おもろいことになりそうや。

 幾野セリイちゅうのは、スズメみたいな女や。そこらになんぼでもおって、誰も気にせえへん。なに食って生きてんのかもしらん地味な鳥や。

 対する玉城レイは、クジャクや。われこそ鳥の中の鳥っちゅう顔して生きとる。まあ、クジャクはきれいかもしれへんけど、ホンマは凶暴やで。性格も悪いしな!

 クジャクはイッチが好き。イッチはスズメが好き。ほんでもって、クジャクはスズメのことが元から嫌いや。この火種には、ぜひとも薪をくべてやらなあかん。

「わしの見るところ」

 放課後、一ノ瀬イッチに言うたった。

「セリイの失踪には、レイが一枚噛んどる。あの女、怪しげな術使いよるからな」

「術?」

「秘密のツボがあるんじゃ。寝かせる言うて、そいつ押したんやな。したら消えてもうた」

「……そんなこと、ある?」

「わしに訊かんと、本人に訊いたれ! 二人っきりで、秘密の話したいんですけどー言うねん。そしたらあの女、うん聞く聞くー言うで」

「どうかなあ……さっき、ものすごいにらまれたけど」

「なんや、知っとったんか。あれこそ証拠や。乙女心の裏返しやな。わし、ホームズの生まれ変わりでんねん。名探偵の言うこと信じたらよろし。早よ行け!」

 わしは帰るフリして、ドアの隙間からこっそり見とった。イッチはしばらくおろおろしとったが、そのうちレイが一人になると、

「あのー、ちょっと……」

 わし、地獄耳やから、あんなすかしっ屁みたいな声でもちゃーんと聴こえる。

「えっ、あたし?」

 ビンゴや。あのクジャク、羽広げて今にも飛びそうな顔しよったで。

「二人っきりで、秘密の話をしたいんですが」

「ふた……ちょ、ちょ待ち」

 レイのやつ、頭おかしくなりよったんか、突然うろうろしだすと、教室に残ってたやつらの尻を浣腸よろしく突いてまわった。

 するとみんな、オカマのコソ泥みたいなかっこして帰ってもうた。

「便所……じゃなくって、トイレに行きたくなるツボを押したの。テヘッ。さあ、これで二人っきりよ」

「すごいですね。術、使えるんだ」

「やだもー、イッチくん、術なんかじゃないわよー。ただのモミ」

「そのモミを、幾野さんにも使った?」

「……幾野?」

「ほら、急にいなくなったじゃん。カバン置いて。だから、トイレに行きたくなるツボが効きすぎて、まだ止まらないんじゃないかって――」

「なんやわれ」

 ん? なにやら急に、雲行きが怪しゅうなったで。

「あのスケがどないした言うねん。わしと話がしたいんちがうか」

「だからその、幾野さんのことを……」

「その名前をわしの前で出すな! むっちゃ嫌いやねん。あのあばずれ、わしのこと、シカトしよったからの」

「だってそれは、サイレントだから」

「わしにゃ通用せん! なんやコラ、あの極道の肩持つんかい」

「それは、クラスメートだからさ。消えたら気になるじゃん」

「じゃん? われ、ええ根性しとるの」

 クジャクの本性モロ出しや。太いタマやで、正味。

「冥土の土産に聞かせたるわい。あん極道は、この世から消したんや。あいつに気ィあんやったら、われもあっちへ送ったるで」

「え、マジ?」

「当たり前じゃい。こいつはホラちゃうで。あれが口利かんのは、この世のなんもかもが嫌んなったからじゃ。そやろ? だったら、消したるのが親切やないかい」

「――殺ったの?」

「ドアホ! わしは手は汚さん。ツボは万能ちゅうこと、われ知らんのけ」

「ツボ?」

「そや。人間は、頭の先から尻の穴までツボだらけや。それを、どの順番で、どんくらいの強さ、角度で押すか、その組み合わせは無限や。せやから、引き起こせる現象も無限なんじゃ。記憶をなくすことも、半身不随にすることも、一年じゅうハッピーなピーポーにすることも、煙みたく消すこともできる。わしの親父はそれを研究開発したから、マスター呼ばれてんねん。マスターいうんは、世界に三人とおらん」

