茜色の空が群青色の闇に飲み込まれていく様を見つめていた紗綾樺は、群青色が深い闇の色へと足早に姿を変えて行くに至り、窓際を離れてひきっぱなしの布団の上に横になった。
 最近よく見る夢と言っても、起きた瞬間にぼんやりと憶えているだけの物なのだが、そのせいかパタリと占いの館へ行きたいという気持ちは姿を消していた。
 そんな紗綾樺の変化に兄は戸惑いながらも、『いっそ、占いなんかこのまま止めちゃえばいい』と、紗綾樺の引きこもりをある種歓迎していた。
 思い返してみれば、なぜあんなにも占いの館での仕事に固執していたのか、紗綾樺自身わからなくなってきていた。たぶん、何もできない自分の世話をしながら、暮らしなれない、この都会での生活一切を一人で切り盛りしている兄を少しでも助けたいと思っての事だったのだろう。引きこもるのではなく、外で人に会って、働くことによって昔の紗綾樺に戻ってほしいという兄の心の底にある願いを知って、色々な仕事を試しては面接で落ちる、一日でクビになるの繰り返しだった。やっと仕事を貰えそうだと兄を喜ばそうと、モデルのスカウトだという男の名刺を見せた途端、兄はそれがモデルはモデルでも、裸の写真を撮るモデルだと怒りだし、更に『別に服を脱ぐだけでしょう?』と問い返した紗綾樺に、兄は泣きながら『働かなくていいから、外にも無理に出なくていいから、だから止めてくれ』と懇願した。
 その時の紗綾樺には、何がいけなかったのか良くわからなかったが、今ならなんとなく、裸というのは家族以外には見せてはいけないもので、あの時のモデルという話は、青年向けとよばれる雑誌や、写真誌や、ビデオを作成している特殊な業界で、一部では犯罪組織とも連携している危険な世界であることは理解できるようになった。
 まあ、わかった理由は簡単で、身なりの良い男性と結婚を占いに来た女性のために男の中を覗いたら、偶然あの時のスカウトだという男が見えたので、いつもより念入りに中を覗いてみたら、街で女性をスカウトし、スカウトの時はファッション系の雑誌のモデルと紹介してスカウトする。スカウトに声をかけられた時点でヌード写真を撮ることを紗綾樺が知っていたのは、男の頭の中にある撮影風景が裸の女性ばかりだったから気付いただけの事だったが、他の女性たちは知らずに事務所に連れていかれたのだろう。
 じっくりと男の中を覗いていた紗綾樺は、幸せそうな表情を浮かべて女性の隣に座っている男が悪魔のように思えた。
 この男は、数えきれないほど大勢の女性を騙し、モデルと言って集めた女性たちを無理やり裸にし、写真を撮るだけでは足りず、ビデオを撮らせ、脅し、風俗に売り渡し、あまつさえ売春までさせたうえ、病気になれば始末して遺体を処分させていた。
 この女性だって、結婚と言っても、実際に入籍するのはこの男とではない。この男が今使っている名前の男とで、最終的には保険金目当てで殺されることになる。
 そんな未来を視ながら、紗綾樺は顔色一つ変えず『あまり相性が良いようには見えないですね。結婚されるのであれば、時間をかけて相手の方の事をもっとよく知ってからの方が良いと思います。出会ってから、時間が短いという事はありませんか?』と、隣の占い師が良く使うフレーズで鑑定結果を伝えた。二人が立ち去った直後、隣の占い師から『パクリは著作権の侵害だよ』と意味不明なクレームを受けたので、紗綾樺は仕方なく著作権使用料なる訳の分からない請求に応じ、一万円を払って和解した。別に払うのを拒むのは難しい事ではなかったが、占いコーナーが出来てすぐから店を出しているという隣人とトラブルを起こすのは兄が喜ばないだろうと思っての事だった。
 それからしばらくして、あまりに沢山の人々の未来を視ていたにもかかわらず、そのニュースを見た瞬間、紗綾樺にはそれが彼女だと分かった。それは年度末によくある何件も発生する無理心中のニュースと同じく、淡々とアナウンサーに読み上げられ、彼女が一緒に心中を図った夫とされる男は、当然あの男ではなかった。紗綾樺の見たことのない知らない男性だった。
