カワオヌは太い人差し指と親指でつまんだ湯飲みを置く。
「地形の問題なんだと思うんだが、おら専門的なことはわからねぇ。大雨が降るとせっかく耕した田畑が水をかぶる。家が浸水する。がっくりと肩を落とす村人を助けたいと思って、おらは畑からどかした大岩を使って、川の流れを変えたんだ」
「そんなこと、できるの?」
 乃里は驚く。どう考えても、川の流れを変えるなど重機でやるような河川工事ではないか。
「やったさ。村の為だおん。村の近くで作業するわけにいかなかったから、なるべく上流で。穴を掘って、岩を置いて。近くの川に流れを繋いで、村に入る川の水量をちょっと減らす感じにした。次の年に水害は無かったんだ。安心したなぁ」
「凄い。やり遂げたなんて」
「だって、困っているのをそのままにしておけねぇべ。おらには怪力しか取り柄がねぇ」
 そんなことを言っても、これだけ人間の為に動ける鬼ってなかなかいない。
乃里は素直にカワオヌを尊敬した。
「そんで、これまたいつの間にか村の片隅に小さな社ができていてな。川を操り、村を守った鬼。カワオヌとなったわけですぜ」
 カワオヌは腕組みをして得意げだ。乃里は心の中で拍手を贈る。
「前置き長いが、感動する話だった」
「これ、牡丹」
 茶化す牡丹をたしなめる萩。
「それで腰痛持ちになった」
 カワオヌは腰をさする。「名誉の負傷だな」と牡丹は笑った。
「そんなに平和に暮らしているのに、悩みがあるんですか?」
 乃里はカワオヌに茶のおかわりを煎れながら、そう聞く。
「ああ、本当に前置きが長かったな。悩みっていうのはな……ダム建設計画があって、紅首村が無くなるんだ」
 カワオヌは寂しそうに、ひとつ息を吐く。
「水力発電のダムなんだとよ。村人が言っていたのを聞いたんだ。そんで、村ごと移転するそうだ」
「なんと、それは……カワオヌさんは寂しくなりますね。そうですか」
「仕方ないよな。お金も出るそうだし、暮らしの保証もされるし、いまより少し楽になるみたいで、おらは安心してるよ」
「だ、だって、それじゃあ、カワオヌさんの住むところが……」
 乃里が最後まで言わずにいると、「おらは別にいいんだ」とカワオヌは弱弱しく笑う。
 カワオヌさんも紅首村の一員なのに。乃里はそう思う。
 村が移転するなら一緒にいけばいいのでは。だが、それは現実的ではない。できないことぐらい、乃里もわかる。
 カワオヌは、鬼だ。人間ではない。
 乃里の思うことを見透かすように「おらな」とカワオヌは牙を見せて笑う。
「おら、村のみんなに、なにかお礼がしたくって。でもなにも思いつかない。それが悩み」
 無くなる村。一緒に暮らしてきた村人。どんな風に彼は見送るのだろうか。そう考えると乃里の胸は痛む。
「長い時間、ひとりぼっちでいたのに、紅首村のことを考えて、動いて、働いて。そんな毎日は凄く楽しかったんだ。ひとりじゃないと知ることは、こんなにも心が豊かになると思わなかった」
 どれだけ長い間、村を、村人を、見守ってきたのだろう。カワオヌは本当に村の守り人だったのだろう。
「おらの心は、村と共にあったよ」
 寂しさと懐かしさを湛えた目だった。
 カワオヌの赤い瞳は、思いやりと優しさの赤だ。
「み、皆さん! ねぇ!」
 乃里は思わず立ち上がる。
 だめだ。普通に言おう。我慢しろ。
「カワオヌさんの心が村の人たちに伝わるように、なにか考えましょうよ~ふぇ~」
 止められずボロボロと涙を零しながら言うと、萩が「おやまぁ」と苦笑している。
「萩さぁん! うわーん」
「ちょっと乃里ちゃん、泣かないで! 俺も泣いちゃうじゃん!」
 乃里を宥めようとした牡丹も涙を零していた。
「牡丹さん! ですよねぇ!」
「俺もなんか手伝いたいよぉ」
 萩は泣く乃里と牡丹を見て「仕方ないですねぇ、ふたりとも」と目を細めた。
「ありがとよ。あんたらも村人に負けないくらい優しいなぁ」
 カワオヌはアハハと笑う。
 乃里と牡丹はひとしきり泣いたあとにティッシュで涙を拭き、洟をかむ。ふたりが落ち着いたところを見計らい、萩が「それでは」と手を叩いた。
「カワオヌさん。腰のために温泉に入り直してくださいませ。帰りは村までお送りしましょう」
 カワオヌは驚いて目を見開く。萩は皆を見回して、にっこりと微笑んだ
「どうです。みんなで紅首村観光をしに行きませんか。宿泊予約も入っていませんし」
「えっ。そんな適当なの? 宿泊の当日予約でも入ったら……」
「じゃあ俺、シズさんに話してくるわぁ」
 萩の提案に「そうこなくちゃ」と牡丹は立ち上がり、部屋を出て行く。
「え? え?」
「紅首村、一応は県内ですからね。山形県境になりますが高速を使えば片道二時間かからないようです。余裕で今日中に帰ってこれます。いま牡丹がシズさんにお話しに行きましたから。留守をお願いします」