紗綾樺さんに『大切な人』と言われ、僕はその言葉をどう理解していいのか迷い、かなりリアクションが遅れた。
言葉の意味が『恋人』なのか『友達以上恋人未満』なのか『友達』なのかわからなかったからだ。昨日も、自分で思い出すだけで穴に入りたくなるくらい何度も告白をしたが、全てスルーされた。それは、宗嗣さんが言うように、紗綾樺さんの中にある人間関係を表す言葉が『兄』と『友達』と『それ以外』の三種類しかないからだという事は理解できてきている。でも、真顔で『大切な人』と言われると、どうしても期待してしまう。
しかし、このリアクションの遅れは致命的だったとも言える。
「やっぱり、迷惑ですよね」
紗綾樺さんは言うと、うつむいてしまった。
「ち、違います。迷惑なんかじゃありません、全然ありません」
フォローを入れてみるが、紗綾樺さんは俯いたままだ。
「えっと、帰りの新幹線、予約してますか?」
仕方ないので、僕は話題をすり替えた。
万が一にも、同じ電車、同じ車両に乗れないなんて言う悲しい事にはなりたくない。
「これが、帰りのチケットです」
紗綾樺さんは言うと、僕にチケットを差し出した。
「えっ、グランクラス?」
思わず僕の声が裏返る。
それこそ、アウトレットまで買い物に来る必要がない。グランクラスに乗ってここまで買い物に来るくらいなら、銀座で買った方が早くて簡単だ。
「空いているので、何時でも取れると言われたので」
この切符を売った駅員は、絶対にぼったくりバーかどっかで学生時代に客引きのバイトでもしていたに違いない。なんで、指定席があるのに、ましてやグリーンだってあるのに、グランクラスなんて馬鹿だかなものを売りつけるんだ。
自分の財布の具合を考えると、余計に腹立たしくなってくる。これじゃあ、同じ車両に乗れないのは確定だ。
「まだ時間はありますね。じゃあ、宗嗣さんのプレゼント探しましょう」
僕は怒りに震えながらも、これ以上悲しい懐具合を紗綾樺さんに知られたくないこともあり、一気に立ち上がった。
「どんなものにしますか?」
「あの、男の人は、どんなものが嬉しいんですか?」
紗綾樺さんらしい質問だったが、僕はうっかり紗綾樺さんと腕を組んでいる姿を思い浮かべてしまう。
すると、紗綾樺さんが僕の腕にすっと腕を絡めた。
「えっ・・・・・・」
「ここでは、みなさんこうして歩いてますよね」
バッチリ読まれていたのだろうが、カップルの多くが腕を組んだり、手を繋いだりしていてくれるおかげで、紗綾樺さんは不思議に思わなかったようだ。
「そうですね、予算によりますけど、財布とか、ベルトとか、名刺入れとかですか?」
無意識とはいえ、自分の欲しいものを羅列したせいで、最後に『靴』と付け加えそうになった。
「サイズがわからなくても帰るとなると財布か名刺入れかな・・・・・・」
「じゃあ、尚生さんが選んでください」
「えっ、でもそれじゃあ、紗綾樺さんからのプレゼントにならないですよ」
「お兄ちゃんも、それくらいわかります」
まあ、確かにそうだ。僕よりも紗綾樺さんの事をわかっている宗嗣さんなら、プレゼント自体、僕のアイデアだと思うかもしれない。
それから僕たちは広いアウトレットの中を歩き回り、宗嗣さんのプレゼントを探した。しかし、アウトレットとは言え、さすがブランド物、値段の高さも一流だ。
ぐるぐると見て回るうちに、段々と紗綾樺さんの顔が曇り、僕たちは再び店の外にあるベンチに腰を下ろした。
「どうしたんですか?」
どんどん無口になる紗綾樺さんに、僕は体調が心配になる。
「私、どれが身の丈に合った物かわからなくて・・・・・・」
言われてみればそうだ。宗嗣さんへのプレゼントが、宗嗣さんのポリシーに合わない身の丈に合わないものだとしたら、紗綾樺さんが怒られるだけで、宗嗣さんには喜んでもらえない。
「じゃあ、もう、完全に僕の財布に合うような品ってことにしましょう!」
これが一番簡単だし、母を養えない僕よりも、紗綾樺さんを養っている宗嗣さんの方が収入も高いはずだ。
「尚生さんとお揃いですね」
笑顔で言う紗綾樺さんには悪いが、宗嗣さんの嫌がる顔が僕には目に浮かぶ。
そして、僕たちは再びアウトレットをぐるぐると歩き回り、最終的に本日限定、全品半額から更に三割引という、信じられないようなセールをしていた有名ブランド店で本革の財布を見つけた。ズボンのポケットに入れることが多い宗嗣さんのは二つ折り、僕のはスーツの胸ポケットに入れられる長財布にしてもらった。
どちらも少し光沢のあるなめし革で、ビジネスで使える黒にした。角に小さくブランドのロゴが刻印されているのが、嫌味がない。
それでも、一万円を超える金額に、僕はプレゼントを辞退したが、紗綾樺さんがひいてくれなかったので、ありがたく頂戴することにした。
会計も終わり、商品を受け取って出口に向かう途中、レディースのコーナーで紗綾樺さんが足を止めた。
紗綾樺さんの視線の先には、赤い革の小ぶりなバッグが置かれていた。
本革の上に、同じく革を重ねて作られて花のモチーフが散りばめられ、可愛いチャームが複数ぶら下がっていた。
「可愛い・・・・・・」
小さな声で紗綾樺さんが呟くのが聞こえた。
すかさず、商売上手そうな店舗スタッフがポシェットを紗綾樺さんの目の前に差し出した。
「どうぞ、お手にとってご覧ください」
その積極性に紗綾樺さんが後退るが、店舗スタッフは更に一歩と歩を進める。
「紗綾樺さん、見るのは自由ですよ」
僕が言うと、紗綾樺さんはおずおずと手を伸ばしてバッグを受け取った。じっと眺め、肩から下げたりしていると、店舗スタッフはすかさず紗綾樺さんを鏡の前へと誘導した。
さすがプロだと感心している間に、店舗スタッフは何処から取り出したのか、計算機をパタパタと叩き、僕の前に提示した。
