頭の中を色々な人の記憶が閃いては消えていく。
楽しい記憶、愛しい人との思い出。笑顔と幸せな微笑み。
何も考えず、あんな風に笑う事が出来たら。もし、私があんな風に笑えるようになったら、お兄ちゃんは喜ぶんだろうか? 昔の私は、あんな風に笑っていたのかしら?
宮部さんの言う、『友達以上』という意味はよくわからない。たぶん、こうしてデートして、一緒に買い物に出かけ、一緒に食事をして、二人で優しく微笑みあう、きっとそんな仲になる事なんじゃないかと、想像することはできる。でも、どうしてみんなはあんなに幸せそうに微笑んで一緒にいられるんだろう? それは、きっと、相手に心を読まれる不安がないからだと私は思ってきた。でも、宮部さんは、彼は私とそういう関係になれると思っているのだとしたら、もしかしたら、私もいつかそうなれるのかもしれない。
宮部さんとデートしたら、私も幸せな笑みを浮かべられるようになるの?
「じゃあ、今日は、デートなんですね」
私は確認するように問いかけた。
「紗綾樺さんが、僕が相手じゃ嫌だって言うのでなければ、デートです」
宮部さんの想いはまっすぐに私に向かっている。でも、どうして彼がそんなにまっすぐな想いを私に向けてくれるのかわからない。もし、彼が私に事件の解決を求めているのでないとしたら、彼は私に何を求めているんだろう?
鉛の箱の中に収められた彼の本当の心を渡しに読むことはできない。
いや、正確に言えば、読みたいとは思わない。たぶん、私が本気になれは、彼の鉛の箱の中に隠された本当の気持ちだって、私は無理やりに読むことができるはずだ。たぶん、さっき、この周辺のすべての物に崇君を探すように命じたような、すさまじい勢いを発する力の塊を使いこなせば。でも、そんなことしたくない。だって、そんな事をしたら、きっと宮部さんは彼の手の中で握りつぶされたチケットのようにぐちゃぐちゃになってしまうから。
「そのチケット、まだ使えるんですか?」
私はくしゃくしゃになっているチケットを心配げに見つめた。
宮部さんは大丈夫だというと、私に手を差し出した。それは、まるで救いの手を差し伸べるように、私に私を取り戻させるかのように。
私は彼の手を取ると、彼に導かれるまま歩き始めた。
私の心配通り、くしゃくしゃになってしまったチケットは入園の際になかなか機械に通らず、係の人は悪戦苦闘しながら私たちのチケットの処理をして私たちを中に入れてくれた。
そこは、まるでお伽の世界だった。
色とりどりの建築物に、物語から抜け出てきたキャラクター達が溢れかえっていた。
私が生きて暮らしてきた街とは違う空気に満ちた空間は、まるで魔法の世界だった。
立ち止まり、目を輝かせて辺りを見回す私に宮部さんが微笑みかける。その笑顔は、私の知っている幸せな人々の微笑みだった。
「さあ、参りましょうか、お姫様」
地味な紺のスーツを着ている宮部さんが、まるで騎士のように見える。
もともと長身でいて、スラリと背筋を伸ばして立っている姿は、さすがにそれなりの訓練を積んで来た武術に長けた男性であることを感じさせるものを持っていたけれど、入園ゲートを通るために一度はなしていたいた手を繋ぐため、振り向いて私の方に手を差し出す宮部さんは、この世界の魔法を身にまとった騎士だった。
特に意識したつもりはないのに、『姫』という言葉に恥ずかしさで頬が染まっていくのを感じた。
「宮部さん、は、はずかしいです」
小声で言うと、宮部さんは少し顔を曇らせた。
「今日はデートなんですから、紗綾樺さんには、名前で呼んでもらいたいです」
さらりと言ってのける宮部さんに、私はさらに顔が赤くなるのを感じた。
私の記憶にある限り、誰かを名前で呼んだことなんてない。
「尚生です」
ダメ押しのように言われ、私は消え入りそうな声で、再び言った。
「な、なお、き、さん。はずかしいです」
これでは、名前で呼ぶのが恥ずかしいのか、姫と呼ばれたのが恥ずかしかったのかわからない。
「そんなに恥ずかしがらないでくださいよ。僕は、ずっと紗綾樺さんって呼ばせてもらってるんですから」
こぼれそうな笑みを浮かべ、彼は私の手を取った。
「今日だけは、紗綾樺さんは僕だけのお姫様です」
『顔から火が出る』というのが、どういうことなのかを初体験しながら、私は彼に手を引かれるまま魔法の国へと歩を進めて行った。
メインストリートを歩いていると、色々な形をした風船を売っている可愛い売り子の男女が両サイドに並び、子供たちが風船をねだっている姿が可愛らしかった。
「ここはショッピングモールも兼ねているので、お土産から色々なものを売ってるんですよ」
彼はゲートで貰ったマップを片手に案内してくれる。
男の子が小さな妹の手を引いて風船売りの所へ走っていく姿が、まるで自分とお兄ちゃんの姿のように見えた。
記憶を失う前の私とお兄ちゃんは、あんな風に楽しそうで、幸せだったのかもしれない。記憶を取り戻したら、あんな風にお兄ちゃんも私に笑いかけてくれるようになるのかな?
