「乃里ちゃんのその大根おろしを使いますよ」
「え、これを使うんですか!」
「おや、嫌ですか?」
「嫌じゃないんです! だってこれ、わたしの初仕事ですよ! 嬉しいです!」
これが宿泊客の料理になり提供されお腹に入るのかと思うと、なんだかくすぐったい気持ちになる。
「そんなに喜んでくれるとこちらも嬉しいですね。ああ、乃里ちゃんは何人家族ですか?」
どうしてそんなことを聞くのだろうかと思いながら「両親と弟の四人です」と答える。
「そうですか。なるほど、分かりました」
ふふっと笑いながら萩は「ところで」と話を展開する。
「うちとしては、すぐにでも働いて貰いたいのですが、夏休みに入ったらお願いします」
当たり前のことだが、勉強に支障がない範囲でアルバイトは許可されている。放課後のアルバイトについても同様。現に、放課後に飲食店のアルバイトをする生徒がいる。調理を学ぶ学校であるので、飲食店については申請が通りやすい。
萩は、すぐにでも来て欲しいと言っている。
「明日の月曜日、学校に相談します。一応バイト申請を夏休みにしていたので。たぶん変更申請をすれば大丈夫だと思うんです。そうなると来週末からでも」
「いいえ。夏休みからで大丈夫です。無理強いはしませんので。夏休みに来ていただく許可が下りたら連絡をください」
アルバイトが急に辞めたということだったから、旅館としても人手が足りなく困っている様子。夏休みは一カ月先だが、乃里は自分が働くことで少しでも助けになるならこんなに嬉しいことはないなと思った。
「そういえば、前のバイトが辞めちゃったのは牡丹さんが原因とか」
まさかいじめたというわけではないとは思うが、一抹の不安を抱きながら軽く聞いてみる。
「女子大生さんだったのですが、その、牡丹に恋をしてしまいましてね」
「あは~なるほど」
いじめやパワハラ的なことを想像した自分を恥じた。
「牡丹はああいう性格で、誰彼分け隔てなく優しく、悪く言えば距離感がおかしいので誤解されるのです」
「……なるほど」
萩の言うことがとてもよく分かる。牡丹も美形であったし、ほいほいボディタッチが多ければ好意だと勘違いする人も出てくる気がする。
「それで、どうなったんですか?」
「牡丹にはその気がなかったものですから」
全部を言わなくても分かる。恋する女子大生は牡丹に失恋したので辞めたのだろう。
「その女子大生って、社会人になっても失恋で会社休んだり辞めたりしそうです」
「乃里ちゃん、結構言いますね」
「わたしはたとえ失恋しても大根おろしを一生懸命やりますよ」
失恋のことなどどうでもいい。いまのところ恋の予定など無いのだし。それよりも、やる気だけはアピールしないといけない。とにかく、せっかく採用されたのだからがんばりたかった。
「萩さんも女性に人気がありそう」
「僕は女性に興味はありません」
萩は包丁を研ぎながら微笑んだので、乃里は背筋が冷えた。
「さて。今日はもうあがってください。初日から働いていただきすみません」
割烹着を脱ぐと、萩が「牡丹のところへ」と言うので後を追い帳場へ移動する。萩と乃里の姿を認めると、帳場から牡丹が出てきた。
「牡丹、乃里ちゃんは学校の許可が下りたら来週末から来てくれますよ」
「そうなんだ。嬉しいなぁ。また会えるね」
そう言うと牡丹は笑顔で両手を広げた。
「牡丹。触っちゃだめです」
「ああ、ハイハイ」
こういうところだ。
乃里は苦笑しながら「よろしくお願いします」と一礼した。
「追々覚えていけばいいけれど、館内案内図も載っているから旅館リーフレットも渡しておくね。あと俺の名刺」
縦型の名刺を見ると「佐々野 牡丹」という名前と携帯番号が書いてあった。
「牡丹、僕の名刺もお渡ししてください。連絡を貰うことになっているので」
牡丹は帳場の抽斗から萩の名刺もくれた。
「急ぎませんので、アルバイト申請の結果が分かったら連絡を。あとは乃里ちゃんの都合に合わせてシフトを組みましょう」
「あ、明日許可が下りると思うのですぐご連絡します」
すぐに働けない労働力だと判断され、取り消しになっては困る。
「それは助かります。おうちの人にもきちんとお話してくださいね」
萩の言葉に乃里は頷いた。
「次からはここへ入るのに関係者通用口を使ってください。帰りはそちらから出ましょう」
兄弟に案内をしてもらったが、旅館正面玄関に並んで設置されているので迷うこともないだろう。次回はここから入り仕事をするのだ。