「どれも最後の一点になります。特に、チャーム類は、本日、表示価格の八〇パーセントオフで、更にそこから三〇パーセントオフになります」
その笑顔が恐ろしく感じるのは、僕だけだろうか。
値段は決して安くはない。が、高過ぎもしない。
「彼女さんから、お財布のプレゼントされてましたよね?」
それは『お返し買うのは当然ですよ』と、言われているようだった。
べつに、紗綾樺さんが相手なら、惜しむほどの金額ではない。もし、紗綾樺さんが本当に気に入ってるのであれば、逆にプレゼントしたいくらいだ。朴念仁の僕が、誰にも相談できずに財布のお礼を考えて、悩み続けてお礼ができないまま時間が経過してしまうくらいなら、いっそこの場で紗綾樺さんが気に入ったものをプレゼントのお返しとして用意したい。
「紗綾樺さん? 気に入りました?」
僕は念のため、紗綾樺さんに確認する。
「とてもかわいいですね。このチューリップ」
紗綾樺さんは、バッグではなくぶら下がっているチャームを片手に答えた。
隣に立つ店舗スタッフの視線が『まさか、チャームだけ買うつもりじゃないわよね』と言わんばかりに鋭くなる。
「バッグの方はどうですか?」
少し脅されているような気分になりながら、僕は問いかけた。
「可愛いと思います」
紗綾樺さんの感想を聞くなり、店舗スタッフがカットインしてきた。
「とても良くお似合いですよ。こちらは最後の一点で、バッグのサイズは小さいですが、ショルダー部分の金具を利用して複数のチャームを楽しんでいただけますし、気分転換にこのようにスカーフを巻いていただくことにより、チャームやスカーフを外した時のシンプルな感じとその日の気分に合わせてデコレーションを変えることによって色々な楽しみ方ができるので、バッグとしてだけではなく、おしゃれのトータルコーディネートとしてお楽しみいただけるものになります」
要約すると、沢山チャームを買い足したり、スカーフを買い足せば、色々とコーディネート出来て楽しめるという事らしい。
案の定、店舗スタッフの早口に戸惑っていた紗綾樺さんが僕の顔を見て納得したという表情に変わる。
しまった、筒抜けなのは良しとして、必要以上にノルマをこなすのに必死な店舗スタッフの印象を悪くするようなことを無意識のうちに考えてしまったかもしれない。
「あの、すいません、彼女は人見知りが激しいので、少し二人にしてもらえますか?」
僕が言うと、『かしこまりました』と言って店舗スタッフは少し離れた二人の会話が聞こえない場所にあるディスプレイ商品の位置を直したりし始めたが、視線が僕たちにロックオンされているのは、刑事の感でわかる。
「紗綾樺さん、気に入りましたか?」
僕は少し疲れているのか、表情が暗くなっている紗綾樺さんを心配しながら問いかけた。
もちろん、紗綾樺さんがバッグを気に入らないのなら、気に入っているチューリップのチャームだけでも良いと僕は思っている。
「可愛いですね。でも、私、コーディネートとかわからないですから・・・・・・」
そこまで聞いて、僕はなるほどと気が付いた。宗嗣さんの話では、紗綾樺さんは自分の服も宗嗣さんにお任せだと言っていた。そんな紗綾樺さんにバッグをお洒落にコーディネートしましょうと積極的に説明しても、戸惑わせてしまうだけだったのだ。
「別に、気に入っているのであれば、そのままでいいと思いますよ。飽きたら、コーディネートを変えられるってだけですから」
僕の言葉に紗綾樺さんは鏡の中の自分の事を見つめた。
「あの、尚生さん」
振り返った紗綾樺さんに名前を呼ばれ、僕は紗綾樺さんの傍へと、もう半歩近づいた。
「あの・・・・・・」
なぜか紗綾樺さんは少し緊張しているように感じる。
「どうかしましたか?」
「あの、似合ってるんでしょうか?」
紗綾樺さんに訊かれ、僕は自分の朴念仁度が自覚を大幅に上回っていたことに気付かされた。そうだ、僕は店舗スタッフの態度や自分の懐具合がどうのと考えたけれど、一度も紗綾樺さんに似合っているとか、紗綾樺さんが可愛いとか、個人的な感想を伝えていなかった。
改めて鏡の中の紗綾樺さんを見ると、可愛くコーディネートされたバッグは、紗綾樺さんの為のコーディネートと言ってもいいくらい、しっくりと紗綾樺さんに似合っていた。
「似合ってます・・・・・・すごく、似合ってます」
僕の言葉を聞きつけて、店舗スタッフが戻ってくる。
「じゃあ、この・・・・・・」
「バッグとチャーム類をセットで戴きます」
僕は紗綾樺さんの言葉を遮るようにして言うと、とまどう紗綾樺さんからバッグを受け取り店舗スタッフに手渡した。
僕はブランド品の鑑定をできるような専門スタッフじゃないけれど、交番勤務だった頃にブランド小物の高さに何度も驚かされたことがある。当時は、そんな高い小物をさらに高いバッグに沢山ぶら下げている女性の心理が全く理解できなかった。そんな高いものなら、家の仏壇にでも、神棚にでもお供えしておいた方が安全なのにとすら思ったくらいだ。だから、このバッグとチャーム一式が電卓で見せられたようなお得な価格で手に入ることは銀座ではありえない。たぶん、銀座にあるお店だったら、今日はチャームだけで許してください位、言ってしまっただろう金額になる。なので、迷いは一切ない。
「かしこまりました。お包みはそれぞれ別々にお包みいたしますか?」
「あ、いえ、そのままにしておいてください。彼女がこのコーディネートを気に入っているので」
ばらばらに梱包されたら、もとに戻せる自信はない。
「では、このままのお包みにさせていただきます。ご案内いたします」
店舗スタッフは満面の笑みで言うと、さっき通り抜けて来たばかりのレジ待ちの列に僕たちを案内した。
「あの、尚生さん」
心配しているような、困っているような紗綾樺さんに、僕は微笑み返した。