「風船が欲しいですか?」
風船というよりも、風船に群がる親子連れから目を離せずにいる私に、彼が問いかけてきた。
「あ、そんな子供みたいなこと・・・・・・」
肯定も否定もできない私に、彼が『帰りにしましょうね』と優しく言った。
「さあ、行きましょう」
目的地を決めたらしい彼が私の手を引いてどんどん進んでいく。
アーケードを抜けると、そこには驚くような世界が広がっていた。
運河に、それを見下ろす大きな火山。運河は前に誰かの記憶で見たことのあるイタリアの街のようで、ゴンドラが浮かんでいる。
「あれは、ベニスに似せてるんですよ」
まるで私の心を読んだように彼が答える。
ああ、そうだ。ベニスって言うんだった。
「あの、火山は大丈夫なんですか? なんか、煙も出てますけど・・・・・・」
魔法にかかってしまった私には、どこからが現実かもわからない。
この世界に足を踏み入れてから、まるで地に足がついていないような、体が軽くなったような気もする。
「大丈夫ですよ。あ、ちょっと待っててくださいね」
彼は言うと、私の手をはなし、近くの屋台のようなお店に走っていく。そして、何かを買い求めるとすぐに戻ってきた。
「これ、チケットケースです」
一生懸命にチケットのシワをのばすと、彼は一枚をケースに滑り込ませ、私の首にかけてくれた。
「ここでは、チケットを見せるだけなので、これを首から下げて入れは、チケットの出し入れの手間が省けますから」
そう言って自分の首にかけたケースは、私の物とお揃いだった。
黄色いフレームにおどけたような熊がはちみつの壺を抱えている。とても、成人した男女が首からかけるような物には見えない。
「あの、これ、子供用じゃ・・・・・・」
思わず問いかけると、彼は近くを歩いているカップルを指さした。
同じ露店のようなお店で購入したらしい二人は、女性が私と同じものをぶら下げ、男性の方は黒いネズミが派手なコスチュームを着ているブルーのフレームの物を首から下げていた。
「ここにいる間は、大人も子供もないんですよ」
そう言って彼が次に指さした先には、さっきの風船売りから買い求めたらしい二つの風船をポシェットに結び付けている女性とマップを広げながら一生懸命に話しかけている男性のカップルだった。
「ここは、魔法の国なんですか?」
それ以外の言葉は私には見つけられない。例え、彼に大笑いされたとしても。
「そうです。ここは、魔法の国です。現実から切り離された、特別な世界です」
煌めくすべての物が美しく、彩られるもの全てが幻想的で、私は目が回りそうなくらい何度も何度も辺りを見回した。
誰かの記憶を通してみるのとは違う、極彩色の世界。
走り回る小人たち。
踊るお姫様と王子様。
私は魂を奪われてしまったようにその場を動けなくなった。
この世界には、こんなに沢山の色が溢れていたのだろうか?
この世界には、こんなに沢山の笑顔が溢れていたのだろうか?
