数日前に少し可笑しな猫好きを見かけた公園。あれ以来チェンがいないかと少しビクビクしながら秋帆は公園を通過した。だが、チェンの姿は見かけることはない。

 この日も秋帆は公園の中の様子を伺いながら歩く。すると、ベンチに横になっている背の高い男性に気づいた。黒いシャツにジーンズ。恰好こそラフだが、きちんと手入れをされた服装は浮浪者には見えない。最初は暖かくなってきたので居眠りでもしているのだろうかと思ったが、少しするとそうではないことに気づく。苦しそうなうめき声をあげている。

 数日前のことがあったので少し警戒心があったが、どうにも見過ごすことができず、秋帆は思い切って声をかけた。

「あの、大丈夫ですか?」

 男はその声に苦しそうに顔を上げる。

「歩いていたら急に胸が苦しくなって……。でも、大丈夫です。少し休んで良くなるはずですから」

 そう言うと歯を食いしばり、もう一度ベンチへと顔を突っ伏す。

 秋帆は迷った。先日チェンに眼の力を使って疑いをかけられたばかりだ。

「救急車は、呼びましたか?」

 男は顔を伏せながら左右に首を振る。

「訳あって保険証もお金もないんです……。救急車はやめてください。大丈夫ですから」

しばらく秋帆は迷っていたが、またしても仕方ないよねと自分に言い聞かせて眼を使う決心をした。周囲に他に人がいないことを確認すると、男に呼びかける。

「すいません、ちょっと顔を上げてもらえますか?」

 男は不思議そうに苦痛に歪んだ顔を上げた。

「私の眼を見てください」

 男と目を合わせて、秋帆は眼の力を使おうとする。その瞬間、男の様子が変わった。

「決まりだな」

 苦悶の表情が消えた。秋帆はすぐに気づく。この人は何らかの理由で自分の眼の力を知っていて、それが本当であることを確かめようとしたのだと。

 母親の、絶対に他人に教えてはいけないよ、という言葉が頭の中で再生される。どうしよう、という思いが浮かび、思わず声をあげそうになる。だが、秋帆の口からはなぜか何も言葉が出なかった。言葉を奪いとられてしまったようだ。

次の瞬間、男に左腕を掴まれた。

「逃げるな」

 目の前の男の迫力に目が逸らせない。だが、パニックになりかけている秋帆の背後から別の男の声が聞こえた。

「秋帆ちゃん、ごめんネ」

 聞き覚えのある語尾だった。

「チェ、チェンさん?」

 今度は声が出た。

 先ほどまで誰もいなかったはずの背後に、チェンが立っていた。どうやら近くの物陰に隠れていたらしい。

「はあー、やっぱり女の子には怖いよねエ。イッチャンのおっかない顔ハ」

 ここまで走ってきたらしく、少し息が切れていた。一橋は秋帆の腕を離した。

「悪かったな、怖い顔で」

「ちょっと試すようなことしちゃってごめんなさイ。でも、放ってはおけなかったノ。一度会っただけの人間を信用しろと言っても難しいかもしれないけど、これだけは言わせテ。眼のことについては、絶対に他の人に言ったりしないかラ」

 秋帆はまだ状況を飲み込めずにいる。

「このおっきくて厳つい男は一橋って言って、僕の相棒みたいな存在なノ。ちょっと眼のことについて話しておきたいことがあるから、ついてきてくれル?」

「相棒ではねえぞ」

「だから、みたいな、って言ったじゃなイ」

「それも不服だ」

「いいかラ。今重要なのはそこじゃないでショ」

 そう言って今度は秋帆に両手を合わせ、頭を下げる。

「ねえ秋帆ちゃんお願イ。ちょっとだけ別の場所でお話させてくれないかナ。絶対に危ないことはしないかラ」

 チェンのコミカルな言動に、秋帆は不思議なほど落ち着きを取り戻してきた。眼について知っているというのは不思議だが、悪い人ではなさそうに見える。もし本当に何か悪いことを狙っているのなら、誘拐のようなもっと力づくな手段にでるはずだ。それに、今からうまく逃げられたところで、噂を広げられる恐れがある。