「本当は、昨日、お揃いのグッズでも買えばよかったのに、楽しくてすっかり忘れてしまって。だから、紗綾樺さんが僕に財布をプレゼントしてくれたように、僕にも紗綾樺さんにプレゼントさせてください」
「でも、こんな遠くまで・・・・・・」
「好きな人と軽井沢来るのは、初めてなんです。だから、僕は嬉しいですよ」
いつものように、湧き出るように紗綾樺さんへの想いはストレートに言葉になる。これは、どんなに隠しても知られてしまうという開き直りからなのかもしれない。
順番が来てレジで支払いを済ませた後、僕と紗綾樺さんはアウトレット内にあるお洒落なティールームでお茶をして時間を潰した。
二日連続で体力勝負のような場所に来たからなのか、二日連続で人の多い場所に来たからなのか、紗綾樺さんは明らかに疲れているように見えた。
「まだ新幹線まで時間がありますけど、もっと早い時間に変えて帰りますか?」
僕の問いに、紅茶のカップを両手で覆うようにしてカップの中を覗いていた紗綾樺さんが顔を上げた。
「尚生さんだったら、あの機械も使えるんですよね」
『機械』と言われて、一瞬何のことかわからなかったが、僕はすぐに自動券売機もしくは、指定席券販売機の事だと思い当たった。
「来るとき、一人でも知らない場所まで出かけられるって、思って家を出たのに、切符が買えなくて、すごく困ったんです」
そこまで話し、紗綾樺さんはカップに口をつけた。
「私、一人じゃ何にもできないんです。機械で新幹線の切符を帰るって言われても、どうしていいかわからなくて、それで、窓口でやっと買えたんです。ダメですね・・・・・・」
紗綾樺さんの落胆は、目にも明らかだった。
「慣れてないと、機械は難しいかもしれませんね」
「でも、尚生さんは私が駅で迷ってる時間位で、ここまで来たじゃないですか」
「あ、それは家が上野に近かったことと、僕はスマホで切符を予約して、駅では受け取るだけだったんです」
言いながら、僕はおしゃれもせず、緊急招集がかかった時の為に用意してある『五分で家を出られるセット』で家を走り出したことを思い出した。軽井沢デートにはふさわしくない、ダサダサ激安スーツセットだ。
クラーク・ケントばりに歩きながらワイシャツを着て、ズボンを履き替えるとちょっと大きめのカバンを掴んで家を走り出てから、しまってある上着を取り出して袖を通しながら駅まで走り、ホームへの階段を降りながらネクタイをする。自分でも、よく間違えて署に行かなかったと思うくらいの猛ダッシュだった。
母は、このかばんがなくなっている時点で、緊急招集されたと思っているから、きっと家のどこかに脱ぎ落してきた抜け殻を回収してくれているだろう。
ふと、家と母を思い出した瞬間、自分が今日縁側で横になりながら考えていたことを思い出す。
「あの、紗綾樺さん、写真撮っても良いですか?」
突然の事に、紗綾樺さんは驚いたように顔を上げた。
「自分、紗綾樺さんの写真を一枚も持っていないんです。もし、嫌でなければ・・・・・・」
僕の言葉に、紗綾樺さんは少し考えてから頷いた。
「じゃあ・・・・・・」
僕は言いながら、スマホを取り出し、カメラを起動する。そして、フレームに紗綾樺さんをおさめ、シャッターを切る。
パシャっという、疑似シャッター音がして、紗綾樺さんの一瞬が切り取られて僕のスマホの画面に表示される。
「ありがとうございます」
僕は言いながら、写真が保存されたことを確認する。ホーム画面に戻り、スマホをしまおうとした時、新着メールの通知に気付いた。
「ちょっと、失礼します」
断ってからメールを開くと、先輩からだった。
『森沢夫人が病状悪化で入院』
メールを読んだ瞬間、紗綾樺さんが顔を上げて僕の事を見つめた。
「崇君のお母さん、また入院されたようです」
他の事件の事なら紗綾樺さんにも話すつもりはないけれど、手伝ってもらっている崇君に関することだから、僕はそのまま紗綾樺さんに伝えた。
「病院に行ったら、お母さんに逢えますか?」
そうだ、紗綾樺さんは最初から家族に逢いたいと言っていたんだった。
「僕が案内することはできません。でも、重要参考人でもないですし、特に崇君のお母さんは、警察も事件への関与を疑っていないので、面会はできると思います」
事実だ。でも、僕が紗綾樺さんを連れて行って逢わせるわけにはいかない。病院には県警が張り込んでいる可能性も高いし、病院に近づけば、課長にクレームどころか、もっとまずいことになるかもしれない。でも、この事件を解決できるのは、紗綾樺さんだけだ。
「僕にできるのは、近くまでお連れすることだけです。それでもいいですか?」
「はい、あとは、私一人の方が良いです」
紗綾樺さんの言葉に、僕は無言で頷き、それ以上何も聞かずに承諾した。
「細かい打ち合わせは、東京に戻ってからにしましょう」
今度は紗綾樺さんが僕の言葉に無言で頷いた。
「帰りの新幹線は・・・・・・」
改めて時間を確認すると、時刻は既に六時を過ぎていた。
「七時ちょっと前でしたよね。じゃあ、そろそろ出て、ゆっくりと行きましょう」
僕たちはティーサロンを出ると、まっすぐに軽井沢駅を目指した。
紗綾樺さんに逢った時は、帰りの新幹線は別々だと割り切れるつもりだったが、さすがに駅のホームで『じゃあ、僕は自由で立って帰りますから、東京駅で』と言って別れるのに激しい抵抗を感じた。しかし、グランクラスというのは、名前を聞いたことがあるくらいで、指定やグリーンのように、変更してくださいというのがきくのかもわからない。
本当なら、お茶を飲みながら帰りの席を予約すればよかったのだが、男らしくもなく、その時はまだ別の車両でも諦められるかもしれないと、大枚はたく決心がついていなかった。しかし、紗綾樺さんに寄り添って駅へと歩を進めるうちに、絶対離れたくないという思いが一気に加速し始めた。
こうなったら、乗ってやろうじゃないかグランクラス!
