金色に輝くふさふさの尻尾を優雅に風になびかせ、その狐は漆黒の闇の中で紗綾樺の事を見つめていた。狐を包む金色の光は闇を切り裂き、その存在を際立たせていた。
 風がうねるような、木々が軋み折れるような轟音ですら、金色の光の前にひれ伏すように音を潜めている。
『それが、そなたの望みか?』
 空から響くような声が聞こえる。
『よかろう。そなたの望み叶えてやろう』
 それは、まるで高貴な女性のようだった。
『己の命よりも、我が眷属の命を尊ぶとは、人にしておくにはもったいない高貴な魂の持ち主よ』
 人の言葉を話す金色の狐は、九本の尻尾を優雅に風にたなびかせ、ゆっくりと紗綾樺の方へと歩み寄ってきた。
 紗綾樺の目の前に立ちまっすぐに紗綾樺の瞳を見つめる狐は驚くほど大きかった。
『その命と引き換えに我が眷属を助けようとした尊き魂に礼をしなくばなるまい』
 狐は言うと、まっすぐに紗綾樺に向かって歩を進めた。
 ぶつかると思ったが、衝撃はなく、金色の光が紗綾樺の体をまるで通り抜けていくようだった。
『今は眠るがよい。いずれ、そなたが目覚める日が来よう』
 狐の言葉に促されるように、紗綾樺は金色の光に包まれ、意識は光に飲み込まれるように消えて行った。

☆☆☆

 仕事を片付けた宮部は、当番の面々に挨拶をして署を後にした。
 本当なら、車を取りに戻りたいところだが、明日からの県警との合同捜査への参加を考えると、今日は食事を一緒にして送って行くのは難しい。そうなると、せめて占いの館で人目だけでも会って、明日からの事を報告したいと、宮部は足早に地下鉄の駅を目指した。

 地下鉄とJRを乗り継ぎ、紗綾樺が出店している占いの館の入った建物の前まで来た宮部は、いつもと違う様子に首を傾げた。
 今までの経験から言えば、紗綾樺の占い街の列は天候に左右されない不滅の行列のはずなのに、建物の中から続くと思われる人の列と思しきものもない。
 便乗値上げならぬ、災害後の節電を電気代の節約という意味で活用している、そんな薄暗さを感じさせる雑居ビルの階段を上り二階に上がると、短い列が幾つかあった。
「すいません、失礼します」
 人波に声をかけながら小さく仕切られている占いの館奥へ進んでいくと、紗綾樺がいるはずの定位置には、手書きで『本日、臨時休業』と書かれたボール紙が置いてあった。
「おやすみ?」
 思わず声が口をついて出た。
「なに、あんたも天野目さん狙い? もう、何日も来てないよ。あの子は気が向かなくなると来なくなるからね。どうだい、代わりに占ってやろうか?」
 親切とも、積極的営業ともいえる、隣の区画に座っている男性だか女性だかわからない、どちらかと言えばニューハーフというのがぴったりのような低い声ながら、身のこなしだけは女らしさを感じさせる占い師の言葉に、宮部は心臓をぎゅっと掴まれたような不安に襲われた。

(・・・・・・・・もしかして、あの捜査のせいで具合が悪くなって、そのままよくなってないとか・・・・・・・・)

「なんだ、あんた占い目的じゃなくて下心があるわけ。ダメだよ、あの子は人とは相容れないからね。のらりくらり、ごまかさせて終わりだよ。恋愛占いなら、あたしのお手のもんだ、どうだい、安くしておくよ」
 満面の笑みを浮かべて宮部を見つめる占い師に、宮部は深い失望と軽蔑に似た感情を覚えた。

(・・・・・・・・この偽物、こんな占いでお金をとるなんて、詐欺じゃないか・・・・・・・・)

「お兄さん、安くしとくわよ」
 占い師が宮部の腕に手をかけた瞬間、宮部は懐にしまってあった警察手帳を取り出した。
「手を放してください。強引な客引きは、いくら敷地内でも奨励できませんよ」
 警察手帳を見るなり、占い師の顔が蒼くなった。
 誰であれ、警察手帳を見せられたくらいで蒼くなるなんて、よほど後ろ暗いことがあるとしか思えない。どうせ、適当なことを言って客からお金を巻き上げてるんだろう。
 そこまで考えてから、宮部は自分の軽率な行動が紗綾樺の営業妨害につながったかもしれないと気付き、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「あの子、何か事件に巻き込まれたの? もう、何日も来ないけど」
「違います。先日、占って戴いたときに小銭入れを落としたようで、ご連絡を戴いたので取りに来たんですが、また、来ることにします」
 宮部が何事もなかったようにごまかすと、占い師は宮部の事をじっと見つめた。
「でも、あの子、もう戻ってこないかもしれないわよ。こんなに長い間来ないのは初めてだもの」
 そこまで言ったところで、占い師は客に気付き営業スマイルを浮かべて客の方に向き直った。
 紗綾樺いない占いの館コーナーを後にすると、宮部は駅へと戻った。そして、電車の待ち時間に『紗綾樺さん、お加減大丈夫ですか? よかったら、お返事お待ちしてます。宮部』とショートメールを送った。
 しかし、紗綾樺から返事はなく、宮部は諦めて帰宅の途についた。

☆☆☆

 安普請で、立て付けも悪く、玄関というには安物過ぎる野ざらしで痛みの進んだ扉の鍵を開けた俺は、真っ暗な居間の電気を手探りでつけると、玄関の扉ほどではないが、痛みが目に付く安物の革靴を脱ぎ、部屋に上がった。
「さや、ただいま」
 声をかけても返事がないという事は、さやは続きの間で寝ているのだろう。
 昔からよく寝るさやだったが、災害の後、激しい不眠症になり太陽の出ている時間はほとんど寝て過ごし、夜は一睡もしないという時期があり、段々に睡眠時間は安定してきていたが、例の爆弾発言の後、今までよりもかなり睡眠時間が長くなっている気がする。
 さやの場合、当然、災害時には全身を強打したわけで、記憶障害も頭を強打したことが原因とも、心理的なことが原因とも言われているが、どちらにせよ睡眠時間が著しく長くなるというのは、病状に転機が訪れている可能性がある症状と言われているので、この睡眠時間が長くなる現象が続くのであれば、またさやをあちこちの病院に連れて行って検査をしてもらわなくてはいけない。
「さや、ただいま」
 俺は『何か着て寝てますように』と祈りながら、狭い居間の続きの間への襖を開けた。
 幸いにも、さやは部屋着を着て眠っていた。
「さや、さや、ただいま」
 俺は携帯を片手に握りしめたまま寝落ちしているさやの肩をゆすった。しかし、かなり深く眠ってしまっているらしいさやは、目覚める気配がない。
 仕方ないので、俺はさやを起こすのをあきらめ、台所の電気ケトルでお湯をわかしながら、さやの寝ている続き間の奥に取り付けたカーテンを引いて手早く普段着に着替えた。
 もともと、このカーテンは年頃のさやが着替えるのにつけたものだが、本人は一切頓着せず、いつでもどこでも着替えるので、仕方なく俺がカーテンの奥に隠れて着替える羽目になっている。まあ、普通の妹なら兄の裸や着替えを見せられるのはセクハラだと言うだろうから、当然の事なのかもしれないが、さやに限って言えば、わざわざカーテンの奥で着替えているのに、話しかけるためにカーテンの中に入ってきたり、敢えてカーテンを開けて『何してるの?』と、問いかけたりするあたり、俺の心臓の方がドキドキして困ることの方が多い。
 そういう意味では、おとなしくさやが寝ている時に着替えられるのは、俺としては心の平安につながるのだが、それにしてもさやの奴、いったい何時間寝ているんだろう?
 とりあえず、さやの好きな麦茶を煎れ、俺は再びさやを起こしに戻った。
「さや、帰ったぞ。オニオングラタン食べに行くんだろ?」
 さっきよりも強く力を込めて体をゆすると、少しだけ反応があったが、それでも目覚めそうになかったので、俺は仕方なく居間に置いてあるカバンの中から携帯を取り出してさやの携帯を鳴らした。
 鳴らすこと数十回、近所から騒音でクレームされそうな回数だと思っていると、さやがもぞもぞと動くのが見えた。
「はい」
『はい』
 さやの声が部屋の中と電話の中で微妙にズレて聞こえる。
「さや、ただいま」
 俺は電話を切ってさやに声をかけた。
 まさに、ゴロリンという形容がぴったりな転がり方でさやはころがると、居間に座る俺の方を向いたが、まだ横になったままだ。
「お兄ちゃん、いつ帰って来たの?」
 ちゃぶ台の上のカップを見つめながら、さやはぼんやりとした目つきで俺を見つめている。
 このセリフを聞くたびに、俺はもっとセキュリティのしっかりした部屋に引っ越すべきかもしれないと悩むのだが、あの立て付けの悪い扉を開ける音も、何も聞こえてないとしたら、不用心極まりなさ過ぎる。しかし、どう見ても倒れそうなこのアパートに泥棒に入るもの好きもいないかなと、未だにこの部屋に住んでいるのだが、さすがに、さやがあいつと交際を始めるのなら、兄と二人暮らし、しかも同じ部屋で寝ているというのは、まずいかもしれない。
「よく寝てるから、先にお茶入れといた。飲むだろ?」
 俺の言葉に、さやは目をこすりながらゆっくりと、そして大きな欠伸をしながら上体を起こした。
「いま、何時?」
 さっきまでむき出しだった白い太ももが、ペタンと布団の上に座ったことにより、さやのダブダブのシャツの裾に隠れる。
「何時から寝てたんだ? もうすぐ九時半だぞ」
 俺は言いながら、さやのカップを差し出した。
「ありがとう」
 カップを受け取ったさやは、いつものように麦茶の香りを胸いっぱい吸い込んだ。
「お兄ちゃんから電話貰って、あと覚えてない」
「具合、悪いのか?」
 俺の問いに、さやは考える素振りをした。
「たぶん違うと思う」
 さやの場合、何を聞いても他人事だ。
「おなか減ってないのか?」
「たぶん、へってる」
「じゃあ、行くか?」
「うん」
 そう答えて立ち上がったさやの腕を俺は掴んだ。
「さや、着替えが先だ」
 さやは『別にこのままでいい』と言わんばかりの表情を浮かべながら、しぶしぶ枕元に昨夜俺が置いた服に着替え始めた。
 いつももの早業でさやが全裸になる直前、俺は襖を閉めて背を向けた。
 本当に油断も隙もない。『これじゃあ、絶対にお泊りのお出かけ許可なんて出せないぞ!』と考えてから、俺は再び頭を抱えた。
 お泊り外泊は、既にそーゆー関係になってるからか、それとも、そーゆー関係に進展するためにお泊りの予定を立てるのか? どっちだ? いや、どっちもありだろう。とにかく、禁止だ禁止。俺の可愛いさやと結婚前にそんな関係になろうとするような男は近づけるもんか!
 ここに至って、俺は自分の思考が兄から完全に父親にすり替わっていることにため息をついた。そう、俺は兄であって父親じゃない。既に成人しているさやにとって、俺はあくまでも唯一の親族として意見を言うことはできても、さやが本気で決断したことに反対したり、拒否権を発動することはできない。それがどんな重大な事であろうと。
「・・・・・・って言ったっけ?」
 俺の思考をさやの声が遮る。
「ごめん、なんか言ったか?」
 俺は、さやが服を着ているのかも確認しないまま、思わずさやを振り返った。
「思い出せないの。あのこの名前、なんて言ったっけ?」
 さやは言いながら、家族写真を指差していた。
「隣の犬か?」
 俺の返事に、さやは酷く気分を害したようだった。
「あ、ああ、えっと、あれは確かシベリアンハスキーだったよな。確か、そりを引く犬だよな」
 俺は記憶を頼りに返事をするが、さやは不機嫌なままだ。
「それは、名前じゃないよ」
 さやは、ただ一言返事をした。
「あ、アラスカンマラミュートか?」
 思いつく名前を口にするが、さやは頭を横に振る。
「あの子の名前を思い出したいの。あの子が、シベリアンハスキーで、目の色が左右で違うことは、ちゃんと覚えてるの」
 そこまで言われ、俺はあの犬の名前を聞いたことがあっただろうかと思案する。たぶん、きっと、さやは何度もあの犬の事を俺に話したんだと思う。でも、あの頃の俺には、正直言って隣の家の犬の名前なんてどうだってよかった。両親が亡くなり、まだ高校生の妹と二人、頼れる親戚もなく、これからどうやって暮らしていこうか、俺に親代わりができるだろうかと、あの頃はそればかりを考えていた。
 そう、そうして考えた末、俺は妹を嫁がせるまで自分が結婚する事はないと決断し、結婚を前提に付き合っていた恋人と別れた。別に、その事を後悔したことはないが、あの日、さやを探して訪ねまわった遺体安置所で彼女の変わり果てた姿を目にしたとき、俺はさやを見つけるまで絶対に泣かないと決めていたのに、彼女の棺の前で号泣した。それは、彼女の指に結婚指輪がなかったからだ。
 結婚して、さやと同居し、実の姉とまではいかないが、さやを見守る俺と一緒に、さやの幸せを見守っていきたいと言ってくれた彼女に、俺は彼女の存在が重すぎると一方的に別れを告げ、彼女を切り捨てた。それなのに、彼女は立ち去ろうとする俺の背中にしがみつき『妹さんが結婚するまで、待っているから』と泣きながら言ってくれたのに、俺は信じていなかった。でも、指輪をしていない彼女の遺体に対面したとき、俺は涙を止めることができなかった。自分勝手に別れを告げた俺自身が、まだ、彼女の事を深く愛していたからだ。

