「……あれ、誰か来たみたいだよ」
見覚えのある車が停車し、ドアが開いた。
「乃里ちゃん、他人の心配ばかりで、自分については目を逸らしていると思うよ。その優しさはきみのとってもいいところ。俺は、乃里ちゃんのこと大好きだから」
「わたしも、乃里さんが大好きですよ」
萩も、牡丹も、こんな情けなくて自分勝手で最低な自分を、好きだと言ってくれる。
「明日から、またお願いします」
乃里は深々と頭を下げた。顔を上げると、ふたりの優しい笑顔がある。
「ここだって、乃里さんの居場所ですよ。待ってますからね」
「そそ。でも、いまはね。ほら、行っておいで」
玄関を指さす牡丹。見ると、黄色いTシャツを着た小さな男の子が駆けてくる。乃里は靴を履いて、外に出た。
「おねえちゃーん」
駆け寄ってきたのは里司。朝早いのに、元気いっぱいだ。
「里司。寝坊助なのに、今日は早いね」
「うん! お姉ちゃんを迎えにいくって、昨日お母さんと約束したからがんばって起きた! お熱さがった?」
ぎゅっと胸がつまる。里司の純粋な笑顔がまるで宝物みたいに目の前で咲いている。
「下がったよー。お姉ちゃんめちゃくちゃお腹空いてるから、帰ったら朝ごはん食べたい」
「ぼくもー!」
「里司は食べてきたでしょう」
佐和子の声。まとわりつく里司から顔をあげると、いつもと変わらぬ笑顔の佐和子がいた。
「乃里ちゃん、迎えに来たよ」
昨日、酷い言葉を浴びせたというのに、どうして笑っていれられるのだろうか。喉が苦しくなる。言った言葉は取りすことができないのだから。
「体調はどう? 帰れそう?」
「帰るよ。自分ちだもん」
昨日の今日でよくもそんなことを言える。自分でも呆れる。
だって、すぐには、硬くなった心を、自分で閉じ込めてきた気持ちを、解放することができない。でも。
「佐和子さん、ポーチ忘れてた」
和柄のポーチを差し出す。佐和子は動揺した様子が丸わかりだ。わかりやすい人だった、そういえば。
「あ、そ、そうだね。ありがとう。目薬とか入っていたから……」
佐和子は受け取ると、こくこくと頭を下げる。
「あの、見ちゃったんです」
「あ、うん……そうか」
「レシピ、いっぱいあって」
「そっか……隠してたつもりはないんだけれどね。うん。レシピね、美味しそうなやつだし、乃里ちゃんの好きなものばかりだよね」
「うん」
早く車に戻ろうと手を引いていた里司は、乃里と佐和子が話を始めたので、ふたりの顔を交互に見て大人しくしている。
「乃里ちゃん、もう高校生だものね。なんかまだ小さい女の子のつもりでいるから。ごめんね」
ごめんねって、謝らなければいけないのは乃里のほうだというのに。
佐和子はポーチから手帳を取り出してぱらぱらとめくった。
「いきなりお母さんにはなれないの。わたしも、わかっているの。なろうとしても、無理なのよ」
母のレシピに、こうでした、あんなことがありましたと、書き込んで、返事はないのに。絶対に佐和子に返事が書かれることはないのに。
手探りで、自分の母親役になろうとしてくれていたのだ。