萩は着物の表面についた水滴を払いながら、やっと顔を上げた男を見やる。男は、湿った髪の間から赤い瞳を覗かせた。
「す、すまねぇ……ご迷惑ば、かけでしまって……」
 男はきつい東北の訛りで謝罪をすると、顔を上げた。なんだか辛そうに顔を歪める。ヨッコラセと言って立ち上がると萩より頭一つ大きかった。萩も長身だというのに、
 大きな人だ。ひとつ気になることがあったが。
 裸で、腰にタオルを巻いている。筋骨隆々で浅黒い肌はまるで格闘技選手を思わせる。目が隠れるほどボサボサの黒髪の間から、なにやら突き出るものがふたつ見えた。
 髪ではない。それに、この容貌は知っている。
「つ、角生えてる……?」
「ありゃ、鬼だね。ガッチムチで良い体してるなぁ。」
 そうだ。頭に二本の角が生えた男、あれは鬼だ。
「うそでしょ……鬼って……」
 萩さんは猫に化けるし、鬼火は出るし、それでもって鬼がいる。
「ここは一体なんなの……時空が歪んでるの……?」
「まぁ、ちょっと慣れていってね」
 あっさりした牡丹は、変に深刻にならないからか、逆に乃里を納得させる。不思議である。狼狽える気持ちも半減している気がする。
 とんでもない場所に来ちゃったな。
 後悔先に立たずとはこのことだろうか。いや、後悔をしているわけではないのだけれど。
「いててて。おら、腰が痛くて……」
 鬼の声で乃里は視線を戻す。彼は腰を拳でトントンと叩く。
「腰痛の鬼かよ」
 乃里は突っ込んだ。
 旅館しろがねの温泉を目当てに来たのであろう。
「牡丹さん。ここの旅館のお客様って……」
「うん。ああいうのも来るよ。人間のお客様と半々かなぁ」
「そんなら、求人に書いておいてくださいよ! 大猫に鬼なんて妖怪ですよね! おまけに鬼火でボヤ騒ぎ、てんやわんやですよ!」
 乃里は牡丹に食ってかかる。
 辞めてしまった女子大生だって、こういう場に遭遇しないとは限らなかったのではないだろうか。
「ええ? そんなの書けないよー。怖がって人間なんか絶対に手伝いに来ないじゃん」
 たしかにそうだ。鬼が温泉に入りに来ますなんて。それに旅館の主が猫に化けます、とか。
「それに、今日はイレギュラーだよ。いつもはこんなことないの。乃里ちゃんはたまたま」
 たまたま、自分が採用されて、たまたま不思議体験をして不思議兄弟の秘密を共有する存在になってしまったのか。たまたま過ぎる。
 乃里はあらためて、自分は厄介ごとに巻き込まれる体質なのだなと思った。
家族のことについて、厄介ごとと言ってしまうのはいささか心が痛くなるのだけれど。
「俺たちは人間としてこの世界で暮らしているのだから、これでいいの」
「そう……ですけれど」
 正体を隠して暮らしているということだ。
「本当はこんなことひとりだって人間たちに知らせるわけにいかないんだけれどね。乃里ちゃんは遭遇してしまったから、仕方ない。だから黙ってて」
 牡丹はおどけるように人差し指を唇の前に建てた。最高にキュートだ。
「俺たちのことは、誰にも内緒。秘密。じゃないとここを出て行かないといけなくなる」
「牡丹さん、俺たちって、秘密って」
「萩は俺の兄だよ?」
「もしかして」
「初日の帰り道、これから仲良くしようって、手を振ってくれたね。だから仲良くしようね」
 距離を保ったままこちらをずっと見ていた銀色猫を思い出す。牡丹の毛色にそっくりだ。
「ええ……うそでしょ」
 兄弟だってば、と牡丹は笑う。それはそうだが。
「すんません……おら、腰痛が酷くてこちらの温泉に来たんだげっとも」
 鬼の声に、乃里はそういえばいまこんなおしゃべりをしている状況ではないと思い出した。
 腰痛の鬼は「いてて」と言い腰をさする。
「とりあえず……ここではゆっくり話ができませんから、一度、脱衣所に行きましょう」
 湿気と熱気のせいで乃里は自分が汗だくだということに気づく。その場の皆が萩に促され、脱衣所に移動した。設置してある扇風機の風が肌を冷やし、汗を乾かしていく。
 ベンチに座る鬼を、佐々野兄弟と乃里が囲む。
 遠巻きに見ていたシズさんが「帳場にいますで」と男湯を出て行った。
「腰痛は、酷そうですね」
「昔痛めたところが近年また痛くて。おらが住む村のひとが、この旅館に泊まったことがあって、温泉に入ったら膝の痛みがよくなったと話していたんで」
 だから湯治に、と鬼は言った。
 鬼が住む村、村人……乃里は目眩がした。その村人ははたして人間なのか鬼なのか。
「腰痛のほかに、悩み事もあって影響したのかもしれねぇ。鬼火が爆発しちゃって……本当に申し訳ねぇっす」
 うな垂れる姿が痛々しい。体が大きく強そうで見た目が怖い鬼は、誰よりも優しいのだろう。乃里は、鬼と聞いてからの少しの緊張と恐怖で硬くしていた心から力を抜くことができた。
 暴れて襲ってくるようなことは、もうない。
 萩の優しさにも助けられたのだろう。攻めていったらこんな大きな体の鬼に敵うわけがない。
 濡れた顔をタオルで拭う鬼がひとつ溜息をついたところに、萩が牡丹に声をかける。