みちのく猫の湯宿の思い出つづり


「いいのですよ、乃里さん。ときにタキさん、おひとりなのですか?」
 自分が一番だから心が無限大に広いのだろうか。それとも元々の性格か。萩は優しく微笑みながらタキに問う。
「ううん。ひとりじゃない」
「おおかた、山で遊んでて迷子になったんだろ」
 牡丹が鼻で笑うとタキは不機嫌そうに口を尖らせる。なんとなく、牡丹とタキは気が合わなそうだ。
「迷子っていうな。迷子なんてクソバカのやることだ。はぐれたんだよ。俺は迷ってねぇ」
「口が悪いな……」
 本当だ。これはたしかに厄介な子供を引き込んでしまった気がする。
「はぐれたとは、誰と? ひとりじゃなかったのですか」
 ということは、群れにでもいたのだろうか。
 タキはかきこんだ玉子かけご飯を咀嚼し、乃里が煎れた茶で流し込むと、ひとつげっぷをした。行儀が悪い。
「父ちゃんだ」
 えっへん、といった感じでタキが言う。
「父ちゃんですか。先程も言っていましたね。ということはお父様と一緒だったのにはぐれてしまったと」
 そうだよ。タキは付け合わせの沢庵をかじった。
「ねぇ、萩さん。ということは、大人の狼男ってことですか?」
「そうですね。これが子供ですから」
「うへぇ……」
 乃里は、タキを大きくして想像してみた。めちゃくちゃ怖いのではないだろうか。
「おい、乃里! 誇り高き狼男にうへぇとはなんだよ!」
「あう、ごめん」
 美しく崇高な猫と、誇り高き狼男の間に挟まる人間の乃里は小さく溜息をついた。
 タキが言うには、狩りをしていたら父親とはぐれてしまったということだった。そして、怖くて不安になり、闇雲に走りまわっていたら日が暮れた。適当な場所を見つけて眠り、沢の水を飲んだ。それを何度か繰り返しているらしい。ということは数日経過しているということだ。
 それは空腹どころの話ではない。たしかに人間ならば死んでいる。
「父さんは大きくて強くてかっこいい。俺は父さんみたいになりたい」
 自分が迷子に、いや父とはぐれてこのような状況に陥っているというのに、タキは父を称賛することばかりをいう。
「タキさんは、お父様が大好きなのですね」
「そうだよ。強くて大好きだ。俺を育ててくれている男だもん、強いよ」
 育ててくれている。ということは、母親も一緒なのではないだろか。
「お前、母親は?」
 牡丹はタキに聞く。「いない」と答えが返ってきた。
「俺のこと産み落として死んでいたらしいよ。で、俺がびーびー泣いていたら、父さんが自分の住処に連れて帰ってくれたんだ」
 母親は死んでいるとは、自分と同じではないか。乃里は胸がチクリと痛んだ。
「父さんがいなかったら俺は死んでいたし、他の獣の餌になっていただろうな」
「タキのお父さん、本当の父親じゃないの?」
「ああ。でも、父さんが俺の父さんだ。たったひとりの」
 一心に求めて、素直に真っすぐに、育ての父がたったひとりの親だと言い切るタキ。
 自分には眩しくて、タキの純粋さが痛い。
 もちろん、狼男と人間は違う。違うけれど、子はひとりで大きくなれない。
「本当のお父さんじゃないのに、会いたいの?」
「乃里、変なこと言うな。乃里にも親いるんだろ?」
「い、いるけど」
 本当の母親じゃないんだよ、思わず口に出しそうになった。タキは本当の父親じゃないのに大好きだと笑う。そんな彼にいまの乃里の気持ちを言う必要はない。
 どうしてわたしは、こんな風に笑えないのだろう。
「なぁ、父さん探すのを手伝ってくれよ」
 それがひとにものを頼むときの態度なのかと思った乃里は、タキの頭を撫でた。撫でたら、気持ちよさそうに目を細めるタキ。
「仕方ないなぁ」
 牡丹は立ち上がり、着物の帯をぽんと叩く。
「とりあえず、俺たちは仕事があるから、今日はここに泊ればいい。明日、手伝ってやるよ」
 そんな簡単に言うか。乃里も立ち上がって、部屋を出て行く牡丹のあとを追う。そういえば煮物が途中だったのだ。
「昆布……そうだ、いや、それよりも、タキを手伝うって、山に行くんですか?」
「山ではぐれたなら山だろうね。どこではぐれたとか、そのあたりは聞いてみないとわからないから、確認しないと」
 厨房へ戻ると、牡丹は鍋の前にいく。合わせ出汁の入った寸胴の蓋をあけて、お玉で煮物に出汁を流し入れた。
「山って、じゃあ紅首のときみたいに? また気まぐれにお休みにするんですか」
「人聞きの悪い。シズさんにお任せするの」
 やっぱりか。しろがねの営業形態は兄弟の気まぐれで変化する。兄弟が出かけるならばシズさんが店を見る。
「もう、ここシズさんがいないと営業ままならないんじゃないですかぁ」
 自分で分かるほど情けない声が出てしまった。牡丹は表情を変化させず飄々としているのだが。


「ま、そうかもね」
「シズさん、負担じゃないかと思って……その、人間だし、若者でもないわけだし」
 足腰が、とか。言い出すかもしれないではないか。もう仕事がきついから、とか。
「そうだね。だから、乃里ちゃんがいるんじゃん」
「……どういう意味ですか」
 牡丹のビー玉みたいな目が、鍋から乃里に移る。
「人間は、死ぬだろ?」
 乃里を見ていた目は、再び鍋に戻った。
「悲しむのは自分だけだと思ってるだろ、人間は。俺たちが悲しくないわけないだろ。一緒にいた人間が先に死んだら、悲しくて寂しいよ。だから悲しくなくなるように、探すよ。俺たちは」
 代わりを、ということか。
 人間だって、飼い猫や飼い犬が死んだら悲しくて、新しい家族を迎えることがある。もちろん見るのもダメになる人もいるけれど。
「そうですね」
 猫又兄弟たちにとって、乃里は自分がなにになれるのかわからない。ゆくゆくはシズの代わりなのかもしれないが、いまは全く想像できない。
 居場所を探している乃里にとって、嬉しいことのはずなのになぜか胸が重苦しく感じる。
「大丈夫だよ。乃里ちゃんのせいじゃない」
 重苦しさを感じ取ったのか、牡丹は「昆布、戻すところからするから」と指示をする。乃里は返事をして、昆布をボウルに入れて水を入れた。
 飼い猫に悲しさや寂しさを察知された飼い主はこんな気持ちなんだなと、水分を吸って元の姿に戻っていくのだろう昆布を見ながら思った。
 じっと見ていても昆布はまだ硬いままだ。

