国民の血税で給与を支払われる立場にある警察官としてはあるまじき事だが、仕事が手に着かないといった様子で、宮部は窓の外を見つめてため息をついた。
件の行方不明事件に進展はなく、なんとか紗綾樺から聞いた話を元に家族と話をしたいと思っていても、誘拐事件ではない可能性もあり、大っぴらに動くことも出来ず、ついでと言っても相棒と行動をしていると気安く例の話を出来るはずもなかった。
何度か張り込みを志願して、父親の様子を窺ってみた限り、紗綾樺の話が正しいと宮部も思わざるを得ない、というか、紗綾樺の能力を信じている宮部としては、紗綾樺の話を疑う理由がなかった。
しとしとと窓を濡らす冷たい雨は、宮部の心も湿っぽくさせ、紗綾樺に会いたいという思いを募らせていた。
「はぁ・・・・・・」
気を抜いた瞬間、溜め息が漏れ出てしまい、宮部は慌てて辺りを見回した。
「宮部ちゃん、恋患い?」
いきなり直球で図星をつかれ、宮部は返事を返す前に二呼吸も口をパクつかせてしまった。
「この間の晩、助手席に乗せてたべっぴんさんだろ?」
(・・・・・・・・えっ、いつの間に車を覗かれた? そんなはずない・・・・・・・・)
動揺で慌てふためく宮部に、先輩が『お前、ホントに分かり易いな』と、肩をたたいた。
いつものこととは言え、先輩方の誘導にまんまとはまってしまったことに、宮部は大きなため息をつきたい気分になった。
いや、ここでため息をついたら、今日一日、自分が恋煩いで仕事が手に着かなかったことを認めてしまうことになる。
そんなことを考えながら、宮部は少しひきつりそうな笑みをうかべて余裕を見せた。
「からかわないでくださいよ、先輩。そんなんじゃないんですから」
しかし、宮部の精一杯の虚勢も先輩方には全く届いていなかった。
「恋ってのは、いいよなぁ」
「そうそう、相手が可愛く見えるんだ」
意味深に先輩方が、しみじみと言う。
「それが、結婚したら、鬼みたいな顔して睨むわ」
「叫ぶわ」
「怒鳴るわ」
「結婚って、本当、忍耐の二文字よ」
「あれが、会えないと淋しいとか、しおらしいこと言っていたのと同じ生き物かと思うと、ヤッパリ人は変わるモンなんだわと、しみじみ考えるよな」
「ですね~」
「恋せよ若者。でも、結婚は早まるなってな」
「おっ、名言ですね」
「だろ」
「若者、俺たちみたいな間違いは、犯すなよ」
しみじみと言う先輩三人組に、宮部の顔に笑顔が張り付いていた。
「で、宮部ちゃん、いつからつきあってんのよ。この間までは、そんなそぶりもなかったのに」
先輩が宮部の肩を抱き寄せた。
「後輩の幸せは、全力でサポートしてやるぞ。なにしろ、人生で一番幸せな時間だからな」
「そうそう、会いたいのに緊急召集で会えない」
「休みのはずなのに、帳場が立って休めない」
「そんなときに話をする相手ったら、俺ら頼れる先輩様々だからな、ゲロってしまえ」
突然の尋問に、逃げ道を探している宮部の肩に別の先輩の手が掛かった。
「よーく考えてみろ、嫁さんのグチ、結婚とは究極の終身刑なんて話を出来るのは、俺らくらいだからな。苦しくならないうちに、素直に吐けよ」
三人の先輩達の瞳には、犯人をおとすときのような妖しい光さえ宿ってきている。
「あの、片想いですから。以上です」
宮部はあっさりと言ってのけた。
(・・・・・・・・そう、婚約したのだって、交際宣言だって、全ては捜査協力のためで、どれ一つ本当じゃない。これは自分の恋煩いであって、交際の悩みじゃないんだ。悔しいけど、そこのところ、しっかりしておかないと、告白もしてないのに恋人気取りなんて最低すぎる・・・・・・・・)
宮部は自分に言い聞かせながら、絶対に事件が解決したら、告白するぞと心の中で誓った。
しかし、その心の決心と言うよりも、心の動きにまで敏感に反応するのがベテラン警察官というのかも知れない。
「ということは、例の意味不明な事件とも言えない事件が解決したら、告白する決心と、健気やなぁ」
ズバリ言い当てられ、宮部は思わず声を上げそうになった。