決心も固く、自動指定券販売機に向かった。
紗綾樺さんのチケットを確認させてもらい、同じ『はくたか』を指定する。しかし、画面を見た瞬間、僕は絶句した。
すばらしい。指定は完売。グリーンも数席のみ。後はグランクラスのみ。指定とグリーンがこの状態であることを考えれば、自由の混み具合も想像がつく。僕の運命がグランクラスに乗れと導いているようだった。
「グランクラスが空いてますね」
言いながら、紗綾樺さんの座席番号を確認して隣の席を予約する。そして、値段を見た瞬間、決心が鈍る。
僕の手が一瞬止まった瞬間、すっと手が伸びて一万円札が券売機に飲み込まれていく。
えっ?
驚いていると、紗綾樺さんが無言で微笑んだ。
「だ、ダメですよ・・・・・・」
「大丈夫です。迎えに来てくれたんですから、私が出します」
紗綾樺さんは言い出したら聞かない、というのは今までの経験でわかっているので、ここで言い合う必要はない。次は、僕が出せばいいだけだ。
「ありがとうございます」
僕はお礼を言うと、清算手続きを完了させてチケットを発券させた。
これで、帰りも紗綾樺さんと一緒に居られる。
「じゃあ、中にはいりましょう」
紗綾樺さんを促し、改札を通る。そして、すぐそばの土産物店の前で僕は紗綾樺さんに待っていてもらい、店の中に入った。
理由は簡単で、ここまで来て母のもう一つの好物を買わずに帰るのが後ろめたかったからだ。高菜の漬物を探し、ついでに宗嗣さんの分も手に取る。そして、ペットボトル入りのお茶を二本掴み、会計を済ませた。
「このお茶を飲みながらホームで待ちましょう」
紗綾樺さんにお茶を渡し、見ててもらっていた荷物を全部持ちホームへと降りた。
待合所で新幹線が入線する時刻直前まで過ごし、僕たちは揃って乗車口へ進むと、するりと『はくたか』が入線してくる。
遥か手前から減速していたのだろう、まるで魔法のように静かで、ピタリと乗車口の印前にドアーが来る。
乗車した瞬間、車内の豪華さに僕は驚いたが、紗綾樺さんはきっと来るときも乗ったのだろう、驚いた様子はない。
至れり尽くせりの一時間ちょっとの旅は、あっという間のことだった。途中から紗綾樺さんが僕に寄りかかって転寝を始めたことも、至福の時を短く感じさせたのかもしれない。
上野駅に入線したところで紗綾樺さんを起こす。
余ほど疲れているのだろう。昨日はディズニーシー、今日は軽井沢。いつもあちこち走り回っている僕とは違う。
「次が東京です」
僕が言うと、紗綾樺さんはなんども瞬きし、大きく伸びをした。その仕草は、とても可愛らしかった。こんな無防備な紗綾樺さんの姿を見れる立場に自分が居られることが嬉しくて、幸せでたまらなかった。
しかし次の瞬間、僕はまたしても宗嗣さんを蚊帳の外にした挙句、完全事後報告という事になってしまっていることに気付いて目の前が暗くなる。昨夜、善処しますと約束したばかりなのに、思いっきり嘘つきだ。もう、嫌われても文句は言えない。しかも、一緒に軽井沢に行っているのかと聞かれたのに、違うと言いながら、最終的には一緒に行ったことになってしまう。
街で、『嘘つきは泥棒の始まり』ならぬ『嘘つきは警察の始まり』と子供が言うのにギョッとしたことがあるけれど、まさに宗嗣さんから見れば、そういう事になる。
「お兄ちゃんの事なら心配ないですよ」
焦って悩んでいる僕に紗綾樺さんが言った。
「でも・・・・・・」
「いつもは電話してくるのに、今日は電話してきませんでした。だから、大丈夫です」
紗綾樺さんの笑顔は百人力だけれど、今度ばかりは不安になる。
新幹線の扉が開くと、他の乗客たちが扉へと向かい、僕と紗綾樺さんもそれに続いた。
☆☆☆
言葉の意味が『恋人』なのか『友達以上恋人未満』なのか『友達』なのかわからなかったからだ。昨日も、自分で思い出すだけで穴に入りたくなるくらい何度も告白をしたが、全てスルーされた。それは、宗嗣さんが言うように、紗綾樺さんの中にある人間関係を表す言葉が『兄』と『友達』と『それ以外』の三種類しかないからだという事は理解できてきている。でも、真顔で『大切な人』と言われると、どうしても期待してしまう。
しかし、このリアクションの遅れは致命的だったとも言える。
「やっぱり、迷惑ですよね」
紗綾樺さんは言うと、うつむいてしまった。
「ち、違います。迷惑なんかじゃありません、全然ありません」
フォローを入れてみるが、紗綾樺さんは俯いたままだ。
「えっと、帰りの新幹線、予約してますか?」
仕方ないので、僕は話題をすり替えた。
万が一にも、同じ電車、同じ車両に乗れないなんて言う悲しい事にはなりたくない。
「これが、帰りのチケットです」
紗綾樺さんは言うと、僕にチケットを差し出した。
「えっ、グランクラス?」
思わず僕の声が裏返る。
それこそ、アウトレットまで買い物に来る必要がない。グランクラスに乗ってここまで買い物に来るくらいなら、銀座で買った方が早くて簡単だ。
「空いているので、何時でも取れると言われたので」
この切符を売った駅員は、絶対にぼったくりバーかどっかで学生時代に客引きのバイトでもしていたに違いない。なんで、指定席があるのに、ましてやグリーンだってあるのに、グランクラスなんて馬鹿だかなものを売りつけるんだ。