「お兄ちゃん?」
 再び、さやの声に思考が中断された。
「悪い、覚えてないな」
 俺が正直に言うと、さやは『そっか』とだけ呟いた。そして、まっすぐに写真の所まで行くと、珍しく写真を手に取り、食い入るように見つめた。
「この子、助からなかったんだよね?」
 さやの問いに、俺はギクリとする。実は、良く調べもしないまま、どうせ助かったはずはないと、さやには『見つからなかった』と答えてあるが、実際のところはわからない。
「家も跡形もなかったからな」
 俺は注意深く言葉を選んだ。
「探せないかな?」
「おい、いきなりどうしたんだ? 人だってたくさん見つかってないのに、今更、犬を探すなんて無理だろう」
 俺の言葉に、さやは何か言いたげだったが、無言のまま写真を置いた。
「食事に行くか?」
 さやの着替えが終わっているので、俺は話題を変えようと問いかけた。
「そうだね」
 答えるさやの瞳は、まだ写真を見つめている。
「ほら、行くぞ」
 俺は立ち上がると、寂しげなさやの頭を優しく撫でた。
 大人二人が同時に靴を履けるほど広くない土間で靴をひっかけ、俺は玄関の外に出てさやが靴を履くのを待った。それから、ピッキングされたら十秒で開きそうな鍵を閉め、さやの先に立って階段を降りた。
 故郷を去る時、知り合いから譲り受けた車は、物価高の都会では維持できず、とっくに他人様の物になってしまっているので、大きな通り沿いにあるファミレスまでは歩きだ。
 さやの気分が沈んでいるからか、いつもよりファミレスが遠く感じる。
「星、見えないね」
 さやの言葉に、俺は『ここも一応都会だからな』と答え、立ち止まって空を見上げるさやの隣で歩を止めた。
「空が明るいね」
「こんど、星が見えるところに行くか? 山の上とか・・・・・・」
「歩いて?」
「いや、さすがに歩きはないだろう。この辺、山はないし。電車に乗って、どこか行ってみるか?」
「ファミレスあるかな?」
「いや、星が見える山の上にはないだろ、普通・・・・・・」
 今日のさやは、いつもより口数は多いのに、遥かに寂しげだった。
「思い出せるかな、昔の事・・・・・・」
 さやの言葉に、俺は心臓を掴まれたような衝撃を受けた。
 そう、今まで、さやは一度たりとも自分の過去を思い出したいと口にしたことがなかったからだ。だから、俺は故郷に未練を持たないさやにすべてを忘れたまま新しい人生を歩めるように、何の伝手もないこの大都会にやって来たのだ。
「そうだな、そのうち思い出すって、医師も言ってたからな」
 俺の言葉は、真っ赤な嘘だ。俺は、さやに過去を思い出してほしくないと思っている。昔のさやに、俺の知っているさやに戻って欲しいとは思っているが、過去を思い出してほしいわけではない。もし医師のいう事が正しければ、過去を思い出せば、さやはあの日何が起こったのか、あの衝撃的な自然現象を目にした全ての人の人生を、そしてその人の価値観すらも変えてしまった、あの恐ろしい瞬間を思い出すことになるからだ。
 俺は、遠くで見ていた俺ですら足が竦み、真っ暗な避難所で何の暖もなく凍えそうになりながら一睡もできずに過ごした夜の事を昨日のことのように鮮明に覚えている。たぶん、俺は死ぬまであの日の事を忘れることはできないだろう。例え百歳まで生きて、アルツハイマーになったとしても、夜な夜なあの日の夢を見ては目覚めるに違いないと確信している。
「お兄ちゃん、これからも、ずっと一緒だよね?」
 振り向いていうさやが、両親の葬儀の後のさやとダブって見えた。
「あたりまえだろ。さやは俺の大切な妹で、ただ一人の肉親なんだからな」
 俺は言いながら、優しくさやの肩を抱き寄せた。それは、兄と妹というよりも、傍から見たら恋人同士のように見えるかもしれない。
 俺とさやは、足早に歩み寄ってくる冬の気配を感じながら、お互いの存在をその体温で確かめ合うように、ファミレスへの道を歩いて行った。


 ファミレスの中は、それなりに混んでいたが、俺とさやは窓辺の禁煙席に案内された。
「えっと、イタリアンハンバーグ、ライス大盛り。それから、クラブハウスサンドイッチとオニオングラタンスープ。あと、ドリンクバーをつけてください」
 俺はバカの一つ覚えのように、メニューを見ずに注文した。いつも来る時間帯が同じだからか、見覚えのあるウェイターは、俺の早口の注文を手早く手元の端末から入力し、丁寧に確認した後、厨房の方へと姿を消した。
「さや、仕事に行かなくていいのか?」
 俺は素朴な疑問を口にした。
「お兄ちゃん、辞めてほしかったんでしょう?」
 さやは珍しく、問いかけに問いかけで返してきた。
「そうだな、あの仕事、さやにはきついだろうと思って」
 俺の正直な気持ちだった。
「見たくないものも沢山見えるし、知りたくないことも知ってしまうし、また心が辛くなって、さやが消えてしまったら困るからな」
 俺の言葉に、さやは少し首を傾げた。それが、悩んでいるのか、俺の言っていることがわからないという意味なのか、俺にはわからなかったが、さやは何も答えなかった。
「行きたくないなら、休んでおけばいいさ。それでお客が減ったら、さやも少しは楽だろう?」
 俺がわざと茶化して言うと、さやは少しだけ笑って見せた。
「私が楽なんじゃなくて、お兄ちゃんが楽なんでしょう。でも、税務署さんは悲しむかもね」
 さやの言葉に、俺は思わず声を出して笑い始めた。
 ちょうどそこへ、さやのオニオングラタンスープが運ばれてきた。
「いただきます」
 さやは言うと、目を輝かせながらスープを飲み始めた。その姿は、大好物のイチゴを頬張る昔のさやの姿にダブって見えた。
 そうだ、あの災害の後、昔のさやと今のさやが全くの別人に見えたことは度々あったが、昔のさやと今のさやがダブって見えることはなかった。もしかしたら、俺にはできないことをあの男にはできるのかもしれない。
 俺は次々と運ばれてくる料理をテーブルの上で並べなおし、『いただきます』と一声かけてから食べ始めた。しかし、食事をするときのさやは、まるで餌を捕まえた肉食獣のようにわき目も振らずに食べ物に向き合い続ける。この点には治る気配は感じられない。
 その時、俺はテーブルの上に置かれたさやのスマホのインジケーターが光っているのに気が付いた。
「さや、携帯光ってるぞ」
 俺が癖でスマホを携帯と言っても、さやはまったく意に介さない様子で、俺の方にスマホを押してよこした。
「何か最近、よく音がするんだけど、どうしたら良いかわからないの」
 さやの言葉を聞きながら、俺はさやのスマホを手に取った。
「ショートメールだな」
 俺は言うと、何も考えずにメールを開いた。そして、本文が目に入った途端、俺は慌てて目を逸らした。
「どうしたの?」
 さやは不思議そうに俺の事を見つめている。
「さや、お前、恋人(やつ)にメール読めないって話してないのか?」
 俺の言葉に、さやは驚いたように目を丸くした。
「メール? 教えてないよ」
「いや、ショートメールは、電話番号がわかれば送れるから、メールアドレスを教えなくても電話番号がわかれば送れるんだよ」
「そうなんだ。しらなかった。で、なんだって?」
 さやの問いに、俺はドギマギして、さやの方にスマホを返そうとした。
「使い方わからないし」
「いや、さや、メールってのは、一種の親書みたいなもんで、断りなく勝手に他人が読んでいいもんじゃないんだ」
「へんなの。お兄ちゃんだし、他人じゃないし、許可してるよ」
「いや、そういう事じゃなくて、恋人からのメール、兄貴に読ませないだろ、普通・・・・・・」
 俺はさやの説得を試みてみたが、さやは納得しそうもなかったので、仕方なくさやのスマホに届いていたメールに視線を戻した」
 どんな恋文かと思えば、宮部からのメールは淡白なものだった。
「紗綾樺さん、お加減大丈夫ですか? よかったら、お返事お待ちしてます。宮部だ、そうだ」
 俺がメールを読むと、さやは何も言わずにサンドイッチを手に取った。
「さや、メールの使い方教えてやろうか?」
「お兄ちゃん、メールしてもダメだって、連絡しておいて」
 さやは何事もなかったように言うが、俺は冷や汗をだらだらとかき始め、口にしたハンバーグのトマトソースの味もチーズの味も分からなくなっていた。
 俺が宮部にさやの携帯からメールを送れば、俺がさやのメールを見ていると宮部に誤解されることになる。この間のGPSの一件でも、やんわり警告を受けているのに、この上、メールまで勝手に見ていると思われたら、俺は奴に最低の人間というレッテルを貼られてしまう。しかし、さやは一切構わない雰囲気だ。
 仕方ないので、俺は言い訳がましく、『メールを使えない妹に頼まれてメールを確認しました。今後は電話での連絡をお願いします。天野目宗嗣』とだけ書いて送信した。
 俺の苦悩を知らず、さやは既にサンドイッチも平らげていた。
 もし俺が宮部だったら、このメールを読んだ瞬間、恥ずかしさで顔を真っ赤にして意味不明な言葉でも叫びながら、枕に頭を突っ込むだろうと思いながら、味のしなくなった夕食をひたすら口に運び続けた。