 次の日、いつものように乃里がしろがねに到着すると、数人の若い女性客が帰るところだった。
「ごちそうさまでしたー」
「ありがとうございました。またどうぞ」
 帳場から見送るのは萩。
 女性客たちは萩の姿を振り返りながら「イケメンだよね」「綺麗」などと嬉しそうだ。
 そうだろう。どうだ、と得意になってしまう乃里。
「お疲れ様です。萩さん」
「はい、お疲れ様です。今日は少し忙しかったです」
「いまのお客様は、人間ですか?」
「そうです。はぁ」
 萩は珍しく溜息をついた。どうしたのだろうか。
「萩さん、なんだか顔色が悪いですけれど。もしかして体調悪いんですか?」
「いいえ。そうじゃありません。人間の女性たちは元気でいいですね。少々疲れました」
 なるほど、萩はいましがた帰っていった女性客の興味の視線に疲れたのだろう。
 それだけの容姿をしていれば、仕方が無いのかもしれない。
「乃里―!」
 奥から足音が聞こえたと思ったら、タキが転がるように走ってきた。
「あ、タキ」
 服を着替えたのだろうか。子供用の浴衣を着ている。しろがねの貸し出し浴衣ではない、青と白の市松模様のものだ。浴衣は似合っているが、足は毛むくじゃらの狼の足だ。
「なかなか来ないから、退屈しちゃったよ」
「ごめん、ごめん」
「タキさんにずいぶんと懐かれていますね、乃里さん」
 タキは「飯食ったのか」と乃里に向かってニコニコしている。
「歳が一番近いからですかね。それにうちの弟と同じ年頃だし」
 里司に接しているように思えてくる。自然と頭を撫でる手が出る。
「シズさんには話してありますから、あとは任せて出かけますよ」
 どこへ、と問う前に萩は帳場を出て廊下を進んでいく。背中をタキと共に追った。
 タキが泊った部屋に牡丹も来て、萩と乃里、タキの四人が集まった。
 萩が手の中で慣らしたのが車のキーだった。また遠出をするのだろうか。
「タキさん、名前の由来を乃里さんに教えて」
「由来?」
 首を傾げる乃里に向かって、タキは得意げな表情を見せた。
「俺が生まれたのが、大きな滝がある場所だったから名前がタキなんだ。かっこいいだろ」
「あ、うん……そうだね。滝かぁ」
 滝があるならば、おそらくは山なのだろう。どこの滝かはわからないけれど。
「おそらく、秋保大滝です」
「秋保?」
 萩が頷く。
「彼はその滝の名前は知らないとのこと。昨夜少し話をしたのですよ」
 名前から滝を連想し、秋保大滝に辿り着いた萩は流石だ。
 秋保にはたしか小さいころ、家族で日帰り温泉に行った記憶がある。それに、宮城県内では有名な観光地なので、地元情報番組で紅葉シーズンになると放送されるイメージだ。
「秋保に狼がいるんですか?」
「狼ではなくて狼男ですね」
 あ、じゃあ日本全国どころか世界的なことですね。乃里は思わず納得してしまった。
 人間の子供ならまだしも、狼男の子供。里司と同年代だとしても人間の子供を扱うようにはいかないのかもしれない。乃里は、タキの頭を撫でて優しく話しかけた。
「タキ。あなたがお父さんと再会できるようにわたしたち協力するんだけれど、いまのままではなにもわからないのよ。だから、もう少し教えてくれる? タキはいまもそこに住んでるの?」