いや、たぶん、この間までの宮部ならば、部屋中に響きわたるような素っ頓狂な声を上げていたに違いない。しかし、紗綾樺と過ごした超常的な体験が宮部を成長させていたことは言うまでもない。
「とにかく、まだ、先輩方を煩わせるような事態には陥ってないですから、ご安心ください」
宮部は言うと、取りあえず今日中に終わらせなくてはいけない書類を手に取った。
「おっ、宮部ちゃんやる気になったじゃない。お仕事頑張って貰わんとな~。ため息ばっかり聞いてたら、こっちが仕事手に着かんよ」
「がんばれよ」
「ガンバな!」
立て続けに三回、バシバシ背中を叩かれて気合いを入れられ、宮部は猛スピードで仕事をこなし始めた。
宮部が書類を大方片付けた頃、県警との合同捜査に出ていた先輩が戻ってきた。
「お疲れさまです」
宮部が声をかけると、先輩は肩をすくめて見せた。
「全く動きはなし。こうなると、営利目的の誘拐の線はもうないだろうなあって話になってきてるよ。犯人は、最初から子供なら誰でもよかったか、あの子が欲しかったのかってことだろうなぁ」
捜査の状況を知りたがる宮部のために、独り言のように先輩は続けた。
「別れた亭主は、叩きゃあ埃が出るタイプの男で、かなりシメてみたんだが、余罪は腐るほどあっても、人身売買や誘拐、そっち系はさっぱりだし、第一別れた女房と息子がどこに住んでるかすら知らないときてる。完全にこの件に関しちゃシロだな。別件ではガッチリしょっぴかれちまったけどな。ところで宮部、お前さん明日から県警の応援に行かれるか?」
「えっ、はい。大丈夫です」
「県警の方でも、事件の取り扱いに困ってるところに帳場が立ったんで、猫の手も借りたいところってわけで、こっちに人員を割くのが難しいらしいんだ」
「了解しました」
「じゃあ、課長にも話を通しておく」
「よろしくお願いします」
宮部が立ち上がって頭を下げると、先輩は生真面目な奴だなという表情を浮かべて立ち上がった。目指す相手は、通路向こうの課長のデスクらしく、くつろげていたスーツをしっかりと整えながら歩いていく後ろ姿が見える。
それからしばらくの間、先輩は課長と言葉を交わしていたが、振り向くとネクタイをくつろげながら、宮部の方にゆっくりと歩いて戻ってきた。
「課長に話を通した。この件、しばらく担当してもらう。指示は、県警の方から出ると思うから、当分の間は、あちらに合わせて捜査に参加してくれ。但し、課長への報告は忘れないように。いいな?」
「わかりました。自分としても、気になる事件なので、解決に向けて尽力いたします」
「宮部、そう気張るなよ。この事件、事件というには小さいが、俺は気に入らない」
「母親が子供を心配している姿を見るのは辛いです」
「お前、母子家庭だったな」
「はい。父が早くに亡くなりましたので・・・・・・」
「気張りすぎて、おふくろさんを悲しませるようなことになるなよ」
「大丈夫です。自分、逃げ足の速さには自信がありますから」
「ったく、警察官が逃げ足の速さ自慢してどうすんだよ。それを言うなら、くらいついて離れないだろ」
「そうすると、母を悲しませることになりますから、母から、どうせ自分は出世なんてしないタイプだから、飛んでくる弾は避けろ。凶器を持った犯人からは、全速で逃げろって言われてます」
「それでよく、お前強行犯係なんかに来たな?」
「母が、それも運命だろうって。だから、頑張れって言われました」
「本当に、お前、変わった奴だな」
呆れたように先輩は頭を振ると、『これでも、期待してるんだぞ』と宮部の方をトントンと、軽く二回叩いた。
「ありがとうございます」
宮部は礼を言うと、書類を猛スピードで仕上げた。当分の間、県警との合同捜査に入るとなると、書類の山を残して行く訳にはいかない上から滝の水の如く流れてくる面倒な書類仕事も、ある程度捌いておかないと、戻ってきてから死ぬような目に合うのは、軽く想像がついた。
(・・・・・・・・そうだ、紗綾樺さんに報告しておこう。しばらく、会いに行かれないことを・・・・・・・・)
帰りに紗綾樺を訪ねようと決めると、たまっていた書類仕事は嘘のようにサクサク捌けていった。
