橋が秋帆をじっと見つめながらぽつりと呟いた。秋帆は腫れた目で一橋を見る。

「親はそれをやめさせようともしなかった。万が一捕まっても子どものしたことなら謝って物を返せばほとんどの奴はそれ以上追及してこないからな。ガキは大きくなると盗みだけじゃなく様々な悪事に手を染めた。最初は親の気を引くためだったが、いつの間にか自分のためになっていた」

 そこまで言うと眼を瞑り、ソファの背もたれに深く身を投げて話すのをやめた。

 その様子を見てチェンが少し微笑むと、秋帆のほうを向いた。

「物心ついた時には家も両親もなかった子どもは、物乞いをして生きタ。でも、それだけでは十分に食べていけないから、やがて親切そうな人を襲って金品を巻き上げるようになっタ。その欲はだんだん大きくなっていって、やがてはさらに暗い社会の闇へと入っていっタ。闇の中では、人の命をもてあそぶような事もたくさんしタ」

 秋帆は二人の顔を交互に見る。チェンはニコニコと笑っていて、一橋は目を瞑ったままだ。

「その子どもたちはその後、どうなったんですか?」

「自殺しタ」

 チェンはそう言ったが、すぐにぺろっと舌を出す。

「と、言いたいところだけど、のうのうと生きているヨ。過去の自分たちは死んだ、これからは心を入れ替えて別の人生を歩むんだ、なんて都合の良いことを思いながらネ」

 いつものようにカラカラと笑う。

 秋帆はしばしぽかんと二人を見ていたが、もう後から涙が溢れることはなかった。左手の袖で、涙をぬぐう。

「私も、やり直します。たとえ一人になったとしても、大丈夫です。私には幸せな思い出がありますから。幼いころからの、大事な、家族の思い出」

 秋帆はくしゃくしゃの顔で笑った。赤い目をにっこりと細めて。

 それを見てチェンの笑顔も変わった。いつもより少し控えめだけど、心からの笑顔。隣にいる一橋も、眼を閉じているが微かに口角が上がっている。

「ねえ、イッチャン。もうちょっと無理してもらっていイ?」

「ああ」

 そう言って二人が何かを確認すると、一橋がソファから身を起こす。チェンはゆっくりと大きく伸びをした。

「どっちからだ?」

「ま、お父さんのほうからだろうネ」

 そう言うと二人は奥へと向かう。それからいくつか小声で言葉のやり取りをしてから、岳彦の拘束を解き、岳彦と目を合わせた。

 そして再び秋帆の元へと戻ってくると、チェンは秋帆に声をかける。

「ねえ、秋帆ちゃん、色々なことがおこって大変だろうけれど、覚えておいテ。秋帆ちゃんは一人じゃないってこト。お父さんがいて、お母さんがいル。お父さんは秋帆ちゃんのことを何より大切にしているし、お母さんはその眼を通して秋帆ちゃんを見守っていてくれていル。それを、覚えておいテ。僕からのお願いは、それだケ」

 その言葉を聞いて、秋帆は少しキョトンとしていたが、やがてチェンの言葉の意味を少しだけ理解し、頷く。

「ええ、忘れません。私、絶対に忘れません」

 チェンの『overwrite』だけが発動した。