「ああ、この景色」
 乃里は、数年前に家族で松島へ遊びに行ったときのことを思い出していた。父と里司、そして乃里。そこで、佐和子を紹介されたのだ。

『新しいお母さんだ』

 澄んだ空に青い海。観光船にまつわりつくように飛びまわるカモメ。観光船の甲板でカモメに餌をやりながら、乃里は鳥になりたいと思ったのだった。
 新しいお母さんというものは、なんなのか、いったい。
 お父さんは、お母さんを忘れたのか。もう、愛して、いないのか。
 鳥になりたいと思ったことは覚えているのに、会話や、松島でなにをしたのか全然思い出せない。いまより乃里は幼くて、新しい母親だといわれた佐和子がいまよりも少し痩せていたことも覚えているし、空の色と海の広さは覚えているのに。
『佐和子さんのお腹には、お前の弟か妹がいるよ』
 少し膨らんだお腹をさすって弱く笑ったことも覚えている。なのに、乃里はここ松島でなにをどうしたのか覚えていない。

 タキみたいに、実の父親じゃなくても慕う素直な心があればよかったのに。
あれば、こんなに苦しむ必要も。
「乃里、うちの父ちゃんと番になれよ」
 タキの声にはっとした乃里。最初なんのことなのか理解できなかったが、内容が物凄いことだと徐々に気付いた。
「ちょっと……タキ、なにを言ってるの。そんなの無理だって」
「そうかなぁ。乃里が一緒ならこれから楽しそうなのに」
「わたしは人間、タキとタキのお父さんは狼男でしょ」
「けちー」
「けちじゃない」
 そうなると、乃里はタキの母親になるということか。乃里は考えて背中がぞくりとした。恐怖だろうか、悪寒だろうか。よくはわからなかったが。
下り坂になる国道を走ると右手に海が近付く。
「ほら、タキ。福浦橋だよ」
 牡丹が指さす車窓のむこう、小さく橋が見える。
「あれが赤い橋かー」
 ピクピクと耳が動いているタキは嬉しそうだ。
 トンネルが見えてきて、抜けると左手に仙石線の松島海岸駅。右手にまた海。船が停泊しているのが見えて、その向こうに小さく島が見える。五大堂という観光スポット、また左に視線を戻すと瑞巌寺。萩が瑞巌寺の前を少しだけゆっくり走ってくれたので、古めかしい門の向こうに広がる竹林の道を見ることができた。あれを進むと瑞巌寺がある。
 歩道をたくさんの観光客が歩いている。道路があまり渋滞せずに来ることができたのはラッキーだったのかもしれない。
 萩はウインカーを出して、駐車場に車を停めた。
「ここに車を置きましょう。行きましょうか」
 萩の言葉に、誰の返事よりも早くタキが車を飛び出した。
「危ないよ。ひとりで行かないで」
「早く来いよ、乃里」
 急かしながら乃里の手を繋ぐタキ。弟の里司と重なる子供の手の感触。乃里もタキのそばにいなければという気持ちになる。
 案内板があるが、橋も島も目の前なので迷わず向かうことができる。ぴょんぴょんと跳ねるような足取りのタキに引っ張られるようにして乃里は歩いた。
 駐車場のまわりには飲食店があり、道路を渡るとまた商業施設や展示施設がある。お土産を買ったり、食事をするのに困らない。
「福浦橋はあそこから入場ですね」
 萩が指さす先に、小さな建物があり「福浦島入口」と表示がある。
 たしか、家族で来たときもこのあたりを通った。福浦島に渡りはしなかったはずだが、たしかにこんな感じだったかもしれない。人間の記憶はなんて曖昧なのかと思う。
 入場料を数百円支払い、足を踏み出した福浦橋。
 いい天気だ。
 空と海と島のコントラストの中に赤い橋はとても目立っていた。しかし、実際立ってみるとさほど長さはないので立ち止まらずに渡れば五分ほどで福浦島に到着する。
 橋には、自分たちの他に誰もいない。島には観光客がいるかもしれないが。
 橋から見下ろす海には底の岩が見えた。
「体がしょっぱくなる」
 タキが下を出して腕を舐めた。
「海からの潮風のせいだね」
「父ちゃん、このしょっぱいの平気なのかな」
「ここで暮らすなら、慣れないとね」
 乃里は、海水浴のあとを思い出していた。タキが体がしょっぱくなるといったのは人間だと海から上がった感じに似ているのかもしれない。たしかに不快である。
「福浦橋は出会い橋と言われているそうですよ」
 萩が携帯で調べたらしい情報を教えてくれる。懐に携帯を仕舞いながらタキに笑いかけた。
「きっと、良縁という意味の出会いだろうと思いますけれど、出会いは出会い。お父様に会えるといいですね」
 話ながら歩いていると、福浦島に到着した。
 松島湾に浮かぶ島々と同じく、松の木が生い茂り、遠くから見るよりも大きく感じる。橋は短く感じたのだが。
「あまり人がいませんね」
 たしかに、振り返っても橋を渡ってくる人はないし、島の入口には誰もいない。