「すごいんだね」

「おう。われも、幾野がどうとかぬかさんかったら、わしと結婚するツボ押したってもよかったんや。ホンマやで」

「それはいいけど……この世から消えたら、どこに行くの?」

「そんなもん、夢ん中に決まっとるがな」

「夢? 夜見る、あの?」

「夜でも昼でもええ。あん夢が、もう一つの世なんよ」

「へえー、知らなかった」

「勉強なったろ?」

「それで、幾野さんは、いつ夢から帰ってくるの?」

「はあ? 日帰り温泉旅行ちゃうで。そんなもん、行ったきりやがな」

「というと?」

「片道切符の旅や。夢から帰ってきたやつなんぞおらん」

「そうなの?」

「考えてみい。日本だけでも、毎年八万なんぼが行方不明になんねんで。そのうちどうしても見つからんのが、だいたい千人くらいおる。その何割かはあっちに行ったんや。せやけど、夢から帰ってきた体験談なんか、一個も聞いたことないやろ? ジャングルから帰ってきたおっさんはいるけど」

「じゃあ、幾野さんも?」

「おんなじや。でも、ちーともかわいそうなことあらへん。落ちこぼれには、あっちのほうがええんよ。わしは行ったことないから知らんけど、たぶんそうや。この世にいるなら死んだほうがマシいうやつ、なんぼでもおるやろ。あれもそんな感じやった。せやからわし、おまえホンマはこの世から消えたいんちがうかって訊いたんや。したら黙ってうなずきよった。なら消したるわい言うて、秘密のツボ押した。あいつ消えたとき、まわりに人おったけど、だーれも気ィつかんかったで。気にしとんのわれだけや」

 イッチのやつ、しばらく難しい顔して黙っとった。

 と、いきなり決心したいう感じで、

「――ぼくも、消せる?」

 レイがポカンとした。わしも危なく、なんでやねんって言いそうなったわ。

「なんでじゃ」

「ぼくも実は、この世に違和感があるんだ。もしかしたら、そっちこそ、ぼくの生きる場所なのかも」

「イワカンってなんじゃい。アラカンの弟か」

「人生は一度きり。きみと会ったのもなにかの縁。そうだ、ぼくはぼくらしく生きるために、夢の国へ行く」

「デズニーみたいに言うてからに……わし知らんで」

「幾野さんだけミッキーたちと遊んでるなんてズルい! ぼくも行くう」

「ほなら坐り。グッバイ、イッチ。後悔すなよ」

「待った!」

 これ言ったんわしや。ドア、パーン開けたら、二人ともぎょっと振り向きよった。

「ユエナかい。ひょっとしてわれ、盗み聞きしとったんか」

「おう。いやー、まぐれ当たりちゅうもんがあるんやな。セリイが消えたん、やっぱしあんたの仕業やったんか。せやけど、むちゃくちゃおもろそやないかい。わしも送れや」

「気安う言うな。二人やったら、なんや駆け落ちかいうて、警察もまじめに調べんけど、三人消えたらさすがに騒ぎになんで」

「黙っとけばええんじゃ。サツも夢まで調べに来んやろ」

「親父にはバレバレや。わし、怒られてまう」

「済んだことごちゃごちゃ言うなって、ピシっと言ったれ。思春期の娘が親父に負けてどうする」

「それもそやな。ほな坐り」

 イッチと並んで椅子に坐った。

「はいリラックスー、深呼吸してー」

 イッチが目を閉じて、床屋に来たみたいに椅子に寝そべった。消される気マンマンや。

 レイはイッチの正面に立って、両手でイッチの両手を持ち、ゆっくりと指先を揉みはじめた。それだけで、イッチの口がパカンと開いた。

 続いてまぶたにそっと触れる。深い呼吸の音が聴こえてくる。指先が首すじを撫でる。イッチの手がピクピク震える。

 レイがイッチの足元にしゃがみ込んだ。サンダルをずらして、足首のまわりをじっくりと揉む。そのうちイッチが、やたらと大きいイビキをかきだした。

「ユエナ、次はあんたや」

 おんなじことを、レイがわしにやった。やっぱし気持ちええ。さすがプロや。せやけどわし、どないして消えるかどうしても知りたかったから、必死で起きとった。だからレイにくるぶしとか踵を揉まれたときも、意識が遠のきながら、なんとか嘘のイビキでごまかしたった。

「こんでええ。ほんじゃま、お二人さん、さ・よ・お・な・ら。プー」

 レイの熱い手のひらが、わしのどてっ腹の真ん中に置かれた。反対の手はイッチの腹に当てとんのを、薄目で確認した。

 と。

 イッチの身体が、急に透けたようになった。なんやあいつ、前から存在が薄い薄いと思っとったけど、ホンマに薄うなったでと、薄ぼんやりした頭で考えたとき――

 わしの意識も消えた。
 わしの三大好きなもん。阪神・お好み焼き・眠ること。

 わしの三大嫌いなもん。巨人・もんじゃ焼き・起きること。

 もんじゃ焼きはゲーじゃ。巨人もゲーじゃ。でもそれ以上に、気持ち良く眠てるところを起こされんのは我慢ならん。怒るでしかし!

