普段ならば絶対にしないことだったけど、私は思い切って心の扉を全開にした。
 一気に隣の宮部の心だけでなく、周辺の住宅の住民、近くの道路を歩いている通行人、路地に車を止めて不審者を警戒している警察官達の意識、そして普通の人には見えないし聞こえないモノたちが私の中に流れ込んできた。
 厄介なのは、事件のことを知っている警察官の記憶だ。思い込みによってゆがめられた記憶が私の判断を鈍らせる事がよくある。だから、人の記憶は当てにならない。でも、それ以外のモノたちの記憶は役に立つ。
 私は崇君の情報を求めて意識の中を彷徨った。
 大量の意識と記憶を相手にしているせいで、自分自身が体から離れてしまいそうになる。でも、これ以上体からかはなれるのは危険だ。それこそ、意識を失って病院にでも運ばれたら大事になる。
 注意深く、体に自分を繋ぎ止めながら崇君に関する記憶を探す。
 大きな光がはじけるように、あふれる光の中に崇君の姿が浮かび上がった。
 ああ、母さんの想い出だ。愛にあふれて、崇君のことを探している。覗いている私の胸が温かくなるくらい、お母さんの愛は深い。
 崇君の記憶を探している私に語りかける意識があった。
『さがして、はやく。』
 目の前に赤い花びらが舞う。
『あの子をさがして、早く。』
 椿の木だ。
 次の瞬間、ねっとりとした闇の固まりに飛び込んだ私は、恐怖で心を一気に閉ざした。
 体の感覚は戻ってきていないものの、全身が嫌な汗でべたついているのがわかる。
 瞼は重く、開こうとしても持ち上がらない。全身の感覚が戻ってくると、全身が軋むような痛みに襲われた。
 これだから、力は全開にするものじゃない。
 見たくなかったものも、聞きたくなかったことも、今は全て私の中に記録されてしまった。記憶なら改竄できても、記録は改竄できない。どんな醜いものも、汚いものも、記録されてしまったら、私はそれと共に生きていくしかない。
 悔やんでも、いまさらなかったことには出来ない。
 痛みに慣れ、諦めがつくと、やっと瞼が持ち上がった。
 目の前の風景は動いておらず、コンビニのまぶしいほど明るい看板が目に痛い。たぶん、私のことが心配で宮部が車を止められる場所を探してここに来たに違いない。
 シートは限界まで倒されているので、他に見えるのは人口の光にかき消された星空くらいだ。
 その時になって、隣に宮部が座っていないことに私は気付いた。
『お前、差し入れのためにわざわざこんなとこまで来たのか?』
『ちょっと用があって、近くまで来ただけです。』
『本当か?』
『本当ですよ。』
『差し入れなら歓迎だったのに。』
『すいません、連れの気分が悪くなって寄っただけです。』
『なんだよ、デートか?』
『ノーコメントです。』
『ったく、いいよな、相手がいる奴は。しっかり励めよ。』
 私の知らない警察官の頭の中に、露骨に卑猥なイメージが浮かび上がった。
 いけない、閉じたはずが、閉じきっていなかったのか・・・・・・。いや、それとも、私の中の力が閉じ込められなくなっているのかもしれない。
 そんなことを考えていると、車のドアーが開き、宮部がペットボトルに入ったお茶と紅茶を持って戻ってきた。そして、私が目を開いているのを見ると、一気に気まずそうな表情を浮かべた。
「すいません。あの人、悪気はないんです」
 宮部の言葉の意味がわからなかった私に、彼は更に言葉を継いだ。
「すぐに、励めとか卑猥な事言う人なんですけど、悪い人じゃないんです」
 その言葉から、さっき会話していた相手がいやらしい妄想をしていたことに対してのフォローだと理解した。
「大丈夫です。慣れてますから」
 私は良く考えもせずに答えたが、宮部の顔はすごく申し分けそうなままだった。
「あの、温かい飲み物が良いかとおもって、お茶と紅茶を買ってきました」
 二本のペットボトルを差し出され、私は紅茶のボトルを受け取った。
 普通ならお茶がいいのだが、ここまで力を使うと、エネルギーが足りなくなって甘いものが欲しいと体と脳が訴えてくる。
「もし、甘すぎたら言ってください。こっちのボトルは開けずに置きますから」
 紅茶を飲み下す私の姿に、宮部は少し安心したようだった。
「ミルクもお砂糖も入っているし、少しは紗綾樺さんが元気になるかと思ってミルクティーにしたんですけど、甘すぎるかなって心配になって、それでお茶も買ってみました」
 宮部の優しさはうわべだけでなく、本当に心根の優しい人間なんだと、私は改めて思った。
「お家まで送りますね」
 少し寂しげに言う宮部の心は、既にがっちりとガードされていて、彼が何を考えているかを読むことは出来なかった。
「家に帰る前に、どこかゆっくりとお話の出来る場所に連れて行ってください」
「でも、お兄さんが心配されるでしょう?」
 宮部の言う事は最もだ。私は、兄の電話に遅くならないと返事をした記憶がある。それでも、今日見たり聞いたりしたことを宮部に話す必要がある。
「いえ、手遅れになる前に、きちんと話しておきたいんです」
「わかりました。じゃあ、着くまで紗綾樺さんは休んでいてください」
 宮部は言うと、残ったお茶のボトルを私に手渡し、自分はろくに休憩もしないまま車を走らせ始めた。

