気持ちの良い春の午後だった。空は夏に向けてその青を日増しに濃くしており、その空から降り注ぐ日差しを受け取るために草木は追いかけるようにその碧を深めていく。日向に出ると少し暑いくらいなのだが、優しく吹き抜ける風が心地良い。
高校からの帰り道、秋帆がいつも通る公園の中を歩いていると、公園の茂みのほうから声が聞こえてきた。
「おいデ。おいデ」
少し気になって覗き込んでみると、男が一人、熱心に猫に向けて手を小刻みに動かしている。
男は若いサラリーマンのような風貌で、猫を怖がらせまいと自身も地面に四つん這いになって目線を猫に合わせている。切れ長の目とシャープな顎のラインを備えた顔はどこか猫っぽい。猫好きは顔も猫に似るのだろうか、などと秋帆は思った。
男の視線の先にいる猫はどうやら飼い猫のようで、首輪をしておりつやつやの毛並みをしている。人間にも慣れているようで、少しすると男のほうへと歩み寄っていった。
「いやあ、可愛いねエ。ここがいいのかイ?」
男は猫なで声でそう言って、近寄ってきた猫の喉の下を撫でてやる。猫は気持ちよさそうに目を細める。
少し撫でて猫の警戒心が緩んだと判断したのか、男は自分の手を猫の顔の上へと移動させた。頭を撫でてやろうと思ったのだろう。しかし、頭上に相手の手が来るというのは動物にとっては脅威を感じるもので、猫は途端に機嫌を損ね、男の手に噛みついた。
「ツ!!」
男が声にならないような悲鳴をあげると、猫は一目散に逃げて行ってしまった。
男は噛まれた手にふーふーと息を吹きかける。その姿がなにやらとても面白く、秋帆はクスクスと笑ってしまった。
「見てたノ?」
男は恥ずかしそうに秋帆を見る。
「あ、勝手に見てごめんなさい。その、ちょっと声が聞こえたもので気になって」
秋帆がそう言うと、男は立ち上がった。思ったよりも背は高くない。秋帆よりは大きいが、痩躯なせいか一般的な男性よりは少し小さめに見える。
「いや~、お恥ずかしイ。大の大人が猫相手に必死になっているところを見られるなんテ」
そう言って頭をかきながら照れ笑いをすると目が糸のように細くなって一層猫っぽくなった。
「いえいえ、素敵だと思いますよ。動物好きな男性って」
秋帆はそう言ってやはりクスクスと笑う。
「いや~、それにしたって無様な姿を見せちゃっタ。もう少しうまくやれていたらもっと絵になったんだけどネ」
男の喋り方に少し違和感があることに秋帆が気づく。具体的に言うと、語尾が少しズれている。昔の漫画に出てくる中国人の日本語のようだ。
「えっと、もしかして外国人の方、ですか?」
秋帆は尋ねた。
「お、よく気づいたネ。出身は中国で、名前は陳・龍(チェン・ロン)って言うノ。チェンはこざとへんに東と書いて日本語では『ちん』と呼ぶかな。ロンは難しい漢字の『りゅう』」
「あ、チェンさんですね。私は四家秋帆って言います」
相手から名乗ったとはいえ、秋帆は自分でも不思議なほど自然に自己紹介をしていた。チェンのニコニコした笑顔が親しみやすいせいだろう。
「あ、傷口」
秋帆がぽつりと呟く。よく見ると、チェンの噛まれた傷跡から血が滲んでいる。思ったよりも思い切り噛まれたらしい。
「ああ、こレ。失敗しちゃっタ」
そう言ってチェンは舌を出す。
「化膿したりしたら大変です。感染症の可能性だってありますし」
秋帆は自分のバッグの中から小型の救急セットを取り出した。それを見てチェンは驚く。
「すごいネ。いつも持ち歩いているノ?」
「家が医院をやっているんです。私も将来は医者になろうと思っていて。もちろん今は本格的な治療はできないけれど、こうやってちょっとした時に役に立ったらいいなあ、と思って鞄に入れているんです」
