これはただ事ではなく、緊急事態。なにか手伝えることがあるかもしれないと乃里は意を決して男湯の暖簾をくぐった。
 シズさんが「浴場のほうです」と言うと、萩が浴場へのガラス戸を開けると、信じられない光景が広がっていた。
「な、なにこれ」
 乃里は立ち尽くした。こぶし大の炎が浴場あちこちに浮かんでいるのだ。数にして数十個、中心に体の大きな男性が蹲っている。
「火の玉? え? なんでお風呂場に火の玉なんか」
「火事!! 火事だよ!!」
 乃里は思わず叫ぶ。
「萩、どうしたのー?」
 後ろから牡丹の暢気な声が聞こえてきた。萩とシズは緊急体制なのに、ひとりだけ温度差がある。
「牡丹、乃里ちゃんを守っていてくださいよ」
「ええ、なにこれ鬼火じゃん。なんでこんなものが来たのさ」
「彼が持ち込んでしまったようです」
 萩が言う彼とは、浴場に蹲る体の大きな男性のことだろう。
「もう何年もこんなトラブルないっていうのに」
 牡丹は溜息を洩らした。
「鬼火って、火の玉って、なにこれ」
 ぽつりと漏らすと、牡丹が乃里の前に出て庇った。
「ちょっと数が多い。旅館が焼けては大変なので、これから消火します」
(消火? そうか、そうよね)
 乃里は思わず、足下にあった桶を手に取る。
「俺も手伝う」
 牡丹の言葉を聞き、乃里はもうひとつ桶を取る。
「牡丹は乃里ちゃんを。これくらいなら僕ひとりで平気です」
 萩がゆっくり深く息を吸い込み、手を合わせた。
「萩さん、なにを」
「まいったな」
 頭を掻く牡丹を見上げて、乃里は桶を抱えた。
 萩に視線を移すと、長い白髪がゆらり、ゆらりと揺れている。
 風? どこから……。
 違う。風ではなく萩の髪の毛自体が動いているのだ。
 な、なんだ。なにが起こっているの?
「乃里ちゃん、秘密を守るって約束できる?」
「え? ひ、秘密ですか」
「これから見ることは、誰にも秘密にして。絶対に」
 なんのことかと問うより早く、萩の体が霧のようなものに包まれた。温泉の湯気かと思ったが違う。するとこちらに背中を向けていた萩が霧の中で四つん這いになり、獣のような形に変化していく。
「いい? 秘密、守れる?」
「は、はい!」
 秘密にしなければいけないこととはなんなのかわからないが、既に目の前で繰り広げられ、絶対に誰にも言ってはいけないと瞬時に脳のどこかで判断する。
 夢でも見ているのかな?
 霧が晴れると、乃里は目を疑う。萩は自身の髪の色と同じ真っ白な毛に覆われた大きな獣になっており、ふさふさの尻尾は二股に分かれている。
 あれは……猫だ。
 猫と言っても、抱き上げることができる大きさではない。頭から尻尾の先まで二メートルはゆうにあるだろう。
「う、うそでしょ」
 元は萩の姿をしていたその大きな猫は、鬼火に飛び掛かり鋭い爪や牙で散らすように消していく。鬼火が重なり大きくなっているものもある。あんなものに触れて大丈夫なのか。
 毛に燃え移らないか心配だ。
 乃里は風呂桶に湯を汲み、万が一建物や萩に燃え移ったら助太刀できるように準備する。
 ハラハラしていたが、徐々に鬼火は消化されていく。乃里の準備が杞憂に終わってよかった。
「大丈夫そうだな。まぁ、萩の力は強いから」
「ほあー、よかったぁ」
 乃里は風呂桶のお湯を床に流した。
 力が強い、と言われてなんの疑問も持たないわけではなかった。しかし、とりあえずいまはこの場が収束して安心しかない。
 あとで聞けるならば教えてもらおう。
 大猫は鬼火の消化を終え、濡れた床に降り立つ。浴場を見渡し、二股に分かれた尻尾をふわんと振ると「そこのお方」と声を出した。
「しゃ、しゃべった!!」
「うん。だってあれ萩だし」
 当たり前でだとでも言いたげに牡丹は萩を指さす。萩は未だ蹲ったままの男性に声をかける。
「あなたは、どこから来のですか?」
 大猫……いや萩は、音もなく前に進み、瞬きの間に元の人間の姿に戻った。乃里は意識が飛びそうになった。下腹に力を入れる。
 ああもう、こういう設定である、という感覚でいないと意識を失いそう。
 瞬きを繰り返し、白髪で美しい容姿の萩の姿を確認する。
「何故このような騒ぎを起こしたのです」