☆☆☆

 耳になじんだ着信音ではなく、わざわざ設定したオルゴール調の着メロに、慌ててスマホを取り出すと、僕は大きく一呼吸した。
 あの日以来、何度となくメールを送っていたにもかかわらず、紗綾樺さんからの返事はなく、自分でもちょっとしつこかったかなと自己嫌悪に陥りつつあったところなので、ドキドキしながら紗綾華さんをイメージして購入してしまったこの着メロが鳴ったことに正直、嬉しさを隠すことができなかった。
 きっと、捜査の進展を聞くだけのメールだ。僕にとっては心躍る事だけれど、紗綾樺さんにとっては、仕事なんだと、何度も自分に言い聞かせた後、僕はメールを開いた。
 しかし、そこに書かれていた内容は、まったく予想だにしていなかったものだった。
 そう、スマホを持っているのだから、スマホを使えるという僕の中にあった一般的な思い込みは完全に打ち砕かれた。そう、スマホを使えるという事と、スマホを使いこなせるという事には大きなギャップがある。
 思えば一緒にいる間、紗綾樺さんがスマホをいじったことはない。我々の年頃なら当たり前のSNSでのやり取り、メールのやり取り、インターネットでの検索。どちらかと言えば、普通の我々の年代の女性ならば、ある種病的にスマホをいじりまわし、話している時も精神安定剤替わりにスマホをいじったり、装飾華美に近い大量のストラップをもてあそんでいるのが普通なのに、紗綾樺さんはお兄さんからの電話がかかって来た時だけスマホを取り出し、しかも受話も少し戸惑いがちに操作していたようにも思えた。
 僕は勝手に、警察官と一緒だから緊張している、異性と二人っきりだから緊張している、お兄さんに心配をかけたくないなどの理由が相混ざっての事と思っていたが、現実はもっと簡単だった。
 紗綾樺さんはスマホが使えない。しかも、メールに至っては、お兄さんが代わりに返事を書いてくれるという徹底した使えなさという事だったのだ。お兄さんが『メールを使えない妹に頼まれてメールを確認しました。今後は電話での連絡をお願いします。天野目宗嗣』と書いてきているという事は、紗綾華さんにはメールを使えるようになろうという気がないという事を意味しているのだろう。そうでなければ、あのお兄さんが代わりにメールを送ってくるとは思えない。
 ここまで考えると、僕は自分の立てていたメールやSNSを使って事件を離れても尚、二人の距離を少しでも縮められるようにしようという計画が水泡に帰したことを悟った。
「紗綾樺さん、ハードルが高すぎです・・・・・・」
 思わず言葉が口をついて出てしまい、僕は枕の下に頭を突っ込んだ。
 電話は良い。紗綾樺さんの声を聴くことができる。でもだ、でも、仕事の時間がわからない、仕事の時間が不規則すぎる、こういう場合、メールが使えなかったら、すれ違いどころか、完全に関係が切れてしまうじゃないか!
 いつ電話したらいいんだ?
 モーニングコール? いや、起きる時間も分からないし。仕事が終わる時間、鑑定する人数によって違うよな、どうしたら良いんだ!
 頭の上の枕を押さえつけて頭を抱えると、僕はベッドの上を左右に転げまわり、最終的には床に落ちて動きを止めた。
 最悪だ。もう、これは高嶺の百合どころの騒ぎじゃない。
 大きなため息が漏れ、僕は冷たい床から起き上がった。
 安いアパート程安普請ではないものの、ここは独身寮、上を向いても、下を向いても、両隣も、皆、不規則な生活を送っている警察官ばかりだ。夜間の騒音は睡眠妨害で、寮内でトラブルを起こす一番の原因になる。
「ダメだ、明日に備えて寝よう」
 自分に言い聞かせるように言うと、僕はぐちゃぐちゃになったベッドを整えて体を横たえた。

 県警との合同捜査に参加した宮部は、捜査資料の見直し、聞き込み、自宅付近での張り込みなど、県警の要請に合わせて柔軟に対応し、可能な限り紗綾樺から聞いた情報の裏付けを取ろうとしていた。その宮部の努力が報われ、今日は改めて担任の先生から崇君の話を聞く許可が下り、あまり乗り気ではない相棒とともに、既に子供たちが全て帰宅した小学校を訪ねていた。
 しかし、先生の話は前回聞いたものと変わりはなく、要点をまとめれば、崇君は母親の再婚によりこの街に引っ越してきたこともあり、地元の幼稚園から持ち上がりのように小学校に入ってくる子供たちとは違い、どちらかと言えば友達が少ない方だったし、母親の病気が心配で、入院している時は放課後遊ぶこともなく病院に見舞いに行き、退院して家にいるときは、まっすぐ帰宅して母親の看病をしていた。つまり、友達と活発に遊ぶことはなく、友達が少ないことも相まって、休み時間も図書室で借りて来た本を読んだりする、大人しい子供だったという。
 毎年の七夕には、決まって『お母さんが早く元気になりますように』と書いていたというし、クリスマスには『お母さんの病気が治る薬』をサンタクロースにお願いするという徹底ぶりだったらしい。
 その崇君が、母親に何も言わないまま姿を消すとしたら、誘拐しかないというのが担任の先生の言い分だった。
 『もう、同じ話を聞いてもしょうがないでしょう』と言いたげな相棒の様子に、宮部は丁寧に教諭にお礼を言うと、立ち上がりながら紗綾樺から聞いた話を口にしてみた。
 しばらくの間、何を尋ねられているのかわからないという様子で、教諭は戸惑ったものの、何かに思い立ったように目を見開いた。
「確かに、そういう事がありました。ご家族でディズニーリゾートに遊びに行ったことを自慢する生徒が居まして、あまりにもあからさまだったので、自慢話をするのをやめるように注意しました。でも、その事と崇君の事件に何か関係があるのでしょうか?」
 女性教諭は戸惑ったように問いかけてきた。
「いえ、崇君はそういう時にどんな反応を示していたのかが知りたくて・・・・・・」
 敢えて口にしなくても、崇君の家が高額な医療費のせいで生活に窮していることは教諭も良く知っていた。
「とても熱心に話を聞いていました。お母さんが元気になったら一緒に行くんだって、確かそんなようなことを言っていました」
 教諭の言葉から、崇君が貧しさや母の病気で悲観的になるような子供出なかったことも聞いて取れた。
 宮部は礼を言うと、あからさまに『物好きな』という表情を浮かべている相棒と共に学校を後にした。

(・・・・・・・・これで完璧だ。紗綾樺さんの言っていたことに間違いはない。だとすれば、義理の父親が犯人という事になる・・・・・・・・)

 宮部はこのことをどうやって切り出すかを悩みながら、相棒が運転する捜査車両の助手席に乗り込んだ。
「今日は署にもどりましょうか?」
 相棒の『とっととかえりましょうよ』という心の声を聴きながら、宮部は『そうですね、運転、お願いいたします』と丁寧に返した。
 車は住宅街の細い道を抜け、商店街の方へと制限速度を守りながらゆっくりと進んでいった。
 助手席に乗る宮部の視界に、商店街から買い物袋を両手にぶら下げた森沢優斗、つまり崇君の父親が歩いてくるのが目に入った。 
「すいません、車を停めてください」
 宮部は言うが早いか、助手席から飛び降り、森沢に走り寄った。
 当然、この計画にない宮部の行動に、森沢の尾行を担当していたチームも運転手をしていた宮部の相棒も驚いて声を上げそうになった。しかし、宮部は構わず森沢を呼び止めた。
「森沢さん」
 宮部の言葉に、森沢はギョッとしたように立ち止まった。
「まだ、あなたたちは私を尾行しているんですか?」
 非難するような言葉にも構わず、宮部は問いを口にした。
「崇君は、ディズニーリゾートに行ったんじゃないんですか?」
 森沢は紗綾樺でなくともわかるほど動揺し、その顔は驚きと怯えを露わにしていた。
「う、うちには、そんな余裕はありません」
 森沢の声はかすかにふるえていた。
「失礼しました。奥様がお元気になられたら、ご家族でいらっしゃるんでしたね。先程、担任の先生に伺ったお話を勘違いしてしまいました」
 宮部が謝ると森沢は少しほっとした表情になった。
「失礼致します」
 宮部は丁寧に頭を下げると、ハザードを灯して宮部の帰りを待っている相棒の元に戻った。
「宮部さん、困りますよ、勝手なことをされたら!」
 相棒の怒りはもっともだったので、宮部はひたすら平身低頭で謝り続けた。
 しかし、紗綾樺の話通り、森沢が崇君を養子に貰いたいという誰かに崇君を預け、この誘拐とも失踪ともわからない事件を引き起こした張本人だという確信に宮部は至ることができた。
 どれほど紗綾樺の話が本当であろうと、宮部の確信が確固たるものであろうと、証拠がない以上、森沢に真実を話させる以外に事件を解決することは不可能だ。

(・・・・・・・・紗綾樺さんに相談してみよう・・・・・・・・)

 県警側から厳重注意を受けた宮部は、人手不足の補充要員だったにもかかわらず、あっさりとお払い箱にされてしまった。それは、県警の一致した見解が森沢優斗による依頼殺人、遺体遺棄の線に絞られてきていることを物語っていた。県警は森沢を泳がせ、一刻も早く実行犯との接触、謝礼の受け渡しに持ち込ませ、一網打尽にしようというのに、不用意に宮部が近づいたことにより、森沢が警察に未だマークされていることに気付き、実行犯たちとの接触を控える可能性が高く、今後、近辺に宮部が姿を現すのは望ましくないという判断からだった。
 捜査本部に戻るなり、直ちにお払い箱を言い渡された宮部は、平謝りに謝り、『とっとと帰れ』という言葉に背中を押されるようにして署を後にした。
 『とっとと帰れ』と言われたからと言って、『はいそうですか』と、寮の自分の部屋に帰るわけにはいかない。県警からのクレームの電話を受けて、沸騰したやかんのようになって怒りに震えているであろう課長に報告しに署に戻らなくてはならない。
 気が重い。課長から投げつけられるであろう罵詈雑言を考えると、気が重いだけでは済まない。気が滅入って鉛色の気分になる。課長は叩き上げの刑事で課長になった人だから、キャリア組の若い課長と違い、年季の入った刑事だけあって、パワハラに対する考え方も大きくキャリア組とは異なる。そのため、怒りとともに飛び出す単語は、基本的にパワハラ用語ばかりになる。
 今までは、紗綾樺の占い通り、つつがなく仕事をこなしてきた宮部だけあり、一度も暴風雨のような課長の怒りに触れたことはないが、対岸の火事的には何度も目撃したことがある。

(・・・・・・・・警察官としては間違ったことをしたかもしれないけど、崇君を探すために間違ったことはしていない・・・・・・・・)

