東京都と神奈川県の境に建つ、一目は廃ビルにすら見える寂れたビル。そこの三階には『陣内法律事務所』があった。

「確かなのか?その話」

 応接用のテーブルの向かい側に座った一橋(ひとつばし)が不機嫌そうに確認する。身長は190cmを超え、顔つきもいわゆるコワモテの部類だ。年齢はチェンと同じ20代後半なのだが、どう見てもそれよりは老けて見える。そんな男が不機嫌そうに尋ねるのでその威圧感は凄まじいが、チェンは慣れているので特に意に介さない。

「絶対にとは言えないヨ。一度会っただけなんだシ」

 そう言っていつものようにカラカラと笑う。事務所内に所狭しと積み重ねられたジャンルや言語を問わない書籍の束が、チェンがどんな人物かを物語っている。

「相変わらず適当な野郎だ。お前が呼んだんだろうが」

 テーブルの上に出されたコーヒーを一橋が啜る。

「どうかナ?蒸らす時間をちょっと長くしてみたんだけド」

 そう言って自分も一口飲む。

「うん、やっぱり正解だったネ。鼻の奥に広がる香りが以前よりも深いヨ」

 チェンは自信満々にマグカップをテーブルに置くが、一橋は飲み終わった姿勢のまま固まって動かない。

「なあ、お前どっか他所でコーヒーを飲んだことはないのか?」

 カップを持つ手は僅かに震えている。

「よくあるヨ。コーヒー好きで自分で入れるようになったからネ。でも数年前からは自分で淹れたコーヒーくらいしか飲まなくなったヨ。やっぱり自分で淹れたコーヒーが一番おいしいかラ」

 一橋の額から良くない汗が滴る。

「淹れ方を変えたからと少しだけ期待した俺が馬鹿だった」

「なんて言っタ?声が小さくて聞こえなかったヨ。顔色もちょっと悪いみたいだし、体調でも悪いノ?」

 チェンはそう言ってまたカラカラと笑いながら二口三口とコーヒーを美味しそうに飲む。

「まあ、何はともあれ、秋帆ちゃんが『魔眼』の持ち主の可能性はかなり高いと思うナ」

 チェンが本題へと戻ったのを聞き、一橋は額の汗をぬぐって気を取り直す。

「にわかには信じがたいな。普通の女の子なんだろう?」

 チェンはチッチッチッと指を振った。

「普通の女の子じゃないヨ。なかなかお目にかかれないレベルの美少女だヨ。白い肌に、ショートボブがよく似合ウ」

「論点はそこじゃねえんだよ」

 まったく、と言って一橋は背もたれに深く座り直す。

「医者の娘だって言うんだろ?一般人じゃねえか」

「一般人が魔眼を持ってちゃいけないノ?」

「そうじゃねえよ。そうホイホイ魔眼の能力を使う人間が、今まで普通の人生を生きてこられているのがおかしいって言ってんだよ」

「んー、まあ、そう言われてみればそうなんだけド」

 チェンは少し首を傾げる。

「お前の気のせいなんじゃねえのか?間近で美少女なんて見ちまったもんだから目の保養で痛みが吹っ飛んじまったのを、魔眼の能力と勘違いしたんじゃねえのか?」

「じゃあ、『私の眼を見てもらえますか』なんて初めて会った男に言ウ?」

 チェンのその言葉に、一橋は黙り込む。そしていろいろと可能性を考えたが、やがて諦めたように言った。

「ここでウダウダ考えてもしゃあねえな。可能性がある以上、調べてみるか」

「そうヨ。案ずるより産むが易しってこト」

 一橋がソファから立ち上がる。コーヒーはほとんど残ったままだ。

「今日中にその女の子の身元は探せるだろ。明日また来る。できるだけ早く行動に移りたいからな」

「えー、僕が調べるノ?それも今日中ニ?」

 チェンが口を尖らせる。

「そういうのはお前の得意分野だろうが。四家というメジャーじゃない苗字で医院を開業していて娘がいる、これで探せないほうがおかしい。一般人でもできそうだ」

「う~ん、弁護士の個人情報請求っていうのはこういう調査では使えないヨ。むしろ『何でも屋』を名乗っているイッチャンのほうがするべきなんじゃない?」

 イッチャン。チェンが一橋を呼ぶときの仇名だが、一橋はそれが気に入らない。先ほどよりもより一層不機嫌そうな顔をして嫌味を言う。

「司法試験受かっただけで弁護士会に登録もせず、表立って法律事務所の看板さえ掲げられねえ奴は弁護士って言わねえんだよ」

 一橋の正論にチェンは何も言い返すことができない。ただ、黙っているだけなのは悔しいので、今度は話のポイントを一橋の仕事へと移す。

「ねえ、やっぱり『何でも屋』はやめたほうがいいよ。業務内容が広すぎるとお客さんからしてみると却って依頼しにくいものヨ。それに、『何でも屋』って響きが完全に危ない業界のそれだシ」

 今度はチェンの正論に一橋が抗弁できなくなる。

「うるせえ。とにかく、明日の昼までだぞ」

 そう言って一橋は事務所を後にした。