「奥川、起きて。ぼく怖いよー」

 怒りマックスや。目え開けて、そこにイッチの顔が、思った以上に近い距離にあんのを発見すると、迷わずストレートをくれた。

「痛ーい、なにすんのー」

「原田伸郎か! おどれ今、わしの肩に触ったろ」

「だって、声かけても全然起きないし」

「二度とすな! わしの身体には、誰にも触らせる気ないねん」

「……あ、そ」

「まだ十五やんかあ。そこは大事にしてんねん。気ィつけてや」

 椅子から立とうとした。そんとき、さっきまでのことを思い出した。

「ここどこや。わしらの教室やな」

 イッチと自分のかっこを見た。制服のブレザーのまま。窓のほうを見る。夕焼け空と、遠い家並と、サッカーゴールのある校庭。なんや、日常の風景そのまんまやないけ。

「わしら、レイにかつがれたんかな。ただ眠らされただけや」

「けどさ、誰もいないよ。部活の子も先生も」

「みんな今日は早く帰ったんやろ。わしらも帰ろ」

「ま、待ってよ。なんかちがうよ、ここ。やっぱ夢だよ」

「夢? わし、こんなつまらん夢見いへんで。わしの見る夢じゃ、みんな空飛んどる。われはいつも、こんな日常的な夢見るんけ?」

「うん。なんだかぼく、子どものころから、この教室を夢に見てきた気がする。すごく懐かしい。切なくて、涙が出そうなくらい」

「気色悪いなあ。誰もいない教室が、たんに物寂しいだけやろ」

「ううん。ここは確かに現実とはちがう。ぼくにはわかる。もしかすると、本当にぼくは昔、こっちの世界に住んでたのかも」

「座敷わらしみたいなやっちゃな。われもセリイと同類か」

「座敷わらしって?」

「わしもよう知らん。とにかくここは、わしの思ってた夢とちゃう。あんたらと一緒にせんといてや」

 立ち上がってカバンを捜した。が、わしの席がない。一個一個見てまわったけど、どこにも自分の席がなかった。

「変やなー。さっきまでの教室と、どっかがちがう」

「出てみよう。せっかく夢に来たんだから、カバンなんか置いてさ。まずはサイレントを捜そう」

 幾野セリイのことなんぞ、正直どうでもよかった。わし、またムラムラっときて、一ノ瀬イッチの腕つかんで、ショートレンジのアッパーを入れた。

「痛いって! あ、ぼくに触ったな」

「おなごが触る分にはええんや。われもうちょっと、人の気持ち考えられんか」

「……?」

「ムカつくのう。ハテナ、ちゅう顔してからに。わしがなんでわれについて来たんか、まだわからんか」

「……面白そうだからでしょ?」

「そんなわけあるかい! わし、この世で充分おもろかったんや。ん? 今となってはあの世いうんかな? まあええ。ともかくあっちで青春謳歌しとったがな。なにが哀しゅうて、こんなうら寂しい夢ん中なんぞに来んねん。せやろ?」

「それは、来てみたら、意外に寂しかったってことでしょ。誰も飛んでなくて」

「責任取りいや。帰してくれ、もう」

「無理だね。帰る方法ないらしいもん」

「せやったら、あんさん、一生わしの面倒見なアカンで。わし、女やさかい」

「なんだよ、勝手に来といて」

 こないに冷たい男とは知らんかった。見損なったで、ホンマ。

 ま、わしもどうかしとった。クラスメートが気になる言うて、危険に飛び込もうとするメンズを見て、ついイケメンぽく感じてもうたんやな。ほんでまた、そいつを助けに自分も飛び込むんが、ヒロインぽくてかっこええ思うてもうた。