「え、これを使うんですか!」
「おや、嫌ですか?」
「嫌じゃないんです! だってこれ、わたしの初仕事ですよ! 嬉しいです!」
これが宿泊客の料理になり提供されお腹に入るのかと思うと、なんだかくすぐったい気持ちになる。
「そんなに喜んでくれるとこちらも嬉しいですね。ああ、乃里ちゃんは何人家族ですか?」
どうしてそんなことを聞くのだろうかと思いながら「両親と弟の四人です」と答える。
「そうですか。なるほど、分かりました」
ふふっと笑いながら萩は「ところで」と話を展開する。
「うちとしては、すぐにでも働いて貰いたいのですが、夏休みに入ったらお願いします」
当たり前のことだが、勉強に支障がない範囲でアルバイトは許可されている。放課後のアルバイトについても同様。現に、放課後に飲食店のアルバイトをする生徒がいる。調理を学ぶ学校であるので、飲食店については申請が通りやすい。
萩は、すぐにでも来て欲しいと言っている。
「明日の月曜日、学校に相談します。一応バイト申請を夏休みにしていたので。たぶん変更申請をすれば大丈夫だと思うんです。そうなると来週末からでも」
「いいえ。夏休みからで大丈夫です。無理強いはしませんので。夏休みに来ていただく許可が下りたら連絡をください」
アルバイトが急に辞めたということだったから、旅館としても人手が足りなく困っている様子。夏休みは一カ月先だが、乃里は自分が働くことで少しでも助けになるならこんなに嬉しいことはないなと思った。
「そういえば、前のバイトが辞めちゃったのは牡丹さんが原因とか」
まさかいじめたというわけではないとは思うが、一抹の不安を抱きながら軽く聞いてみる。
「女子大生さんだったのですが、その、牡丹に恋をしてしまいましてね」
「あは~なるほど」
いじめやパワハラ的なことを想像した自分を恥じた。
「牡丹はああいう性格で、誰彼分け隔てなく優しく、悪く言えば距離感がおかしいので誤解されるのです」
「……なるほど」
萩の言うことがとてもよく分かる。牡丹も美形であったし、ほいほいボディタッチが多ければ好意だと勘違いする人も出てくる気がする。
「それで、どうなったんですか?」
「牡丹にはその気がなかったものですから」
全部を言わなくても分かる。恋する女子大生は牡丹に失恋したので辞めたのだろう。
「その女子大生って、社会人になっても失恋で会社休んだり辞めたりしそうです」
「乃里ちゃん、結構言いますね」
「わたしはたとえ失恋しても大根おろしを一生懸命やりますよ」
失恋のことなどどうでもいい。いまのところ恋の予定など無いのだし。それよりも、やる気だけはアピールしないといけない。とにかく、せっかく採用されたのだからがんばりたかった。
「萩さんも女性に人気がありそう」
「僕は女性に興味はありません」
萩は包丁を研ぎながら微笑んだので、乃里は背筋が冷えた。
「さて。今日はもうあがってください。初日から働いていただきすみません」
割烹着を脱ぐと、萩が「牡丹のところへ」と言うので後を追い帳場へ移動する。萩と乃里の姿を認めると、帳場から牡丹が出てきた。
「牡丹、乃里ちゃんは学校の許可が下りたら来週末から来てくれますよ」
「そうなんだ。嬉しいなぁ。また会えるね」
そう言うと牡丹は笑顔で両手を広げた。
「牡丹。触っちゃだめです」
「ああ、ハイハイ」
こういうところだ。
乃里は苦笑しながら「よろしくお願いします」と一礼した。
「追々覚えていけばいいけれど、館内案内図も載っているから旅館リーフレットも渡しておくね。あと俺の名刺」
縦型の名刺を見ると「佐々野 牡丹」という名前と携帯番号が書いてあった。
「牡丹、僕の名刺もお渡ししてください。連絡を貰うことになっているので」
牡丹は帳場の抽斗から萩の名刺もくれた。
「急ぎませんので、アルバイト申請の結果が分かったら連絡を。あとは乃里ちゃんの都合に合わせてシフトを組みましょう」
「あ、明日許可が下りると思うのですぐご連絡します」
すぐに働けない労働力だと判断され、取り消しになっては困る。
「それは助かります。おうちの人にもきちんとお話してくださいね」
萩の言葉に乃里は頷いた。
「次からはここへ入るのに関係者通用口を使ってください。帰りはそちらから出ましょう」
兄弟に案内をしてもらったが、旅館正面玄関に並んで設置されているので迷うこともないだろう。次回はここから入り仕事をするのだ。