私の知っている世界は・・・・・・。
次の瞬間、茶色く濁り、どす黒い水の壁が私を飲み込んでいく。
しかし、それは私の頭の中で再現された物で、実際には存在しないものだった。
そうだ、あの日からだ。
私は突然、気が付いた。
あの日から、私にはどんな色彩も、どんな笑顔も、全ての物があの茶色く濁り、どす黒い意志を持ったかのような水の壁を通してしか見えていなかった。どんな音楽も、どんな笑い声も、すべてあの水の壁に打ち消され、私の心には届いていなかった。
もっと見たい。この世界にあふれる色を・・・・・・。
もっと聞きたい。この世界にあふれる喜びの音を・・・・・・。
『それがお前の望みならば、断ち切るがいい』
何度も夢の中で耳にしたことのある声が告げる。
『今のお前には、その力がある』
断ち切る? あの水のような壁を?
次の瞬間、私は自分の手の中に燃え立つような炎の剣が握られている事に気付いた。
『見せてみるがいい、お前の望みを・・・・・・』
声に導かれるまま、私は剣を振り上げる。
私を阻むように水の壁が渦を速めじりじりと私の傍へと寄ってくる。
『成し遂げるがいい』
声に従い、私は無心で剣を振り下ろす。
スッパリと断ち切られた水の壁は意志を失くしたかのように私の足元に泡となって消えていった。
『見事であった』
称えるような、認めるような声と共に手の中の剣が消える。
もはや私と世界を隔てる壁は何もない。
私は胸の前で、両手で空を掴む。
私は生きている。私の世界には、綺麗な色が溢れ、喜びの音が満ちている。
「紗綾樺さん、大丈夫ですか?」
立ち止まったまま動こうとしない私に、彼が私の顔を覗き込みながら問いかけてくる。
「尚生さん・・・・・・」
私が彼の名を呼ぶと、彼は驚いたように、そして恥ずかしそうに息を飲んだ。
「帰りますか? もし、人が多すぎるのなら・・・・・・」
彼の私への想いが流れ込んでくる。
どうして、私は気が付かなかったんだろう。こんなにも、彼は私の事だけを考え、私の事だけを見つめてくれているのに。
「大丈夫です。今日は、尚生さんとのデートですから」
言葉はすらすらと流れるように出てきた。
「じゃあ、行きましょう」
尚生さんは、私の手を取ると再び歩き始めた。
それから、私たちは長い列に並び、あっという間に終わってしまう夢の時間を体験した。
☆☆☆
楽しい記憶、愛しい人との思い出。笑顔と幸せな微笑み。
何も考えず、あんな風に笑う事が出来たら。もし、私があんな風に笑えるようになったら、お兄ちゃんは喜ぶんだろうか? 昔の私は、あんな風に笑っていたのかしら?
宮部さんの言う、『友達以上』という意味はよくわからない。たぶん、こうしてデートして、一緒に買い物に出かけ、一緒に食事をして、二人で優しく微笑みあう、きっとそんな仲になる事なんじゃないかと、想像することはできる。でも、どうしてみんなはあんなに幸せそうに微笑んで一緒にいられるんだろう? それは、きっと、相手に心を読まれる不安がないからだと私は思ってきた。でも、宮部さんは、彼は私とそういう関係になれると思っているのだとしたら、もしかしたら、私もいつかそうなれるのかもしれない。
宮部さんとデートしたら、私も幸せな笑みを浮かべられるようになるの?
「じゃあ、今日は、デートなんですね」
私は確認するように問いかけた。
「紗綾樺さんが、僕が相手じゃ嫌だって言うのでなければ、デートです」
宮部さんの想いはまっすぐに私に向かっている。でも、どうして彼がそんなにまっすぐな想いを私に向けてくれるのかわからない。もし、彼が私に事件の解決を求めているのでないとしたら、彼は私に何を求めているんだろう?