 若気の至りや。後悔先に立たず。めちゃくちゃでごじゃりまするがな。

 ともかくここにいてもしゃーない。イッチのあとから教室を出た。

「幾野さーん、幾野さーん」

「小野田さーん、やなかった、セリイはーん、聴こえますかー、どーぞー」

「一ノ瀬と奥川でーす、幾野さんを捜しに来ましたー、いたら返事してくださーい」

「じゅんとネネでーす、三波春夫でございます、責任者出てこーい」

「ねえ、まじめにやってよ」

「せやけどあいつ、サイレントやんか。声出さんもん、捜されへんがな」

「玉城の理論だと、この世が嫌で口利かなくなったんだから、こっちに来たら普通にしゃべるんじゃない? ユエナはどう思う」

「あ、今われ、下ん名前で呼んだな。なにどさくさに、距離縮めとんねん」

「そのくらい許してよ。こうなったら、もうコンビなんだから」

「わし男女のコンビ、そない好きやないねん。やっぱし男がええな。なんちゅうても男は横山。うう、やっさんのこと想うと、今でも涙が出る。ゆっくりしいや!」

「どうしてもふざけるんだね」

「当たり前や。おもんないのは罪や。おどれなんか犯罪者やで。なんで普通のことしか言わんねん」

「思いつかないもん」

「お笑い見んのか? 好きな芸人とかおらん?」

「あんまり」

「信じられんのお。一人くらいおるやろ」

「そうだなあ……見るとつい笑っちゃうのは、ジェームス・ブラウンとか、O・J・シンプソンとかかな」

「JBとOJは芸人ちゃうで。偉人や」

 結局校内には誰もおらんかった。お陽さんも沈んで、すっかり暗くなった。

「幾野の家に行ってみよう。自宅に帰ったのかもしれない」

「住所知っとんのか?」

「ううん。交番で訊いてみようと思って」

「なんでそこまですんねん。そないに惚れとったんか」

「実はさ、変な話なんだけど、聞いてくれる?」

「われしかしゃべる相手おらんのやから、聞くしかないやろ。早よ言え」

「ぼくって子どものころから、夢には音がなかったんだ」

「へー、おもろ。そんでどないしてしゃべんねん」

「しゃべんないよ、夢では」

「くそつまらん。おまえは死刑じゃ」

「それで、小学校の一、二年生のころに、よく同じ女の子の夢を見たんだ。ただ黙って横にいて、道を歩いたり、遠くの山を見たりするだけなんだけど、幾野がしゃべるのをやめたとき、なんとなくその子に似てると思ったんだ。顔はよく憶えてないんだけど、雰囲気というか、空気感がさ」

「そんで、惚れてもうた?」

「惚れたってほどじゃないけど、もしかして、この子と出逢うことになるのを、ずっと昔に夢が教えてくれたのかなあって」

「アホくさ。夢見る乙女みたいに言いくさって。もっと現実を見い!」

「現実見ろったって、ぼくたちいるの、夢だよ」

 ホンマに頭痛がしてきた。

「もうええ。さっさと駐在行って、サツにセリイを見つけてもらえ。あいつに会ったら、おまえ男の夢に出る趣味あんのかって、わしから訊いたるわい」

 駐在所は、高校から駅のほうへ歩いて五分くらいのところにある。そっちへ向かうあいだ、車が何台か通ったり、家の灯りが見えたりはしたが、道を歩く人の姿はついに一人も見かけんかった。

「なんでこないに人おらんのやろ。物寂しいにもほどがあるわ」

「見つからない行方不明者が毎年千人で、そのうち半分がこっちに来たとしても、一年で増える人口は五百人程度だから、人口密度が低いんじゃない?」

「せやけど、誰も戻ってこんのやから、毎年増える一方やろ。もっとおってもええで」

「増えても、死んだら減るから」

「夢でも死ぬんか? 夢ないなー」

「知らないけどね。こっちで結婚して、子どもを産んだりとかもするのかな?」

「そいつもサツに訊け」

 駐在所に着いた。大きな窓ガラスに寄って中を覗くと、おった! 制服着たおまわりが、机に向かって仕事しとる。夢で出会った初めての人間や。

「嬉しなー。人間ってええもんやな。いてくれただけで、わし、この人好きになってもうた。こんばんはー」

 ガラス窓の嵌まった戸をドンドン叩いた。するとおまわりがこっちを向き、さっと立ち上がって戸を開けると、

「いらっしゃい」

 えらく愛想よく言った。とっても感じがええ。初期のころの花の駐在さんを思い出して、なんだか懐かしくなってもうた。

 ま、思い出したゆうても、令和っ子やさかい、リアルタイムで観たわけやあらへん。わしらクラスのギャルの知識は、だいたいユーチューブや。ほんでも懐かしいと感じんのはなんでやろ。そんだけ人恋しかったんかな。