 それならば秋保大滝に送り届ければタキの父親と再会できるのではないか。乃里の思惑とは反対に、タキは首を振った。
「俺たちの住処だったから。ただ、あのへん食べ物に困る様になって。だから移動することになったんだ」
 観光地だからでしょうか、と萩が言う。
「開発が進めば、森にすむ動物も少なくなります。あのあたりに静かに暮らしていたタキさんたちのようなあやかしたちも、出て行きたくなるのかもしれません」
 廃れる観光地ならともかく、観光地は流行らなければ立ち行かなくなるのだから、人をたくさん呼ぶのは当たり前だろう。ならば開発は進んでいくのは必須だ。
「父ちゃんも俺も、人間が嫌いで避けたいわけじゃないよ。なんなら畑からちょっと失敬したりもするし。キョウゾンって大事だから」
 意味がわかって言っているのだろうか。偉そうに鼻をならすタキが可愛い。
「父ちゃんと狩りをしながら、住むところを移動してたんだ」
 秋保大滝へ送り届ける案はナシ。乃里は手掛かりを探すべくタキから情報を引き出さねばと思った。
「じゃあ秋保大滝に行ってもお父さんに会えないね……次に住むところって、決まっていたの?」
 地名を知っていればの話だが、タキは秋保大滝の名前も知らなかったのだから期待は薄いかもしれない。案の定、タキは首を横に振った。
「次は海の近くに住もうってだけ」
 海か。しかし、日本のまわりはぐるりと海だ。
 捜索は山の予定だったが、行先は海に変更だ。
 頭を掻いた乃里は、萩の顔を見た。彼も首を傾げている。海といわれてもこれでは日本海か太平洋かわからない。
「海かぁ、広いなぁ……遠くに行くっていってた?」
「ううん。そんなに遠くないっていってた」
「じゃあ、太平洋ですね。見当違いでなければ県内の沿岸部」
 萩の言葉に乃里は頷いた。
「じゃあ、山じゃなくて海に向かわないとお父さんに会えないね……」
 困ってしまった乃里たちを見て不安になったのか、タキは「えーと、えーと」と考えている、その様子がとても可愛らしい。どうしても助けてあげたくなる。
「あ、船が見えるって言ってた」
「海に船はたくさん走っているからね……」
 せめてタキが船マニアで名前を知っていてくれれば。漁船か客船かだけでも区別が付けば。
「えっとね、あとはね……島がたくさん、船で見るんだって」
 なにかのピースが動いた。しかしはまるにはまだ情報が少ない。
 宮城県内。太平洋側、船。
 島に船で渡るのだろうか。もっと、足りない。おねがいだ、なにか思い出して。
「あとね、赤い橋、長くて赤い橋があるって言っていたよ」
 海。船。島がたくさん。海にかかる長く赤い橋。カチリ、ピースがはまった、気がした。
「……福浦橋だ」
 小さく言うと、乃里は人差し指を立てる。
「ということは」
「松島」
 それだ、と牡丹がパンと手を叩く。
「家族と、行ったことがあるんです」
 乃里の記憶が鮮明に蘇った。
 萩は車を出すのか、部屋を無言で出て行く。牡丹に促され乃里とタキは立ち上がって部屋を出た。
 日本三景のひとつ、松島。風光明媚な景色を望めることで有名な場所だ。大小二六〇の島を望むといわれる松島湾。青い海にかかる赤い橋は福浦橋という名前だ。
 宮城県内、沿岸部。島々を船で見る、そして赤い橋。タキのいう赤い橋は福浦橋だと思う。
 福浦橋を渡るとその先にあるのは福浦島だ。
 山から下りて、次は海の近くに住もう。タキの父親は松島の福浦島ではないのか。
 しろがねを出て、車に乗り込んだ。タキは初めて車に乗るらしく、テンションが上がっている様子だ。
「いまから、赤い橋にいくよ。たぶんそこにお父さんがいるんじゃないかと思う」
 座席に立ち上がろうとするタキを窘めて、牡丹がそう言う。
「ほんと? 父ちゃんに会えるのか?」
 タキは顔を輝かせた。その様子を見て、牡丹がタキの頭を撫でた。
「たぶんね。タキが教えてくれた手掛かりをたよりに、導き出した場所へ行ってみよう」
「動いてみないとわからないもんな。俺、じっとしているのは苦手」
 動いてみないとわからない。そうだなと乃里は思う。立ち止まっていてはなにも変わらない。
「俺は猫だから、じっとしているほうがいいけれどな」
「なんだ。猫は怠け者なのか? 牡丹」
「そうじゃないよ。じっとして待ち伏せ狩りが専門だもん」
 ふうん、と牡丹の言葉を興味深そうに聞いているタキ。可愛いし、本当に里司を思い出す。彼もあんな風に乃里の話を聞く。
 萩は黙って運転をしている。道路はさほど混んではおらず、この様子なら松島には一時間ほどで到着するのではないかと牡丹が言う。
 塩釜を抜け国道を走っていると、急に視界が開ける。生い茂る松の木の合間から、青い海が見える。

「ああ、この景色」
 乃里は、数年前に家族で松島へ遊びに行ったときのことを思い出していた。父と里司、そして乃里。そこで、佐和子を紹介されたのだ。

『新しいお母さんだ』

 澄んだ空に青い海。観光船にまつわりつくように飛びまわるカモメ。観光船の甲板でカモメに餌をやりながら、乃里は鳥になりたいと思ったのだった。
 新しいお母さんというものは、なんなのか、いったい。
 お父さんは、お母さんを忘れたのか。もう、愛して、いないのか。
 鳥になりたいと思ったことは覚えているのに、会話や、松島でなにをしたのか全然思い出せない。いまより乃里は幼くて、新しい母親だといわれた佐和子がいまよりも少し痩せていたことも覚えているし、空の色と海の広さは覚えているのに。
『佐和子さんのお腹には、お前の弟か妹がいるよ』
 少し膨らんだお腹をさすって弱く笑ったことも覚えている。なのに、乃里はここ松島でなにをどうしたのか覚えていない。

