なんて感傷に浸っていたのも、十五分ほど前までだった。
「・・・・・・っ」
永松は体を震わせながら、何度も左右に目を彷徨わせる。奥歯がガタガタ音を立てた。勿論その震えは寒さから来るものではなく、恐怖から来るものだ。
縋るように茜の小さな背中に隠れる。酒もすっかり抜けてしまった。なぜならそこは永松があの怪異と出会った場所だったからだ。
今はすっかり停電が回復し明るくはなっていたが、それでもあの時の恐怖はおいおいとぬぐい去れない。先ほどの酔いが尿意へと変わっているのが実感した。
「・・・・・・来ない、ですね」
びくびくと怯えていたが、一向にソレが現れる素振りは無い。永松は僅かに警戒を解いて周囲を見渡した。やはり何の気配も感じられない。
(・・・・・・おいおい、実は酔って見た幻でした、っつう落ちは止めてくれよ)
だとしたら彼らに申し訳ない。内心でヒヤヒヤしていると、正面の茜が「やはりね」と心得たように頷いた。
「全て理解したよ。だとすると再現が必要って事かい」
雑賀、と茜は彼女の名を呼ぶ。すると雑賀は「はい」と小さく頷いた。
一体彼女に何の用なのか。永松も雑賀へと振り向いて、そしてぴたりと固まった。
彼女の腰に、日本刀が収まっていたからだ。
「・・・・・・は?」
思わず間抜けな声が漏れる。しかし何度見てもそれは間違いなく日本刀だった。桜色の鍔に、身の丈はありそうな純白の鞘。10人は10人とも日本刀と答えるだろう。
色は合えど、その存在は白を彷彿とさせる彼女の雰囲気からまるで逸脱していた。
何故、と愕然とする。先程までこんな物騒なもの、彼女は持っていなかった。それはあまりにも時代錯誤で、彼女に相応しくない。
「さ、雑賀さん・・・・・・?」
彼女は呆然とする永松の呼びかけに答える代わりに、刀の柄に手を添えて、
チン! という音と共に空間が爆ぜた。
突如周囲の空気が悲鳴を上げるようにうおおんと轟き、遅れて凄まじい突風が永松を後方へと吹き飛ばした。その動作と同時、周囲の電柱が飴細工のように破砕する。
「ひっひゃああああああっ!?」
一瞬にして辺り一面が闇に染まった。かつて電柱だったものがガランガランと地面に転がる。もう何が何だか解らない。自分は夢でも見ているのだろうか。
地面に尻餅をつきながら慟哭する永松の傍らで、雑賀は涼しい顔で刀から手を離した。
恐らく、彼女が斬ったのだろう。理屈も道理も理解出来ないが、あの日本刀を使って。今改めて周囲を見ると、転がる電柱の欠片は全て鋭利な刃物で切断されたようになっていた。つまりはそういう事なのだ。
人間業じゃ無い、と震えるが、よくよく考えてみれば彼女はあの茜宗氏の付き添い人。それがただのカフェーの給仕であるはずがなかった。
「雑賀さん・・・・・・あんた、何者でえ」
思わず零れた声に、雑賀はにこりと笑って白手袋の手と手を重ねた。
「ただの助手ですよ。茜の助手の仕事は多岐に渡りますので、フライパンを振る時も刀を振るう時もあるだけです」
雑賀は世間話をするように、可愛らしく微笑みながら首を傾げる。茜も底が見えないが彼女も同等だ。自分はどうやら恐ろしい連中と酒を飲んでいたようだ。
「こりゃあ、とんでもない『助手』が居たもんで・・・・・・」
引きつった笑みを浮かべていると、ふいに茜の持つ柔和な気配が変わる。
「ご託はそこまでだよ。ここからが本番さ」
先程雑賀が放った斬撃により、周囲は局地的に停電が発生していた。
あの時と同じ。ここ数年眠る時以外で見かけなくなった、完全な『闇』だ。
懐かしい闇だった。
「・・・・・・あ」
永松がそれを実感していると、ふいに正面の空気が揺らめく。
「あ・・・・・・あ」
やがてそれはどんどん形を持ち、ぼうっと黄土色の炎を灯す。
「ああ、あああああああ」
めらめらと燃えさかる炎の中には、古ぼけた提灯が。
そしてその中央には、ぎょろりと光る生々しい目玉が在った。
「ああっ、ああっ、ああああああああっ!」
ついに震声は絶叫へと昇華した。永松は縋るように茜を見る。
「で、でたあっ! 出やがったあっ! せ、先生っ!」
激しく動揺する永松とは裏腹に、茜は静かな瞳でその提灯の化け物を眺めていた。
「ど、どうしたんですかっ!? 先生っ! 早くあいつを何とかしてくれっ!」
数秒してようやく彼が放った言葉は「雑賀」の二言だけだった。しかし先程の一撃をこの目で見届けた永松にとっては、それが天皇からの勅語かのように思えた。
「さ、雑賀さんっ! 頼んますっ! どうか先程の一撃を――――」
「・・・・・・はい」
雑賀が静かに上体を落とし、刀を撫でるように触れる。
ひゅん、と刃の舞う音がする。
瞬間、再び空間がブレた。彼女の神速の剣が空間を伝い、目にも止まらぬ速度で前方の怪物へ届く。一瞬の決着かと思ったが流石に相手は異界の存在、後方に激しく吹き飛んだが、まだかろうじて息はあるようだった。
「ははっ! 流石は雑賀さんだっ!」
永松は乾いた笑みを浮かべる。提灯は表の和紙が剥げ、瞳が弱々しく瞬いた。永松の目からもソレがかなりの傷を負っているのは明らかだった。
たまりかねたのか提灯お化けは震えながら起き上がると、きびすを返そうと面を反転させる。しかし突如地面から出現した青色の鎖に体をガチャリと固定された。
茜だ。いつの間にか彼の手には小さな鎖の束が握られている。原理は全く解らないが茜が操る鎖がソレの体をがっしりと固定していた。
その隙に、雑賀が容赦なく二撃目を放つ。瞬く間に提灯お化けの体が大きく跳ねた。鎖に縛られている為に、その攻撃が全てソレの体にのし掛かる。提灯お化けは悲鳴にならないような悲鳴を上げて悶えた。
「よし、いいぞ、いいぞ・・・・・・」
現実かと見紛う光景だが、夢だとしても冷める時は間近に迫っている。
この悪夢ともお別れだと、そう思っていたが。
「いい、ぞ・・・・・・」
しかし出た声は、どうしてか弱々しかった。
「・・・・・・」
ついに言葉が出なくなった。永松は自身の感情に困惑するように頭を押さえる。
「待てよ、俺は、どこかで・・・・・・」
唐突に浮かんだ記憶には、幼い頃の自分が居た。不安げに周囲を見渡しながら怯える、弱くて小さかった自分の姿が。
「俺は・・・・・・」
「永松さん」
動揺する永松を、落ち着いた茜の声が戻す。
「本当に、これでいいのかい?」
「・・・・・・いや。俺は、俺は」
声は、喘ぐように出る。
おぼろげだった記憶は今、明確に形を取り戻した。