妹が病気なのでと説明して、業務時間中もスマホの電源を入れっぱなしにすることを許可してもらっているので、俺はズボンの後ろポケットに入れてあるスマホが振動するのを感じた。
「すいません、ちょっと席をはずします」
 俺は小うるさい社員に声をかけると、席を立って廊下へと出た。
 休憩時間以外に『スマホを使用しているのを社員に見られると、勤務評価が下がるので注意してください』という派遣会社の営業の言葉を真に受けたわけではないが、何度妹ですと説明しても、恋人だろうと冷やかされている俺は、仕方なくいつものように男子トイレの個室に引き籠った。
 プロの清掃スタッフによって隅々まで掃除されているトイレの個室は、正直、プライバシーが守られるので、職場のどこよりも居心地がいい。
 おまけと言っては何だが、ビルの方針らしく、オフィスフロアーには仕事の疲れを癒す効果があるアロマが日替わりで焚かれていて、今日の香りのラベンダーだ。派遣をいびるのが趣味のような社員の対応に疲れていた俺のストレスも取り除いてくれた。
 トイレの中で深呼吸するのというのも変な話だが、不快な臭いがなく、アロマを焚きこめられた空気はとてもトイレとは思えない。そのせいか、この現場に派遣されてから俺は、最低一日一度は個室に引き籠り、トイレで深呼吸するのが日課になっていた。
 便座を椅子代わりにして腰を下ろすと、俺はポケットからスマホを取り出した。
 振動のリズムから、電話の着信ではなく、メールであることはわかっていたので、俺は軽い気持ちでメールアプリを開いた。しかし、送信者名を見た瞬間、爽快な気分は一瞬にして暗転し、眉間にしわが寄った。
 なんでだよ。なんで、昨日の今日で、奴なんだよ!
 俺は心の中で毒づきながら、メールを開いた。瞬間、俺の不愉快さは頂点に達した。
 ちょっと甘い顔を見せたらこれだ。なにが急に休みが取れたので、事前許可なしですが、デートしますだ。行先も何も決めてないので、予定は追って連絡しますって、こいつ社会人の癖に『報連相(ほうれんそう)』って言葉をしらないのか? まあ、この場合、正確には『相連報』の方がふさわしいかもしれないが、俺が仕事で家にいないのをいいことに、さやを連れ出そうとは・・・・・・。
 そこまで考えてから、俺はさやがずっと引き籠っていたことを思い出した。
 そう言えばあいつ、さやが仕事も休んでずっと家にいるのを心配してたから、それでわざわざ休みを取ってさやをデートに連れ出したのか? 公務員って、つか、警察官って、そんな簡単に休めるのか? でも、これから出かけますってメールにあるってことは、休んだんだよな・・・・・・。
 俺は考えながら、スマホの画面をじっと見つめた。
 いくら考えても、返事の文面が浮かんでこない。
 正直、事後承諾の連発は止めろと言ってやりたかったが、もし、本当に引き籠っているさやの事を心配して休みを取ってくれたのだとしたら、そんな文面は失礼すぎる。なんだかんだいったって、二人が交際することを俺は許可してるし、さやはもう未成年じゃない。兄である俺が口出しできることは、本当はほとんどない。それを真面目に、約束通り、きちんと連絡してくるのだから、その誠実さを誉めこそすれ、行動を非難するのは間違いだ。
 俺はもう一度深呼吸すると、『さやをよろしくお願いします』とだけ書いて送ろうとしたが、更に『こまめに連絡をお願いします』と書き足した。
 そろそろタイムアップだ。俺は腕時計に目を走らせると、メールを送信し、急いでオフィスへと戻った。
「すいません、いま戻りました」
 俺が声をかけると、例の厄介な社員がギロリと鋭い視線を送ってきた。
 まずいな、ここの契約、更新されないかもしれないな。仕事的には簡単というか、つまらない仕事ばかりなんだが、通勤の便利も良いし、それなりに単価も高く適度に残業があるからバッチリ稼がせて貰っているのだが、いかんせん、直属の上司が不在の時にスタッフを管理している万年平社員風のオヤジが性格最悪、根性最悪で契約スタッフをいびりまくるから、実入りの良い職場なのにスタッフは長持ちしない。
 上司が可愛がる若くていい感じの女性スタッフはセクハラギリギリというか、ドストライクなセクハラ発言していびるし、若い男性スタッフがくれば常識がどうのこうの、ビジネスマナーがどうのこうのといびり倒す。
 幸か不幸か、俺はもともと建築・設計を本業でやっていた上、国家資格も持っているから安く使えてお得と思っているらしく、ぐちぐちは言うものの、本格的ないびりはしてこない。だから、長続きしているのだが、これでここも最後かもしれないと、俺はため息に聞こえないように静かに息を吐いた。
 気分を一新した俺は、再び細かい図面とそこに書かれている数字を強度計算のデータとしてファイルに入力し始めた。

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