九等警部は、彼らの物語を黙って聞く術しか持ち合わせていなかった。
 権力の中にいたとて、普通の人間には変わりないからだ。

 机の上に置かれた湯呑み茶碗から湯気がたつ。そして九等警部が、その湯呑み茶碗に手を伸ばした──

「私と妹は、それぞれ相手にできる存在が異なります」

 ──刹那、九等警部の意識は十六夜へと向かう。


 十六夜は美子に黙視だけで何かを伝えた。それを受け取った彼女は無表情で頷く。

「私は生者を。そしてこの子は死者の声を聞く。それが私たち兄妹なんです」

 十六夜が真剣な面持ちで語った。
 けれど九等警部には意味が通じていないのか、彼は眉間を摘まんでは唸っている。

「……あー。すまん。もっと簡潔に頼む。よくわからんのでね」

 お茶を飲み終えた九等警部は、ふうっと肩で一息ついている。
 十六夜は「ですよね」とだけ言うと、顎に手を当てて天井を仰ぐ。

「……では、こうしましょう。妹の話を聞いてからにしませんか?」

「何?」

 椅子の背もたれにふんぞり返りながら、十六夜は自信ありげな態度をとった。
 向かい側にいる九等警部に目線を送る。けれど九等警部はそっぽを向いてしまうだけだった。

「この子の話を聞いていく過程で、必ず先程の疑問にぶつかります。それと一緒にお話して行こうかと思います。宜しいですね?」

 発言からは、九等警部の意見は受け付けないと言わんばかりな傲慢さが垣間見れる。
 九等警部の目が丸くなっていくのがわかった。
 けれど彼の返事を待たずして美子に耳打ち。彼女は表情筋を動かすことなく、袖の中から紙を取り出した。
 それを机の上に広げていく。

 九等警部は何だと首を傾げながら紙を凝視していた。

「これは?」

 九等警部が尋ねれば、十六夜は紙を軽く叩く。

「先程、妹が電話で伝えた事です。図におこしておきました」

 十六夜に言われ、九等警部の意識は紙へと向けられた。
 そこに描かれていたのは、犯人らしき人物が楽し気に犯行している現場そのものである。それが三枠に分かれており、描かれている一つ一つの行動が違っていた。
 なかにはがに股になって、カニ歩きしているものもある。それらには若干茶目っ気があった。

「一つ一つ、説明していきましょう。まずはこれです」

 彼の長い指が示したのは、紙の一番上にある絵だ。
 犯人とおぼしき人物は黒く塗り潰されている。右手には鎌を。左手には紐らしき物を持っていた。
 その隣には首のない着物姿の人間がいる。

「ここで問題になるのが死亡推定時刻。遺体の腐敗が始まっていたと聞きます。殺されてから一日から二日はたっている筈です」

「た、確かにそうだが……しかしそれは羅卒(らそつ)関係者しか知らぬ事! なぜ貴殿がそ……」

 九等警部による怒涛の質問を、十六夜は左手を出すことで制止。九等警部がグッと言葉を飲みこんだのを確認すると、説明を再開させた。

「これはあなたの為でもあるんです」

 紙に描かれている犯人を指差し、今度は自身の下唇を触る。
 けれどこの仕草自体、彼にとっては演術の一つでしかなかった。
 頭の固い……ある意味では羅卒らしさの塊である九等警部。彼の心を意のままに操ること。それさえできれば今後もやりやすくなると考えた。

「ここで手柄をたてれば、あなたはもっと上へ登れる。その為にも、私たちの話を聞いておいた方がいい」

「な、何!?」

 十六夜の言葉を聞いたとたん、九等警部の目は輝いていく。身を乗り出し、首を長くして十六夜の話に興味を示した。

「あなたの目標とする三等警部……安倍さんの鼻をへし折ってやろうではありませんか」

 眉唾物な話ではあるが、今の九等警部には効く。
 十六夜にはそんな確信があった。案の定、九等警部はまんまと彼の術中にはまり、手柄を取ることに執着し始めていく。

 十六夜の隣でそれを目撃していた美子からは「兄様、相変わらずやり口が酷い」という、呟きが聞こえてきた。しかし彼は、誉めなのか貶しなのかわからないそれを聞いて微笑するだけである。

「日頃お高く止まっている彼の鼻を明かす! そしてあなたは優越感に浸れる! 私たちの話を聞けば、それだけの利益が出るんです」

 三等警部である安倍という人物を知っている口振りではあった。けれど九等警部がそれすらも聞き流してしまうほど、彼の提案は理想そのものと化す。

「……いいだろう。ふはは! あの若造が膝をつく日を夢見て、早三年。鼻っ先を折ってやるわ!」

 玩具を前にして喜ぶ子供のごとき目の輝きを垣間見せた。
 彼が警戒心を忘れて欲に走り出しているのを確認した十六夜は、心の中でほくそ笑む。

「交渉成立ですね。それでは事件を始めから準えていきましょう」

「え? あ、ああ。そうだったな。しかし始めからと言うのは……」

「簡単に伝えます。あの遺体は、首を切断される前には死んでいたんです」

 九等警部が口を挟む暇すら与えず、十六夜は淡々と結果だけを伝えていく。

「直接の死因は、首の切断によるものではないという事だけは伝えておきます」

「何!? どういう事だ!?」

 十六夜は羅卒ですら知り得ない事柄を放ち、九等警部を驚かせた。

「遺体を直接見たあなたならお分かりになると思いますが、体のどこかに鮮赤色になっていた死斑がありませんでしたか?」

「……確かに首の辺りにはそんな色の死斑があったが」

 十六夜に問われ、九等警部はその通りだと返す。

「あの色は、一酸化炭素中毒を表しています。おそらく、中毒死させた後に首を切断したのでしょう」

 論陣を張る様は、さながら軍師そのもの。
 まるで見てきたかのごとき言葉を放ち、淡々と答えていく。

 十六夜は次から次へと、九等警部の質問に間を置くことなく述べていった。