 今の紗綾樺だったら、余計なお世話と知りながらも、宮部にすべてを打ち明けて女性を助けてもらったかもしれない。きっと、宮部は嫌な顔一つせず、女性を助けることに協力してくれるだろう。だが、その当時の紗綾樺にとって相談できるのは兄だけだったし、兄に話せばすぐに仕事を辞めるように言われて紗綾樺の世界は再びこの狭いアパートの部屋の中だけになってしまっていただろう。
「わたし、どうしちゃったんだろう」
 天井を見上げながら呟いても答えは返ってこなかった。
 無性に誰かの声が聞きたくなり、紗綾樺は枕元に置いてあるスマホに手をのばした。しかし、兄に電話をかければ、心配性の兄は仕事を放り投げてでも帰宅し、また職場とトラブルを起こしてしまうだろう。そう思うと、兄にこれ以上迷惑をかけられないと、スマホを元に戻そうとしたとき、紗綾樺は宮部の事を思い出した。
 思えば、メールを貰ったのに、兄に代わりにメールを送って貰って以来連絡がない。一度くらい、自分から電話をかけてもおかしくはないだろう。そう思うと、紗綾樺は着信履歴の中から、兄の物ではない電話番号に電話をかけてみた。
 呼び出し音が何度か鳴り、『もしもし?』という、囁くような宮部の声が聞こえた。
「すいません、お仕事中ですよね。かけなおします」
 紗綾樺としては、自分以外の人間の声が聞けただけで満足だったが、宮部は紗綾樺の言葉をきいてないようだった。
『いま、電車の中なので、すぐにかけなおします』
 ぷつりと切れた電話に、紗綾樺は大きなため息をついた。なんとなく体が怠い気もしたし、仕事にも行ってないのに疲れたようにも感じた。
「わたし、どうしちゃったんだろう」
 もう一度呟いたところに、スマホの着信音が響いた。
「もしもし」
 紗綾樺が出ると、風が叩きつけるような激しいノイズが聞こえた。
『すいま・・・せ・・・いま・・・・・・が・・・・で・・・・・・』
 かすかに聞こえる宮部の言葉は意味をなしていない。
「あの、切りますね」
 紗綾樺が言った途端、電話の向こうが静かになった。そして聞こえたのは、宮部の優しい声だった。
『すいません、特急列車の通過で、ものすごい音がしましたよね』
「大丈夫です。でも、お仕事中にすいません」
『気にしないでください。正直、嬉しいです』
 宮部の声からは嬉しさが溢れだし、笑顔が目に浮かぶようだった。
「嬉しい? ですか?」
『はい。だって、紗綾樺さんから電話をくれるの初めてですよね。自分の生活時間が固定じゃないせいで、電話だと紗綾樺さんが休んでるんじゃないかと思って、メールにしたら、お兄さんからメールは読めませんって返事が来て、いつ紗綾樺さんに連絡したらいいのかわからなくなって。それに、お仕事、ずっとお休みされてるんですよね。だから、具合が悪いのかなとか、ずっと心配していたんです』
 堰を切った水が溢れだすように話す宮部に、紗綾樺は答える言葉を見つけ出せずにいた。
『じつは、学校の先生に話を聞きました。ディズニーリゾートの件も裏が取れましたし、父親にディズニーリゾートの事を訊いたら、激しく動揺していました。後は、崇君がどこにいるのかわかれば解決です』

(・・・・・・・・そうだ、この人は事件を解決したいから私と付き合っているんだ。私の友達じゃないんだ・・・・・・。友達・・・・・・。友達って、なに?・・・・・・・・)

 紗綾樺の耳には、宮部の報告はもう届いていなかった。
『紗綾樺さん? 聞こえてますか? あ、また特急が・・・・・・』
 宮部の声に続き、再び轟音が響き始めた。
 どうしていいかわからない紗綾樺は電話を切った。
 それから何度か宮部からの着信があったが、紗綾樺は出なかった。

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