 どこに行くのかわからないドライブだったが、宮部が私をいかがわしいところに連れて行く心配もなかったし、安心感からか、宮部の流れるような運転技術のせいか、気付けば私は再び眠りに落ちていた。


「紗綾樺さん、つきましたよ」
 ちょっと困ったような声で私を呼ぶ宮部に、私は驚いてパチリと目を開けた。
「すいません、ぐっすり眠ってしまって」
 私が謝ると、宮部は安心したのか、少し笑みをもらしたが、すぐに不安げな表情になった。
「誰にも邪魔されず、話ができるところって、ここしか思いつかなかったんです」
 宮部の言葉に、私は眼前に迫る怪しい建物に目を細めた。
 私は行ったことがないが、あれは話に聞く、ラブホテルと言われる建物に違いない。
 確か、お役所への届出は、宿泊施設。公安に風俗施設の届出をしていない場合、おおっぴらに看板を出せない宿泊施設。普通は、恋人同士など、男女が合意の上で肉体関係を持つためにお金を払って部屋を借りる場所。
 確かに防音なんだろうし、誰にも邪魔されないだろうし、ゆっくり二人で話は出来るだろうが、目的にあっているからといってモラルをなくして良いということにはならない。前言撤回だ。こいつのどこが心根の優しい良い男だ。ちょっと油断したら、ホテルに女を連れ込もうとするろくでなしと大して変わらないじゃない。警察官のくせに、この男、いったい、何をどう考えたらこういう結果になるのよ!
 今にも私の怒りが爆発しそうなのを察したのか、宮部は慌てて頭を横に振った。
「違います。あそこじゃありません。周りの道路が一方通行なもので、駐車場の出入り口が風紀の悪い側にあるんですが、ここはカラオケです」
 宮部の言葉に私の暴走しかけた怒りはすぐにおさまった。
「こっちが入り口です」
 先に立って歩く宮部に続き、私は駐車場の奥にある自動ドアーをくぐった。
 確かに、そこはカラオケ店だった。
 自動ドアー一枚で、ここまで防音効果があるのかと思うくらい、店内は音で溢れていた。敢えて音と称するのは、鳥を絞めたような叫び声から、野獣の雄叫びのような声まで、ありとあらゆる声が音楽と一緒にあふれかえっているからだ。
 宮部は受付を済ませると、私を連れて上階の個室へと向かった。
「まだ、お客さんの入ってないフロアーを開けてもらいました」
 どうやら、以前勤務していた署の管轄内にあるお店らしい。
「前に、何度か非公式にというか、個人的にといいましょうか、店でのもめごとで呼び出されたことがあって、ほんのちょっとなんですけど顔がきくんです」
 自慢するというでもなく、どちらかといえば、ちょっと照れたように説明すると、宮部は部屋番号を確かめながら、人気のないフロアー奥の個室の扉を開けた。


 個室の中は、照明も一番暗く設定されていて、機械の電源も入っておらず、とても静かだった。
 入り口でエアコンのスイッチをオンにした宮部は、部屋の照明を一気に目一杯明るくした。
「飲み物は、とりあえずアイスのウーロン茶を頼んでありますけど、他にご希望があれば、すぐに注文しますので、遠慮なく言ってください」
 促されるまま、奥のソファ席に腰を下ろした私に、まるで店員のように宮部はメニューを広げて見せた。
「大丈夫です」
 私が答えると、宮部は私の向かいにキャスター付きの椅子を動かして座った。
「詳しい話は、お茶が来てからにしましょう」
 さっきまでとは違い、宮部の顔は警察官の顔になっていた。
 そう、さっきまでの宮部は、警察官ではなく、宮部尚生という一個人として私と接していたんだ。
 警察官に戻った宮部の心はがっちりとガードされていた。これは、彼が持って生まれた才能だ。兄と同じ、放射能すら通さない鉛の箱のようなもので心を覆い、私に読まれないようにする。大抵の人は、丸見えかよくても襖越し程度で、頑張ってもベニヤ板程度だ。その程度のガードであれば、私が本気になれば、叩き壊して踏み込むことができる。でも、兄と宮部の才能は特別だ。
 別に心が読めなければ、一緒に居ても苦痛ではない。相手が何を考えているか、ぼんやり必要なことだけがわかる生活は、言わば熟年夫婦のあうんの呼吸のような関係だ。でも、心の中まで丸見えになる相手と長く過ごすことは苦痛だ。知りたくないことまで知ってしまうし、相手のプライバシーを知らない間に侵害し続けているという罪悪感も私の中に生まれてしまう。だから、兄の才能を喜んでも疎んだことはない。

 ノックの音が部屋に響き、店員が飲み物を運んできた。
「機械の電源は入れなくてよろしいですか?」
 店員の疑問は当然だ。
 カラオケ店に来て、機械の電源が入ってない部屋で、しかも誰も居ないフロアーで私たちが何をしようとしているのか、疑問に思うのは当たり前のことだろう。
「用があれは、こちらからフロントに連絡します」
 宮部は言うと、さりげなく警察手帳を見せた。
 これは、怪しい客が来ていますと、店長に相談もせず、スタッフが警察に通報するのを防ぐためらしい。
「飲み物ばかりですいません。ここの食べ物はあまりお勧めできないので」
 宮部は言うと、グラスを私の前に押して寄越した。
「戴きます」
 私は宮部を安心させるため、グラスを手に取るとアイスウーロン茶を一口飲んだ。

☆☆☆