『15日午前9時、積雪既に2寸余に及ぶ。中継所たる富士の湯旅館前に10時23分30秒早大河野選手ら到着、交対選手は戸塚へ向かって出発せり』
 茜が報知新聞を読んでいると、そのような記事が目に飛び込んで来た。どうやら今年から始まった東京・箱根間往復駅伝競走の記事のようだ。

 「――――駅伝、か。次々と新しい事が始まろうとしているねえ」

 茜はカルピスをティーカップで飲みながら、茜は感慨深げに頷く。一口飲んだだけで爽やかな酸味と甘みが口元に広がった。この美味しい飲料も昨年に発売されたものだ。

 今帝都は貧困や突然の物価上昇など、様々な問題はある。だが数十年前はそんなものなど問題にさえならなかった。不運や不憫はどうしようもないものと思われていた。

 確実に、時代は民衆のものへと進んでいっている。
 時代は何かを忘れつつあるが、確かに前へと向かっている。

 そう確信した茜が新聞を折りたたむと、入り口の鈴が鳴った。

 今日も喫茶アリスには大勢の客が洋食を食べに来る。店に並ぶのは全て明治後半から日本に生まれたメニューばかりだが、これも今では日常となりつつあった。

 革新はすぐに日常となり、過去はすぐに忘却の彼方に消えてゆく。だからこそ帝都での一日一日が、茜にはとても眩しい。

 「さて、と。そろそろ働かないと、雑賀に怒られちまうよ」

 茜は体を起こし、本に囲まれた部屋から出る。

 いつかこの場所も過去になり、人々の記憶から消え去る事が来るだろう。
 そしてまた新しい何かが始まって、やがて当たり前となっていくのだろう。日々とはそれの繰り返しなのだ。珈琲の匂いと蓄音機の音が、自分にそう呼びかけた。

 だがそれでも良いと実感しながら、今日も茜は帝都で生きる。
 彼らと共に、生きてゆく。