鉛の箱の中に収められた彼の本当の心を渡しに読むことはできない。
いや、正確に言えば、読みたいとは思わない。たぶん、私が本気になれは、彼の鉛の箱の中に隠された本当の気持ちだって、私は無理やりに読むことができるはずだ。たぶん、さっき、この周辺のすべての物に崇君を探すように命じたような、すさまじい勢いを発する力の塊を使いこなせば。でも、そんなことしたくない。だって、そんな事をしたら、きっと宮部さんは彼の手の中で握りつぶされたチケットのようにぐちゃぐちゃになってしまうから。
「そのチケット、まだ使えるんですか?」
私はくしゃくしゃになっているチケットを心配げに見つめた。
宮部さんは大丈夫だというと、私に手を差し出した。それは、まるで救いの手を差し伸べるように、私に私を取り戻させるかのように。
私は彼の手を取ると、彼に導かれるまま歩き始めた。
私の心配通り、くしゃくしゃになってしまったチケットは入園の際になかなか機械に通らず、係の人は悪戦苦闘しながら私たちのチケットの処理をして私たちを中に入れてくれた。
そこは、まるでお伽の世界だった。
色とりどりの建築物に、物語から抜け出てきたキャラクター達が溢れかえっていた。
私が生きて暮らしてきた街とは違う空気に満ちた空間は、まるで魔法の世界だった。
立ち止まり、目を輝かせて辺りを見回す私に宮部さんが微笑みかける。その笑顔は、私の知っている幸せな人々の微笑みだった。
「さあ、参りましょうか、お姫様」
地味な紺のスーツを着ている宮部さんが、まるで騎士のように見える。
もともと長身でいて、スラリと背筋を伸ばして立っている姿は、さすがにそれなりの訓練を積んで来た武術に長けた男性であることを感じさせるものを持っていたけれど、入園ゲートを通るために一度はなしていたいた手を繋ぐため、振り向いて私の方に手を差し出す宮部さんは、この世界の魔法を身にまとった騎士だった。
特に意識したつもりはないのに、『姫』という言葉に恥ずかしさで頬が染まっていくのを感じた。
「宮部さん、は、はずかしいです」
小声で言うと、宮部さんは少し顔を曇らせた。
「今日はデートなんですから、紗綾樺さんには、名前で呼んでもらいたいです」
さらりと言ってのける宮部さんに、私はさらに顔が赤くなるのを感じた。
私の記憶にある限り、誰かを名前で呼んだことなんてない。
「尚生です」
ダメ押しのように言われ、私は消え入りそうな声で、再び言った。
「な、なお、き、さん。はずかしいです」
これでは、名前で呼ぶのが恥ずかしいのか、姫と呼ばれたのが恥ずかしかったのかわからない。
「そんなに恥ずかしがらないでくださいよ。僕は、ずっと紗綾樺さんって呼ばせてもらってるんですから」
こぼれそうな笑みを浮かべ、彼は私の手を取った。
「今日だけは、紗綾樺さんは僕だけのお姫様です」
『顔から火が出る』というのが、どういうことなのかを初体験しながら、私は彼に手を引かれるまま魔法の国へと歩を進めて行った。
メインストリートを歩いていると、色々な形をした風船を売っている可愛い売り子の男女が両サイドに並び、子供たちが風船をねだっている姿が可愛らしかった。
「ここはショッピングモールも兼ねているので、お土産から色々なものを売ってるんですよ」
彼はゲートで貰ったマップを片手に案内してくれる。
男の子が小さな妹の手を引いて風船売りの所へ走っていく姿が、まるで自分とお兄ちゃんの姿のように見えた。
記憶を失う前の私とお兄ちゃんは、あんな風に楽しそうで、幸せだったのかもしれない。記憶を取り戻したら、あんな風にお兄ちゃんも私に笑いかけてくれるようになるのかな?