 宮部は心の中で自分を励ますと、電車を乗り継ぎ署へと向かった。

☆☆☆

 茜色の空が群青色の闇に飲み込まれていく様を見つめていた紗綾樺は、群青色が深い闇の色へと足早に姿を変えて行くに至り、窓際を離れてひきっぱなしの布団の上に横になった。
 最近よく見る夢と言っても、起きた瞬間にぼんやりと憶えているだけの物なのだが、そのせいかパタリと占いの館へ行きたいという気持ちは姿を消していた。
 そんな紗綾樺の変化に兄は戸惑いながらも、『いっそ、占いなんかこのまま止めちゃえばいい』と、紗綾樺の引きこもりをある種歓迎していた。
 思い返してみれば、なぜあんなにも占いの館での仕事に固執していたのか、紗綾樺自身わからなくなってきていた。たぶん、何もできない自分の世話をしながら、暮らしなれない、この都会での生活一切を一人で切り盛りしている兄を少しでも助けたいと思っての事だったのだろう。引きこもるのではなく、外で人に会って、働くことによって昔の紗綾樺に戻ってほしいという兄の心の底にある願いを知って、色々な仕事を試しては面接で落ちる、一日でクビになるの繰り返しだった。やっと仕事を貰えそうだと兄を喜ばそうと、モデルのスカウトだという男の名刺を見せた途端、兄はそれがモデルはモデルでも、裸の写真を撮るモデルだと怒りだし、更に『別に服を脱ぐだけでしょう?』と問い返した紗綾樺に、兄は泣きながら『働かなくていいから、外にも無理に出なくていいから、だから止めてくれ』と懇願した。
 その時の紗綾樺には、何がいけなかったのか良くわからなかったが、今ならなんとなく、裸というのは家族以外には見せてはいけないもので、あの時のモデルという話は、青年向けとよばれる雑誌や、写真誌や、ビデオを作成している特殊な業界で、一部では犯罪組織とも連携している危険な世界であることは理解できるようになった。
 まあ、わかった理由は簡単で、身なりの良い男性と結婚を占いに来た女性のために男の中を覗いたら、偶然あの時のスカウトだという男が見えたので、いつもより念入りに中を覗いてみたら、街で女性をスカウトし、スカウトの時はファッション系の雑誌のモデルと紹介してスカウトする。スカウトに声をかけられた時点でヌード写真を撮ることを紗綾樺が知っていたのは、男の頭の中にある撮影風景が裸の女性ばかりだったから気付いただけの事だったが、他の女性たちは知らずに事務所に連れていかれたのだろう。
 じっくりと男の中を覗いていた紗綾樺は、幸せそうな表情を浮かべて女性の隣に座っている男が悪魔のように思えた。
 この男は、数えきれないほど大勢の女性を騙し、モデルと言って集めた女性たちを無理やり裸にし、写真を撮るだけでは足りず、ビデオを撮らせ、脅し、風俗に売り渡し、あまつさえ売春までさせたうえ、病気になれば始末して遺体を処分させていた。
 この女性だって、結婚と言っても、実際に入籍するのはこの男とではない。この男が今使っている名前の男とで、最終的には保険金目当てで殺されることになる。
 そんな未来を視ながら、紗綾樺は顔色一つ変えず『あまり相性が良いようには見えないですね。結婚されるのであれば、時間をかけて相手の方の事をもっとよく知ってからの方が良いと思います。出会ってから、時間が短いという事はありませんか?』と、隣の占い師が良く使うフレーズで鑑定結果を伝えた。二人が立ち去った直後、隣の占い師から『パクリは著作権の侵害だよ』と意味不明なクレームを受けたので、紗綾樺は仕方なく著作権使用料なる訳の分からない請求に応じ、一万円を払って和解した。別に払うのを拒むのは難しい事ではなかったが、占いコーナーが出来てすぐから店を出しているという隣人とトラブルを起こすのは兄が喜ばないだろうと思っての事だった。
 それからしばらくして、あまりに沢山の人々の未来を視ていたにもかかわらず、そのニュースを見た瞬間、紗綾樺にはそれが彼女だと分かった。それは年度末によくある何件も発生する無理心中のニュースと同じく、淡々とアナウンサーに読み上げられ、彼女が一緒に心中を図った夫とされる男は、当然あの男ではなかった。紗綾樺の見たことのない知らない男性だった。
 今の紗綾樺だったら、余計なお世話と知りながらも、宮部にすべてを打ち明けて女性を助けてもらったかもしれない。きっと、宮部は嫌な顔一つせず、女性を助けることに協力してくれるだろう。だが、その当時の紗綾樺にとって相談できるのは兄だけだったし、兄に話せばすぐに仕事を辞めるように言われて紗綾樺の世界は再びこの狭いアパートの部屋の中だけになってしまっていただろう。
「わたし、どうしちゃったんだろう」
 天井を見上げながら呟いても答えは返ってこなかった。
 無性に誰かの声が聞きたくなり、紗綾樺は枕元に置いてあるスマホに手をのばした。しかし、兄に電話をかければ、心配性の兄は仕事を放り投げてでも帰宅し、また職場とトラブルを起こしてしまうだろう。そう思うと、兄にこれ以上迷惑をかけられないと、スマホを元に戻そうとしたとき、紗綾樺は宮部の事を思い出した。
 思えば、メールを貰ったのに、兄に代わりにメールを送って貰って以来連絡がない。一度くらい、自分から電話をかけてもおかしくはないだろう。そう思うと、紗綾樺は着信履歴の中から、兄の物ではない電話番号に電話をかけてみた。
 呼び出し音が何度か鳴り、『もしもし?』という、囁くような宮部の声が聞こえた。
「すいません、お仕事中ですよね。かけなおします」
 紗綾樺としては、自分以外の人間の声が聞けただけで満足だったが、宮部は紗綾樺の言葉をきいてないようだった。
『いま、電車の中なので、すぐにかけなおします』
 ぷつりと切れた電話に、紗綾樺は大きなため息をついた。なんとなく体が怠い気もしたし、仕事にも行ってないのに疲れたようにも感じた。
「わたし、どうしちゃったんだろう」
 もう一度呟いたところに、スマホの着信音が響いた。
「もしもし」
 紗綾樺が出ると、風が叩きつけるような激しいノイズが聞こえた。
『すいま・・・せ・・・いま・・・・・・が・・・・で・・・・・・』
 かすかに聞こえる宮部の言葉は意味をなしていない。
「あの、切りますね」
 紗綾樺が言った途端、電話の向こうが静かになった。そして聞こえたのは、宮部の優しい声だった。
『すいません、特急列車の通過で、ものすごい音がしましたよね』
「大丈夫です。でも、お仕事中にすいません」
『気にしないでください。正直、嬉しいです』
 宮部の声からは嬉しさが溢れだし、笑顔が目に浮かぶようだった。
「嬉しい? ですか?」
『はい。だって、紗綾樺さんから電話をくれるの初めてですよね。自分の生活時間が固定じゃないせいで、電話だと紗綾樺さんが休んでるんじゃないかと思って、メールにしたら、お兄さんからメールは読めませんって返事が来て、いつ紗綾樺さんに連絡したらいいのかわからなくなって。それに、お仕事、ずっとお休みされてるんですよね。だから、具合が悪いのかなとか、ずっと心配していたんです』
 堰を切った水が溢れだすように話す宮部に、紗綾樺は答える言葉を見つけ出せずにいた。
『じつは、学校の先生に話を聞きました。ディズニーリゾートの件も裏が取れましたし、父親にディズニーリゾートの事を訊いたら、激しく動揺していました。後は、崇君がどこにいるのかわかれば解決です』

(・・・・・・・・そうだ、この人は事件を解決したいから私と付き合っているんだ。私の友達じゃないんだ・・・・・・。友達・・・・・・。友達って、なに?・・・・・・・・)

 紗綾樺の耳には、宮部の報告はもう届いていなかった。
『紗綾樺さん? 聞こえてますか? あ、また特急が・・・・・・』
 宮部の声に続き、再び轟音が響き始めた。
 どうしていいかわからない紗綾樺は電話を切った。
 それから何度か宮部からの着信があったが、紗綾樺は出なかった。