 結局秋帆が頷いて承諾の意思を見せると、チェンの表情が明るくなった。

「よかったア。信用してもらえテ」

 信用したわけではないのだが、否定しても仕方がない。その言葉を聞くと、一橋はすっと立ち上がって歩き出す。

「あ、ちょっと待ってヨ。ごめんね秋帆ちゃん、不愛想な人間デ」

 そう言って秋帆の手をひいて一橋の後を歩き始めた。秋帆は、いきなり手を握られたにも関わらず不快な感じはしなかった。それほどチェンの一連の動作は自然だったからだ。

「でもイッチャンって思ったよりも演技上手いネ」

「うるせえな」

 チェンと一橋はあまり中身のない内容の会話をペラペラとする。

 公園の近くに、一台の車が止めてあった。黒のスカイライン。
 チェンが後部座席の扉を開け、秋帆に乗るように促す。これも極めて自然に。

「そうそう、悪いんだけど、スマホの電源は落としておいてくれル?万が一にも聞かれたら困る話だからネ」

少しドキリとする発言だったが、二人もスマホの電源を切っているのを見て、大人しく秋帆もスマホの電源を切った。秋帆とチェンが後部座席に乗り、一橋は運転席に座る。エンジンをかけると、一橋が声をかけてきた。

「しかしまあ、よく魔眼の持ち主が普通に暮らしているな」

 言い方はぶっきらぼうだが、秋帆が落ち着いたせいだろうか、先ほどまでのような恐怖感は感じない。

「えっと、マガン、ですか?」

 聞きなれない言葉に秋帆は反応する。

「あんたの眼のことだよ。悪魔の眼と書いて魔眼、だ」

 悪魔の眼、そんな風に思ったことのない秋帆は少し困惑する。隣にいるチェンはその困惑をすぐに察した。

「名前については気にしないデ。僕らがそう呼んでいるだけだかラ」

 秋帆はすぐに一つのことに気がつき、その問いを口にする。

「そういう呼び名があるということは、私のほかにも人を癒す眼を持った人を知っているんですか?」

 チェンと一橋の空気が少しひりつく。バックミラー越しに一橋からチェンへと視線を送る。チェンは少し口に手をあてて考えたが、しょうがないか、といった感じで秋帆のほうを見た。

「半分正解で、半分間違イ。確かに僕らは魔眼の持ち主を他に知っていル。でも、魔眼の力は人それぞれ違っていて、秋帆ちゃんと同じ力は他の人は持っていなイ」

「どのくらいいるんですか?その眼を持つ人たちって」

 新しい事実を聞いた興奮で、秋帆の口調は普段よりもはやくなっている。

「分からなイ。非常に少ないというのは確かだネ。僕らの知っている限りでは今現在生きている人間で魔眼の持ち主は秋帆ちゃんが3人目だヨ」

「もしかして、他の2人というのは?」

 少し慎重に尋ねた秋帆の問いに、チェンが笑う。

「なんだか思っていたよりずっと鋭いから秋帆ちゃん相手だと話が楽ヨ」

 そこまで言うと、一瞬だけチェンのまとってくる雰囲気が急に冷たくなった。猫のようだと思っていた笑みも、その瞬間だけは蛇のようになる。

「残りの2人というのは、僕ら2人のことヨ」

 そう言い終えると、チェンの空気はすぐにいつもの柔らかいものに変わり、カラカラとした笑顔に戻る。

「おい、ちょっと喋りすぎじゃねえか?」

 一橋がそうチェンに言った。

「ううン。知っておいてもらったほうがいいネ。そのほうが僕らの伝えたいことを分かってもらえるはずヨ」

 一橋は少し考えて、息を吐く。

「まあいい。お前に任せる」

「秋帆ちゃんの能力は他人を癒す、って言ったよネ?『console』ってところカ。ちょっと詳しく聞いてもいイ?」

 秋帆はチェンから目をそらして考える。この2人はすでに自分の眼について知ってしまっている。だが、だからと言って詳しく話してしまっていいものか。春奈の、他人には決して教えないこと、という言葉が再び聞こえてくる。