 タキみたいに、実の父親じゃなくても慕う素直な心があればよかったのに。
あれば、こんなに苦しむ必要も。
「乃里、うちの父ちゃんと番になれよ」
 タキの声にはっとした乃里。最初なんのことなのか理解できなかったが、内容が物凄いことだと徐々に気付いた。
「ちょっと……タキ、なにを言ってるの。そんなの無理だって」
「そうかなぁ。乃里が一緒ならこれから楽しそうなのに」
「わたしは人間、タキとタキのお父さんは狼男でしょ」
「けちー」
「けちじゃない」
 そうなると、乃里はタキの母親になるということか。乃里は考えて背中がぞくりとした。恐怖だろうか、悪寒だろうか。よくはわからなかったが。
下り坂になる国道を走ると右手に海が近付く。
「ほら、タキ。福浦橋だよ」
 牡丹が指さす車窓のむこう、小さく橋が見える。
「あれが赤い橋かー」
 ピクピクと耳が動いているタキは嬉しそうだ。
 トンネルが見えてきて、抜けると左手に仙石線の松島海岸駅。右手にまた海。船が停泊しているのが見えて、その向こうに小さく島が見える。五大堂という観光スポット、また左に視線を戻すと瑞巌寺。萩が瑞巌寺の前を少しだけゆっくり走ってくれたので、古めかしい門の向こうに広がる竹林の道を見ることができた。あれを進むと瑞巌寺がある。
 歩道をたくさんの観光客が歩いている。道路があまり渋滞せずに来ることができたのはラッキーだったのかもしれない。
 萩はウインカーを出して、駐車場に車を停めた。
「ここに車を置きましょう。行きましょうか」
 萩の言葉に、誰の返事よりも早くタキが車を飛び出した。
「危ないよ。ひとりで行かないで」
「早く来いよ、乃里」
 急かしながら乃里の手を繋ぐタキ。弟の里司と重なる子供の手の感触。乃里もタキのそばにいなければという気持ちになる。
 案内板があるが、橋も島も目の前なので迷わず向かうことができる。ぴょんぴょんと跳ねるような足取りのタキに引っ張られるようにして乃里は歩いた。
 駐車場のまわりには飲食店があり、道路を渡るとまた商業施設や展示施設がある。お土産を買ったり、食事をするのに困らない。
「福浦橋はあそこから入場ですね」
 萩が指さす先に、小さな建物があり「福浦島入口」と表示がある。
 たしか、家族で来たときもこのあたりを通った。福浦島に渡りはしなかったはずだが、たしかにこんな感じだったかもしれない。人間の記憶はなんて曖昧なのかと思う。
 入場料を数百円支払い、足を踏み出した福浦橋。
 いい天気だ。
 空と海と島のコントラストの中に赤い橋はとても目立っていた。しかし、実際立ってみるとさほど長さはないので立ち止まらずに渡れば五分ほどで福浦島に到着する。
 橋には、自分たちの他に誰もいない。島には観光客がいるかもしれないが。
 橋から見下ろす海には底の岩が見えた。
「体がしょっぱくなる」
 タキが下を出して腕を舐めた。
「海からの潮風のせいだね」
「父ちゃん、このしょっぱいの平気なのかな」
「ここで暮らすなら、慣れないとね」
 乃里は、海水浴のあとを思い出していた。タキが体がしょっぱくなるといったのは人間だと海から上がった感じに似ているのかもしれない。たしかに不快である。
「福浦橋は出会い橋と言われているそうですよ」
 萩が携帯で調べたらしい情報を教えてくれる。懐に携帯を仕舞いながらタキに笑いかけた。
「きっと、良縁という意味の出会いだろうと思いますけれど、出会いは出会い。お父様に会えるといいですね」
 話ながら歩いていると、福浦島に到着した。
 松島湾に浮かぶ島々と同じく、松の木が生い茂り、遠くから見るよりも大きく感じる。橋は短く感じたのだが。
「あまり人がいませんね」
 たしかに、振り返っても橋を渡ってくる人はないし、島の入口には誰もいない。
「たまたまなんだろうけれどな。外には人がたくさん歩いている」
 橋をひとつ隔てたからか、この島は静かで、なにか薄い膜がかかるように感じる。
 遊歩道が整備され、歩行するには問題ない。ただアップダウンがあるのでけっこう体力を使う。暑さもしんどい。
「暑い……それに四足歩行のみんなと違うのよ」
 ぶつぶつ言っていると、軽く息が弾み始めた。
「景色は最高なんだけど。疲れた。暑い」
「乃里、文句ばっかりだな」
 タキに言われて、たしかにそうだとぐっと黙る。
 青い空、静かな海。絶景に気を紛らわせてみてもやっぱり辛いものは辛い。
「あ、ほら。乃里さん、タキさん、見てごらんなさい。売店もあるんですね」
 萩が指さすと、タキと同じく牡丹も反応する。
「本当だ。お腹空いたよなー」
「せっかくですから、帰りになにか食べて帰りましょうか」
「そうだよな。牡蠣の時期は冬だけど、うなぎ屋もあるし」
 兄弟は暢気にそんなことを話している。
 松の木々が作る日影が、日差しを遮ってくれるが、しかし熱い。汗を拭って前を見たとき、古くて小さな瓦屋根の建物が見えた。
「弁財天堂……」
 正面に掲げた木彫りの文字を追うと、福浦島弁財天と読める。木々の間にひっそりと佇む弁財天堂というお堂らしい。
「なかなか歴史を感じるお堂ですね」
「あれなに、なんか壁に赤いポツポツが……」
 乃里の言葉を聞いて「どれ?」と牡丹がお堂に近付く。
「おお。こりゃ圧巻だね。小さい達磨がずらっと」
 お堂の壁は格子になっており、そのマスひとつひとつに小さな赤い達磨がずらりと並べてあるのだ。タキと共にお堂の階段を上り、壁に近付いてみる。
「しかもひとつひとつ表情が違うんですね」
 どうしてこんなものがあるのかわからないが。少しだけ怖い気がする。
 触っても大丈夫なのだろうか。乃里は手を伸ばして小さな達磨に触れようとした。その時。ふっと風が吹いて、指先の達磨が壁からひとつころりと落ちた。
 固定されてないのか。拾おうと屈んだ時、タキが乃里の手を離した。
「父ちゃん!」
「え?」
 タキの声が弁財天堂敷地内にこだまする。
 ざざざ、と風が強く松の木を揺らす。まるで旋風に乗ってきたかのように姿を現したのは、大きな黒い塊だった。乃里は自分の体が強張りいうことを聞かないことに気づく。
 手が、動かない。
「あ、あぶな」
「父ちゃん!」
「……タキ」
 太く低く、体の奥底に響くような声がタキを呼んだ。
「タキの、お父さん……?」
 真っ黒な塊はゆっくりと盛り上がり、四つん這いにから二本足で立つ。人型になっていく。白いシャツを着てデニムズボンを履いている。立ち上がった身長は萩や牡丹と同じような高さなので、成人男性の身長といったところだろうか。タキの下半身が狼のそれなので、同じような狼男を想像していたが、タキの父親は顔が狼だ。タキのように黒い毛、狼の耳と顔、鼻。赤く裂けたような口に牙が見える。
 乃里は肌が泡立った。怖い。喰われるのではないだろうか。でも、萩と牡丹がいるのだからここは全力で守ってもらおう。
「タキさんのお父様ですか?」
 恐れることなく萩が訪ねた。グルルと狼男の口から獣の音がする。
「そうだ」
 人語を離す狼か。そんなことを言ったら、タキだって狼男なのだけれど。
 駆け寄って足に抱き着くタキの頭を撫でて目を細める。猫がやるみたいに。
「探したんだぞ、父ちゃん!」
「そりゃこっちの台詞だ。お前が鳥を追いかけるのに夢中になって遠くに行くからだろう」
「すぐ戻ったもん。もう父ちゃんの匂いが追いかけられなくなってたんだもん」
 口を尖らせるタキの頭をくちゃりと撫で、タキの父親はこちらに視線を向けた。
「……あんたらは」
「僕たちは、タキさんを保護しましてね。少し怪我をしていたので」
「怪我?」
「彼女が、タキさんが倒れていたのを見つけて。ああ、擦り傷程度でしたので心配いりませんよ。たくさん食べるし、元気です」
 タキのように男の子の顔ならば表情が読み取れるけれど、狼の顔から気持ちを読み取るのは至難の業だ。怒っているのか悲しんでいるのか、なにもわからない。
「で、親父さん探しの手伝いをしてたわけ」
「手伝ってくれたんだよ! 乃里も」
「のり?」
 あの子! とタキが指さす先にいた乃里は、びくりと肩を震わせた。
「美味しいご飯も食べさせてもらった!」
「そうか。礼を言わねばならない。タキを助けてくれてありがとう」
 首を垂れる狼男。紛れもなく父親の姿であり、こちらを攻撃するようなことはなさそうだと乃里はほっとする。


