「崇君が行方不明になったのは、父親が深く関係しています」
 グラスを置いた紗綾樺さんは、いきなり本題に入った。
「崇君は、お父さんからデパートの外に止まっているバンに乗っているおじさんがディズニーランドに連れて行ってくれると言われたんです。それで、喜んで一人でデパートを走り出て、バンに乗ったんです」
 突然の話の展開に、僕は思わず目を見開いて紗綾樺さんのことを見つめた。
「車を運転していた男性と、崇君に面識はなく、崇君は車に乗る際、本当にこの車でいいのかを確認しています。男性の話し方には訛りはありません」
「ナンバープレートは?」
「はっきりとは見えませんでした。石や植物には、数字とか見分けがつかないんです」
 紗綾樺さんの言葉に、質問したいことは沢山あったが、僕は口をつぐんだまま紗綾樺さんの言葉に耳を傾けた。
「つい最近、学校で崇君の友達の誰かが家族でディズニーリゾートに言ったようです。その話を聞いて、崇君は行きたいとお父さんに頼んだみたいです。でも、病気のお母さんの看病があるので無理だと言われ、その代わりにデパートに連れて行ってもらい、おもちゃを買ってもらう約束をしたようです」
 そこまで言うと、紗綾樺さんは再びウーロン茶を一口飲んだ。
「お母さんは心から心配していらして、一日も早く崇君が帰ってくるのを待っています。でも、お父さんは違います。後ろ暗い事があって、それが知れるのを怯えています。たぶん、崇君の行方に関してでしょう。・・・・・・ここまでで、質問はありますか? 間違っていることとか」
 紗綾樺さんに問われ、僕は事件の資料から起こしてきたメモを取り出した。
 実際、ディズニーランドなどという単語は、どこからも出てきていない。
「子供でも、二十四時間経たないと失踪になりませんよね?」
 突然の問いに、僕は慌てて紗綾樺さんの方に顔を向けた。
「そうですね。行方不明として扱うには、通常二十四時間の猶予をもってからですが、今回の場合は七歳の子供ですから、行方不明というよりも誘拐の線で初動捜査は行われました」
「そこが誤算だったのかもしれません」
 紗綾樺さんは、こめかみを押さえながら言った。
「届け出たのは、お母さんですよね? お父さんではなく」
「そうです。ご主人は、心配ないと、すぐに帰ってくると言っていたそうなんですが、母親のほうが心配して、ご主人に内緒で通報したんです」
「喧嘩になりましたよね?」
 紗綾樺さんの言葉に、僕は二人が警察官の前で大喧嘩をしたという話を思い出した。
「それが、すべて計算外だったんでしょう」
「どういうことですか?」
「いまは、どこに行くにも警察の監視つきでしょ? 口座のお金の動きも監視されて、電話も盗聴されている」
「そうです」
「お父さん、どこかで公衆電話を使いませんでしたか?」
 紗綾樺さんの問いに、僕はメモにもう一度目を通した。
「あ、あります。携帯の電池が切れたとかで、公衆電話から家に電話したことがあります」
「その時、連絡を取ったんですね」
 紗綾樺さんは納得したといった様子で、何度か頷いた。
「この事件は、たぶん公にしてもあまり良いことのない事件です。きっと、みんなが不幸になります」
 紗綾樺さんの言葉に、僕は首をかしげた。
 病気の母親が子供のことを心配している以上に不幸なことがあるのだろうか?