「ああ、そっカ。いきなり、あなたの眼のことを教えて、なんて不躾だったネ。相手のことを聞く前に自分たちのことを話しておかないとネ」

 そう言うと、チェンは自分の眼を指さす。

「僕の魔眼の能力は、『overwrite』って言うノ。相手の記憶を上書きする能力だヨ」

 秋帆は驚いた。

「え、すごい能力ですね。上書きってことは、相手の記憶を消して、自分の都合の良いものに書き換えることができるっていうことですか?」

 チェンは少し自慢げだったが、小さくため息をつく。

「すごいでショ、って言いたいところだけど、非常に厄介なのヨ。発動条件があってネ。必ず相手に記憶を上書きすることについて質問をしないといけなイ。あなたの記憶をいじっていいですか、とかそんな感じニ。しかも、相手の意思が記憶を書き換えられるのは嫌だって拒否したら、『overwrite』は発動できないノ。不便でショ?」

 そう言うと、今度は自分の眼を指さしていた指先を運転席に向ける。

「イッチャンの能力は『ban』って言って、相手の意思決定を阻害する能力だヨ。前もって相手にこういうことをしようと思わないように、って命令をすれば、相手はその行動をしようという意思決定ができず、その結果その行動ができなイ。ただし、あくまで意思決定を阻害するだけだから、もうすでに決めてしまった相手の意思は変えられなイ。端的に言うと、能力を使うには必ず相手の意思に先んじる必要があるヨ」

 あまりに突然入ってくる自分の常識から外れた能力の説明に、秋帆は本当だろうかと疑う。だが、一橋の『ban』は心当たりのある能力だった。

「あの、もしかしてさっき公園で」

「ああ、最初に目が合った時にあんたに『ban』を使った。声を出す、っていう意思を封じるように。あの場で叫ばれたりしたら面倒だったんでな」

 話に信ぴょう性が増した。

「まあイッチャンの能力のほうが便利だよネ。発動条件も緩いし、一度発動しちゃえば相手の眼が離れても数秒間は効果が続くシ」

 眼について自分はまだまだ知らないことがたくさんあるのだということを秋帆は実感する。

「着いたぞ」

 一橋が声をかける。窓ガラスの外を見ると、古ぼけたビルの前に車がついていた。ビルの側のパーキングで車を降りると、チェン、秋帆、一橋の順でビルの中へと入る。ビルの階段は狭く、人が二人並んで歩くのは窮屈なほどだった。

「ここ、ですか?」

 人気のないビルに少し不安になった秋帆の呟きに、チェンが笑う。

「胡散臭い場所でごめんネ。でも家賃が安いしガラガラだから他のテナントとの揉め事もないし、けっこうオフィスとしては悪くないのヨ」

「あ、いえ。そんな」

 階段を上る。陽の長いこの時期はまだ外は明るいのに、階段は暗くて狭い。壁紙もところどころ剥がれている。
 3階に上るとチェンは左手に進路を取り、廊下を奥へと進んでいく。一番奥のガラス戸に、小さく『陣内法律事務所』と書かれた表札がかかっていた。

「ここが僕のオフィスでス」

「『陣内』ですか?」

「日本国籍を取るときに名前を『じんない』にしたの。戸籍上は陳(チェン)に内と書いて『じんない』って読むんだけど、あんまりにも間違われるんでオフィスの名前は普通の『陣内』にしたってわけ」

 そう言うチェンに、一橋が注釈をつけてくれた。

「こいつの身の上話は信用しなくていいぞ。俺が知る限り聞かれるたびに違うことを答えているからな」

「ハハハ。僕みたいな人間は出自なんて適当なほうがいいのサ」

 チェンはそう言ってカラカラと笑いながらガラス戸を引き、秋帆に中へ入るように促す。中には応接用と見られるソファとテーブルがあったが、真っ先に目を引いたのはやはり大量に積み上げられていた書籍だった。