「ここまでたどり着いたのか。タキを連れて来てくれて、礼を言う。ありがとう」
 何度も感謝の言葉を口にし、なんと礼儀正しい狼男なのだろうか。
「わたしはイナバという」
「イナバさん。よかった。タキさんと再会できて」
「そうだな。会えなければそれまでだと思っていた」
 狼男のイナバはまた目を細めて萩を見た。あれはきっと微笑んでいるのかもしれない。
「俺の父ちゃん、かっこいいだろう。な、乃里」
「そ、そうだね」
 猫好きのように狼好きが見たらかっこいいと形容するのかもしれないけれど、乃里にはよくわからない。黒い毛が狼界隈ではかっこいいのだろうか。
「だから番になれよ!」
「またその話!?」」
 勘弁してほしい。上半身狼の嫁にはなれない。下半身狼も嫌だけれど。
「なんだ、タキ。もうそんな子を見つけたのか」
 驚くイナバは乃里を見た。本当に勘弁してほしい。乃里はめまいを覚えた。
「父ちゃんと番になってって頼んだんだ」
 更に驚いたイナバは乃里に向けた目を見開く。怖い。
「ばっばか! お前迷子になっていたあいだ、なにをやっているんだ!」
「迷子じゃないよ! はぐれただけだってば。かっこよくはぐれ狼っていってよ!」
「そんなことはどうでもいい! こ、こんな可愛らしいお嬢さんを……」
 イナバはどうやら照れているのだ。可愛いといわれてまんざらでもないけれど、しかし勝手に進められる話は中断させなければいけない。
「いやあの……すみません。わたし番になるのは遠慮します……すみません……」
「なんだよーそうなのか。俺、父ちゃんの子じゃないけれど父ちゃんと乃里のあいだに生まれた子のことちゃんと面倒見るのにな」
 無邪気な子供の思考は飛躍し過ぎだ。しかし、乃里はタキの言葉にドキリとする。
「その、イナバさんはタキの本当の父親じゃないと聞きました」
「そうだが」
 まるでそんなことがなんだ? とでも言いたそうな、イナバの反応。
「どうして自分の子じゃないのに育てるのですか? 育てようと思ったのですか? 本当の親子になんてなれないし、本物のほうが愛だって持てるのに。可愛いと思うのに」
 詰め寄るようにしてしまって、少し恥ずかしい。しかし、聞きたいという気持ちが勝つ。タキはイナバに足に抱き着いて離れず、乃里を不思議そうに見ている。
 実の父親ではない、血の繋がりはないものを純粋に信じ、愛し、抱きしめているタキ。
 本当は、あんな風に。
「きみは、自分の子でないものを育てたことがあるのか」
「あ……ありません。でも」
 イナバは乃里の言葉の続きを待っている。なにを、話しているのだろう。こんなことを、こんなところで。
「わたしの母親は死んで、別のひとがわたしを育てています。血の繋がりのないひとです」
 なんて言い方をしたのだと、自分で思った。
「なんだ。乃里、母ちゃんいないのか。俺と同じだな」
「そ、そうだね」
 無理に作った笑顔をタキに向ける。
 別に憎らしいわけじゃない。違う。そうじゃない。けれど、疎外感は拭えない。自分だけが家族じゃない。里司が生まれてから、余計に思うようになって。
 こんな気持ちが襲ってくるのも怖いと感じる。
「血のつながりがあってもなくても、一緒に生きてきた。これからも、たとえ離れてもどこかにはいて、死ななければ、変わらないのではないか」
「わかりません」
 共に生活したということだけで家族になるのだろうか。そんなこと理解できない。
 押し黙る乃里に、イナバは「きみと同じだ」と言った。
「どういう、ことですか」
「きみが、タキを拾って手当てしてくれたことと同じだ。俺がタキを息子としたこと。血の繋がりじゃなくて、命を手にした」
 イナバはタキの頭に手を置き、また優しく撫でる。
「命の縁は、常にあるんだ」
 縁。乃里は口に出して言ってみた。
「自分が、仲間だ、家族だって決めたら、それでいいだろう。なにを迷う必要がある。心の決定がすべてだろう。自分の胸中のことだろう。きみは家族が大切ではないのか?」
「……弟が、いて。タキくんくらいの。その、実の母親じゃないひとが、生んだんだけれど。わたしと半分血の繋がった、弟が」
 とても大切です。
 そう言いたかったのに言葉にならなかった。喉がつかえて、胸が痛くて。どうして痛いのか、頬を温かい水が伝うまでわからなかった。
「そうか。弟さんがいるのか。だからタキを助けてくれたんだな。ありがとう。きみは優しい子だな」
 優しいだろうか。佐和子を寄せ付けないでいる自分が、優しい子であるのだろうか。
 乃里の頬からまた雫がぽたりと落ちる。
「大事で、一緒にいたいし、俺はこいつを愛している。拾ったときは、俺がいなきゃ生きられなかった。死んだらそこまでだと思っていた」
 タキも同じようなことを言っていた。瀕死だったのだろう。
「今回はぐれて、会えなければ死んだと思おうとしていた。それまでだと。でも、会えたな」
 な、とタキの頭をぽんぽんと撫でる。愛おしそうになでくり回して、そうされたタキはとても嬉しそうで。