☆☆☆

 何度電話をかけなおしても、紗綾樺は電話に出なかった。
 最初は、お手洗いかな等と考えて時間をずらしてみたものの、何度かけなおしても紗綾樺の電話は鳴り続けるばかりで留守番電話にもつながらなかった。
 もしかして、すごく具合が悪くなってるのかもしれない。
 考えれば考えるほど不安になっては来るものの、これと言った解決方法も見つからない。しかも、僕は県警からお払い箱にされた上、課長からのお小言がもれなくついてくる身で、署に報告に帰らないまま直帰が許される身ではない。
 お兄さんに電話してみようか。
 何度となく宗嗣の番号を呼び出しては消し、紗綾樺に電話をかけるを繰り返していた。
 もし、何でもない事だったら、お兄さんに電話なんかしてややこしいことになったり、紗綾樺さんに迷惑がかかるようなことになったらまずいし。
 悩み続けた僕は決心すると、深呼吸した後、宗嗣でも紗綾樺でもなく、課長の携帯に電話をかけた。
『はい、及川です』
「課長、宮部です」
『宮部か、やらかしてくれたみたいだな、向こうさんはお怒りだったぞ』
 そういう課長の声は、思ったほど尖っていなかった。
「申し訳ありませんでした。課長にまで、ご迷惑をおかけして、本当にもうしわけありません」
『詳しい話は戻ってきたら聞く』
「それが、私事で申し訳ないのですが」
 そこまで言って宮部は言葉に詰まった。
 捜査のためにという理由で宗嗣の前では交際宣言をしたが、実際は告白すらしていなのに、勝手に恋人なんて言っても許させるのか? でも、友達じゃ課長を納得させられない。いや、恋人だって、怒鳴られて終わりかもしれない。いっそ、母親にするか、でも、そういう縁起の悪い嘘はいけないと、どうしたら良いんだ!
『バカ、この程度の事で辞めるなんて言うな』
 僕のだんまりを勝手に解釈してくれた課長の言葉に、僕は涙が出そうになった。
 そうだ、こういう手もあったのか! いや、別に辞めたいわけじゃないんだから、こんなこと言って、『わかった』なんて言われたら困る。
『今日はもう遅い、ゆっくり休んで、頭冷やして来い。詳しい話は明日聞く』
 一呼吸おいてから、課長は自分の返事を待たずに問いかけてきた。
『一つだけ確認しておく、監視対象を警戒させるような今日の行動は、どうしても必要だったんだな?』
「はい、その通りです」
 僕は胸を張って答えた。
『わかった。お疲れさん。ゆっくりやすめよ』
 課長は言うと、僕の返事を待たずに電話を切った。
 僕は紗綾樺さんの家への最短ルートを頭の中でシミュレーションすると、ちょうど入線してきた急行電車に飛び乗った。
 乗り換えのたびに電話をかけてはみるが、紗綾樺さんは電話に出る気配は全くなかった。
 嫌われた?
 身も凍るような恐怖が走る。
 今まで、どんな状況でどんな犯人に対峙しても感じなかった種類の恐怖だ。
 正直、自分自身で言うのもなんだが、外見内面共に普通一般的な女性には好かれるタイプで、初見で嫌悪を示されたり、嫌われたりすることのない安全パイなだ。そのせいで、お友達にはなれても、なかなかその先の恋人にまで進展できず、いつも立ち往生で涙する、基本的にいいお友達でいましょうな男だ。
 これままで、何度も恋をしたが、相手からは男として見られておらず、お友達で終わってきた。数少ない交際経験も、基本的には受け身で告白してくれた相手としか付き合ったことがない。そういう意味では、ここで紗綾樺さんに告白↓撃沈という結果を迎えても、やっぱりな、そうだよなと、ある意味では諦めることができる。いや、正直、今度の恋はあきらめたく無いが、相手の意志を尊重することも愛の形だ。
 ここまで来て、改めて『あんた、惚れっぽいのよねぇ』という母の言葉が脳裏に蘇る。
 そんなことどうだっていい、母親似だろうが、父親似だろうが、どっちにも似てなかろうが関係ない。僕は紗綾樺さんが好きなんだ。あの、最初に出会った日から、長い間、自分では気付いていなかったけど、あの紗綾樺さんと出会った晩から、他のどんな女性にも興味を持てなくなったのは、失恋の連敗記録を更新するのが怖かったからじゃない、あの日、僕は一目で紗綾樺さんに恋してしまっていたんだ。それも、あの最後尾の人に札を渡しに出て来てすれ違った瞬間に。あの白い肌と、対照的な漆黒のサラサラの髪。
 だから、紗綾樺さんに嫌われるのが怖い。
 何度考えても、嫌われる理由が思いつかない。しかも、電話を途中で切られて、そのあと電話に出てもらえないような、そんな嫌われ方をするほど失礼なことをしたことも、言ったこともない。なんで嫌われたんだ!
 電車の時間待ちのホームで僕は叫びそうになりながら、頭を抱えて蹲った。
 嫌われるようなことをしたなら、それは僕に非がある。でも、まだ告白だってしてないのに。なんでだぁ!
「あの、大丈夫ですか? 顔色が・・・・・・」
 おずおずと、控えめな声が耳に届き、僕はゆっくりと顔をあげた。
 心配そうな女性の顔が目に入る。
 昔の僕なら、この瞬間に恋に落ちていたかもしれない。でも、いまの僕は紗綾樺さん一筋だ。
「大丈夫です。急に腹痛がしたもので・・・・・・」
 我ながら間抜けな言い訳だ。頭を両手で押さえる腹痛がどこにある。
 少し不審そうにしながらも、親切な女性は言った。
「あの、駅員さんを呼びましょうか?」
「本当に大丈夫です。ありがとうございます」
 僕は立ち上がると、警戒されないように笑顔を見せた。しかし、相手の女性の顔には『デカイ』という驚きのような表情と、長身で見た目が並み以上の男に出会うと女性が一般的に見せる『ちょっといいかも』と言うような値踏みするような鋭い視線に射抜かれた。
 たぶんここで、警察官であることには言及せず、僕は公務員ですと告げたら、この親切な女性の目を緩いハート型に変えることができるかもしれない。基本的に、公務員は通年を通して最近では安定性が抜群なことから好印象を与える。だから、同期の多くもその手で交際を開始しているが、大抵の場合い、警察官だと分かった時点で別れがやってくる。公務員の中で、不渡り手形的に扱われているのは、警察官、自衛官、海保だが、海保だけは某映画がヒットしてから、カッコいい仕事という括りに入れてもらえるようになったが、基本的に警察官と自衛官だけは、まともに結婚して家庭を持ちたいと思っている男たちの就職先リストから抹消されるという悲しい現実に直面している。だから、後輩の勧誘と新卒確保のための行事に今でも駆り出されている。
 でも、そんなことはどうでもいいんだ。今は、紗綾樺さんの所に急がなくちゃいけないんだ。
 ちょうど待っていた電車が入線してきたので、僕は慌ててお礼をもう一度言った。
「ありがとうございました」
 相手の返事を待たず、僕は身を翻して電車に飛び乗った。
 まるで僕の行為を揶揄するように『駆け込み乗車はご遠慮ください』というアナウンスが耳に届いたが、僕は紗綾樺さんからの折り返しの電話がかかってくるのを祈りながらスマホをじっと見つめ続けた。
 しかし、紗綾樺さんからの電話はなかった。
 移動と電話をかけることを繰り返しているうちに、とうとう着いてしまった。目の前には、いつも宗嗣さんがけたたましい音を立てて駆け下りてくる階段が視界を斜めに横切っている。
 見上げても部屋に明かりがついているようには見えない。
 留守なのか? 宗嗣さんと外出してる?
 考えながら一歩ずつ前に進み、一段ずつ音を響かせないように階段を上った。
 つ、着いてしまった。本当に、着いてしまった。
 まるで、初めて訪れる恋する人の家の前のようにドキドキし始める心臓におとなしくなるように言いながら、僕は玄関のベルを鳴らした。
 それは、インターフォンなどという洒落たものではない。一方通行で、誰かが来たことを家人に知らせるだけのベルだ。
 部屋の中に人の気配を感じないまま、僕はもう一度、そしてもう一度ベルを鳴らした。

☆☆☆

 玄関のベルが鳴っても出なくていいと、兄からは言われていた。
 私にはよく変わらない、色々な理由があるらしく、はっきりと『これこれこういう理由だから』とは、説明されていない。でも、兄が心配するなら、心配をかけないようにと、私は玄関のベルがどれだけしつこく鳴っても、ノックされても出たことはない。
 だから、玄関のベルがしつこく鳴らされても、ああ今日はしつこいなくらいにしか思っていなかった。しかし、玄関の扉を叩かれ、名前を呼ばれるに至り、私は仕方なく立ち上がると玄関のところまで歩いて行った。
 歩いていくなんて言うと大袈裟だけど、私の居た窓辺から玄関までは、ほんの数歩、どう頑張っても十歩にはならない距離だ。
『紗綾樺さん、大丈夫ですか?』
 何を焦っているのか良くわからないが、薄い玄関の扉を挟んで聞こえてくるのは宮部の声に間違いない。
「はい」
 しぶしぶ返事をすると、私は玄関のカギを開けて扉を開いた。
 建付けの悪い扉に力を込めて開いた瞬間、ゴツンという音が聞こえた。
 しまった、うちの扉は外開きだから、『玄関前に人が立ってると扉に殴られることがあるから注意するように』と言われたのをすっかり忘れていた。
「紗綾樺さん?」
 扉に縋りつくようにして、頭を片手で押さえた宮部が顔を見せた。
「よかった。無事だったんですね」
 一人で盛り上がっているが、意味が全く理解できない。
「この間、無理をさせたせいで具合が悪いんじゃないかと、ずっと心配していたんです」
 ずいぶんと前の事を気にしていたとは、思ったより思いやりのある男みたいだ。
「占いの館に行ったら、あれ以来お店を休んでるって聞いたんで、心配で何度お電話しても出ないから、心配で心配で・・・・・・」
 言葉を挟む暇も与えず、宮部は話し続ける。
「お兄さんに電話して聞こうかと思ったんですけど、まさか、あの日の事を話すわけにもいかないので、仕事を待ってもらって、飛んで来たんです」
 そこまで言うと、宮部は大きく息を吸った。
「無事でよかった」
 こんなに心配されるのは、兄以外では初めてだ。しかも、心配の仕方がまるで兄そっくりだ。
「本当に、無事でよかった」
 宮部は言うと、その場にしゃがみ込みそうになった。
「あの、入ってください。うちの扉が開いてると、奥の部屋の人が出入りできないですから」
 私は、扉を閉めたいときに兄が使う言い訳をそのまま口にした。
 実際、兄がこの言葉を使うのは、しつこい勧誘が来た時なのだが、私には他には何と言っていいのかわからなかったので、そのまま使うことにした。
「あ、そうですよね。失礼します」
 宮部は言うと、扉を閉めて部屋に入ってきた。
「どうぞ」
 私は言うと、この間兄がしたように宮部に上がるように促した。
「ありがとうございます」
 宮部は言うと、更に『おじゃまします』と声をかけてから部屋へと上がってきた。
 私は兄がするようにお茶を用意すべく、お茶の缶を取り出し、電気ケトルに水を汲んでスイッチをオンにした。
 兄の話では、私は家事を良く手伝い、得意な料理も沢山あったらしいのだが、正直、まったく何も覚えていない。ましてや、火の傍に立つなんて、考えただけでも恐ろしい。
 そんな私のために、兄はIHとかいう、火を使わずに料理ができる台所にしてくれたのだが、料理を作るという行為そのものが私にはしっくりこない。だから、兄がいない間は、ペットボトルに入った飲物か、冬場は保温ポットに入れておいてくれるお茶しか飲まない。だから、お茶を自分で入れるという行為は、もしかしたら、この部屋に住み始めて初めての事かもしれない。そんなことを考えながら、私はカップを探してシンクの下を覗き込んだ。
 瞬間、宮部の文字では表現できないような絶叫が部屋に響き渡った。
 驚いて振り向くと、宮部は両手で顔と言うよりも、目を覆って下を向いていた。
「あの何か?」
 私の問いに、宮部は顔を真っ赤にして黙していた。
「いま、お茶を・・・・・・」
 そこまで言ったところで、宮部はくるりと背を向けると、立ち上がって私の方に歩いてきた。
「紗綾樺さん、お茶なら自分が煎れますから、休んでいてください」
 宮部が何を言っているのか分からず私が首を傾げると、宮部はダメ押しするように私の腕をつかんで奥の部屋の方に引っ張っていった。そして、半分開いた襖の向こうに敷かれている布団を見ると、ギョッとしたように立ち止まった。
「休んでいてください。自分がお茶を煎れて運んできます。すいません、お休みの所におしかけてしまって」
 宮部は真っ赤な顔をして謝ると私に背を向けた。
 本当なら、何を考えているのか読んでしまえば良いのだけれど、相当焦っているくせに、宮部の思考はガッチリとガードされていて、囁くほども漏れてこない。
「とにかく、やすんでいてください」
 宮部は言うと、私を置いて部屋の反対側へと戻っていった。