自分の財布の具合を考えると、余計に腹立たしくなってくる。これじゃあ、同じ車両に乗れないのは確定だ。
「まだ時間はありますね。じゃあ、宗嗣さんのプレゼント探しましょう」
僕は怒りに震えながらも、これ以上悲しい懐具合を紗綾樺さんに知られたくないこともあり、一気に立ち上がった。
「どんなものにしますか?」
「あの、男の人は、どんなものが嬉しいんですか?」
紗綾樺さんらしい質問だったが、僕はうっかり紗綾樺さんと腕を組んでいる姿を思い浮かべてしまう。
すると、紗綾樺さんが僕の腕にすっと腕を絡めた。
「えっ・・・・・・」
「ここでは、みなさんこうして歩いてますよね」
バッチリ読まれていたのだろうが、カップルの多くが腕を組んだり、手を繋いだりしていてくれるおかげで、紗綾樺さんは不思議に思わなかったようだ。
「そうですね、予算によりますけど、財布とか、ベルトとか、名刺入れとかですか?」
無意識とはいえ、自分の欲しいものを羅列したせいで、最後に『靴』と付け加えそうになった。
「サイズがわからなくても帰るとなると財布か名刺入れかな・・・・・・」
「じゃあ、尚生さんが選んでください」
「えっ、でもそれじゃあ、紗綾樺さんからのプレゼントにならないですよ」
「お兄ちゃんも、それくらいわかります」
まあ、確かにそうだ。僕よりも紗綾樺さんの事をわかっている宗嗣さんなら、プレゼント自体、僕のアイデアだと思うかもしれない。
それから僕たちは広いアウトレットの中を歩き回り、宗嗣さんのプレゼントを探した。しかし、アウトレットとは言え、さすがブランド物、値段の高さも一流だ。
ぐるぐると見て回るうちに、段々と紗綾樺さんの顔が曇り、僕たちは再び店の外にあるベンチに腰を下ろした。
「どうしたんですか?」
どんどん無口になる紗綾樺さんに、僕は体調が心配になる。
「私、どれが身の丈に合った物かわからなくて・・・・・・」
言われてみればそうだ。宗嗣さんへのプレゼントが、宗嗣さんのポリシーに合わない身の丈に合わないものだとしたら、紗綾樺さんが怒られるだけで、宗嗣さんには喜んでもらえない。
「じゃあ、もう、完全に僕の財布に合うような品ってことにしましょう!」
これが一番簡単だし、母を養えない僕よりも、紗綾樺さんを養っている宗嗣さんの方が収入も高いはずだ。
「尚生さんとお揃いですね」
笑顔で言う紗綾樺さんには悪いが、宗嗣さんの嫌がる顔が僕には目に浮かぶ。
そして、僕たちは再びアウトレットをぐるぐると歩き回り、最終的に本日限定、全品半額から更に三割引という、信じられないようなセールをしていた有名ブランド店で本革の財布を見つけた。ズボンのポケットに入れることが多い宗嗣さんのは二つ折り、僕のはスーツの胸ポケットに入れられる長財布にしてもらった。
どちらも少し光沢のあるなめし革で、ビジネスで使える黒にした。角に小さくブランドのロゴが刻印されているのが、嫌味がない。
それでも、一万円を超える金額に、僕はプレゼントを辞退したが、紗綾樺さんがひいてくれなかったので、ありがたく頂戴することにした。
会計も終わり、商品を受け取って出口に向かう途中、レディースのコーナーで紗綾樺さんが足を止めた。
紗綾樺さんの視線の先には、赤い革の小ぶりなバッグが置かれていた。
本革の上に、同じく革を重ねて作られて花のモチーフが散りばめられ、可愛いチャームが複数ぶら下がっていた。
「可愛い・・・・・・」
小さな声で紗綾樺さんが呟くのが聞こえた。
すかさず、商売上手そうな店舗スタッフがポシェットを紗綾樺さんの目の前に差し出した。
「どうぞ、お手にとってご覧ください」
その積極性に紗綾樺さんが後退るが、店舗スタッフは更に一歩と歩を進める。
「紗綾樺さん、見るのは自由ですよ」
僕が言うと、紗綾樺さんはおずおずと手を伸ばしてバッグを受け取った。じっと眺め、肩から下げたりしていると、店舗スタッフはすかさず紗綾樺さんを鏡の前へと誘導した。
さすがプロだと感心している間に、店舗スタッフは何処から取り出したのか、計算機をパタパタと叩き、僕の前に提示した。
「どれも最後の一点になります。特に、チャーム類は、本日、表示価格の八〇パーセントオフで、更にそこから三〇パーセントオフになります」
その笑顔が恐ろしく感じるのは、僕だけだろうか。
値段は決して安くはない。が、高過ぎもしない。
「彼女さんから、お財布のプレゼントされてましたよね?」
それは『お返し買うのは当然ですよ』と、言われているようだった。
べつに、紗綾樺さんが相手なら、惜しむほどの金額ではない。もし、紗綾樺さんが本当に気に入ってるのであれば、逆にプレゼントしたいくらいだ。朴念仁の僕が、誰にも相談できずに財布のお礼を考えて、悩み続けてお礼ができないまま時間が経過してしまうくらいなら、いっそこの場で紗綾樺さんが気に入ったものをプレゼントのお返しとして用意したい。
「紗綾樺さん? 気に入りました?」
僕は念のため、紗綾樺さんに確認する。
「とてもかわいいですね。このチューリップ」
紗綾樺さんは、バッグではなくぶら下がっているチャームを片手に答えた。
隣に立つ店舗スタッフの視線が『まさか、チャームだけ買うつもりじゃないわよね』と言わんばかりに鋭くなる。
「バッグの方はどうですか?」
