嬉しいので遠慮なくいただいて帰ることにする。
 里司も喜ぶだろうなぁと考えると、ふんわり胸が温かくなる。
「じゃあ、お疲れ様でした」
「はい、また明日」
 乃里は帰り支度をして、しろがねをあとにした。
「ああ、疲れた」
 帰りのバスに揺られながらポツリと独り言。
 本当に疲れた。しろがねでバイトを始めたばかりだというのに中身の濃い一日だった。
 一気に色々なことがあったし、他言無用の秘密も抱えてしまった。猫又兄弟の秘密を。誰にも言ってはいけない。乃里は思わず口をおさえた。口が軽いわけではないと思うけれど、こればかりは本当に言ってはいけない。
 彼らが妖怪であることを誰かに話したいわけじゃないからいいけれど。
 忘れるくらい、兄弟が普通の人間と変わりなく過ごしている様子だから。
 今日は木曜日。次の日曜日まで金曜日と土曜日の二日間か。
 佐々野兄弟は収穫祭弁当のメニューを考えて味付けと調理法を決めるのだろう。そこに是非参加したかったのだが、乃里がいても邪魔になる。見習いは指示に従うだけだ。
 バスから見える町は、夜に包まれ店や街灯の明かりがあたりを照らしている。人間の営みを表している。
 紅首村も、こんな風に夜の明かりが灯る頃なんだろうな。カワオヌさんはあの山のどこからか村を見下ろしているんだろう。
 ただ、もう見えなくなる。寂しいけれど、避けられない未来。
 ひとり思いを抱えるカワオヌに、日曜日は精一杯のことをしようと、乃里は思う。
 帰宅して玄関で靴を脱いでいると「お帰りなさい」と佐和子がエプロン姿で出迎えた。
「ただいま」
 佐和子の前を通り過ぎてリビングに入ると、里司がテレビでアニメを見ていた。
「姉ちゃんお帰り!」
「ただいま。里司なに見てたの?」
「めいたんていココン」
 ソファに座る里司の隣に腰を下ろす。着替えて風呂に入らないと。それにお腹も空いた。
「お父さん、今夜ちょっと遅いんですって」
 今日のメニューは、この匂いは、ナポリタンだ。
「ナポリタンにしたの。お腹空いたでしょう」
 思ったことと佐和子の言葉が重なったので、思わず眉間に皺を寄せてしまう。
 父親が残業で遅くなると、間に誰もいないので一気に乃里の居心地が悪くなる。里司は無邪気だし、なにもわからない。それは仕方がない。
 居心地の悪さを感じているのは佐和子も一緒だろう。それぐらいはで感じることができる。
「これ、茶豆の握り飯。貰ったの」
 佐和子にも里司にも聞こえるように、誰に向けてというわけでなく言って、乃里はリュックからビニール袋を出してテーブルに置いた。
 佐和子は皿にナポリタンを盛り付け、サラダを添えて乃里の前に出してくれた。ナポリタンは、ベーコンではなくウインナーを入れたやつが乃里の好物。
「ありがとうございます」
「姉ちゃん、にぎりめしってなに?」
「おにぎりのことだよ。里司はナポ食べたんでしょ? 明日にするか」
「ナポ美味しかったけど、おにぎりも食べたい!」
 仕方ないわねと言いながら、佐和子は袋から握り飯を出して「わぁ、美味しそう……」と言いながら里司に小さく割って渡した。
 出されたナポリタンを口に運ぶ。酸っぱさが強くて、乃里の好みの味だった。茶豆の握り飯はとっくに消化し吸収されていたし、いまは空腹で仕方がなかった。
 佐和子の作るナポリタンは、美味しい。
「これ、しろがねのおにぎりなの?」
 食事を出したらキッチンに戻ってほしいのに、佐和子は里司を挟むかたちでそのままソファに座る。
「今日はちょっと、遠くに行く用事があって。紅首村に行ってきたの」
「紅首? 山形と県境の地域だね。随分と遠くに、なにで?」
「しろがねの御主人の運転する車で」
「……車だなんて」
 佐和子の表情が一気に硬くなった。
 車で出かけるのがなにか悪いことなのだろうか。わからない。
「そんなところに女の子を連れていくのね。なにをしてきたの?」
 別に悪いことをしてきたわけではない。それなのにどうしてあからさまにそんな硬い態度になるのか。
 わたしは信用されていない。
 信用されているなら、なにをしてもきっと佐和子はなにも言わないのだろうと思う。父は佐和子を信用しているから平日のバイトも許してくれたのだ。それなのに、佐和子は。
「別にいいでしょう。わたしのバイト先のことだもの」
「心配するでしょう。お父さんもきっと」
 乃里は一気にナポリタンをたいらげた。早くリビングを出たかった。ここにいたくない。佐和子と一緒にいたくなかった。
 わたしだけが、家族じゃない。
 里司は口の回りにご飯粒をたくさんつけて握り飯を食べている。無邪気で、乃里と半分血の繋がった弟。無条件に自分を姉と呼ぶ。里司は父と佐和子の子供。
 乃里は父の子供だけれど、佐和子の子供ではない。
 気持ちが落ちそうになるのを堪える。大人になる途中なのだ。庇護されなくても生きていける。もう少しだ。
「お父さんが心配することと、佐和子さんがわたしを信用しないことと、一緒にしないで」
「乃里ちゃん?」
 乃里は食べ終わった皿を乱暴に持って、流しに行った。水を出して、黙って食器を洗う。終わると佐和子と里司になにも言わずにリビングを出た。
「乃里ちゃん」
 追ってくるのは声だけで、部屋まで佐和子が来ることはなかった。
 乃里は自室のベッドにうつ伏せで倒れ込むと、胸をかきむしりたくなるような感覚に襲われる。
 また佐和子との間に不穏な空気ができた。自分が悪いのだろうか。佐和子が乃里を信用していないからではないか。
 どうして、なんだろう。続きの気持ちはいったいなんだろう。
 自分も、佐和子を信用していないから。だから佐和子も乃里をわからないのだ。
 この子の気持ちがわからない。手に負えない。そんな感じの表情をするのが腹立たしい。読み取れてしまう自分にも腹が立つ。
 父が帰宅するまで起きていようと思ったけれど、もう疲れてなにもしたくなかった。
 乃里はおもむろに起き上がった。風呂に入り、着替えをして、父が帰宅する前にふて寝をしたのだった。