俺はあの日、不覚にも熱を出していた。心配性の妹を安心させるため、妹には会社を休むと言った。
妹は心配性で、世話焼きで、責任のある仕事を与えられると、バカが頭に付くくらい一生懸命に頑張った。だから、金曜日、朝の小テストの採点担当の日は、いつも帰りが遅くなる。クラス全員分のテストの採点、平均点の計算、先生へのレポート作成、他のみんなは自宅に持ち帰ってやるのに、妹はすべて学校で終わらせてから帰宅する。それに、夕飯の献立を考えながら買い物もする。往復車をとばせば、充分妹が帰る前に帰宅できると、俺は身支度を整えて家を後にした。だが、結果から言えば、俺はこの日、人生最大の間違いを犯したことになる。
 出社すると、同僚達は一様に心配げな顔をして俺のことを見つめた。
「大丈夫ですよ、妹が心配するから休もうと思ったんですけど、今日中に図面あげないといけないことを思い出したんで・・・・・・」
 そう言うと、同僚は皆納得してくれた。いま任されている仕事は、うちの会社では珍しいくらい規模の大きな商業施設と居住区画を有する都市型複合型のオフィスビルだ。ある意味、社運がかかっていると言っても良い規模の仕事だ。
「無理は禁物だよ」
 思いやりのある上司の言葉に、丁寧にお礼を言ってから俺は図面に向かった。
 どれほどの時間、仕事にのめり込んでいたのだろう。突然、激しいめまいに襲われ、『思ったより熱が高かったのか?』と、思った次の瞬間、俺は椅子から放り出されるようにして壁に叩きつけられた。
 何が起こったのかもわからないまま、どれが壁か床か、それこそどこが天井かわからないくらい激しい揺れに見舞われ、俺は床の上を滑る机やコピー機、椅子の間を一緒に転がり回っていた。長い揺れが収まり、『とにかくビルが倒れないうちに外まで逃げよう』という社長の一声で、捻れて壁のコンクリートがはがれ落ち、鉄筋が剥き出しになった階段を一段ずつ、みんなで安全確認をしながら下りた。
 やっとの事で外へ逃げてみると、周りの民家の中には倒壊しているものさえあり、ただ事ではない状況に背筋を冷たいものが流れていった。
着の身着のままで逃げ出した皆は、小雪のちらつく寒い外気と壊滅的な辺りの様子に、全員が呆然として佇み、そして震えた。
 俺達より一足早くビルの外に逃げ出していた人々が『万が一の事もあるから、高台に逃げましょう』と、声をかけはじめて。その『万が一』がどういう意味なのか、あまりに動転していて俺には理解すらできなかった。しかし次の瞬間、俺が本来居るべき場所は会社ではなく家であることを思い出した。
『一緒に逃げよう、妹さんも後から来るよ』と、皆が口々に避難を促したが、俺は皆と別れて車に乗り込んだ。
 幸いにも、妹に『走るポンコツ』と呼ばれている、錆のでた俺のボロい愛車は、隣の高級外車が完全に鉄くずになっているにも関わらず、瓦礫につぶされることもなく無傷だった。
 道路にはいろいろなものが散乱していたし、逃げ出し立ち尽くす人が沢山いたが、俺は必死に車を走らせて妹の学校へ向かった。
 妹の学校は、『大きな地震が来たら高台に避難』をモットーにしていたので、当然俺も避難経路は知っていた。
 程なくして高台を目指す妹のクラスメート達を見つけた俺は大きな声で妹の名を呼んだ。しかし、答えたのは妹ではなく、その友人達だった。
俺の姿を見ると、妹の友人達は一様に驚いた顔をして口々に妹が俺のために避難に加わらず、一人帰宅したことを教えてくれた。
 お礼を言うと、俺は家の方に向き直りアクセルを踏み込もうとした。しかし、その瞳に映ったのは、遙か彼方で黒い固まりが盛り上がっていく様子だった。
 それは、何とも形容のしがたい状況だった。まるで見えない手によって巨大な船が天に向かって持ち上げられるようだったし、妖しく蠢く真っ黒いスライムが船を飲み込もうとしているようにも見えた。
生まれて初めて見る光景に、俺はアクセルを踏むことも動くこともできず、ほんの一瞬、躊躇した。
一瞬のはずだったのに、道路は逃げてくる人と車列で走行不能になっていた。
 海辺に向かおうとする俺の車に容赦なくクラクションが鳴らされ、人々は車を押し退けようとさえした。半ば強制的に車を脇に寄せさせられた俺は、仕方なく車を降りることにした。
 その時、天に捧げられていた船が、まるで遊びに飽きた子供が玩具を投げ捨てるように横倒しになり、打ち捨てられた。
 全ては遙か彼方の出来事なのに、まるで眼前で起こっていることこのように見えた。
 半紙に墨汁を垂らしたような黒いしみが、まるで意志を持った生き物のように、じわじわとしかも恐ろしいスピードで近付いてきた。それはまるで、夏の暑い日の打ち水がアスファルトの上を流れながら染み込んでその色を変えていくようだった。
 人並みをよけ、やっと車から降りた瞬間、俺は刺すような痛みを感じて足下に目をやった。
 何かを踏んだのでも、何かが落ちてきたのでもない。凍えるような冷たい水に両足首まで水没していたのだ。
 その頃には、人々が『津波』『海』『水がくる』などと口々に叫びながら車を捨てて逃げ始めていた。
 それでも、俺は家に戻ろうとした。妹を助けるなんて仰々しいことの為じゃない、ただ妹に会いたかったからだ。しかし逃げ惑う人に巻き込まれ、気がついた時には、俺は丘の上の避難場所まで連れて行かれていた。
 その目の前で、真っ黒いスライムが牙をむいて町を舐め尽くしていった。
 海岸線からは相当な距離があったにも関わらず、町は一夜にして海に沈んだアトランティスよろしく、どす黒く濁った水の下に飲み込まれていった。
 たった二人の家族だった。両親を亡くした俺にとって、妹はたった一人の家族だった。
 こうして、俺は家族を全員失った。