「新婚さんかい?」

 おまわりが、にやついて言った。このおっさん、どうやらジョークが好きらしい。わし、ボケたろう思って口開いた。すると、横からイッチがまじめくさった顔で、

「ちがいます。ぼくたちまだ十五ですから」

「じゅ、じゅうご。ぷぷぷ」

 おまわりが大げさにひっくり返った。身体張るタイプやなー。

「十五のカップルか。ま、それもよし。中入って」

 駐在所に入ると、親切に坐らせてくれた。このおっさんに訊きたいことは山ほどあったが、イッチはせっかちに、

「幾野セリイという、ぼくらの同級生を捜しています。ぼくたちよりも数時間前に、えーと、あっちからこっちに来たんですけど、学校では見つからなくて、もしかして家に帰ったのかなーと思って。でも住所を知らないから、交番で訊こうと思いまして」

「なに? 一つのクラスで三人もこっちに? そんな話聞いたこともない。よっぽどひどい学校なんだな」

「いえ、別に学校が嫌で来たわけじゃなくて、まず幾野さんが、同級生の手で夢に送られて、それを追ってぼくらも送ってもらったんです」

「はあ? なにを言っとるんだ、きみは。警察をバカにすると逮捕するぞ」

「本当なんです。まあ正直言うと、ぼくの場合、夢に憧れはあったんですが」

「全然話がわからん。憧れたからって、来れる場所じゃないだろ。そんならとっくにこっちはパンクしてる。普通はだな、この世で生きていくことにどうしても支障があって、出口が見つからないでいるときに、ぽかっと穴が開いて、そっから落ちて来るもんだ。きみらみたいに悩みもなさそうな若者が、レジャー感覚で来るとこじゃない。さあ、本当のことを言え。心中でもするつもりだったんだろう?」

 これにはマジで驚いて、声が上ずってもうた。

「お、おまわりはん。ホンマにツボ知らん?」

 イッチとわしと二人して、どうやってこっちに来たかを説明した。その真剣さが伝わったんか、おまわりもうーんと首を捻り、

「マスターモミゾウねえ。ちょっと信じられないけど、信じるか信じないかはあなた次第……よし、信じよう」

「ほんで、夢からあっちに戻る方法、おまわりはんは知りまへんか?」

「ないない。だって、みんな穴から落ちてきたんだよ。上から下には落ちれるけど、下から上には落ちられないでしょ」

「こっちの世界で、行方不明になるのはおらん? もしおったら、たぶんその人たちはまた現実に――」

「そこに掲示板があるだろ。今月の行方不明者ゼロ人。でもあの数字信じちゃダメよ。ぼくが勝手につけてんの。ぷぷ」

「そんなことしてええの?」

「だってぼく、元は刑事だったんだけど、落ちこぼれでさあ。犯人にも親がいるしなあって思うと、つい同情して逃がしちゃうの。犯罪者には人気あったよー。でもクビになっちゃって、いっそ首でもくくろうかなーって思ったときに、こっちに落ちたんだ。ぼくにはここが居心地いいから、向こうに戻りたいとは思わないよ」

「こっちでは、あんまり事件はないですか?」

「逆、逆。犯罪ばっか。こっちに落ちてくるやつらには、幼女誘拐犯とか、サイコキラーがゴロゴロいるから。きみらみたいに若くてピチピチしてるのは、すぐ狙われちゃうよ。だから、早く住めるところを見つけたほうがいいよ」

 イッチとわしは、顔を見合わせた。

「その、元々向こうで住んでた家は、こっちにないんですか?」

「ないよ。こっちは向こうとそっくりに見えて、どっかがちがうから。さっき幾野さんがどうとか訊いてたけど、その子の家もない」

「じゃあ、ホテルで泊まるとか、アパートを借りるとかしかないんですか?」

「金は持ってる?」

「ぼくは千円ちょっと」

「わし五百円」

「じゃあ無理だ。今夜は野宿だな」

「だけど、殺人犯がいるんですよね?」

「うようよね」

「警察は捕まえないんですか?」

「あははは。ぼくみたいなのばっかだもん。期待しちゃダメだよー」

「おまわりはん、後生だす、金貸しとくんなはれ」

「かわいそうだけど、ぼくも金はない」

「拘置所に泊まれませんか?」

「なんの罪もない十五歳の少年少女をぶち込んだら、ぼくが逮捕されちゃうよ。さあ、もう行って。ぼくは一人になりたいんだ」

「殺されたら、恨みまっせ」

「夢だって厳しいんだよ。人を当てにしたらいかん。金がないんなら、住み込みで働かせてくれる店でも探すんだね。でも、条件のいいところなんてまずないよ。経営者だって、みんな筋金入りの落ちこぼれなんだから」
 満天の星が、こないに悲しく見えたんは初めてやった。