少し脅されているような気分になりながら、僕は問いかけた。
「可愛いと思います」
紗綾樺さんの感想を聞くなり、店舗スタッフがカットインしてきた。
「とても良くお似合いですよ。こちらは最後の一点で、バッグのサイズは小さいですが、ショルダー部分の金具を利用して複数のチャームを楽しんでいただけますし、気分転換にこのようにスカーフを巻いていただくことにより、チャームやスカーフを外した時のシンプルな感じとその日の気分に合わせてデコレーションを変えることによって色々な楽しみ方ができるので、バッグとしてだけではなく、おしゃれのトータルコーディネートとしてお楽しみいただけるものになります」
要約すると、沢山チャームを買い足したり、スカーフを買い足せば、色々とコーディネート出来て楽しめるという事らしい。
案の定、店舗スタッフの早口に戸惑っていた紗綾樺さんが僕の顔を見て納得したという表情に変わる。
しまった、筒抜けなのは良しとして、必要以上にノルマをこなすのに必死な店舗スタッフの印象を悪くするようなことを無意識のうちに考えてしまったかもしれない。
「あの、すいません、彼女は人見知りが激しいので、少し二人にしてもらえますか?」
僕が言うと、『かしこまりました』と言って店舗スタッフは少し離れた二人の会話が聞こえない場所にあるディスプレイ商品の位置を直したりし始めたが、視線が僕たちにロックオンされているのは、刑事の感でわかる。
「紗綾樺さん、気に入りましたか?」
僕は少し疲れているのか、表情が暗くなっている紗綾樺さんを心配しながら問いかけた。
もちろん、紗綾樺さんがバッグを気に入らないのなら、気に入っているチューリップのチャームだけでも良いと僕は思っている。
「可愛いですね。でも、私、コーディネートとかわからないですから・・・・・・」
そこまで聞いて、僕はなるほどと気が付いた。宗嗣さんの話では、紗綾樺さんは自分の服も宗嗣さんにお任せだと言っていた。そんな紗綾樺さんにバッグをお洒落にコーディネートしましょうと積極的に説明しても、戸惑わせてしまうだけだったのだ。
「別に、気に入っているのであれば、そのままでいいと思いますよ。飽きたら、コーディネートを変えられるってだけですから」
僕の言葉に紗綾樺さんは鏡の中の自分の事を見つめた。
「あの、尚生さん」
振り返った紗綾樺さんに名前を呼ばれ、僕は紗綾樺さんの傍へと、もう半歩近づいた。
「あの・・・・・・」
なぜか紗綾樺さんは少し緊張しているように感じる。
「どうかしましたか?」
「あの、似合ってるんでしょうか?」
紗綾樺さんに訊かれ、僕は自分の朴念仁度が自覚を大幅に上回っていたことに気付かされた。そうだ、僕は店舗スタッフの態度や自分の懐具合がどうのと考えたけれど、一度も紗綾樺さんに似合っているとか、紗綾樺さんが可愛いとか、個人的な感想を伝えていなかった。
改めて鏡の中の紗綾樺さんを見ると、可愛くコーディネートされたバッグは、紗綾樺さんの為のコーディネートと言ってもいいくらい、しっくりと紗綾樺さんに似合っていた。
「似合ってます・・・・・・すごく、似合ってます」
僕の言葉を聞きつけて、店舗スタッフが戻ってくる。
「じゃあ、この・・・・・・」
「バッグとチャーム類をセットで戴きます」
僕は紗綾樺さんの言葉を遮るようにして言うと、とまどう紗綾樺さんからバッグを受け取り店舗スタッフに手渡した。
僕はブランド品の鑑定をできるような専門スタッフじゃないけれど、交番勤務だった頃にブランド小物の高さに何度も驚かされたことがある。当時は、そんな高い小物をさらに高いバッグに沢山ぶら下げている女性の心理が全く理解できなかった。そんな高いものなら、家の仏壇にでも、神棚にでもお供えしておいた方が安全なのにとすら思ったくらいだ。だから、このバッグとチャーム一式が電卓で見せられたようなお得な価格で手に入ることは銀座ではありえない。たぶん、銀座にあるお店だったら、今日はチャームだけで許してください位、言ってしまっただろう金額になる。なので、迷いは一切ない。
「かしこまりました。お包みはそれぞれ別々にお包みいたしますか?」
「あ、いえ、そのままにしておいてください。彼女がこのコーディネートを気に入っているので」
ばらばらに梱包されたら、もとに戻せる自信はない。
「では、このままのお包みにさせていただきます。ご案内いたします」
店舗スタッフは満面の笑みで言うと、さっき通り抜けて来たばかりのレジ待ちの列に僕たちを案内した。
「あの、尚生さん」
心配しているような、困っているような紗綾樺さんに、僕は微笑み返した。
「本当は、昨日、お揃いのグッズでも買えばよかったのに、楽しくてすっかり忘れてしまって。だから、紗綾樺さんが僕に財布をプレゼントしてくれたように、僕にも紗綾樺さんにプレゼントさせてください」
「でも、こんな遠くまで・・・・・・」
「好きな人と軽井沢来るのは、初めてなんです。だから、僕は嬉しいですよ」
いつものように、湧き出るように紗綾樺さんへの想いはストレートに言葉になる。これは、どんなに隠しても知られてしまうという開き直りからなのかもしれない。
順番が来てレジで支払いを済ませた後、僕と紗綾樺さんはアウトレット内にあるお洒落なティールームでお茶をして時間を潰した。