チェンが素直に手を出したので、傷口に消毒液を塗る。
「イテテテ」
「痛みますか?」
「うん、ちょっとネ。でも、ありがとう」
秋帆は少し迷う。実は母から譲り受けた眼の力を一度も使ったことがないので、使ってみたい気持ちがあった。だが、母からは他人に眼のことを教えてはいけないと言われていたので、少しためらいがある。それでも、このくらいならバレはしないよね、それに人のために使うんだもん、と自分を納得させてしまう。
「チェンさん、ちょっと私の眼を見てもらえますか?」
チェンが不思議そうに視線を上げる。
「どうしたノ?」
と言ってチェンが秋帆の眼を見つめ返した時に、あることに気づいた。
「あれ?チェンさん、カラーコンタクトとかしています?」
チェンの瞳の色は少し青みがかった灰色をしている。
「ああ、こレ。僕の先祖は中国系だけど、ロシアだか中央アジアだかの血も少し入っているらしいノ。詳しくは知らないけド。だから眼の色は、生まれつキ」
「そうですか。よかった」
そのことを確認すると、秋帆が自身の眼の力を使った。
チェンは自分の手の痛みがすうっとひいていき、不思議な心地よさに包まれるのを感じた。
「はい、おしまいです」
そう言ってにっこりと微笑む。
チェンが少し驚いたように呆然としている。その様子を見て秋帆は自分が軽率に眼の力を使ったことを後悔した。もしかしたら不思議な力を使ったと気づかれたかもしれない。
「おまじないです。母から教わった、痛みが軽くなるおまじない」
そう言って胡麻化すと、これ以上話すのはまずいと思い、用事を思い出したフリをした。
「いっけない。忘れてた。今日はすぐ帰るってお父さんに言ってあるんだった。チェンさん、それじゃあね」
急いで荷物をしまい、駆けていく。
「あ、ちょっと待っテ!」
そうチェンに呼び止められたが、ごめんなさいと言ってそのまま走り去った。
高校からの帰り道、秋帆がいつも通る公園の中を歩いていると、公園の茂みのほうから声が聞こえてきた。
「おいデ。おいデ」
少し気になって覗き込んでみると、男が一人、熱心に猫に向けて手を小刻みに動かしている。
男は若いサラリーマンのような風貌で、猫を怖がらせまいと自身も地面に四つん這いになって目線を猫に合わせている。切れ長の目とシャープな顎のラインを備えた顔はどこか猫っぽい。猫好きは顔も猫に似るのだろうか、などと秋帆は思った。
男の視線の先にいる猫はどうやら飼い猫のようで、首輪をしておりつやつやの毛並みをしている。人間にも慣れているようで、少しすると男のほうへと歩み寄っていった。
「いやあ、可愛いねエ。ここがいいのかイ?」
男は猫なで声でそう言って、近寄ってきた猫の喉の下を撫でてやる。猫は気持ちよさそうに目を細める。
少し撫でて猫の警戒心が緩んだと判断したのか、男は自分の手を猫の顔の上へと移動させた。頭を撫でてやろうと思ったのだろう。しかし、頭上に相手の手が来るというのは動物にとっては脅威を感じるもので、猫は途端に機嫌を損ね、男の手に噛みついた。
「ツ!!」
男が声にならないような悲鳴をあげると、猫は一目散に逃げて行ってしまった。
男は噛まれた手にふーふーと息を吹きかける。その姿がなにやらとても面白く、秋帆はクスクスと笑ってしまった。
「見てたノ?」
男は恥ずかしそうに秋帆を見る。
「あ、勝手に見てごめんなさい。その、ちょっと声が聞こえたもので気になって」
秋帆がそう言うと、男は立ち上がった。思ったよりも背は高くない。秋帆よりは大きいが、痩躯なせいか一般的な男性よりは少し小さめに見える。