☆☆☆

 玄関の扉が開いて紗綾樺さんの姿が見えた瞬間、嬉しくて思わず抱きしめてしまいそうで、仕方なく扉にしがみついてその衝動を抑えたが、勧められるまま部屋まで上がり込んでしまったものの、当然ながら、仕事で出かけている宗嗣さんは返ってきていない。つまり、密室で紗綾樺さんと二人っきりという事だ。
 どうしよう。
 どうしようって、どうもこうもない。困る方がおかしい。
 いや、人目がある。こうして自分が考えもなく部屋まで上がり込んでしまったせいで、近所に変な噂でもたったら、紗綾樺さんに申し訳ない。
 でも、今時、そんなことで『隣は何をする人ぞ』という都会の疎遠な人間関係の中で噂なんてたつのか? いや、噂がたつ、たたないの前に、独身女性の部屋に男が上がり込んでいいのか? ん、でも、ここは一人暮らしじゃなく、宗嗣さんと同居の部屋だし。いざとなれば、宗嗣さんを訪ねて来て待っているという事で、噂は回避できるかもしれない。
 それより、具合の悪い紗綾樺さんにお茶なんて煎れさせていいのか? 見舞いに来た方がするべきことじゃないのか? でも、見舞いと言っても焦りすぎて手ぶらだ。花一本、フルーツ一個持ってきていない。これで見舞いと言えるのか? それなら、せめてお茶を煎れるべきだ!
 僕は取り留めのない考えをまとめると、『お茶は自分が煎れます』と言おうと紗綾樺さんに視線を戻した。
 よく考えれば、部屋の電気は消されていて、街灯の明かりで部屋が照らし出されているだけの暗さだ。そのせいで気付かなかったが、よく見れば紗綾樺さんは男物のダブダブの襟付きシャツを着ているだけだ。シャツの裾から覗く白く細い足はとても美しい彫刻のようで、思わず目を離せなくなる。
 ある意味、目の保養ではあるが、美し過ぎて妖しい欲望は湧いてこない。これが逆にフリフリ、ヒラヒラのネグリジェなんかを着ていられたら、ダッシュでお暇しないといけない事になっていたかもしれない。
 次の瞬間、紗綾樺さんがよりにもよって僕の方に腰を突き出すようにして体を折った。
 理由は、シンクの下の扉を開けたからだが、問題なのは、薄暗い部屋だから絶対とは言い切れないが、たぶん、ほぼ確実に、間違いなく、紗綾樺さんが下着をつけていないという事だ。
 そこまで考えが到達した瞬間、自分でもよくわからない声をあげて僕は叫んでいた。
 およそ、隣近所に響き渡りそうな声だ。
 それと同時に両手で目を覆った。それでも、顔に血が上って行き、明るい部屋ならタコのように真っ赤な顔になっているであろうことは自分でも感じられた。
 やばい。紗綾樺さんが何か言っているようだが、もう、言葉を理解できないくらいのパニックだ。とにかく、お茶を煎れよう、僕が、それで、紗綾樺さんには休んでいてもらえばいい。見舞いに来たんだし、当然だ。
 そこまで考えると、僕はいったん背を向けて立ち上がり、紗綾樺さんの所まで行くと、ちょっと強引かなとは思いながらも、その手を掴み、なんとか『紗綾樺さん、お茶なら自分が煎れますから、休んでいてください』と、言えたはずだ。それから、紗綾樺さんの手をひいて数歩、奥の部屋へと進んだ僕の目に、寝乱れた一組の布団が目に入った。
 枕元に紗綾樺さんのものと思しき洋服一式と女性ものの下着の上下が揃えてあるという事は、間違いなくシャツの下の紗綾樺さんは下着をつけていない。
 違う! そんなことは重要じゃない。いま重要なのは、あの布団は紗綾樺さんのもので、僕は具合が悪くて着替えもしないで休んでいた紗綾樺さんを叩き起こし、あまつさえお茶まで煎れさせようとしている不心得者だという事だ。
 とにかく、僕の理性が吹き飛ばないうちに・・・・・・。
 違う、違う! 紗綾樺さんの具合が悪くならないように、紗綾樺さんには布団で休んでもらって、僕がお茶を煎れる!
 ひたすら謝り、休んでいてくれるように頼むと、僕は紗綾樺さんを奥の部屋に押し込んでから、紗綾樺との距離を取るようにカチリと音を立ててお湯が沸いたことを知らせる電気ケトルの元まで戻った。
 あと、どれだけ僕の理性もつんだ?
 バカか、僕は。こんなこと考えていたら、紗綾樺さんに筒抜けになるのに、もう、嫌われてもしょうがないようなことばかり考えてる。
 自分の愚かさに気付くと、ズーンと気持ちが暗くなった。
 それから、紗綾樺さんが覗いていたシンクの下を覗き込んだ僕は、紗綾樺さんがこの間のカップを探していたのだと気付いた。
 そうだよな。いつもは、お兄さんと二人きり、お客の分の食器やカップなんて用意していないのが普通だよな。
 たぶん、宗嗣さんに恋人がいたとしても、紗綾樺さんの事を思えば家には呼ばないだろうし、この間の話からすれば、紗綾樺さには過去にも恋人と呼ぶような男はいなかった。それに、いたとしても、兄と二人暮らしの部屋に恋人を招待することはないだろう。そうすると、この部屋に入ることを許された第三者は僕が初めてっていう事になるのか?
 僕は考えながら、あのカップを宗嗣さんが箱から取り出していたことを思い出した。
 知っている人もいない都会での二人だけの暮らし。慎ましく、ひっそりと、まるで身を隠すような暮らし。
 僕はカップを取り出すと、この間紗綾樺さんが使っていたカップとポットを棚から取り、あの晩を思い出させる煮えたぎるお茶を煎れた。
 ふと見ると、きれいに片付いた洗いかごにはお皿も箸も何もおかれていない。
 もしかして紗綾樺さん、何も食べてないのか?
 僕は考えながら、お茶をポットから注ぎ、二つのカップを手に紗綾樺さんのいる部屋との境まで歩いて行った。
 幸いにも、紗綾樺さんはおとなしく布団の中に入って横になっていてくれた。
「お茶、熱いですよ」
 僕が紗綾樺さんの布団の脇にカップを置くと、紗綾樺さんは、ゆっくりと上体を起こした。僕は魅惑的な胸元を覗き込まないよう、紗綾樺さんから少し距離をとって正面に座った。
「もしかして、何も食べてないんですか?」
 僕の問いに、紗綾樺さんは少し考えてから頷いた。
「朝から、何も食べてないんですよね?」
 続けて問うと、紗綾樺さんは困ったような顔をした。
「起きたら食べるように、向こうの部屋に兄がパンを買っておいてくれていると思います。でも、今日は、食べるの忘れてました」
 言ってから笑って見せる紗綾樺さんに、僕は紗綾樺さんの事がとても心配になった。
「食欲ないんですか?」
「よく、わからないんです」
 紗綾樺さんが呟くように答えた。
「私、友達もいないし」
 えっ、友達?
「さっき、なんとなく誰かと話したくて、宮部さんに電話をかけちゃったんです。ご迷惑でしたよね。すいません」
 そう言うと、紗綾樺さんは頭を下げた。
「宮部さんが親切にしてくれるから、友達になったつもりで・・・・・・」
「恋人です」
 僕は紗綾樺さんの言葉を遮った。
「それは、本当じゃないです」
 心なしか、紗綾樺さんの声が寂しそうに聞こえた。
「紗綾樺さん、僕は、本当に紗綾樺さんが好きなんです。だから、本当に紗綾樺さんの恋人になりたいんです」
 言ってしまってから、僕は自分のTPOを思いっきり無視した発言を後悔した。
「やさしいんですね、宮部さんは」
 紗綾樺さんの瞳は、どこか遠くを見つめていた。
「好きな女性に優しくするのは、当たり前ですよ」
 もう半ば自棄になって僕は言葉を継いだ。
「いろいろ、お仕事してみたんです。でも、人と一緒に働くお仕事はダメで。友達もできなくて・・・・・・」
「紗綾樺さん・・・・・・」
 とったはずの紗綾樺さんとの距離が自然と縮まっていく。
「お兄ちゃんは言うんです。昔は沢山友達がいたって、だから、心配しなくてもそのうち友達はできるって。でも、一人もできません」
「あの、僕じゃダメなんですか? 紗綾樺さんの友達」
 僕の言葉に、紗綾樺さんは僕を見上げた。
「宮部さんは、事件が解決したらいなくなってしまうでしょう」
 紗綾樺さんの瞳が語る孤独に、僕は紗綾樺さんを抱きしめた。
 紗綾樺さんは驚いたようだったが抵抗しなかった。それと同時に、僕は自分の心の奥に秘めていた紗綾樺さんへの深い想いを隠すのをやめた。
 ただ、ただ、紗綾樺さんをいとしいという想いが溢れだす。
 僕の心を読んだ紗綾樺さんの瞳が再び驚きで揺れた。そして、紗綾樺さんが僕の瞳を見つめた。
 僕はいなくならない、紗綾樺さんが僕を嫌いだというまで。紗綾樺さんが他に好きな人が出来たと、僕とは付き合えないと言うまで、僕は紗綾樺さんのそばを離れない。
 溢れていく想いが紗綾樺さんの体にしみこんでいくような不思議な感覚だった。
「ほんとうに?」
 僕は心で答えるのと同時に、大きく頷いて見せた。
 不安げに問いかける紗綾樺さんの唇を塞いでしまいたいと、体の奥底から湧き上がる欲望を僕は払いのけた。
 恋人としてのキスを交わすのは、まだ先、もっともっと自分と紗綾樺さんの心が近づいてからだ。
「私の友達に?」
 継がれた紗綾樺さんの言葉は、表現するならドラム缶で殴られたような衝撃を僕に与えた。それと同時に、キスしなくて本当に良かったと僕は思った。
 でも、ここでくじけたら終わりだ。どんな恋愛だって、最初は友達から始めてはいけないという事はない。特に、僕と紗綾樺さんのような特殊な出会い方をしてしまった場合、一足飛びに恋人になるのではなく、一歩ずつ近づいて、紗綾樺さんが僕を好きだと思ってくれた時、本当の恋人になれるんだ。
 僕は自分で自分を励ましながら紗綾樺さんの問いに答えた。
「ずっと一緒にいます。紗綾樺さんが悲しい時も、寂しい時も、嬉しい時も。ずっと一緒です」
「ありがとう」
 紗綾樺さんは言うと、その手を僕の体に回して抱きしめ返してくれた。
 その瞬間、僕の背中でゴトンという大きな音が聞こえた。
 驚いて頭だけで振り向くと、そこには目を瞬く宗嗣さんが立っていた。

☆☆☆

 重い野菜の入った袋をぶら下げながら、俺は玄関の扉の鍵が開いていることに首を傾げた。
 俺が出勤するときは、当然、さやが寝ているのだから三度は鍵がかかっていることを確認している。それに、もしさやが仕事に行ったとしたら、さやも鍵をかけることは忘れなくなっている。まあ、忘れたとしても盗まれるようなものもないが。それよりも鍵が開いているという事は、最悪、誰かが訪ねて来たのでさやが鍵を開けたまま閉め忘れ、部屋の奥で寝ている可能性があるという事だ。
 俺は扉を開けると、すぐに見慣れない靴が揃えられているのに気付いた。
 まさか、押し売りのセールスマンではないだろうが、さやが誰かを部屋に入れるとは考えられない、とすると、押し込まれた? いや、押し込み強盗が丁寧に靴を玄関で脱いでそろえておくとは思えない。じゃあ、誰だ?
 俺は警戒心を解かないまま部屋に踏み込んだ。
 相変わらず薄暗い部屋の奥に人影が見え、さやの声も聞こえる。
 ほんの三歩進んだだけで、男がさやを抱きしめているのが見えた。
 しかも、立ち聞きしたいわけでもないのに、この距離になると二人の言葉もはっきり聞こえてしまう。