 僕はその問いを飲み込み、紗綾樺さんが言葉を継ぐのを待った。
「大体はわかっています。でも、本当に正しいのか、悩んでいます」
 紗綾樺は話すべきか悩んでいるように見えた。
「これから話すことは、確定ではないです。でも、可能性として聞いてください」
 紗綾樺さんは始めに断ってから話し始めた。
「森沢さんのご家庭は、奥様の病気のせいでかなり困窮しています。再婚ですし、ご主人の崇君に対する愛情はあまり深くありません。奥様が病気になった最初の頃に、自棄になってギャンブルで作った借金もあり、医療費の支払いも滞りがちです。崇君の学費や、将来のことを考えると、最終的には、亡くなった奥さんの連れ子の世話を一生することになります。それを考えると、崇君の存在はご主人にとっては苦痛以外の何物でもありません。そんな時、子供を欲しいという人が現れます。その人は裕福で、でも子供がありません。ご主人はその家に崇君が養子に入れば、将来の不安もなくなりますし、大切に育ててきた子供を養子に出すのですから、それ相応の謝礼を受けることができます。悪く言えば、子供を売るということになります。たぶん、崇君は今頃、不自由のない生活をしています。お母さんに会えないことを悲しがっているとは思いますが、崇君にも理解できる理由、例えば、お母さんの病気が悪くなってお父さんも家には居ないとか、そんな理由だと思います。崇君は、それで我慢しています。今頃は、迎えに来た新しいお父さんとその奥さんとディズニーリゾートに遊びに行ったり、いろいろなところに行って楽しんでいるはずです。ただ、連絡をしようにも、誘拐として捜査されていると言われ、きっと生きた心地がしないでしょう。だから、多分、関東にはいないと思います。それに、崇君のお父さんは、お金の支払いを受けられず、このまま踏み倒されたら、誘拐犯としてその家族を訴えるつもりです」
 そこまでいうと、紗綾樺さんは驚いてぽかんとしている僕のことを見つめた。
「信じられないなら、それでいいです。でも、調べてみてください。学校で、ディズニーリゾートに遊びに行ったのを自慢した子供が先生に叱られています。崇君がいなくなる、何週間か前です」
「わかりました、先生に訊いてみます。ところで、紗綾樺さんは、崇君がどこに居るのかもわかっているんですか?」
 僕は、恐る恐る尋ねてみた。
「いえ、今日行ったあたりには居ません。たぶん、今はかなり遠くに居るでしょう。今日のような力の使い方で私に分かるのは、近くのものだけですから」
 紗綾樺さんは言うと、再びウーロン茶に口をつけた。
「ごめんなさい、今日私にわかったのはこれだけです」
 申し訳なさそうに言う紗綾樺さんに、僕は慌てて頭を横に振った。
「とんでもないです。すごい手がかりです。ありがとうございました」
 僕はお礼を言うと、心配げに紗綾樺さんの事を見つめた。
「具合は大丈夫ですか? 夕飯に場所を変えようと思ったんですけど、お身体は大丈夫ですか?」
「大丈夫です。力を使うと、体力の消耗が激しいんです。少し休めば、問題ないです」
 紗綾樺さんの声は、さっきまでよりもしかっりしてきていた。
「夕飯は、何がいいですか? なんでも、お好きなものをご馳走します」
 言ってみたものの、時計を見ると既に夕飯には遅い時間になっていた。
 思えば、夕方から始めた崇君の情報集め、本当は最終目撃地点だけで済ませるはずが、紗綾樺さんの厚意に甘えて学校や家と、県をまたいでの移動をしたため、とっくに十一時を過ぎていた。これでは、まともなレストランは開いていない。
「昨日のファミレスで良いですよ。身の丈に合った場所がふさわしいですから」
 紗綾樺さんの笑顔に、僕は思わず紗綾樺さんの事を見つめてしまった。
「身の丈にふさわしいですか?」
 普通、若い女性が口にする言葉ではなかったので、思わず聞き返してしまった。
「ええ、兄の口癖なんです。私が贅沢をし過ぎないよう、常に身の丈に合った暮らしをするようにって」
 紗綾樺さんは何事もなかったように言うが、どう見ても彼女と兄の生活が贅沢すぎることはない。どちらかと言えば、質素で堅実という感じだ。
「厳しいお兄さんですね」
 思わず、思ったことがそのまま口をついて出てしまった。
「わかりません。私、自分でもよくわからないんです」
「わからない?」
「ええ」
 そう答える紗綾樺さんは、まるで透けて壁が見えそうなくらい、存在感がなかった。
 もっと詳しく彼女の事を知りたいと思ったが、僕はなぜか今はその時ではないと自分で感じた。