二日連続で体力勝負のような場所に来たからなのか、二日連続で人の多い場所に来たからなのか、紗綾樺さんは明らかに疲れているように見えた。
「まだ新幹線まで時間がありますけど、もっと早い時間に変えて帰りますか?」
僕の問いに、紅茶のカップを両手で覆うようにしてカップの中を覗いていた紗綾樺さんが顔を上げた。
「尚生さんだったら、あの機械も使えるんですよね」
『機械』と言われて、一瞬何のことかわからなかったが、僕はすぐに自動券売機もしくは、指定席券販売機の事だと思い当たった。
「来るとき、一人でも知らない場所まで出かけられるって、思って家を出たのに、切符が買えなくて、すごく困ったんです」
そこまで話し、紗綾樺さんはカップに口をつけた。
「私、一人じゃ何にもできないんです。機械で新幹線の切符を帰るって言われても、どうしていいかわからなくて、それで、窓口でやっと買えたんです。ダメですね・・・・・・」
紗綾樺さんの落胆は、目にも明らかだった。
「慣れてないと、機械は難しいかもしれませんね」
「でも、尚生さんは私が駅で迷ってる時間位で、ここまで来たじゃないですか」
「あ、それは家が上野に近かったことと、僕はスマホで切符を予約して、駅では受け取るだけだったんです」
言いながら、僕はおしゃれもせず、緊急招集がかかった時の為に用意してある『五分で家を出られるセット』で家を走り出したことを思い出した。軽井沢デートにはふさわしくない、ダサダサ激安スーツセットだ。
クラーク・ケントばりに歩きながらワイシャツを着て、ズボンを履き替えるとちょっと大きめのカバンを掴んで家を走り出てから、しまってある上着を取り出して袖を通しながら駅まで走り、ホームへの階段を降りながらネクタイをする。自分でも、よく間違えて署に行かなかったと思うくらいの猛ダッシュだった。
母は、このかばんがなくなっている時点で、緊急招集されたと思っているから、きっと家のどこかに脱ぎ落してきた抜け殻を回収してくれているだろう。
ふと、家と母を思い出した瞬間、自分が今日縁側で横になりながら考えていたことを思い出す。
「あの、紗綾樺さん、写真撮っても良いですか?」
突然の事に、紗綾樺さんは驚いたように顔を上げた。
「自分、紗綾樺さんの写真を一枚も持っていないんです。もし、嫌でなければ・・・・・・」
僕の言葉に、紗綾樺さんは少し考えてから頷いた。
「じゃあ・・・・・・」
僕は言いながら、スマホを取り出し、カメラを起動する。そして、フレームに紗綾樺さんをおさめ、シャッターを切る。
パシャっという、疑似シャッター音がして、紗綾樺さんの一瞬が切り取られて僕のスマホの画面に表示される。
「ありがとうございます」
僕は言いながら、写真が保存されたことを確認する。ホーム画面に戻り、スマホをしまおうとした時、新着メールの通知に気付いた。
「ちょっと、失礼します」
断ってからメールを開くと、先輩からだった。
『森沢夫人が病状悪化で入院』
メールを読んだ瞬間、紗綾樺さんが顔を上げて僕の事を見つめた。
「崇君のお母さん、また入院されたようです」
他の事件の事なら紗綾樺さんにも話すつもりはないけれど、手伝ってもらっている崇君に関することだから、僕はそのまま紗綾樺さんに伝えた。
「病院に行ったら、お母さんに逢えますか?」
そうだ、紗綾樺さんは最初から家族に逢いたいと言っていたんだった。
「僕が案内することはできません。でも、重要参考人でもないですし、特に崇君のお母さんは、警察も事件への関与を疑っていないので、面会はできると思います」
事実だ。でも、僕が紗綾樺さんを連れて行って逢わせるわけにはいかない。病院には県警が張り込んでいる可能性も高いし、病院に近づけば、課長にクレームどころか、もっとまずいことになるかもしれない。でも、この事件を解決できるのは、紗綾樺さんだけだ。
「僕にできるのは、近くまでお連れすることだけです。それでもいいですか?」
「はい、あとは、私一人の方が良いです」
紗綾樺さんの言葉に、僕は無言で頷き、それ以上何も聞かずに承諾した。
「細かい打ち合わせは、東京に戻ってからにしましょう」
今度は紗綾樺さんが僕の言葉に無言で頷いた。
「帰りの新幹線は・・・・・・」
改めて時間を確認すると、時刻は既に六時を過ぎていた。
「七時ちょっと前でしたよね。じゃあ、そろそろ出て、ゆっくりと行きましょう」
僕たちはティーサロンを出ると、まっすぐに軽井沢駅を目指した。
紗綾樺さんに逢った時は、帰りの新幹線は別々だと割り切れるつもりだったが、さすがに駅のホームで『じゃあ、僕は自由で立って帰りますから、東京駅で』と言って別れるのに激しい抵抗を感じた。しかし、グランクラスというのは、名前を聞いたことがあるくらいで、指定やグリーンのように、変更してくださいというのがきくのかもわからない。
本当なら、お茶を飲みながら帰りの席を予約すればよかったのだが、男らしくもなく、その時はまだ別の車両でも諦められるかもしれないと、大枚はたく決心がついていなかった。しかし、紗綾樺さんに寄り添って駅へと歩を進めるうちに、絶対離れたくないという思いが一気に加速し始めた。
こうなったら、乗ってやろうじゃないかグランクラス!
