「……牡丹さん。わたしまだ具合が悪いし動けないから、ここに泊めてください」
 熱は下がってきていたし、動けないほど具合が悪いわけではない。帰りたくない。ただそれだけで。
 佐和子はどんな顔をしているだろうか。笑っているわけではないだろうけれど、笑顔以外の表情をさせているのは、自分だ。
「……仕方ないですね。お母さん、うちはかまいません。熱も下がってきているようですし……乃里ちゃんのことは責任もってお預かりします。もしもなにかあればすぐにご連絡さしあげますので」
 梃子でも動かなそうな乃里を見て、牡丹は溜息をつきながらそう言う。乃里はほっとした。
 もしかしたら、父には怒られるかもしれない。でもいまは帰りたくないという気持ちの方が勝つ。
 背後で、佐和子が立ち上がる気配がする。
「……すみません。ご迷惑を」
 帰るのだろう。乃里はさらにほっとした。
 よろしくお願いいたします。そう言って佐和子は襖を開けたようだ。
「迷惑だなんて思いません。我々にとって誰も」
 牡丹の言葉が余韻を残す。
 佐和子が部屋を出て行くと、体の緊張が切れる。四肢すべてが緊張していた。
 ふたりが部屋を出て行ったので、乃里は体を起こす。熱が少し下がったせいか、たしかに体が楽だ。
 帰りたくないなんて我が儘をいい、佐和子は呆れただろう。帰宅したら父にどう伝えるのだろうか。
 言うことをきかなかった。そういっていいのに。
 なにも考えたくない。駄々っ子のようなところを見せてしまった牡丹にもいまは会いたくない。
 情けない。なにをしたいのだ、自分は。
 嫌だから逃げる。見たくないから、目を逸らす。認めたくないから、拒絶する。
 再び布団に仰向けになった。
 嫌になってくる。自分が小さくて卑しくて、なににも役に立たないクズ人間に思えてくる。
 何度目かの大きなため息をついたら、廊下を誰かが歩いてくる。
 乃里はさっと布団をかぶった。静かに襖が開く。
「……乃里ちゃん、お母さん帰ったよ」
 牡丹だった。
 乃里はなにも言わず、布団をかぶったままでじっとしていた。
「ご飯食べられそう? 乃里ちゃん。おにぎりここに置いておくね」
 きっと、牡丹は気配で気づいていると思う。乃里が狸寝入りをしていることを。
「寝ちゃったかな。また来るね」
 だから、わかっているくせに。それなのに、わざとそうやって。
 襖が閉まると、乃里は布団から顔を出した。
 すると、銀色猫が座ってこちらを見ている。牡丹だ。出て行くと見せかけて残るなんて、いじわるだ。
「牡丹さん」
 呼ぶと、銀色の猫は目を細める。
 枕元に、おにぎりがふたつ置いてある。トレーの上にお茶と体温計もある。
 乃里はおにぎりをひとつ取って食べた。塩加減がとてもいい。食べ終わるまで牡丹はずっと乃里を見ていた。動かずにじっとして。
「牡丹、さん。聞いていたでしょ? わたしと佐和子さんが話しているところ」
 牡丹は尻尾をトントン、と動かす。どういう返事なのだろうか。知っているよ、なのかも。勝手にそう理解する。
「ここが、しろがねが、わたしの居場所だと思ったの。なのに、あの人が来たから。嫌だった。帰りたくなかった」
 動かないでじっとこちらを見る牡丹。
 不思議。猫のままだとすらすらと話してしまう。聞かれてもいないことなのに。
「家にはわたしの居場所がないのに、だからここだと思ったのに。佐和子さんが来たことで家には、気配が」
 母の、気配が消えていくようで。
 天井を見上げながら、目尻から涙が伝う。目を閉じて、眉間にある発熱の残りを感じた。
 疲れた。目を閉じていたら、自然に眠くなってくる。

 きっと夜中なのだろう。真っ暗な部屋で目が覚めた。
 なんとなく体が重い感じがする。まさか熱が上がったのだろうか。そう思ったけれど、よく見たら腹の上に猫が乗って寝ている。
 牡丹だ。
 また勝手に。人間の姿だったら犯罪に近い。それに病人に対して優しさなのかなんなのかわからない。
 重さと温かさ。なんとなく、眠くなった里司のことを思う。頭を重さと少し似ている気がする。錯覚しながら感じていると、再び眠気が降りてくる。
 こんなに眠るなんて、本当に疲労しているのだなと感じる。
 心も、体も。いまは欲望に任せて体から力を抜いてしまおう。
 乃里は再び眠りに引き込まれた。