「こんなに一杯本が……すごいですね」

「女の子を招待するような状況ではないネ。お恥ずかしイ。まま、座って座っテ」

 そう言うとチェンは給湯室らしき場所へ向かい、お茶とコーヒーどちらがいいかと尋ねてきた。一橋が間髪入れずにお茶と答えたので、秋帆もお茶でお願いしますと言う。

「はい、どうゾ」

 そう言ってチェンは湯飲みに入れたお茶を2つ差し出す。一口飲んでみると、わずかな渋味と濃厚でいて爽やかな芳香が喉の奥に広がった。

「おいしい……」

「こいつお茶はうまいんだよ」

「そりゃあ中国人だからネ。本当はコーヒーのほうが自信があるんだけド」

 そのやり取りに一橋が凄まじい顔をした。

 それからチェンは立ち上がり、なにやらおかしな機械を手にもって部屋の中をウロウロと歩き回る。

「何をしているんですか?」

「ン?盗聴器検査だヨ。これから絶対に他人には聞かれたくない話をするから、一応ネ」

 その言葉に、お茶で和んだ心が少し引き締まる。

 チェンは一通り部屋の中をチェックし終わると、再び秋帆に向かい合うようにソファに座る。

「じゃあ、改めて魔眼の話に戻るけど、秋帆ちゃんの眼について詳しく教えてくれル?人を癒す眼っていうことは分かったけど、そのほかにも何かあるでショ?」

先ほど2人の魔眼について聞いていた秋帆は、もう自身の魔眼についての説明を拒むことはなかった。だが、実は自身の眼について知っていることは、自分の眼が相手の体や心の痛みを和らげるということだけだ。

「ごめんなさい。実は詳しいことは分からないんです。私が知っているのは眼を使った時の効果だけで、チェンさんや一橋さんのように詳しい条件とかそういうのは」

「今までいつでも使おうと思えば使えたノ?」

「ええ、まあ、今までは」

「そりゃあ便利な魔眼だヨ。私のとは大違いダ」

「とは言っても、今までで使ったのはチェンさんに使ったあの時だけなので、本当は条件があるのかもしれないですけど」

 秋帆のその言葉に、チェンと一橋が不思議がる。

「あの時だけ?生まれてから今までデ?」

 その言葉を秋帆は手を振って否定する。

「いえいえ、そうじゃないんです。私の場合はこの眼をもらったのはほんの少し前のことなので」

 チェンと一橋は驚いた顔で秋帆の顔を覗き込んだ。

「眼をもらっただと?そんなことができるのか?」

 一橋の語気が強くなる。

「ええ。え、お二人は眼をどなたかから受け継いだわけではないんですか?」

 チェンが口に手を当てた。

「いやあ、聞いたことがないヨ。僕らは生まれながらに魔眼を持っていタ」

 その事実は逆に秋帆にとって驚きだった。

「じゃあ、眼をもらったのは誰かラ?」

「母です。今年の3月に亡くなったんです。その数日前に、私に眼のことを話して、もらう気はあるかって聞かれたんです。それで」

 チェンと一橋は先ほどよりも大きな驚きを見せた。チェンはその細い目を限界まで丸くし、一橋は口をあんぐりと開ける。

「信じられなイ」

 そう呟いてから少しして、チェンは自分の言うべき言葉を間違えたことに気づき、慌てて訂正する。

「あ、いや、ごめんなさいネ。お母さんのこと聞いちゃっテ」

「いえ、いいんです。でも、信じられないって?」

 チェンは何と言うべきか少し迷っている。答えたのは、一橋のほうだった。

「忌み物である魔眼を受け継ぐなんて、与えるほうももらうほうもどうにかしているってことだ」

 忌み物、という言葉を発するのにぴったりな、吐き捨てるような言い方だった。

「忌み物、ですか」

 秋帆は戸惑った。母から、その先祖から代々受け継いだ眼。それを忌み物と呼ばれたことは大きな驚きと少しの悲しみを秋帆に与える。

「そう、忌み物だ。魔眼を手にした人間は普通の生活が送れなくなる。魔眼の力が知られれば、それを利用しようとする最低な連中に追いかけ回されることになるからな。裏の世界では魔眼の存在は一種の都市伝説になっているから、知られれば途端に世界中のくそったれに狙われる生活が始まる。そうなれば当然、周囲も巻き込まざるをえない」