『・・・・・・紗綾樺さんが悲しい時も、寂しい時も、嬉しい時も。ずっと一緒です』
『ありがとう』

 俺の目の前で、さやの腕が男の体に回されていく。それは、男に一方的にさやが抱きしめられているのではない。さやの意志でその腕が男に回され、見間違いではなく、二人は抱き合っているのだ。
 あれほど人に触れるのも、触れられるのも嫌がっていたさやが、自分の意志で相手の体に腕を回している。あのさやが・・・・・・。
 今目にしていることが夢ではなく現実だとしたら、相手はあの宮部と言う男に違いない。
 あの男は、俺がどれだけ頑張っても成しえなかった事を、さやに人間らしい感情と心をとりもどさせるという事を、さやに感情表現させるということをこんな短時間で、まるで大したことではないかのように成しえたのだ。そう思った瞬間、俺の手から買い物袋が滑り落ち、激しい音をたてた。
 驚いたように振り向いたあの男は、俺の中に何を見ただろう。
 怒り? 嫉妬? 驚愕?
 たぶん、どれも正しくて、どれも間違っている。
 俺は確かに驚いたし、俺が何年かけても取り戻せなかったさやの感情をいとも簡単に取り戻した奴に嫉妬したし、俺に何の断りもなく、俺の不在の部屋に上がり込んでさやと親密な関係になろうとしていることにも腹を立てたし、さやが奴に心を許しているという事を知って驚いてもいる。
 でも、違う。本当は、俺は嬉しいんだ。人形のように感情のなかったさやが、感情を少しでも取り戻せたことが、何よりも嬉しかった。
 じっと見つめる俺の前で、奴は慌ててさやから体を離すと俺の方に向き直った。
「事前の承諾なく、勝手にお邪魔して申し訳ありません」
 奴は言うと、茫然としている俺の前で大して綺麗でもない床に額をこすりつけそうにして頭を下げた。
「お兄ちゃん、おかえりなさい」
 布団の上から言うさやは、心なしか笑みを浮かべていたが、恋人と抱き合っていたところを兄に見られたと事を恥じらう様子は全くなかった。
 あまりにも温度差がある二人の態度ではあるが、あの日以来、初めて聞く温かみのあるさやの言葉と笑顔だった。それは、いつもの棒読みのような言葉とは大きく違っていたし、能面のような人形のような表情とも違った。
「ただいま、さや。宮部さんも、むさくるしいところへ、いらっしゃい」
 俺は何事もなかったように言うと、落ちた野菜を拾い集めた。
 すると、奴は慌てて野菜を拾うのを手伝い始めた。
「大したものは作れないですが、夕飯食べて行きますか?」
 野菜を手にした俺が言うと、奴は驚いたように俺の顔を見つめてきた。
 その瞳には、困惑が浮かんでいた。
 なぜ俺が怒っていないのか、いきなり食事に誘うなんて、どういう心境なのだろうかと、戸惑っているのだ。これくらい、さやでなくても俺にもわかる。
「お兄ちゃん、夕飯なに?」
 さやはいつもの格好で布団から這い出てきた。
 よく見れば、下着も服も、朝俺が置いたまま綺麗にそのままになっている。
 マジか! さやの奴、シャツの下は何も来てないのか!
 俺は手に持った野菜を全て放り投げ、頭を抱えて、同時に目を覆いたかった。
 玄関の扉を開けたのだろうから、下着ぐらいは身に着けているのだろうと思っていたが、着替えていないことから考えれば、昨夜寝て起きたままの姿でいるのは当たり前だ。だいたい、さやにとって着替えるというのは、この部屋の外に出るときの為だけという解釈らしく、この部屋にいる限り、確かに率先して下着どころかそれ以外の物を身に着けようとしたのを見たことがない。
 こいつ思ったよりも理性的で、自制心が強いらしいなと、俺は初めて宮部と言う男を見直した。
「カレーライスか、野菜炒めだな」
 俺は手に取った玉ねぎを見せながらさやに答えた。
「オニオングラタンスープは?」
「だから、それはオーブンがないとできないんだってば。カレーライスか野菜炒めであきらめてくれ」
 俺は言うと、さやの返事を待たずに背を向けると冷蔵庫を開けた。
「じゃあ、カレーライス」
 さやの答えに、俺は『わかった』と答えると、キャベツを冷蔵庫にしまい、かわりにニンジンを冷蔵庫から取り出した。
「宮部さん、食べて行きますよね?」
 別に圧力をかけるつもりはなく、仕事が終わって腹が減っているだろうという心遣い、単なる武士の情けのようなものだ。
「あ、ありがとうございます。でも、急なことで、ご迷惑じゃありませんか?」
 遠慮がちに答える奴に、俺は軽く後ろを振り向いて笑って見せた。
「さやの恋人なんだから、遠慮しなくてもいいですよ。最近はずっと引きこもりだったから、さやもあなたに会えて嬉しいんでしょう」
 心なしか、奴を見つめるさやの表情が柔らかく微笑んでいるのが、かなり頭にくるが、それは胸の奥にしまっておくことにした。
「じゃあ、お言葉に甘えて、ご馳走にならせていただきます」
 奴が答えると、さやは太ももが露わになるのも気にせず、ちょこんと奴の隣に座った。
「あ、あの、紗綾樺さんはお休みになっていた方が、良いかと思います」
 ハッキリ言って兄の俺でさえ目のやり場に困る、悩殺セクシー姿のさやにドギマギしているのがわかるので、震える奴の声を聴きながら俺は、さすがに、これだけ毎日続くと、俺はもうドギマギしたりしないんだぜと、良くわからない優越感を抱きながら笑いをかみ殺した。
「さや、パジャマなら寝てろ。起きるならちゃんと着替えてきなさい。宮部さんはお客様で家族じゃないんだからな」
 俺が声をかけると『わかった』という声がして、さやが奥の部屋に入っていく気配がしたが、当然、襖を閉める気配はない。
 次の瞬間、何が起こるのかを察したらしい奴が猛スピードで襖を閉めるバシンという音が部屋に響いた。
 いくら結婚を前提にお付き合いとか言っても、家でのさやを知らなかったわけだから、たぶん驚きの連続だったんだろうなと、俺は心の中で意地悪な笑みを浮かべたりして見た。
 だから、いきなり人の気配を隣に感じた時は、ドキリとした。
「あの、お手伝いします」
 奴は言うと、すっと俺の隣に立った。
「いや、お客様なんで、座っててください」
 俺は答えると、水を入れた鍋をクッカーにかけ、手早く野菜の皮をピーラーで剥いた。
「仕込みだけしたら、すぐにお茶をいれますよ」
 言ってから、俺はいつもの位置にポットがないことに気付いた。
「あ、お茶でしたら、自分が・・・・・・」
 言葉の先は聞かなくても分かる。さやにはお茶を煎れる準備はできても、煎れたことは一度もない。
「お茶を煎れてくださってありがとうございます」
 俺はお礼を言うと、やはりさやの事を少し宮部に説明しておくべきだと考えた。
「さやは、家事はできないんです」
 俺が言うと、宮部は何も言わず隣に立って俺の話を聞いていた。
「火と刃物を怖がるんで、うちではIHと電気ケトルを使ってます。刃物は、さやが見えないようにして使います。だから、出先でキャンプファイヤーみたいなものとか、松明とかあった時には気遣ってやってください」
「じゃあ、暖炉のあるお洒落なマナーハウス風レストランはダメですね」
 奴は残念そうでいて、少し安心したように言った。
 たぶん、マスコミでも取り上げられている東京の中心にあるとは思えない本格的マナーハウス、確か二人でディナーすると万札が超音速で飛んでいなくなり、翌日には消費者金融に駆け込まないといけなくなるという、恐怖だけれど、ロマンチックさは桁外れ、ナイトのようにプロポーズすれば、断られることはないという、ものすごい売り込みのデートスポットにさやと行きたいような、ねだられたら間違いなく消費者金融行きだったという、そんな複雑な感情が織りなす表情だったのだろう。
 何しろ、さやの幸せ第一、恋人いない記録をダントツ更新中の俺でさえ、あの広告を見た瞬間、俺には似合わないけど、あんな素敵なところに恋人と行けたらと思ったくらいだ。さやという恋人がいる奴が考えないわけがない。
 正直、七割引きになるなら、良い経験になるからとさやを連れて行ってやるところだが、定価では手も足も出ない。
「いつも、お兄さんが食事を用意されているんですよね?」
 職業柄なのか、食事に誘われたからの気安さからなのか『お兄さん』と俺を呼ぶ奴に、俺は一言『お前の兄貴になった覚えなんぞないぞ』と言ってやりたかったが、話を脱線させたくなかったので、そのまま素直に返事をした。
「ええ、そうです。帰ってきて夕飯を作って、出かける前にさやの朝食を用意して、それから、飲み物もポットに入れておきます」
 俺がこんな事を話すのは、紗綾と付き合って結婚するという事がどういうことなのか、それをちゃんと理解して貰いたかったからだ。
 この男の事だから、ありえないとは思うが、良いとこ取りされて、いざとなったら家事ができない、刑事の妻にはふさわしくないなんて言って、出世につながりそうな上司からの縁談に飛びついてさやの事を放り出したりされたくないから。もし、無理だと思うなら、今のうちに現実を理解して身を引いてもらいたいから。
「うちは、母一人、子一人なんです」
 奴の言葉に、俺は思わず奴の方を向いてしまった。
「あ、紗綾樺さんから聞いてますか? 今の部署への異動を受けるかどうか悩んで、悩んで、歩いてたら偶然に紗綾樺さんの占いの館の列に並んじゃったんです。で、馬鹿みたいに普通の会社員のフリして占ってもらったんです。そうしたら、紗綾樺さん怒って。でも、移動しても怪我もしないし、母を悲しませることもないから、心配ないって言ってくれたんです。それで、今の部署に異動したんです」
 初めて聞く話だったが、これが二人の出会いと言うわけか。でも、あのさやが怒った? さやは、占いは感情がいらないと言っていたのに、こいつには怒ったりしたのか。
「本当に、怪我もせず、ずっと続けてこれました」
 俺の前でも憚ることなく、さやの能力を信じているとこいつが言うのは、そういう理由だったのかと、俺は改めて納得した。
「最近は仕事が忙しくて料理をすることはないですが、これでも昔は働いて帰ってくる母のために料理してたんですよ。詰襟の学生服着て、スーパーのお買い得品やタイムセールを近所のおばさんたちと争ってたんです。だから、もしお兄さんが風邪をひいたり、仕事でどうしても手が足りないときは声をかけてください。自分がお手伝いしますから」
 正直、とてもありがたい申し出だった。
 俺一人だと、インフルエンザで高熱を出して寝込んでいてもさやは、おかゆ一つ作れない。買い物には行かれるが、細かく何処で何を買うかを指示しておかないと買えずに戻ってくることもある。
 そういう時のさやは、まるで檻に入れられた野生動物のようで、水しか飲まず、食べ物も口にしないで、ただじっと俺の傍に付き添っている。
 もし、こいつが手伝いに来てくれれば、俺が病気になってもさやにちゃんと食事をさせてくれる。
 そこまで考えてから、俺はハタと現実に立ち返った。
「お申し出はありがたいですけど、警察官って、そんなに簡単に休み取れたりするんですか?」
 俺の疑問に、奴の顔が一瞬のうちにひきつった。
 そうだろう。たかが派遣の俺とは違い、公務員の奴には有休もボーナスも、夏休みも、正月休みだってあるんだろう。たぶん、忌引きだって有給のはずだ。
「その時の状況にもよりますが、融通がきくこともありますし、きかないこともあります。担当している事件次第です」
 まあ、当然だろう。
 いくら公務員が優遇されているからと言って『デートの時間なんで~』と言って、捜査中の警察官が帰宅したら、即日マスコミネタになる不祥事だろう。だとしたら、恋人が病気、いや正確に言うと、恋人の兄が病気なので早退なんて、できないだろう!
 期待させやがって!
 俺は腹立ちまぎれに沸騰している湯の中に肉を投げ込んだ。
「あれ、油でお肉と野菜を炒めないんですか?」
 奴は驚いたように俺に問いかけてきた。
「あー、それカレーのルーの箱に書いてある作り方だろ?」
 俺は何年も前に自分でも読んだことのある箱の裏に書かれているカレーの作り方の事を思い出しながら答えた。
「はい。自分は、ずっとあの箱に書いてある作り方で作っていたので・・・・・・」
 奴は少し恥ずかしそうに言った。
「肉の味を肉の中に留めておくって意味では、先に外側を油でいためておくのは良い方法だと思うけど、家庭でそれやったら肉が硬くて歯が立たなくなるだろ。だから、沸騰した湯に肉を入れて、野菜と一緒に煮るんだ。そうすると、時間さえかければ、結構安い肉でも柔らかくてトロトロにできるし、油を使わないから片付けもらく、更に健康にも良い。良い事づくめってやつだ」
 俺は自慢げに言うと肉の外側が完全に火が通って色が変わったの確認しながらニンジンと玉ねぎを入れた。
「そうなんですか。いっつも、あの堅い肉が恨めしくて、意地になって噛んで顎が痛くなったこと、何度もあるんですよ。何しろ、牛肉は一番安いのしか買ったことないですから」
 奴は言うと、少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
「普通、そうだろ。松坂牛だのなんだのって、庶民の手が届く値段じゃないからな。うちも家計がピンチになったら、冷凍のシーフードミックスを使った海鮮ホワイトシチューや大量作りできるトン汁を冬場は連発するからな」
 俺は自慢することでもないのに、思わずしゃべり続けた。
「あっ! やっぱりジャガイモって、水にさらさないといけないんですか?」
 話しながらジャガイモの皮をむいてカットし、水を入れたボールに転がり入れているのを見た奴が問いかけてきた。
「俺はそうさやに言われた。ジャガイモは水にさらしてから使えって。だから、そうしてる」
 俺が言うと、奴が俺の事を不思議そうに見つめた。
 ああそうか、俺は奴にさやは家事ができないと教えたばっかりだったっけ。
「昔はできたんです。亡くなった母とよく並んで台所に立ってました。でも、あの日からすべてが変わってしまった」
 俺はそこで言葉を切った。奴にさやの過去に触れてもらいたくない。さやにつらい思い出を取り戻させたくないから、奴にさやの過去を教えたくないから、俺はそれ以上続けなかった。
「あの日って、あの震災の事ですよね?」
「やめてください。この部屋で、いや、さやの前でそのことは話さないでください。過去は詮索しないと、約束しましたよね?」
 俺が語気を強めると、奴は少し目を伏せた。
「すいません、詮索するつもりはなかったんです。以後、気を付けます」
 奴がすぐに謝ったので、俺はそれ以上なにも言わず、ジャガイモの水をきり鍋に入れた。
「さやを苦しめたくないんです。わかってください」
 俺は言うと鍋に蓋をした。
「座りましょうか、なんか男が二人でこの狭い台所に立ってるのって、サマにならないですから。あ、ちょっと、さやの様子を見てきます」
 俺は言うと一気に部屋を横切って襖を少し開けて中を覗いてみた。
 さやは奴が来ていることも俺が帰ってきたことも忘れているのか、着替えはしたようだったが、うつろな瞳で窓の外、空を見上げていた。
「さや? 着替えたのか?」
 声をかけると、さっきまでの色どりを取り戻したさやではなく、色のない世界に住んでいるようなさやが振り向いた。
「具合、悪いのか?」
 こういう急激な変化は今までも何回もあった。一緒にファミレスに歩いていくとき、仕事のない日に買い物に行ったり、楽しいと感じているように見えたさやがいきなり変わる。
「宮部さん来てるの忘れてないよな?」
 俺の問いにさやは頷くだけで言葉では返事をしなかった。
 仕方がないので、俺は奴の方に向き直った。
「すいません、さやの奴、すこし本調子じゃないみたいです」
 さやのような状態を表現する言葉を俺も知らない。病気ではないし、いや、病気なのかもしれないが、記憶障害以外の病気を指摘されたことはない。
「もしかして、紗綾樺さん鬱なんじゃないですか?」
 奴の言葉に、俺は右手を顎にやりながら考えた。
「記憶障害からくる鬱的な状態と言われたことはあります。もう、ずっと前の事です。でも、薬が効くわけでもないですし、カウンセリングが効くわけでもなくて」
「そうですか。すいません、立ち入ったことを訊いてしまって」
 俺の怒りを恐れてか、奴はすぐに引き下がった。
「いや、鬱なら治療できるし、いっそその方がいいんです。誰にも分らない状態より、治る確率がある方が俺としても嬉しいし」
 本音だった。どんな難しい病気だって、治療できる方法があるならその方がいい。治療法も何もわからない今の状態よりは。
「あの、紗綾樺さんとお話ししても良いですか?」
「どうぞ、俺は料理しちゃいますから」
 俺は言うとクッカーの前に戻った。
 蓋を開けると野菜の茹った良い香りがしている。俺は鍋をクッカーからおろし専用の保温容器に入れた。
 帰宅してからの料理時間を短くしたいという俺の願望を叶えてくれる神業のような鍋セット。立ち寄ったショッピングセンターで大々的に宣伝をしているのを見て欲しいと思うと同時にその値段に打ちのめされたが、地道にネットで探して格安でゲットしたシャトルシェフ。この画期的な鍋のおかげで俺の帰宅後の生活は格段に楽になった。
 まあ、IHクッカーにしろ、希望小売価格が万を超えるこの鍋がこんなボロアパートにあるのは、どう見ても場違いだ。こういった高級な台所用品は、洒落たシステムキッチンのある一軒家にこそ相応しいんだろう。そう、昔の俺たちの家みたいな。
 そんなことを考えながら、俺はさやと奴が抱き合っているのを見たショックのせいで、着替えもせずに料理をしていたことを思い出した。
 今の職場はやたらとドレスコードにうるさいから、二着のスーツを回し着してごまかしていることもあり、このまま座って変なシワをつけたくないのだが、着替えたくても奥の部屋には二人がいる。せっかくの二人だけの世界に割って入るような無粋な真似はしたくないが、着替えはしたい。
 ああ、せめて床座りじゃなくテーブルとイスだったら、シワにならないのに。
 俺は覚悟を決めると、半分開いたままの襖の向こうに声をかけた。
「さや、宮部さん、悪いんだけど、着替えにそっちの部屋を使わせてくれないかな?」
 恋人たちの空間を覗く趣味はないので、部屋の反対側から声をかけると、すぐに奴が顔を出した。
「すいません、気がまわらなくて。どうぞ」
 奴はすぐに出てきたが、さやが出てくる気配はなかった。
「じゃあ、ちょっときがえてきます」
 俺は言うと、奥の部屋に入った。