「どないしよ」

「すぐに雇ってくれるところなんてないよねえ。バイトもしたことがないから、なんの技術もないし」

「わしとの野宿考えとんのか。お断わりやで」

「野宿はやめよう。せめて、屋根のあるところ」

「セリイを捜すどころやのうなったな」

「……彼女、大丈夫かな」

「今ごろ襲われてるで、きっと」

 歩きながらしゃべっとっても、なんの知恵も浮かばんかった。今ごろあっちでは、みんなどうしてるやろか。イッチの親は心配しとるやろう。が、わしの親はと想像すると、怒りがふつふつと湧いてきて、胃の底がカーッと熱くなった。

「くそったれ、生きてやるわい。殺人犯が来たら返り討ちや。警察があんなんやったら、おのれでやるしかないわ。わし、腹据えたで」

 宣言して横を向くと、イッチは人の話を聞いてなかったんか、ぼーっと遠くの山のほうを見とった。

「なに見とんねん」

「……山」

「わかっとるわい。山がどないした訊いてんねん」

「あそこにさ、高い松の木が生えてるでしょ。空海が立ち寄ったっていう伝説の」

「空海の松やろ」

「実はね、あの丘の林のなかで、ほくのお父さん、首つったんだ」

「……へえ」

「ぼくが六歳のときだから、記憶は薄いんだけどね。それを聞いてから、あそこには行ったことないんだけど、こうやって眺めていると、いつかぼくも大人になったら、あそこに行って首をつるのかなあって考えちゃうんだ」

「めちゃめちゃ陰気やのお……せやからわし、お笑い観ろ言うねん」

「ねえ、あそこに行ってみない?」

「なんでやねん! 絶対嫌や!」

「向こうでは死んだけど、ひょっとして、こっちで生きてるかもしれないっていう気がしてきた。ぼく、お父さんに会ってみたい」

「おどれ一人で行け! ここは死者の国ちゃうど」

「行くだけ行かない?」

「あ、わかった。そんなこと言うて襲う気やろ。チャンス到来言うて」

「じゃあいいよ。一人で行くから」

「コラ待てい! おなご一人置いてくんかい。この薄情モン!」

「殺人犯が来たら返り討ちにするんでしょ。頑張って」

 イッチのやつ、ホンマにスタスタ行きよった。わしが待て待て言うて追いかけて、紺ブレの裾つかんだったら、イッチは急に立ち止まって、

「あ、こっちにもあった」

 イッチの視線の先を追うと、向こうの世界とそっくりのコンビニがあった。

「腹減ったな」

 思わず口から出た。しかし貴重な千五百円を、こんなところで使われへん。

「見とると腹減ってしゃーない。もっと安い店探そ」

「ちょっと待って。確かコンビニって、売れ残ったお弁当とかを、時間になったら廃棄するんだよね」

「お、そやそや。ナイスアイデアやな。店の裏のゴミ箱にそいつを棄てたら、さっと拾うてきて食うか」

「そんな猫みたいなことしなくても、もしバイトで雇ってくれたらもらえるでしょ。それに、ぼくらの事情を話してみて、スタッフの休憩室で寝かせてくれたら、宿代も浮かせられるし」

「優しい店長はんやったらええな。よっしゃ、交渉してみよ」

 通りを渡って店に入った。人口密度が低いせいか、客は誰もおらん。こんなに暇で、果たして二人も雇ってくれるかどうか、一気に不安になった。

「すんまへん」

 レジで声をかけると、奥から豚っ腹のおばはんが出てきた。

「はいはい、すいません、すいません、ごめんなさい、ごめんなさい」

 立派な体格の割りに、態度はえろう卑屈やった。

「実は客やのうて、バイト希望で」

 イッチと二人で事情を話した。するとおばはんの目にみるみる涙が浮かび、

「まあまあまあ、その若さでなんてかわいそう。これを食べなさい」

 おにぎりをごっそり抱えてきて、レジにぶちまけた。

「こんなに食べれません。でも、もしいただけるんでしたら、消費期限切れのものでけっこうです」

「ダメよ。それは子豚のエサにするんだから。さあ、遠慮しないで、全部持ってって」

「おばさん、オーナーでっか?」

「もちろんバイトよ。早く持って逃げなさい」

「そんなんしたら、クビになりまっせ」

「クビなら慣れっこだからいいの。わたしはね、人に物を売れないの。お金をいただくのがとっても悪い気がして。本当はこの人、タダならいいのになーと思ってるのかなーって思うと、胸がズキズキして、血が出るみたいに痛くなってね。あげたらきっと喜ぶだろうなーって思うと、その傷口がふさがって、とっても嬉しくなるの」

