「なんとも腹の減る匂いだなぁ」
朝、父が欠伸をしながらリビングに来た。
「乃里ちゃんが、お味噌汁を作ってくれているんです」
「今朝は乃里が朝食担当かい」
食事の準備が担当制になったことはない。乃里は父に「おはよー」と声をかけて、火加減を見ている。
「しろがねでの合わせ出汁を習ったから、作ってみたいの」
乃里のレシピに「しろがね合わせ出汁」のページがひとつ加わった。
「鰹節は絞ってはいけない……」
その通りに作り、味噌を溶き、豆腐を賽の目に切る。今日はわかめと豆腐の味噌汁だ。父が味噌汁の中で一番好きだという具材だ。
「できました」
かしこまった様子で乃里はお椀によそった味噌汁を三つ、食卓のターブルに運ぶ。
里司も嬉しそうに駆け寄ってきた。
「里司、熱いから気を付けて飲みなね」
「はあい。姉ちゃん、これ美味しい!」
「まだ食べてないのに?」
「匂いが美味しいよ」
ニコニコと嬉しそうな里司。匂いが美味しいとは、里司の完成に驚かされる。いまの乃里にとって最高の誉め言葉だ。
「はい、お待たせしました。召し上がれ」
「こりゃ。うまそうだ」
「お父さんの好きなわかめと豆腐の味噌汁ですね。乃里ちゃん本当に料理が上手」
佐和子が笑顔で褒めてくれるのも、乃里は顔に出さないが内心はやはり嬉しい。
「親譲りだな」
父の言葉に、敏感に反応してしまう自分が嫌になる。父を嫌いなわけじゃない。けれどこういう発言をするときは黙っていてほしいと思う。
乃里にとって地雷でも、父には関係ないか。
親譲り、とは、父からしてみればきっと佐和子のことなのだ。
台所に立つ母の後ろ姿を見て、その思い出を胸に料理人になりたいと思う乃里の気持ちなど、父は想像もしていないのだろう。
話したことがないからだ。
父は味噌汁を飲みながら、里司の好きな恐竜図鑑を出した。里司の日曜日お父さん独占タイムが始まる。
乃里は今日もしろがねに行くので、これから身支度をして家を出る。鍋の中身をどうしようかとキッチンに戻ると、佐和子が来て「残りは夕飯に食べましょう」と言った。
「お昼と、わたし帰り遅くなるし、全部食べちゃっていいよ」
「そう? ふたり喜ぶわ。ありがとうね」
このくらいの味噌汁ならいつでも作れる。里司と父が喜ぶなら出汁を取るのも面倒ではない。
「しろがねに行くようになって、乃里ちゃん楽しそう」
そうだろうか。自分では意識をしていなくても、佐和子にはそう見えるのか。
学校と家の往復の日々に、しろがねでアルバイトをする時間が加わり、忙しいが充実している。楽しいし、勉強になる。自分の居場所を作っていると実感できる。
「新しい自分の居場所があるって、嬉しいから」
「……そう」
佐和子はまだなにか言いたそうだった。そんな佐和子を背にして、乃里は「バイト行くね」とリビングを出た。
乃里はなにか佐和子に訴えようと意識して言ったことではなかったし、いままで言ったことはない。
思っても言わない。口に出すようになった小さな変化は、しろがねの佐々野兄弟との日々のおかげなのかもしれない。
訴えたことなどない。わたしに構わなくていい、里司だけ見ていていい。里司とお父さんのことだけ気にしていればいい。
わたしを見なくていい。
態度に出すだけ。
この気持ちを言ったら、壊れるのは分かっているから。なにも言わない。
態度だけでも父と佐和子は感じ取るのだから。呼吸ができなくなる。
家とは別な場所に自分の居場所を作ることで、乃里の心は解れて安心する。息ができる。だからもう大丈夫なのだ。
朝、父が欠伸をしながらリビングに来た。
「乃里ちゃんが、お味噌汁を作ってくれているんです」
「今朝は乃里が朝食担当かい」
食事の準備が担当制になったことはない。乃里は父に「おはよー」と声をかけて、火加減を見ている。
「しろがねでの合わせ出汁を習ったから、作ってみたいの」
乃里のレシピに「しろがね合わせ出汁」のページがひとつ加わった。
「鰹節は絞ってはいけない……」
その通りに作り、味噌を溶き、豆腐を賽の目に切る。今日はわかめと豆腐の味噌汁だ。父が味噌汁の中で一番好きだという具材だ。
「できました」
かしこまった様子で乃里はお椀によそった味噌汁を三つ、食卓のターブルに運ぶ。
里司も嬉しそうに駆け寄ってきた。
「里司、熱いから気を付けて飲みなね」
「はあい。姉ちゃん、これ美味しい!」
「まだ食べてないのに?」
「匂いが美味しいよ」
ニコニコと嬉しそうな里司。匂いが美味しいとは、里司の完成に驚かされる。いまの乃里にとって最高の誉め言葉だ。
「はい、お待たせしました。召し上がれ」
「こりゃ。うまそうだ」
「お父さんの好きなわかめと豆腐の味噌汁ですね。乃里ちゃん本当に料理が上手」
佐和子が笑顔で褒めてくれるのも、乃里は顔に出さないが内心はやはり嬉しい。
「親譲りだな」
父の言葉に、敏感に反応してしまう自分が嫌になる。父を嫌いなわけじゃない。けれどこういう発言をするときは黙っていてほしいと思う。
乃里にとって地雷でも、父には関係ないか。
親譲り、とは、父からしてみればきっと佐和子のことなのだ。
台所に立つ母の後ろ姿を見て、その思い出を胸に料理人になりたいと思う乃里の気持ちなど、父は想像もしていないのだろう。
話したことがないからだ。
父は味噌汁を飲みながら、里司の好きな恐竜図鑑を出した。里司の日曜日お父さん独占タイムが始まる。
乃里は今日もしろがねに行くので、これから身支度をして家を出る。鍋の中身をどうしようかとキッチンに戻ると、佐和子が来て「残りは夕飯に食べましょう」と言った。
「お昼と、わたし帰り遅くなるし、全部食べちゃっていいよ」
「そう? ふたり喜ぶわ。ありがとうね」
このくらいの味噌汁ならいつでも作れる。里司と父が喜ぶなら出汁を取るのも面倒ではない。
「しろがねに行くようになって、乃里ちゃん楽しそう」
そうだろうか。自分では意識をしていなくても、佐和子にはそう見えるのか。
学校と家の往復の日々に、しろがねでアルバイトをする時間が加わり、忙しいが充実している。楽しいし、勉強になる。自分の居場所を作っていると実感できる。
「新しい自分の居場所があるって、嬉しいから」
「……そう」
佐和子はまだなにか言いたそうだった。そんな佐和子を背にして、乃里は「バイト行くね」とリビングを出た。
乃里はなにか佐和子に訴えようと意識して言ったことではなかったし、いままで言ったことはない。
思っても言わない。口に出すようになった小さな変化は、しろがねの佐々野兄弟との日々のおかげなのかもしれない。
訴えたことなどない。わたしに構わなくていい、里司だけ見ていていい。里司とお父さんのことだけ気にしていればいい。
わたしを見なくていい。
態度に出すだけ。
この気持ちを言ったら、壊れるのは分かっているから。なにも言わない。
態度だけでも父と佐和子は感じ取るのだから。呼吸ができなくなる。
家とは別な場所に自分の居場所を作ることで、乃里の心は解れて安心する。息ができる。だからもう大丈夫なのだ。