「俺は死なないよ。父ちゃんに絶対会えるって思ってたから」
「どうして?」
「ひとりじゃ無理だもん。萩と牡丹と乃里が一緒に探してくれたから!」
 ここでも縁が命を救ったのだろうか。
 皆に守られたタキという命は、ここで笑っている。
「なくていい命はないというが、生きるのも消えるのも命には理由があるだろ。こいつがいなくていい命だったら、俺がこいつを拾った時も、きみがタキを見つけたときも、生き延びることができなかったただろう」
 イナバの黒い毛にオレンジ色の光が当たって、金色に見えた。不思議だ。
「もう、そんな時間なのか」
 隣にいた牡丹の目が光を受けてきゅっと細くなる。
 福浦島に到着したときはまだ昼頃だったはずなのに、もう空には夕方の太陽の光が広がる。長時間過ごしたわけではないはずなのに。あやかしたちと共にする時間軸は、歪むのだろうか。
「イナバさん」
 萩が静かに口を開く。
「いままで秋保の山にいたのに、どうして海のそばに住もうと思ったのですか?」
「山の食べ物に飽きて、魚が食べたくなっただけだよ。景色もいいし。ここに飽きたらまたどこかへいくさ。秋保は秋保で楽しかったよ」
 イナバはハハッと軽く笑う。深刻な理由ではなかったからほっとしたのだろうか、萩もつられて歯を見せた。
「あそこは僕も好きです。いつか、うちの店にもいらしてください。山の幸も海の幸もお口に合うよう、料理いたしましょう」
「それは楽しみだ。必ず行くよ」
 萩が差し出した手をイナバは握った。
「行くか、タキ」
「うん」
 どこに行くの。言いそうになったけれど、ここから先は関係してはいけない気がして、乃里は黙って見ていた。イナバとタキの親子は手を繋ぎ、乃里たち三人を振り返る。
「じゃあな、乃里。元気でな」
「タキもね、もう迷子にならないように。お父さんの言うことちゃんと聞いて」
「迷子じゃねぇ! はぐれただけだってば!」
 タキの反応を見て皆で笑う。
 イナバとタキは歩き出した。
 どこへ向かうのだろう。どこでもいいか。元気でいるならば。
 弁財天堂の敷地を出て行く大小の背中を見送る。いつかまた、どこかで会えるといいな。会いたいなと願いながら。
 次に会った時は、タキはきっといまよりも大きくなっているだろう。
 見えなくなるまで、見送っていた。
 タキの小さな背中は、父と里司が手を繋ぐ姿と重なって、胸がぎゅっと締め付けられた。
「僕たちも、帰りましょうか」
 萩が言い出さなければ、ずっと弁財天堂の前に立ち尽くしていたかもしれない。
「そうですね」
 萩が先に歩き出す。少し離れて牡丹、牡丹のうしろを乃里は歩いた。
 ここへ来たときはタキがいて騒がしくて、一人減ってしまったのでやはり少し寂しい気がする。
「乃里ちゃん、随分と思いつめているんだね」
 牡丹が、乃里を振り返った。
「思いつめて、いますかね」
 自分の家族のことを言いたいのだろう。慮るのが得意そうな萩ではなく、ストレートな物言いをする牡丹のほうがいいのかもしれない。継母で、弟がいることは以前話した。家族の話題に関しては、乃里の反応があまりよくないことは牡丹が萩にもきっと言っただろう。
「佐和子さんて、いうんです」
 うん? と聞き返す牡丹。「いまの母親の名前」というと、頷いた。
「そう呼んでるんだ? お母さんのこと」
「書類上は母親です。でも、わたしは呼べません。タキを見習わないとだめですかね。あんなに素直に、お父さんのこと」
「乃里ちゃんは、乃里ちゃんでしょ。タキの真似する必要ないんじゃない?」
 ザクザクと地面を踏みしめる音がする。牡丹と自分の四つの足音は不規則に、心に響く。少し前を歩く萩がこの会話にいないことがよかったのかもしれない。三人で並んで歩いていたなら、牡丹はきっと乃里に声をかけなかっただろう。

 父が紹介した佐和子はほどなくして結婚し、一緒に暮らすようになる。それは自然だった。
トラブルなく、佐和子は乃里の生活に入ってきた。
死んだ母がいた場所だ、と乃里は思っていた。役割だとも、空席だとも思った。
「本当の親子になることは無理でも、だからこそ、ずっと一緒にいよう」
 って、言ったんです。乃里は牡丹に、ぽつりと言った。
 佐和子は、生まれたばかりの里司を抱いて、乃里にそう言ったのだ。
 本当の親子ってなに? わからなかった。心の底から一点の曇りもなく可愛いと思える自分の子供を抱きしめて、自分が産んだのではない子供に向かって、どういう気持ちで言ったのか、理解できなかった。
 まるで返事のように、あばぁ、と笑った赤ん坊の里司の顔を覚えている。