「この仕事、向いてまへんな」

「わたし、まちがってるかしら?」

「うーん、よう考えたら、ある意味ものすごく正しいかも」

「だったら急ぎなさい。持ってけドロボー」

「でもぼくたち、バイトで雇ってもらいたいんです」

「あら、それはやめたほうがいいわ」

「どうしてですか?」

「オーナーも店長もサイコキラーだから。とくに若い子に目がなくて」

「失礼します」

 おにぎりを抱えて外に出た。これは本格的に、安全な場所を探さんといかん。

「早う屋根のあるとこ行こう。千五百円で泊まれるとこ」

「マンガ喫茶とか、カラオケとか?」

「二十四時間やっとる店、こっちにもあるやろか」

「とにかく人が大勢いそうなところに移動しよう。寂しい場所は危険だ」

 向こうの世界で街中だったとこを目指して歩いた。五分もすると、ようやく道を歩く人の姿が見えてきた。

「なんや、けっこう若者もおるやん。あれみんな、人生の落伍者かな」

「見た目は別に変わらないね」

「店もあっちと変わらん。スーパーに、パチンコ屋に、ファミレスか。あ、でっかい総合病院もある」

「ぼくは、こっちの医者には絶対診てもらいたくないね。病気にならないようにしないと」

 おにぎりを頬張りながら、店や人を観察して歩いた。いっちゃん最初は、おもろそうやと思ってこっちに飛び込んだけど、すぐに後悔して帰りとうなった。しかし、夜にこうしてにぎやかな場所をうろついとると、なんちゅーか、

「わしは自由じゃ!」

 というハイテンションになってきて、少々の危険はどうでもようなった。

 そうや。昨日までは、家に帰る足は鉛の棒やった。あの母親と母親の男がいる家に帰る。今日からは、その拷問ともオサラバじゃ。オー、ブラボー。

 と、そんとき、突然恐ろしい不安が襲ってきた。

「そ、そや。大事なこと忘れとった」

「なに?」

「こっちにも、テレビあるかな?」

「あると思うけど……電気屋さん覗いてみる?」

「わし困るねん。お笑い観んと、禁断症状が出る」

「中毒なんだ。おわ中」

「バカにすなや。お笑いはわしの命綱や。なんぼヤなことがあっても、あれがあるから笑える。それが救いだったんじゃ。とくに今、夢中になっとんのはスタ誕や。トムちゃん十週勝ち抜くかなーって、それが楽しみで楽しみで」

「そんな番組あったっけ?」

「まあ、ユーチューブやけど」

「じゃあスマホがあればいいじゃん。スマホは使えるかな」

 二人してスマホを出した。画面をあちこち触ったが、どれも反応せん。

「ダメか。こっちじゃ電話もメールもできないね」

「わーショックや。せめてトムちゃんの結果だけでも知りたいわあ。やっぱ帰りたい」

「それはもうあきらめて。なんとかこっちで生きていこう」

「われなんで、そないにあきらめいいねん」

「ぼくはユエナとちがって、向こうがそんなに好きじゃないから」

「決めつけんなや。わしかていろいろあったがな。せやけど、帰れんとなったら寂しいで。もう二度と誰にも会えんで、イッチは寂しないんか」

「別に寂しくはないけど、母親はパニくるかも」

「おかんに会いたいやろ?」

「正直きつい親で……お父さんが自殺してから、ちょっとおかしくなって、毎晩悲鳴をあげたり、死にたいよう死にたいようって独り言を言ったり」

「おとん死んだの十年も前やろ。長いな」

「年々ひどくなってさ。だから家にいると、ずっと息苦しかったんだ」

「イッチまでおらんようなったら、きっと発狂すんで」

「それは困るなあ」

「どや? 帰りとうなったか」

「でも無理じゃん」

「わからんで。駐在はああ言うたけど、わしらは穴から落ちたんとちがう。秘密のツボで来たんじゃ。ちゅーことは、帰るツボもあるはずや。レイのやつ、ツボは無限で万能じゃ言うとったからな」