☆☆☆
件の行方不明事件に進展はなく、なんとか紗綾樺から聞いた話を元に家族と話をしたいと思っていても、誘拐事件ではない可能性もあり、大っぴらに動くことも出来ず、ついでと言っても相棒と行動をしていると気安く例の話を出来るはずもなかった。
何度か張り込みを志願して、父親の様子を窺ってみた限り、紗綾樺の話が正しいと宮部も思わざるを得ない、というか、紗綾樺の能力を信じている宮部としては、紗綾樺の話を疑う理由がなかった。
しとしとと窓を濡らす冷たい雨は、宮部の心も湿っぽくさせ、紗綾樺に会いたいという思いを募らせていた。
「はぁ・・・・・・」
気を抜いた瞬間、溜め息が漏れ出てしまい、宮部は慌てて辺りを見回した。
「宮部ちゃん、恋患い?」
いきなり直球で図星をつかれ、宮部は返事を返す前に二呼吸も口をパクつかせてしまった。
「この間の晩、助手席に乗せてたべっぴんさんだろ?」
(・・・・・・・・えっ、いつの間に車を覗かれた? そんなはずない・・・・・・・・)
動揺で慌てふためく宮部に、先輩が『お前、ホントに分かり易いな』と、肩をたたいた。
いつものこととは言え、先輩方の誘導にまんまとはまってしまったことに、宮部は大きなため息をつきたい気分になった。
いや、ここでため息をついたら、今日一日、自分が恋煩いで仕事が手に着かなかったことを認めてしまうことになる。
そんなことを考えながら、宮部は少しひきつりそうな笑みをうかべて余裕を見せた。
「からかわないでくださいよ、先輩。そんなんじゃないんですから」
しかし、宮部の精一杯の虚勢も先輩方には全く届いていなかった。
「恋ってのは、いいよなぁ」
「そうそう、相手が可愛く見えるんだ」
意味深に先輩方が、しみじみと言う。
「それが、結婚したら、鬼みたいな顔して睨むわ」
「叫ぶわ」
「怒鳴るわ」
「結婚って、本当、忍耐の二文字よ」
「あれが、会えないと淋しいとか、しおらしいこと言っていたのと同じ生き物かと思うと、ヤッパリ人は変わるモンなんだわと、しみじみ考えるよな」
「ですね~」
「恋せよ若者。でも、結婚は早まるなってな」
「おっ、名言ですね」
「だろ」
「若者、俺たちみたいな間違いは、犯すなよ」
しみじみと言う先輩三人組に、宮部の顔に笑顔が張り付いていた。
「で、宮部ちゃん、いつからつきあってんのよ。この間までは、そんなそぶりもなかったのに」
先輩が宮部の肩を抱き寄せた。
「後輩の幸せは、全力でサポートしてやるぞ。なにしろ、人生で一番幸せな時間だからな」
「そうそう、会いたいのに緊急召集で会えない」
「休みのはずなのに、帳場が立って休めない」
「そんなときに話をする相手ったら、俺ら頼れる先輩様々だからな、ゲロってしまえ」
突然の尋問に、逃げ道を探している宮部の肩に別の先輩の手が掛かった。
「よーく考えてみろ、嫁さんのグチ、結婚とは究極の終身刑なんて話を出来るのは、俺らくらいだからな。苦しくならないうちに、素直に吐けよ」
三人の先輩達の瞳には、犯人をおとすときのような妖しい光さえ宿ってきている。
「あの、片想いですから。以上です」
宮部はあっさりと言ってのけた。
(・・・・・・・・そう、婚約したのだって、交際宣言だって、全ては捜査協力のためで、どれ一つ本当じゃない。これは自分の恋煩いであって、交際の悩みじゃないんだ。悔しいけど、そこのところ、しっかりしておかないと、告白もしてないのに恋人気取りなんて最低すぎる・・・・・・・・)
宮部は自分に言い聞かせながら、絶対に事件が解決したら、告白するぞと心の中で誓った。
しかし、その心の決心と言うよりも、心の動きにまで敏感に反応するのがベテラン警察官というのかも知れない。
「ということは、例の意味不明な事件とも言えない事件が解決したら、告白する決心と、健気やなぁ」
ズバリ言い当てられ、宮部は思わず声を上げそうになった。
いや、たぶん、この間までの宮部ならば、部屋中に響きわたるような素っ頓狂な声を上げていたに違いない。しかし、紗綾樺と過ごした超常的な体験が宮部を成長させていたことは言うまでもない。
