「それでは、失礼致します」
 車の前で再び頭を下げる奴の腕を俺は掴んだ。
「宮部さん、あなた本当に妹と交際したいんですよね? 妹の能力を利用しようとか考えてないですよね?」
 さやには聞かせたくない話だったので、俺は外にでてから改めて尋ねた。
「違います。自分は、本当に紗綾樺さんと結婚を前提におつき合いしたいんです」
 奴はきっぱりと言った。
「宮部さん、あなた一人っ子じゃないですか?」
 俺の問いに、奴は虚を突かれたようだった。
「は、はい。そうです」
「ご両親は?」
「母と二人だけです」
「そうですか、家は両親共に亡くなり、兄と妹の二人っきりです。ですから、結婚には大きな障害になると思います。残念ながら妹は、これから昇進しようと言うエリート警察官の妻には向かない娘です。後から、その事で妹を傷つけないようにしてください」
 俺は釘を刺すように言った。
「心しておきます。では、失礼いたします」
 奴はもう一礼してから、車に乗り込み走り去っていった。
 俺は大きなため息をつくと、部屋に向かって足音を忍ばせて階段を上った。


 玄関を入り、鍵を閉めると部屋の中は静まりかえっていた。
 たぶん、烏の行水の極みと言えるさやはすでに風呂から出たのだろう。
「さや、あけるぞ」
 一声かけてから続きの間のふすまを開けると、思った通り、霰もない姿でさやが眠っていた。
 これだ!
 俺は目を半ば覆いながら掛け布団の上で寝落ちしているさやの側によると、使い古されてぺっちゃんこになった煎餅布団と掛け布団の間にさやの体を滑り込ませた。
 いつものことだけど、せめて下着くらいは着て欲しい。いくら妹とは言え、素っ裸で寝られると、兄としては不安でたまらなくなる。
 まあ、当然のことながら、実の兄なんだから男として意識したことがないと言われれば、もっともなんだろうが、さやは爆睡する子犬よろしく、俺が無造作に掛け布団で挟むようにして体を動かしても目も覚まさない。こんな妹が本当に異性との交際ができるのだろうか?
 たぶん、この状況に遭遇したら男は二グループに分けられる。ありがたく戴く奴らと、目のやり場に困って部屋の外にダッシュで出て行く紳士。さて、あいつはどっちなんだか、俺には予想もつかないが、本当にカラオケだけだったとしたら、さやは歌えないから、話をして過ごしたというのは事実かもしれない、もしそうだとしたら、外に出て行く紳士の可能性が高いが、こればかりは本能という未知の因子が働くので、いざとなったらどうなるかはその場になってみないとわからない。いわゆる、場の雰囲気に流されるタイプもいるからだ。
 俺はため息をつきながら、さやの枕元にさやのパジャマ兼、普段着替わりの特大ワイシャツとショートパンツを畳んでおいた。それから、その上に、さやの下着を置いた。
 兄が妹のブラだのショーツだのにさわる時点で変態呼ばわりされそうな世の中なのに、俺はあの日以来、ずっとこういう生活を繰り返している。
 朝は朝食の支度をして、さやが出かけるときに着る物を並べてから仕事に行く。さやが起きるのは昼頃だから、さやは朝食を昼に食べて夕方から仕事に出かける。俺は、仕事から帰ると夕飯の支度をしてさやの帰りを待つ。毎日一緒に食べるわけではないが、さやは放っておくと食べ物を暖めないまま食べるので、夕飯の世話は俺がすることになる。
 昔は母親の手伝いでしょっちゅう台所に立っていたさやからは、想像もつかない変化だ。
 あの日以来、さやは火を恐れるし、刃物も嫌がる。しかも、服を着るのを嫌がってすぐに裸で寝てしまう。これじゃあ人じゃなくて野生動物みたいだと、俺も思ったことがある。最初の頃は口もほとんどきかなかったから、余計にそういう印象を強く持ったが、話をするようになり、喜怒哀楽も見せるようになると、やはりさやなんだとおもったものの、この裸で寝落ちする習慣だけは今も治らない。
 あの日、何があったのか、さやは一度も話そうとしない。いろいろな病院のいろいろな先生に看て貰ったが、さやの口は堅く貝のように閉ざされ、あの日のことになると、一言も話さなくなる。もちろん、何があったかを俺が知ったところで、何にもしてやれないことはわかっている。でも、一過性の記憶の混乱と言う診断だったのに、俺からしたら、記憶の喪失ではなく、さやは元の自分という人格を喪失してしまったように見える。こんなこと、あの日、さやがすべてを失う原因を作った俺には言う資格はないかもしれない。でも、あの屈託なく微笑んでいたさやを取り戻したい。もし、あの宮部という男と交際することでさやが心から微笑むことが出来るようになるなら、俺はそれで良いと思うしかないんだろうな。