「風船が欲しいですか?」
風船というよりも、風船に群がる親子連れから目を離せずにいる私に、彼が問いかけてきた。
「あ、そんな子供みたいなこと・・・・・・」
肯定も否定もできない私に、彼が『帰りにしましょうね』と優しく言った。
「さあ、行きましょう」
目的地を決めたらしい彼が私の手を引いてどんどん進んでいく。
アーケードを抜けると、そこには驚くような世界が広がっていた。
運河に、それを見下ろす大きな火山。運河は前に誰かの記憶で見たことのあるイタリアの街のようで、ゴンドラが浮かんでいる。
「あれは、ベニスに似せてるんですよ」
まるで私の心を読んだように彼が答える。
ああ、そうだ。ベニスって言うんだった。
「あの、火山は大丈夫なんですか? なんか、煙も出てますけど・・・・・・」
魔法にかかってしまった私には、どこからが現実かもわからない。
この世界に足を踏み入れてから、まるで地に足がついていないような、体が軽くなったような気もする。
「大丈夫ですよ。あ、ちょっと待っててくださいね」
彼は言うと、私の手をはなし、近くの屋台のようなお店に走っていく。そして、何かを買い求めるとすぐに戻ってきた。
「これ、チケットケースです」
一生懸命にチケットのシワをのばすと、彼は一枚をケースに滑り込ませ、私の首にかけてくれた。
「ここでは、チケットを見せるだけなので、これを首から下げて入れは、チケットの出し入れの手間が省けますから」
そう言って自分の首にかけたケースは、私の物とお揃いだった。
黄色いフレームにおどけたような熊がはちみつの壺を抱えている。とても、成人した男女が首からかけるような物には見えない。
「あの、これ、子供用じゃ・・・・・・」
思わず問いかけると、彼は近くを歩いているカップルを指さした。
同じ露店のようなお店で購入したらしい二人は、女性が私と同じものをぶら下げ、男性の方は黒いネズミが派手なコスチュームを着ているブルーのフレームの物を首から下げていた。
「ここにいる間は、大人も子供もないんですよ」
そう言って彼が次に指さした先には、さっきの風船売りから買い求めたらしい二つの風船をポシェットに結び付けている女性とマップを広げながら一生懸命に話しかけている男性のカップルだった。
「ここは、魔法の国なんですか?」
それ以外の言葉は私には見つけられない。例え、彼に大笑いされたとしても。
「そうです。ここは、魔法の国です。現実から切り離された、特別な世界です」
煌めくすべての物が美しく、彩られるもの全てが幻想的で、私は目が回りそうなくらい何度も何度も辺りを見回した。
誰かの記憶を通してみるのとは違う、極彩色の世界。
走り回る小人たち。
踊るお姫様と王子様。
私は魂を奪われてしまったようにその場を動けなくなった。
この世界には、こんなに沢山の色が溢れていたのだろうか?
この世界には、こんなに沢山の笑顔が溢れていたのだろうか?
私の知っている世界は・・・・・・。
次の瞬間、茶色く濁り、どす黒い水の壁が私を飲み込んでいく。
しかし、それは私の頭の中で再現された物で、実際には存在しないものだった。
そうだ、あの日からだ。
私は突然、気が付いた。
あの日から、私にはどんな色彩も、どんな笑顔も、全ての物があの茶色く濁り、どす黒い意志を持ったかのような水の壁を通してしか見えていなかった。どんな音楽も、どんな笑い声も、すべてあの水の壁に打ち消され、私の心には届いていなかった。
もっと見たい。この世界にあふれる色を・・・・・・。
もっと聞きたい。この世界にあふれる喜びの音を・・・・・・。
『それがお前の望みならば、断ち切るがいい』
何度も夢の中で耳にしたことのある声が告げる。
『今のお前には、その力がある』
断ち切る? あの水のような壁を?
次の瞬間、私は自分の手の中に燃え立つような炎の剣が握られている事に気付いた。
『見せてみるがいい、お前の望みを・・・・・・』
声に導かれるまま、私は剣を振り上げる。
私を阻むように水の壁が渦を速めじりじりと私の傍へと寄ってくる。
『成し遂げるがいい』
声に従い、私は無心で剣を振り下ろす。
スッパリと断ち切られた水の壁は意志を失くしたかのように私の足元に泡となって消えていった。
『見事であった』
称えるような、認めるような声と共に手の中の剣が消える。
もはや私と世界を隔てる壁は何もない。
私は胸の前で、両手で空を掴む。
私は生きている。私の世界には、綺麗な色が溢れ、喜びの音が満ちている。
「紗綾樺さん、大丈夫ですか?」
立ち止まったまま動こうとしない私に、彼が私の顔を覗き込みながら問いかけてくる。
「尚生さん・・・・・・」
私が彼の名を呼ぶと、彼は驚いたように、そして恥ずかしそうに息を飲んだ。
「帰りますか? もし、人が多すぎるのなら・・・・・・」
彼の私への想いが流れ込んでくる。
どうして、私は気が付かなかったんだろう。こんなにも、彼は私の事だけを考え、私の事だけを見つめてくれているのに。
「大丈夫です。今日は、尚生さんとのデートですから」
言葉はすらすらと流れるように出てきた。
「じゃあ、行きましょう」
尚生さんは、私の手を取ると再び歩き始めた。
それから、私たちは長い列に並び、あっという間に終わってしまう夢の時間を体験した。
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