「今日は疲れていらっしゃるでしょう。お言葉に甘えて、昨日と同じファミレスで食事をしたら、送っていきます」
 僕が言うと、紗綾樺さんはカバンを手元に引き寄せた。
「きっと、今晩は、昨夜よりももっといろいろ兄が質問すると思います」
 その不安げな瞳に、僕は紗綾樺さんに多大な迷惑と苦労を掛けていることを実感した。
「本当に申し訳ないです」
「いいんです。でも、兄には崇君の捜索を手伝っていることは知られたくないんです。きっと兄は、最悪のケースを考えて、必ず反対しますから」
 紗綾樺さんの言った『最悪のケース』という言葉が、崇君の学校のそばで彼女が口にした『死体』という言葉に重なった。
 そうか、紗綾樺さんのお兄さんは、事件の捜査に巻き込まれて、彼女が被害者の死に責任を感じることを心配しているのか。
 納得はしたものの、これと言ってよい言い訳は思いつかなかった。
「とりあえず、お付き合いしているってことにしておいてください」
「えっ?」
 驚いた僕は思わず聞き返した。
「私みたいなのが相手では、お嫌かもしれませんが、兄もそれなら少しは納得します」
「いや、逆じゃないですか? 可愛い妹に悪い虫がついたと、お怒りになるでしょう?」
 紗綾樺さんのように、美しくて可憐な妹がいたら、自分だって絶対に若い男を近寄らせたくないと思うだろうと、僕は思いながら、昨晩、怒りと心配を露わにして階段を駆け下りて来たお兄さんの姿を思い浮かべた。
「たぶん、兄は、私が人と個人的な関わりを持つことができるようになったと、少し安心します」
 紗綾樺さんの言葉は静かだった。
「私には友達もいませんし、話をするのは、お客さんと兄だけです。だから、お付き合いをしていると言ったら、私が少し年頃の女の子らしくなったと、安心すると思います」
 彼女の説明に納得したわけではなかったが、ここで反対しても、彼女がその言い訳で通そうとすることははっきり見て取れた。
「紗綾樺さんが良いなら、僕は構いませんよ。紗綾樺さんみたいな素敵な人の恋人になれて幸運です。しかも、婚約してるんですからね」
 少し暗い表情の紗綾樺さんを力づけようと、僕は少しだけ茶目っ気たっぷりに言って見せた。
「そうですね。婚約指輪、買いに行ったんですもんね」
 紗綾樺さんもいうと、笑みを浮かべて見せた。
「あ、でも、そのことは兄には内緒で」
「もちろんです。じゃあ、行きましょう」
 僕が声をかけると、紗綾樺さんはゆっくりと立ち上がった。
「本当に、このフロアー、まだお客さんが入ってないんですね」
 完全に空室のフロアーを歩きながら、紗綾樺さんが呟いた。
「僕たちが出たら、たぶん満室になりますよ」
 言いながらエレベーターのボタンを押すと、ウィーンという音を立ててエレベーターが上昇を始めた。
 エレベーターは音もなくと言うには程遠い、また客が暴れたんだなと思わせる立て付けの悪そうな音をたててドアーを開けた。先に乗り込む紗綾樺さんに続いて僕は乗り込むと、一階のボタンを押した。
 エレベーターがフロアーを通過するたび、叫び声のような嬌声が扉越しに聞こえ、消えていった。
「ここで待っていてください」
 駐車場の出入り口に近いエレベーター脇の椅子に紗綾樺さんを座らせ、受付のカウンターに行くと、顔見知りの店長がホッとしたように僕の事を見つめた。
 溢れかえる受付フロアーから、店長が満室扱いにしてフロアー全体を使用できないようにしていたくれたことがわかる。
 丁寧にお礼を言い、一室分の料金を支払ってから、僕は紗綾樺さんのところに戻った。
「じゃあ、行きましょう」
「はい」
 紗綾樺さんは返事をすると、僕に続いて風紀の悪い街へと開く駐車場のドアーへと向かった。
 人間の心理は面白いもので、ドアーの向こう側に並んでいるのが背徳的なホテル街だと分かると、カラオケから出る自分たちまでが、なんだか背徳的な行為に及んでいたような変な罪悪感を感じてしまう。
 僕は車のロックを解除すると、紗綾樺さんを助手席に隠すように乗り込ませ、自分も小走りで運転手席に乗り込んだ。そして、闇を切り裂くように、一気に薄暗く細い路地から抜け出した。

 車を走らせながらも、紗綾樺さんに訊きたいことは沢山あった。
 どうやってあの情報を入手したのか、今日みたいに力を使うことによって、紗綾樺さんの健康に問題はないのか、それに、あの言葉の意味も。でも、臆病な僕は、せっかく紗綾樺さんと話したり、こうして捜査のためとは言え、会うことができるようになったのに、不用意な質問で紗綾樺さんとの関係を壊したくないと、自分でも不思議なくらい臆病になっていた。

☆☆☆