昨夜、尚生が自宅に帰りついた時には、既に母は休んでいた。
 これが学生時代だったら、金棒をついた鬼のような形相で玄関先に座り、扉を開けるや否や、そこに直れの勢いでマシンガンの如く男女交際の基本から学生としての慎みの基本を長いお経の如く唱えたであろう尚生の母も、息子の歳を鑑みてか、既に夢の中で、尚生を尋問することもなかった。
 しかし、一夜明けると、尚生の心は穏やかでなく、昨夜の分も尋問されるのではないかという心配と、二日も続けて休むことを追及されるのではないかという不安に襲われていた。
 もちろん何もやましいことはなく、結婚するのに親の同意もいらない大人なのだから、母に何を追求されようと困る必要もないのだが、そこはやはり母子家庭で母と心を寄せ合って成長してきた尚生には、母に嘘をつきたくないという思いが強かった。
 それは、紗綾樺の事を母に話すためには、必然的に嘘をつかなくてはいけないという事だった。
 既に尚生の心は固まっていたが、それで紗綾樺の心も決まるわけではなく、母に余計な期待をさせたくないというのが正しいのかもしれない。
 職業柄、尚生の場合、交際期間はある程度続く。これは公務員という職業が結婚相手としてのポイントが高いからだが、同じ公務員の中では、自衛官と最下位を競い合う位だ。以前は、海上保安官も最下位を争う仲だったのに、ヒット映画のおかげで、順位が上がり、更に災害続きで活躍の場が世間の目に触れやすくなった自衛官も着実に順位を上げている。それに比べ、不祥事続きの警察は順位が下がる一方で、『これなら普通の会社員の方がましだと』と言うのが、尚生が聞いた別れ話の決め台詞になりつつある。まあ、別れ話を切り出したいのに、連絡が途絶えて数週間待たされ、忘れたころに何もなかったようにデートに誘われて別れ話を切り出すのは、相手にとっても面倒くさくて、苦痛な事だという事は、尚生も理解していたので、そこで出来もしない約束をすることも、敢えてやり直したいと伝えたこともなかった。だから、タイミングが合わないことで長くなりがちな交際期間に対し、相手を深く理解する時間があったかと言えば、ほぼ間違いなく答えは『ない』になる。
 ましてや強行犯係に異動になり、母とクリスマスを過ごす事を寂しいとも思わなくなった尚生に、好意を持つ相手が出来たと知った今、母が昨晩のような遅い帰りを結婚へ向かう着実な交際と考えることは当然の事だった。
 しかし、結婚どころか、恋人をとりあえずのゴールに設定したとしても、相手が紗綾樺となるとゴールは月までの距離のように遠く感じられた。それも当然の事で、尚生自身、毎日、毎時、愛の言葉を囁けるラテン系男子になっていること自体、信じられない変化だった。
 あまり多くない尚生の恋愛経験から言えば、いつも肝心な時に告白できず、トンビに油揚げを攫われるようにして、想いを寄せた女性はことごとく他の男、つまり尚生の同級生や学友、最悪のケースでは親友とゴールインという、常に玉砕にも至らないスタート目前で転んで終了ばかりだった。そして、今までの交際は全て相手に告白してもらってスタートを切るという、受け身の尚生からは信じられない展開だった。
 紗綾樺との本当のスタートを思い起こせば、信じられない展開に至った原因は、純粋に仕事の悩みを相談に行ったはずの尚生が、紗綾樺に食事をご馳走して家まで送らせてもらえるという展開から、仕事メインでの付き合いのはずが、いつの間にか恋愛感情を暴走させるに至り、火事場のバカ力ではないが、今度こそトンビに攫われてなるものかという無意識のなせる業で、紗綾樺を見れば愛を囁いてしまうという変化をもたらしたとも言える。それに、紗綾樺の力を信じている尚生にとって、心で想うということは、完全に紗綾樺に筒抜けなのだから、読まれるよりも自分で口にした方が恥ずかしくないという、変な開き直りでもあった。
 母の追及にどう答えようかという悩み半分、紗綾樺に逢える嬉しさ半分で、尚生は布団に別れを告げると出かける支度をした。
 一階に降りていくと、人の気配はなく、台所に置かれた朝食を食べるテーブル兼、調理時の食材を置く台の上に、母からのメモが乗っていた。

『ご近所さんと日帰りバスツアーに出かけます。食事は自己責任で。母より』

 追及されて、困惑することを想定して降りて来た尚生としては、嬉しい誤算だったが、なんとなく母に説明できない秘密が出来てしまったような、少し大人気ないやましさが心の隅に残った。
 冷凍庫からおにぎりを取り出して電子レンジで温めながら、インスタントの味噌汁を作ると、温め終わったおにぎりにパリパリの浅草海苔を巻き、尚生は簡単な朝食を済ませた。
 森沢夫人の入院先に紗綾樺を連れて行くことは警察官として間違っている事は理解している尚生だったが、もはやすべての情報は紗綾樺のみが知る事で、突然の紗綾樺の軽井沢行きも当然、崇君の居場所に心当たりがあっての事に違いないと尚生は理解していた。
 しかし、紗綾樺と夫人を引き合わせたのが自分という事になれば、懲戒、最悪は依願退職という事も考えられる。それでも、尚生は今回の崇君の事件をうやむやに終わらせたくないと思っていた。
 実際のところ、事件が長引けば長引くほど、紗綾樺と会う機会も話す機会も増える。しかし、何よりも小さな子供が母親と引き離されて暮らしているという事が、母子家庭で育った尚生には耐えられなかった。だから、はやく崇君をお母さんの元へ戻してあげたい、その一心で紗綾樺の元を訪ねた時の気持ちは変わっていない。
 仕事柄、早食いが常という事もあり、五分で食事を終わらせてしまった尚生は、インスタントコーヒーに砂糖とミルクをたっぷり入れてデザートがわりにした。
 それから、洗濯物を色物と白物に仕分けして、白物だけで洗濯機を回し、軽く車の中の掃除をして紗綾樺を迎えに行くまでの時間を潰した。
 脱水された洗濯物を干し、身繕いを改めて整えると、尚生は紗綾樺を迎えに行くべく車を走らせた。

☆☆☆