「ここ、下じゃ」
 乃里は視線を下げると、白髪を頭のてっぺんにお団子にした老婆が乃里を見上げていた。
「わっ」
 小さいお婆ちゃんだなぁ。それが第一印象。
 身長百六十センチの乃里の胸あたりでシズは、しわの多い顔をますますしわくちゃにして笑っている。長身の萩と比べると三分の一くらいしかなかった。
「シズさん。彼女が今日から入ってくださる新しいアルバイトの乃里さんです」
「よかったですな、すぐに決まってくれて」
「よ、よろしくお願いします!」
 もんぺ姿のシズはタオルを首にかけ、デッキブラシを持っている。
「旅館は仕事があれこれあるから忙しいかもしれんが、よろしく頼みます」
 体は小さいが迫力があった。
「いま、男湯にひとりお客様がいるだけですよね」
「そうじゃ。では早速。乃里ちゃん、とやら。女湯の脱衣所に掃除機かけてほしい。いま無人だから」
 萩は「よろしくお願いしますね」と言い残して去っていった。
 シズに掃除用具が入っている場所を教えてもらい、ハンディ掃除機を取り出す。
「基本的には入浴受付時間外に清掃をするが、様子を見に来て汚れていれば掃除をしますのでな。この清掃中の札をかけてくだされ」
「分かりました。あの、男湯のほうは」
「こんな若い娘さんにさせられん。あんたは女湯だけ担当してもらいますよ。男湯はワタシがやる」
 少しホッとして、シズのあとに続いて女湯の暖簾をくぐり脱衣所へと入る。
 古めかしいが清潔に保たれた脱衣所には、三段ロッカーが設置され、鏡付き洗面台に椅子、ドライヤー、体重計などが置いてある。
 浴場のガラス戸を開けると、むわっと熱気が顔に張り付く。五つの洗い場と、長方形の湯舟があり、奥に外へ出るドアがある。あそこが露天風呂なのだろう。
「掃除機をかけて、ゴミ箱のゴミを集めて、洗面台は雑巾がけ。ゴミ袋はここ、浴場への入口にあるマットの替えはここじゃ」
「はい」
 指示していくシズのあとを、掃除機を持ってついていく。
「客があってもなくても掃除は入るから、バイトのシフトがあるときはお願いしますよ」
「分かりました。シズさんは、こちらの旅館で働いて長いんですか?」
「そうじゃ。ここはあの兄弟で四代目。ずっとこの湯を守ってきたし、死ぬまで働くつもりです。ひとりだし、ほかに行く場所もないですしの」
 ほっほ、とシズさんは笑う。
「凄いですね。長く続けられる仕事っていいですね」
「自分の存在価値は自分で作らないといかん。いまいる場所で頑張るのじゃ」
 年季の入ったシズの言葉は重かった。
 自分の居場所はどこか他にあるのだと思っているのに、シズさんは違うんだ。
 そこまでのものを見つけられるのは凄い。
 乃里は掃除機をぎゅんぎゅんかけながら、早く仕事を覚えていきたいと思った。
 あらかた掃除機をかけ終わったときだった。
ドン、という音が壁の向こうから聞こえて乃里は驚いて肩をすくめた。
「な、なんですかね!」
「……おや、隣か。どうしたのじゃろう」
 隣とは、男湯ということか。先程、萩は男湯に入浴客がひとりいると言っていた。なにかあったのだろうか。不安になる乃里の鼻をかすめるものがある。
「……なんか、焦げ臭くないですか?」
 なにか燃えているのだろうか。
 シズの表情が強張り、素早く脱衣所にある内線電話を取ると「萩さんや、男湯に来ておくれ!」と叫んだ。
「ど、どうしたんですか……」
「乃里ちゃんや、隠れていなさい」
 隠れるってどこへ? なにがあったの、なんで隠れなくちゃいけないのか分からないんだけれど。
 シズさんが女湯を出て行ったので、乃里も追いかける。
「女湯にいなさいな!」
「だって、なにか事故かもしれないですし!」
「あんたが来てもなにもできないよ!」
 シズは男湯に入っていった。乃里が躊躇していると、萩が駆けつける。
「萩さん、なんでしょう。大きな音がして……」
「乃里ちゃんは隠れていなさい。いま、牡丹も来ますから」
 萩は真剣な表情でシズと同じことを言い、男湯に入っていった。