「いや~、お恥ずかしイ。大の大人が猫相手に必死になっているところを見られるなんテ」
そう言って頭をかきながら照れ笑いをすると目が糸のように細くなって一層猫っぽくなった。
「いえいえ、素敵だと思いますよ。動物好きな男性って」
秋帆はそう言ってやはりクスクスと笑う。
「いや~、それにしたって無様な姿を見せちゃっタ。もう少しうまくやれていたらもっと絵になったんだけどネ」
男の喋り方に少し違和感があることに秋帆が気づく。具体的に言うと、語尾が少しズれている。昔の漫画に出てくる中国人の日本語のようだ。
「えっと、もしかして外国人の方、ですか?」
秋帆は尋ねた。
「お、よく気づいたネ。出身は中国で、名前は陳・龍(チェン・ロン)って言うノ。チェンはこざとへんに東と書いて日本語では『ちん』と呼ぶかな。ロンは難しい漢字の『りゅう』」
「あ、チェンさんですね。私は四家秋帆って言います」
相手から名乗ったとはいえ、秋帆は自分でも不思議なほど自然に自己紹介をしていた。チェンのニコニコした笑顔が親しみやすいせいだろう。
「あ、傷口」
秋帆がぽつりと呟く。よく見ると、チェンの噛まれた傷跡から血が滲んでいる。思ったよりも思い切り噛まれたらしい。
「ああ、こレ。失敗しちゃっタ」
そう言ってチェンは舌を出す。
「化膿したりしたら大変です。感染症の可能性だってありますし」
秋帆は自分のバッグの中から小型の救急セットを取り出した。それを見てチェンは驚く。
「すごいネ。いつも持ち歩いているノ?」
「家が医院をやっているんです。私も将来は医者になろうと思っていて。もちろん今は本格的な治療はできないけれど、こうやってちょっとした時に役に立ったらいいなあ、と思って鞄に入れているんです」
チェンが素直に手を出したので、傷口に消毒液を塗る。
「イテテテ」
「痛みますか?」
「うん、ちょっとネ。でも、ありがとう」
秋帆は少し迷う。実は母から譲り受けた眼の力を一度も使ったことがないので、使ってみたい気持ちがあった。だが、母からは他人に眼のことを教えてはいけないと言われていたので、少しためらいがある。それでも、このくらいならバレはしないよね、それに人のために使うんだもん、と自分を納得させてしまう。
「チェンさん、ちょっと私の眼を見てもらえますか?」
チェンが不思議そうに視線を上げる。
「どうしたノ?」
と言ってチェンが秋帆の眼を見つめ返した時に、あることに気づいた。
「あれ?チェンさん、カラーコンタクトとかしています?」
チェンの瞳の色は少し青みがかった灰色をしている。
「ああ、こレ。僕の先祖は中国系だけど、ロシアだか中央アジアだかの血も少し入っているらしいノ。詳しくは知らないけド。だから眼の色は、生まれつキ」
「そうですか。よかった」
そのことを確認すると、秋帆が自身の眼の力を使った。
チェンは自分の手の痛みがすうっとひいていき、不思議な心地よさに包まれるのを感じた。
「はい、おしまいです」
そう言ってにっこりと微笑む。
チェンが少し驚いたように呆然としている。その様子を見て秋帆は自分が軽率に眼の力を使ったことを後悔した。もしかしたら不思議な力を使ったと気づかれたかもしれない。
「おまじないです。母から教わった、痛みが軽くなるおまじない」
そう言って胡麻化すと、これ以上話すのはまずいと思い、用事を思い出したフリをした。
「いっけない。忘れてた。今日はすぐ帰るってお父さんに言ってあるんだった。チェンさん、それじゃあね」
急いで荷物をしまい、駆けていく。
「あ、ちょっと待っテ!」
そうチェンに呼び止められたが、ごめんなさいと言ってそのまま走り去った。