「ありがとうございます。カワオヌさんはもう眠っていますよ」
 温泉あがりで、車の振動が眠気を誘っただろう。窮屈そうにしながらも目を閉じて動かなくなっていた。見た目、豪快ないびきをかきそうなのだが、実に静か。
「お疲れだったのでしょうね。腰痛があるのに歩いて山越えをして。温泉で改善されるといいのですが」
「そうですね」
 乃里は、カワオヌの悩みが良い方向に進むことを祈る。そのためにこうして三人で動けることも不思議な感じだが、自分が少しでも役に立てている気がして嬉しかった。
 乃里は、猫姿の牡丹の背中をそっと撫でながら、運転の邪魔にならないように萩に声をかけた。
「ところで、萩さん。わたし、きちんと教えてもらいたいのですけれど」
「なんでしょう。お答えできることであれば」
 偶然とはいえ、旅館しろがねの不思議で不可解な世界に入り込んでしまった。
 好奇心? どうだろう。そんなことではない気がする。
 乃里は、萩と話をしやすいように、運転席のほうへ体を近付けるために尻を前方に移動させる。とはいえ、膝の上に牡丹がいるので動きは制限される。
「おふたり、萩さんと牡丹さんについて。あの、お風呂場で見た光景について。猫に化けるのは、どういうことなのかと。牡丹さんには、秘密にしてくれと言われました」
 自分がなにひとつ文句を言わず、騒がずにいるから、きっと兄弟は乃里が納得していると思っているだろう。
 きちんと教えてほしい。わけのわからないことになっているけれど、萩と牡丹が、どういった存在なのか、知りたい。
 ちょっと乃里を振り返り、綺麗な横顔を見せた萩。
「……巻き込んでしまいましたね。記憶を消すような神通力を使えればいいのですが、生憎僕たちはそんな力は持っていません。普通の猫又ですので」
「猫又に普通も特別もあるんですか。って、萩さんたち、猫又……なんですか……ねこまた……」
 猫又兄弟が営む、温泉旅館しろがね。井藤乃里、アルバイト採用。
 どうしてこうなった。
「そうです。簡単に言えば、猫の妖怪です。ですので、我々は猫に化けているのではなく人型に変身しているというのが正解です。猫又や化け猫とは、聞いたことがあるでしょう? 俺たち猫又は長生きするうちに妖怪化しました。なので、ますます長生きする。猫は長生きするとどうも妖気を体に溜めてしまうみたいでね。尻尾が二股に分かれていき、姿を変えることができたり」
 萩が白い大猫に変化したのも、鬼火騒動を収束させるためだったのだ。
 おそらくは、膝の上で眠る普通サイズの猫が本来の姿なのだろう。
「あの旅館で暮らしていた猫なのですか?」
 そうです、と萩は返事をした。ウインカーを出し、交差点を曲がってから再び話し出す。
「もともとは旅館ではなかったのですが。昔の僕たちの飼い主が、改築して商売をすることになったのです。温泉が出まして、あのあたりに数軒、温泉旅館があったのですよ」
「シズさんが言っていました。おふたりがしろがねの四代目だって」
「そうです。三代目が旅館を閉めることになったので、僕たちが受け継ぎました」
「人間の姿で?」
「そうです。既にここで働いていましたから」
 萩の説明に混乱して目眩がしてくる。
 猫又で、人間の姿になり旅館を継ぐ。なんだ、それは。
「いつまでも死なない猫がそばにいたら怪しむでしょう。僕と牡丹は猫としていったん出て行き、機会を見て人間の姿で戻ってきたのです。従業員として。そして跡継ぎとして名乗り出た次第です」
「化け猫かって怖がられちゃいますか」
「化け猫と猫叉は区別してほしいところですね。しかし、一緒くたにされているみたいで。僕たち猫又は人間を困らせようとしているわけではありませんから」
「す、すみません」
「謝らないでください。さほど気にしてはいません。長生きするといろいろあります。妖怪化して不自由も悲観もしていません。人間の姿になれたほうがなにかと都合がよかったりしますし。僕たちは人間と暮らしていた猫です。人間を見ていましたから同じようにふるまえます。それに、僕たち本体はとても可愛い猫です」
 長生きしているとはいえ、中身は猫。人間に危害を加えようとする存在ではないことは、見ていてわかることだった。
 存在が悪ならば、人間の乃里を鬼火から守ってくれたり、困った腰痛持ちの鬼を助けたりはしないだろう。
「なんか、猫の妖怪って、わたしの中で化け猫のイメージが強くて。怖い感じというか。でも萩さん牡丹さんは全然怖くないです。優しいし、イケメンだし」
 牡丹、と口にしたとき、膝の上で眠る牡丹の尻尾がピクリと動いた。夢の中でも名前を呼ばれ反応したのだろうか。乃里はふっと笑う。
 本当に猫だな。
 乃里は、猫を飼っていた経験はないけれど、友人の飼い猫でも、人懐っこい野良猫でも触れ合うのはとても楽しかった。猫は大好きだ。
「人間を驚かせたいから体を大きくしたり、ひとに化けてみたりします。別に懲らしめてやろうとかいう気持ちじゃありません。いたずらというか、遊びに近い。じゃれたい。人間と暮らしていた子たちは、懐かしくて嬉しくて、そんなことしちゃうんですねぇ」
「長生きすると妖怪になっちゃうって、猫だけなのかなぁ。不思議」
「どうでしょう。命の限りある生きものが寿命を超えて生きたら、人間でも普通ではないですよね。そういう点でいえば猫だけじゃない。魂というのは長くも短くもあり、強くもあり弱くもあり、簡単なようで難しいものなのです」
「む、難しい……」