「とにかく、まだ、先輩方を煩わせるような事態には陥ってないですから、ご安心ください」
宮部は言うと、取りあえず今日中に終わらせなくてはいけない書類を手に取った。
「おっ、宮部ちゃんやる気になったじゃない。お仕事頑張って貰わんとな~。ため息ばっかり聞いてたら、こっちが仕事手に着かんよ」
「がんばれよ」
「ガンバな!」
立て続けに三回、バシバシ背中を叩かれて気合いを入れられ、宮部は猛スピードで仕事をこなし始めた。
宮部が書類を大方片付けた頃、県警との合同捜査に出ていた先輩が戻ってきた。
「お疲れさまです」
宮部が声をかけると、先輩は肩をすくめて見せた。
「全く動きはなし。こうなると、営利目的の誘拐の線はもうないだろうなあって話になってきてるよ。犯人は、最初から子供なら誰でもよかったか、あの子が欲しかったのかってことだろうなぁ」
捜査の状況を知りたがる宮部のために、独り言のように先輩は続けた。
「別れた亭主は、叩きゃあ埃が出るタイプの男で、かなりシメてみたんだが、余罪は腐るほどあっても、人身売買や誘拐、そっち系はさっぱりだし、第一別れた女房と息子がどこに住んでるかすら知らないときてる。完全にこの件に関しちゃシロだな。別件ではガッチリしょっぴかれちまったけどな。ところで宮部、お前さん明日から県警の応援に行かれるか?」
「えっ、はい。大丈夫です」
「県警の方でも、事件の取り扱いに困ってるところに帳場が立ったんで、猫の手も借りたいところってわけで、こっちに人員を割くのが難しいらしいんだ」
「了解しました」
「じゃあ、課長にも話を通しておく」
「よろしくお願いします」
宮部が立ち上がって頭を下げると、先輩は生真面目な奴だなという表情を浮かべて立ち上がった。目指す相手は、通路向こうの課長のデスクらしく、くつろげていたスーツをしっかりと整えながら歩いていく後ろ姿が見える。
それからしばらくの間、先輩は課長と言葉を交わしていたが、振り向くとネクタイをくつろげながら、宮部の方にゆっくりと歩いて戻ってきた。
「課長に話を通した。この件、しばらく担当してもらう。指示は、県警の方から出ると思うから、当分の間は、あちらに合わせて捜査に参加してくれ。但し、課長への報告は忘れないように。いいな?」
「わかりました。自分としても、気になる事件なので、解決に向けて尽力いたします」
「宮部、そう気張るなよ。この事件、事件というには小さいが、俺は気に入らない」
「母親が子供を心配している姿を見るのは辛いです」
「お前、母子家庭だったな」
「はい。父が早くに亡くなりましたので・・・・・・」
「気張りすぎて、おふくろさんを悲しませるようなことになるなよ」
「大丈夫です。自分、逃げ足の速さには自信がありますから」
「ったく、警察官が逃げ足の速さ自慢してどうすんだよ。それを言うなら、くらいついて離れないだろ」
「そうすると、母を悲しませることになりますから、母から、どうせ自分は出世なんてしないタイプだから、飛んでくる弾は避けろ。凶器を持った犯人からは、全速で逃げろって言われてます」
「それでよく、お前強行犯係なんかに来たな?」
「母が、それも運命だろうって。だから、頑張れって言われました」
「本当に、お前、変わった奴だな」
呆れたように先輩は頭を振ると、『これでも、期待してるんだぞ』と宮部の方をトントンと、軽く二回叩いた。
「ありがとうございます」
宮部は礼を言うと、書類を猛スピードで仕上げた。当分の間、県警との合同捜査に入るとなると、書類の山を残して行く訳にはいかない上から滝の水の如く流れてくる面倒な書類仕事も、ある程度捌いておかないと、戻ってきてから死ぬような目に合うのは、軽く想像がついた。
(・・・・・・・・そうだ、紗綾樺さんに報告しておこう。しばらく、会いに行かれないことを・・・・・・・・)
帰りに紗綾樺を訪ねようと決めると、たまっていた書類仕事は嘘のようにサクサク捌けていった。
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