「そんなの綺麗ごと。一緒になんてうそだよ。いなくなるでしょ、死んじゃうでしょ」
 牡丹にまるで八つ当たりをするように、言葉を投げっぱなしにした。聞いてくれているという甘えがそうした。
 いなくなるでしょ。死んだ実の母に対しても、どうしてひとりにしたのかと返事のない問いをしている。それを佐和子にも重ねる。
「繋いだ心って、千切れるときは、痛くて。怖い」
 ひとたび手にした愛情と繋がりを、手放すのが怖い。だったら最初からその手を握りたくなかった。
「タキみたいに、実の父親じゃないのに好きだって言いたい?」
「だって、嘘だもん。佐和子さんが、ずっといるっていうのも」
 敬語を忘れて乃里は答える。だって、信じられない。
「だって、佐和子さんの子供はわたしじゃない。弟がいる。わたしの居場所なんか、あの家にない」
 唇に前歯が食い込んだ。
 佐和子が来たからでも、里司がいるからでもない。それなのに、まるで体が削られていくように居場所がないこの感じはいったいなんなのだろうか。
「じゃあ、乃里ちゃん。俺たちとずっといる? こっち側に来る? 俺たちは、乃里ちゃんが死ぬまでたぶん一緒にいると思うよ」
 おいでよと伸ばされた手。
 牡丹はまるで甘いお菓子を差し出すようにして「こっちにおいでよ」と言った。福浦島と陸を結ぶ赤い橋の端っこで、別世界へ誘うように。
 乃里は、なにも言えなかった。言葉も出ず手を握ることさえも、できない。
 黙っている乃里を見て、牡丹は差し出した手をおろした。
「……人間は勝手だな。勝手にくっついたりはなれたり。俺たち動物を拾ったり捨てたりする。勝手に」
 きっと萩だったらこんな風に言わないのだろうなと思いながら、乃里は牡丹を見た。憎しみの色があるのかと思ったけれど、牡丹の目はとても優しく乃里を見ていた。
 猫が信頼している人間にやるように、目をきゅっと細めて。
「ただ、嫌わないよ。俺たちはそんな人間が、好きだよ」
 長く生きてきた牡丹にとっては、乃里の悩みはちっぽけなものなのかもしれない。拾った飼い主と暮らし、命を見送った。そして次の命を見つけて。
 いつの間にか福浦橋も半分あたりに来ていた。前には萩の姿がない。もう渡り切ってしまったのかもしれない。
「乃里ちゃんの心に住む人間たちは、紛れもない家族でしょ。死んだ人も、いまきみと一緒にいる人間も。飛び込めばいいよ」
「できるのかな」
「乃里ちゃんは、優しい子だよ。イナバさんも言っていたし、俺もそう思う」
 乃里は、赤い橋を渡りきる手前で、後ろを振り返った。
 夕焼けに福浦島が包まれていて、あまりにも綺麗。目に見えるものはこんなに綺麗なのに自分の心はねじ曲がりぐちゃぐちゃで、涙が出た。
「なんだか、寒い」
 夏なのに、背中と腕が冷たい。かいた汗に潮風を浴びて体が冷えてしまったのかもしれない。

 帰りの車で乃里は思考が停止したように眠った。
たくさん考えて、心が詰まって疲れてしまった。瞼も頭も重くて、なにも考えたくなかった。
 車のエンジンが停止し、ドアの開閉する音で目を覚ました。しろがねに到着したと気付いて、乃里は車から降りた。すると地面につけた足の膝がガクリと折れた。
「あれ?」
 そのまま地面に両手をつく。頭がフラフラして目の奥が熱い。
「乃里ちゃん、どうしたの?」
「す、すみません。なんか……フラフラして……寒気が」
 背中がぞくぞくする。福浦橋の上で感じた寒さはこれのせいか。熱が出たのだ、と思ったときに牡丹の大きな手が乃里の額を触る。
「熱、測ろうか」
 しろがねから出てきたシズさんが、しゃがみ込む乃里を見て「どうしたんだい」と心配そうに声をかけてきた。
「シズさん、乃里ちゃんが具合悪いみたいなんだ」
「大変だ。とりあえず牡丹、早く乃里さんを中へ」
「おっけー、よっこいせ」
 牡丹は乃里を軽々と抱き上げて運んだ。
「あ、歩けます……」
「いいから言うこと聞きなさい」
 男の人にこんなふうにされたことがないので、どこにどうつかまっていいのかわからない。ふわふわとした感覚は熱のせい。牡丹は客室のひとつ乃里を運んだ。シズが敷いてくれたらしい布団に寝かされる。
 客はいないのだろうか。掃除をしなくちゃ。洗い物もあるのに。
「そんなことはいいから。少し横になってて」
口からつい出てしまっていたらしい。牡丹は乃里の額に再び手を当てて「うーん」と唸った。
「ちょいとごめんよ」
 シズが乃里のわきの下になにかを挟めた。おそらく体温計だ。乃里は目を閉じて静かに呼吸をする。苦しい感じはない。でも寒気が酷くてガチガチと歯が鳴った。
「夏なのに……こんなに寒いなんて」
 かいている汗が冷たくて気持ちが悪い。両腕のあたりが寒くて、乃里はシーツの中で自分の肩を抱いた。
「短期間にいろんなことがあったから疲れたてしまったのかもしれませんね」
萩が言い終わるのを見計らったかのように体温計がピピッと電子音を出した。
「三九度」
 シズが「氷枕を用意しますからね」と言って部屋を出て行った。
「そんなにあったんですか、熱」
 朝は何ともなかったのに。額に手を当ててみても、自分ではよくわからない。
「乃里ちゃん、実は具合悪かったんじゃないの?」
 そんなことはなかったはずなのだが。自覚がなかっただけだろうか。
「おうちに電話しておきましたよ。お母様が迎えに来るそうですよ」
 電話なんてしなくてもよかったのに。乃里は口をとがらせた。どうして電話をしたのだ。お腹の奥が気持ち悪くなってきた。
「……来るの? 佐和子さんが」
「ええ。とても心配されていました」
 心がザワザワと騒いだ。体調が悪いのも手伝って、佐和子がここへ来ることが嫌だった。せっかく小さな自分の居場所を作ったのに。
 見て欲しくない。まるで子供が作った粘土細工が良い出来ではないことを隠すように。
 だって、完成度が低くても、きっと、よくやったねって、言うから。
 閉じていた目にぎゅっと力を入れた。
 そのとき、肩口にふわりと触れるものがある。ぐいぐいと体を上っていき、腹の上で落ち着いた。
「……牡丹……さん……」
「こら、牡丹。病人の腹の上に乗るやつがありますか」
「おも……」
 信じられない。熱を出し体調不良だということをわかっているはずなのに、乗っかってくるなんて。その様子を咎めながらも、萩はふふっと笑っている。
「まぁでも、温かいのではないですか? 乃里さんが嫌なのでしたらどかせましょうか?」
「たしかに、あったかい……いいです。このままで」
 牡丹は猫になると何キロぐらいになるのだろうか。今度、量ってみよう。ふうとため息をつくと、萩は乃里の肩にシーツを引き上げてくれた。
「乃里さん、なにか食べたいものがありますか?」
 昼間、お腹が空いていたはずなのに、いまは食欲がない。けれど、食べたいものはある。
「……萩さんのプリンが食べたいです……」
 わかりました、という萩の静かな声と、襖が閉まる音を最後に、乃里は眠りの沼に沈んだ。