 秋帆は母がなぜ眼を極力使わないように言ったのかが分かった。そして、自分が軽率に眼の力を使ってしまったことを後悔する。

「だから、もう眼の力を使うのはやめるこったな。これまで上手く隠せてきたということは、あんたのお袋さんは眼の力を使わずに隠し通してきたんだろう。それを見習って、眼のことなど関係ない普通の日常に戻ればいい。あんたはまだ日常に戻れる。こんな自分も他人も不幸にするようなモンと付き合う必要はない」

 口は悪いが、秋帆のことを思っての言葉だということは分かる。だが、秋帆は納得しきれなかった。

「分かりました。確かに、軽率に眼を使ってしまったことは反省しています。でも、この瞳の能力が必ず不幸をもたらすとは、私は思いません」

「何?」

 一橋が眉を顰める。チェンも一橋と感想を持ったようだ。

「私の母は、嫌なことがあった私を慰めてくれる時に、この眼の力を使ったんです。最初は痛いとか、辛いとか、悲しいとか、そういう感情が心の中にあふれているのに、母が慰めてくれるとそれが小さくなっていって、すっかり消えてしまうんです。残るのは、あたたかな母のぬくもりだけ」

 秋帆はかつての母との思い出を思い起こしながら語る。大切な大切な、思い出。

「だから、眼を持っているからって、眼を使ったからって、必ず不幸になるとか周りの人を不幸にするとか、それは決まっているわけではないと思います。きっと、自分も他の人も幸せになれるような、そんな使い方があるんじゃないでしょうか」

 秋帆の声は少し震えていた。

 だが、秋帆の心情になどお構いなく一橋は突き放した。

「リスクが高すぎる。あんたと母親のケースは運が良かったが、身内からでも情報が広まる可能性はあるんだぞ」

 その言葉を聞いても、秋帆の表情は変わらなかった。下を向いて、きゅっと唇を噛みしめている。チェンが困ったように笑って秋帆に呼びかける。

「僕らも今はこうやって普通に過ごしているように思えるけど、それなりに苦労をしてきたノ。だから、秋帆ちゃんにも同じようになってほしくないなって思ってル。イッチャンは口は悪いけれど、同じ魔眼を持つ先輩としてのアドバイスだから、聞いてやってくれなイ?」

 なおも秋帆は下を向いて考える。その考えは揺るぎそうにない。その姿を見て、チェンはため息を一つつき、妥協策を提案する。

「じゃあ、一つ約束をしテ」

 秋帆が顔を上げた。

「秋帆ちゃんも、その眼を気軽に使うのはまずいってことは分かったよね」

 秋帆が頷く。

「それでも、どうしても使わないといけないと思った時や、誰かにその眼のことを疑われた時は、すぐに僕らに相談しテ。これ、ここの連絡先だかラ」

 そう言ってチェンは自分の名刺を差し出す。『陣内法律事務所 所長 陣内 龍介』という名前と、住所に電話番号。

「わかりました」

 秋帆もその案に納得したようだった。

「じゃあ、これで眼についての話はおしまイ。スマホの電源、入れていいヨ」

 そう言われてスマホの電源を入れると、時刻が表示される。公園で会った時から、一時間以上が流れていた。

「あ、もうこんな時間。すいませんチェンさん一橋さん、私もう帰らないと。うち、お父さんと私だけだから、夕ご飯の支度しないといけないんです」

「ああ、ごめんネ。イッチャン、送ってあげテ」

「いえ、いいんです。帰り方は分かりますから。ちょっと寄りたい場所もあるし」

 そう告げて残りのお茶を飲むと、バタバタと事務所から出ていった。

 ガラス戸が締まったのを見て、一橋がふーっと息を吐く。

「甘すぎやしねえか?」

「そウ?」

「あの調子じゃあまたどっかで危なくなるぞ」

「その時はまたイッチャンに協力してもらうヨ」

 そう言っていつものようにカラカラと笑った後に、少し寂し気な表情になる。

「『console』、カ。正直、羨ましいヨ。徹頭徹尾自分以外誰かのための能力じゃなイ。僕らの能力は自分のために使う能力だからネ。僕らも秋帆ちゃんみたいな能力だったら、同じように考えることができたのかナ」

 一橋はただじっと秋帆の飲み終えた湯呑みを眺めていた。