 さやはさっきと同じで、虚ろな瞳で窓の外を見ていた。
「いいのか、宮部さん一人で待たせておいて」
 声をかけてはみたものの、さやは動く様子はなかった。
 仕方ないので、俺はそのまま着替えを済ませた。


「すいません」
 着替えを済まして戻ると、奴がじっとシャトルシェフを見つめていた。
 たぶん、クッカーの上にあった鍋がどこに消えたのか、突然現れたシャトルシェフが何者なのか、捜査しているのだろう。なにしろ、刑事だからな。
「こちらこそ、すいません、お邪魔ばかりして」
 そういう奴は、本当に恐縮しているようだった。
「あと十分したら鍋を出してルーを入れて・・・・・・」
 そこまで言ってから、俺はご飯を炊くのを忘れている事に気付いた。
「しまった、ご飯・・・・・・」
 俺は叫ぶと流しに走り寄り、超高速で無洗米を四合計り、水加減も適当、水を吸い込ませる時間も省いて高速炊飯のスイッチを押した。
 客を食事に誘っておいて、痛恨のミスだ。
「すいません、ご飯が炊けたらすぐに食事になりますから。明日、早くないですよね?」
 俺は心配になって尋ねた。
「大丈夫です。今日までは、捜査協力で他県に出向いていたので朝早かったのですが、明日からは署に出勤なので」
 それから俺と奴は取り留めのないことを話し続けた。何しろ、共通の話題がないのだから仕方がない。
 炊飯器に表示される炊き上げ時間を確認しながら、俺は鍋をシャトルシェフから取り出し、ルーを割り入れた。いつもはシャトルシェフに入れる前に牛乳を入れるのだが、何しろ今日は何かと番狂わせばかりで、しょうがないのでルーを入れてから牛乳を入れて味を調整した。
「さや、食事だぞ!」
 俺が声をかけると、まるで重さも気配も感じさせない静かな動きでさやが奥の部屋から出てきた。
 いつも使う大皿は二枚しかないので、さやと奴の分を大皿に盛り、俺はどんぶりにご飯を入れてカレーをかけた。
「いただきます」
 俺が言うと、宮部が続き、最後にさやが囁くように言って夕飯が始まった。
「いつもと味が違うね」
 一口食べるなり、さやが言った。
「わるい、牛乳を入れるのが遅くなった。でも、悪くないだろ?」
「おいしいです。お肉も柔らかいです」
 俺の言葉を継ぐように、奴が嬉しそうに言った。
 まあ、褒めてもらえるのは嬉しいが、なんか奴に喜ばれても正直複雑だ。
「よかったら、おかわりしてください。ご飯は四合炊いてありますから」
「ありがとうございます」
 奴は嬉しそうに言うと、それは見事な食べっぷりだった。
 その隣でさやは、黙々とカレーを食べ続けた。
「そうだ、さや、宮部さんにメールの使い方教えてもらったらどうだ?」
 俺が沈黙を破ると、さやは不思議そうに俺の事を見つめた。
「メール?」
 それは、『何のために?』というのではなく、メールとは何かと問うような問いかけだった。
「そうですね、紗綾樺さんが嫌でなければ、お教えしますよ。メールが使えると連絡を取るのも便利になりますから」
 カレーで腹が膨れたせいか、奴はがぜん元気になってきた。
「宮部さんだって、仕事中は電話に出られないだろうし、さやがメールを使えるようになった方がいいと思うぞ」
 実際、何度も挑戦しては使うまでに至らなかったのだが、教える人間が変われば結果も変わってくるかもという期待あっての事だった。
 しばらく返事をしないままカレーを食べていたさやだったが、奴の熱い視線に耐えかねたのか、とうとう『いいよ』と返事をした。
 ささやかなディナーが終わると、奴は俺が止めるのも聞かずに皿洗いをしてから帰っていった。
 色のない世界に入り込んでしまったさやは、『さよなら』も『おやすみなさい』もろくに言わずに奥の部屋に引きこもってしまい、俺は初めて奴に対して申し訳ないという気になったが、奴は気にした様子もなかっただけでなく『紗綾樺さんが元気でよかったです』と嬉しそうに言ってくれた。
 俺はずっと、どんな男だって色のない世界に入り込んださやを見たら、千年の恋も一瞬で冷めてしまうだろうと思っていたが、奴にはそんなさやも愛しく思えるようだった。
 もしかしたら、この男を逃したら、さやを任せられる男は他に出てこないかもしれないと、俺は奴に対する考えを改めないといけないのではないかと、心底考えさせられた。

☆☆☆