決心も固く、自動指定券販売機に向かった。
紗綾樺さんのチケットを確認させてもらい、同じ『はくたか』を指定する。しかし、画面を見た瞬間、僕は絶句した。
すばらしい。指定は完売。グリーンも数席のみ。後はグランクラスのみ。指定とグリーンがこの状態であることを考えれば、自由の混み具合も想像がつく。僕の運命がグランクラスに乗れと導いているようだった。
「グランクラスが空いてますね」
言いながら、紗綾樺さんの座席番号を確認して隣の席を予約する。そして、値段を見た瞬間、決心が鈍る。
僕の手が一瞬止まった瞬間、すっと手が伸びて一万円札が券売機に飲み込まれていく。
えっ?
驚いていると、紗綾樺さんが無言で微笑んだ。
「だ、ダメですよ・・・・・・」
「大丈夫です。迎えに来てくれたんですから、私が出します」
紗綾樺さんは言い出したら聞かない、というのは今までの経験でわかっているので、ここで言い合う必要はない。次は、僕が出せばいいだけだ。
「ありがとうございます」
僕はお礼を言うと、清算手続きを完了させてチケットを発券させた。
これで、帰りも紗綾樺さんと一緒に居られる。
「じゃあ、中にはいりましょう」
紗綾樺さんを促し、改札を通る。そして、すぐそばの土産物店の前で僕は紗綾樺さんに待っていてもらい、店の中に入った。
理由は簡単で、ここまで来て母のもう一つの好物を買わずに帰るのが後ろめたかったからだ。高菜の漬物を探し、ついでに宗嗣さんの分も手に取る。そして、ペットボトル入りのお茶を二本掴み、会計を済ませた。
「このお茶を飲みながらホームで待ちましょう」
紗綾樺さんにお茶を渡し、見ててもらっていた荷物を全部持ちホームへと降りた。
待合所で新幹線が入線する時刻直前まで過ごし、僕たちは揃って乗車口へ進むと、するりと『はくたか』が入線してくる。
遥か手前から減速していたのだろう、まるで魔法のように静かで、ピタリと乗車口の印前にドアーが来る。
乗車した瞬間、車内の豪華さに僕は驚いたが、紗綾樺さんはきっと来るときも乗ったのだろう、驚いた様子はない。
至れり尽くせりの一時間ちょっとの旅は、あっという間のことだった。途中から紗綾樺さんが僕に寄りかかって転寝を始めたことも、至福の時を短く感じさせたのかもしれない。
上野駅に入線したところで紗綾樺さんを起こす。
余ほど疲れているのだろう。昨日はディズニーシー、今日は軽井沢。いつもあちこち走り回っている僕とは違う。
「次が東京です」
僕が言うと、紗綾樺さんはなんども瞬きし、大きく伸びをした。その仕草は、とても可愛らしかった。こんな無防備な紗綾樺さんの姿を見れる立場に自分が居られることが嬉しくて、幸せでたまらなかった。
しかし次の瞬間、僕はまたしても宗嗣さんを蚊帳の外にした挙句、完全事後報告という事になってしまっていることに気付いて目の前が暗くなる。昨夜、善処しますと約束したばかりなのに、思いっきり嘘つきだ。もう、嫌われても文句は言えない。しかも、一緒に軽井沢に行っているのかと聞かれたのに、違うと言いながら、最終的には一緒に行ったことになってしまう。
街で、『嘘つきは泥棒の始まり』ならぬ『嘘つきは警察の始まり』と子供が言うのにギョッとしたことがあるけれど、まさに宗嗣さんから見れば、そういう事になる。
「お兄ちゃんの事なら心配ないですよ」
焦って悩んでいる僕に紗綾樺さんが言った。
「でも・・・・・・」
「いつもは電話してくるのに、今日は電話してきませんでした。だから、大丈夫です」
紗綾樺さんの笑顔は百人力だけれど、今度ばかりは不安になる。
新幹線の扉が開くと、他の乗客たちが扉へと向かい、僕と紗綾樺さんもそれに続いた。
☆☆☆