 キッチンに立つ母の姿を見るのが好きだった。
 記憶にある母はエプロンの似合う優しい女性だった。柔らかくいい匂いのする手が美味しい料理を作り出す。触られると嬉しい気持ちになった。
 佐和子が立つようになっても、見ていた。どうしても重なる。佐和子の向こうに母を見ていた。
 時間とともに記憶は朧げになり、自分ではどうしようもなくなる。
 母よりも佐和子の後ろ姿のほうが濃くなっても、まるで自分の記憶を塗りつぶすようにして、乃里は無理やり母の姿を形作った。
 わたしが忘れたら、誰がお母さんを思い出すの。
 体調を崩して熱を出したとき、怖い夢を見た。夢でうなされ、薄く覚醒を繰り返し、間に触れる母の手の温かさを覚えている。この手に触れるために怖い夢から這い上がるようにしてもがいた。
 母は優しく手を握って頭を撫でてくれていた。
 ずっと、優しく、温かな手で。大丈夫よ、お母さんここにいるから。
 その声を目指して、手を伸ばす。

「大丈夫よ」
「おか、さん」
 ふっと目を覚ますと視界が歪む。
 母の手が額にあるのか。
 夢でも嬉しくて、そのせいで涙が出て視界が歪んでいたのだと気付く。
「目が、覚めた?」
 しっとりと優しい女性の声だった。シズかと思ったが、違う。
 そうだった。自分は眠っていたのだ。背中に当たる布団、腹にかかるタオルケット。
 視線を天井からずらすと、こちらを見て優しく微笑む顔。額に手を乗せていたのは佐和子だった。
「き、来たの……」
「当たり前でしょう。起きられそう? 寝ている間に熱測ったら下がったみたいだから、帰ろう。家でゆっくり休もう」
 しろがねに、佐和子がいる。ぎゅっと目を閉じた。
 ここは、乃里の居場所になるところだ。あの家には自分の場所が少なくなっている。息が詰まる。リビングにも、玄関にも、廊下にも。
 悲しくなって、余計に母を思い出す。思い出がじゅうまんして、息ができない。自分は、なにに対して泣いているのかわからなくなるほど。
「具合、悪いのね。泣かなくても大丈夫よ。一緒に帰ろうね」
「どうして、来たの」
「当たり前でしょう。心配だから。お父さんも里司も心配してる」
 佐和子の手が額に置かれたまま。乃里は体をよじって横を向き佐和子に背を向けた。その拍子に、腹の上にいた牡丹が畳に降り立った。
「乃里ちゃん」
「嫌。帰らない」
「え?」
 にゃお、と牡丹がひとつ鳴いた。なにか言っている? 行くな、だろうか。それとも。言葉がわからないのがもどかしい。人間になって話してくれればいいのに。牡丹を見ていたら襖を前足で開けて、部屋を出て行った。
「乃里ちゃん……ね、帰ろう」
 背を向けたままで首を振る。優しくしてくれているのはわかる。けれど、出て行ってほしい。帰ってほしい。
「家に、プリンあるから」
「こ、子供じゃないんだから。プリンとか、そんなのいらない。帰らない」
「子供だよ、乃里ちゃんは、」
「うるさい」
「乃里ちゃん」
 聞きたくない。名前を呼ばないでほしい。指を突っ込んで耳をふさいだ。子供だよって、どういう意味だ。
 わたしは、あんたの子供じゃない。
「迎えに来てほしいなんて、頼んでない。家にいたって息ができないよ!」
 佐和子は続けてなにかを言ったのかもしれないけれど、乃里には聞こえない。
 耳をふさいでじっとしていると、まるで水の中にいるようだ。ずっとこのままでいたいとすら思う。
 耳を塞ぐ指を抜くと、ちょうど襖がノックされた。「失礼します」と牡丹の声だ。廊下で人間になったのだろう。
 佐和子が返事をし、牡丹が入ってきた様子。ふたりに背を向けているので見えないが。
「お母さん、乃里ちゃん目が覚めましたか? お話声が聞こえたので」
「あ、はい。すみません……お世話になってしまって。熱も下がったようで、連れて帰ります」
「熱下がりましたか、安心しました。少し遠出をする用事があったので、冷えてしまったのかもしれません。申し訳ございません」
「そんな、うちもご迷惑おかけしました」
「大事な娘さんですから。乃里ちゃんが一生懸命働いてくれるのですごく助かるんですよ。料理あ、大好きなんですね。お母さんの影響でしょう」
 知っているくせに、なんでそんなことをいうの。牡丹はいじわるだ。
「乃里ちゃーん。どうかな、帰れそう?」
 牡丹の問いかけに乃里は答えない。佐和子も黙っている。静寂が乃里の気持ちを追い込んだ。
 ふたりがどんな話をしていたかなんて聞こえていたくせに。乃里は親指を齧った。
「乃里ちゃん」
 乃里はふたりに背中を向けたまま、布団をかぶった。
 ああ、本当に駄々をこねる子供のようだ。