「だけど、ぼくたちはそのツボを知らないし、こっちにそれを知ってる人がいるかな?」

「あきらめんと探そ。それしか方法ないやろ」

「わかった。もし帰るツボがわかったら、ユエナは帰りな」

「イッチは?」

「ぼくはとにかく、サイレントを捜す。彼女に会って、彼女が本当にぼくの夢に出てきた女の子だったのか、確かめたいんだ」

「フン。もうとっくに、サイコパスの餌食になっとるわ」

「なんでそんなこと言う?」

「わしにゃどうでもええからじゃ。あのおなごが死んだかて、きっと涙も出ん」

「冷たいんだな、ユエナは」

「おう、そうや。氷の女呼ばれとんのじゃ。わしとおったら凍死すんで」

「あ。ねえ、ちょっと待って」

「近寄んなや! 凍え死ぬ言うてるやろ」

「そうじゃなくて、あれ見て。あの店」

「なんや。カラオケ屋か」

「ちがうって。看板をよく読んでよ」

 イッチの指差す先には、カラオケボックスみたいな感じの、二階建ての建物があった。

 しかし、看板を見ると、派手な電飾で囲まれた中に、

《マッサージ館》

 と書いてあった。
「それにしても」

 派手な店やった。

 中国風というか、けばけばしい赤色の、ゼンジー北京師匠の衣装みたいな壁をしていて、そこにオリジナルキャラの、カエルがカメをマッサージしてる絵が描かれとった。

「甲羅みたいな背中でもほぐします、ちゅうことかな」

「カエルの横に、60分1,480円てあるじゃん。むちゃくちゃ安くない?」

「こっちの物価を知らんからの。まさかイッチ、ここでわしらの全財産費う気か?」

「ちがうよ。秘密のツボを知ってる人がいないか、訊いてみるんだよ」

「なるほど」

「もしくは、マスターモミゾウと呼ばれる人がいるかどうか。もしこっちの世界にそういう人がいたら、おなじ業界人なら、きっと知ってるんじゃないかな」

「おぬし冴えとるのう。善は急げじゃ、行くで」

 ウィン、と自動ドアがあく。カウンターがあって、カメとカエルのぬいぐるみが、わんさと積んであった。そん中から、

「らっしゃいませえ、初めてですかあ」

 アニメみたいな声がしよった。よう見ると、カエルの帽子をかぶって、ガチャピンみたいな色の制服を着た年齢不詳の女がおった。

「初めての方には、会員カードをお作りしていまーす」

「いえ、ぼくたちは――」

「こちらの紙に、お名前と、ご住所と、お電話番号をお書きになって、全身コースか部分コースかをお選びくださーい」

 まったく人の話を聞かん。明るいのはええが、こんなんやから向こうでは生きられなかったんやろう。イッチがひそひそ声で、

「ようやく夢の世界らしくなってきたね。ディズニーが似合いそうな人だよ」

「そんなええもんやあらへん。頭イカれとるだけや」

 わしは、カエル女がまたなにか言おうとするのを遮って、

「わしら客ちゃうねん。ちょいと訊きたいことあってな」

 これで何度目かの、事情説明をした。するとカエルは、

「わたしでは、まるっきりわかりませんので、主任を呼んでまいりまーす」

 あ、ぴょん、あ、ぴょんと言いながら、カウンター奥のドアの向こうに消えた。

「ふざけた女や。本気でシバきたい」

「気づいた、ユエナ。あの受付の人」

「トチ狂ってることやろ。そんなんタコでも気づくわ」

「腕にリストカットの痕がたくさんあったよ。十本か十五本くらい」

「ふーん。そらまたオシャレな」

 やがてカエルが、おんなじかっこをした背のひょろ長いおっさんを連れてきた。

「主任の秋山です」

 男がそう言って、カエルの帽子を脱いでバカ丁寧に頭を下げた。頭は囚人か兵隊さんみたいな、思わず「昔か」とキツめに叩きたくなるような丸刈りやった。

「なんでも、秘密のツボをご存じとか。ぜひ奥でご教授を」

 話がテレコや。カエルふざんけんなやと、思いっきりにらみつけてやった。

「さあこちらへ。あいているマッサージルームでお話を伺いましょう」

 秋山ちゅうおっさん(仇名は古参兵と決めた)が、カエルの帽子をキリリとかぶり直して、軍人みたいにさっさか行きよった。イッチがついて行くんを、わしもあとから追いかけた。すると、

「ばあ」

 後ろから、受付のカエル女に抱きつかれた。

「気色悪う!」

 生温かいんと、変な化粧の匂いでゲー出そうになった。

「離さんかい! わし、その趣味ないねん」

「大好き」

「わしゃ嫌いじゃ」

「かわいそうに。こっちに来る子はみんな、子どものとき、お母さんに抱き締めてもらえなかったの。だから、わたしがこうして、抱き締めてあげる」

「誤解じゃ! 半分当たっとるけど、わし穴から落ちたんちゃうねん。ツボ押されて来たんや」

「それだけで、来れるはずがないわ。向こうで生きてたら壊れちゃうから、こっちに来る道が開かれたのよ。あなたが来た道も、いわゆる穴の一つ」

「とにかく離してくれ。巨大カエルに捕まった気ィして、じんましん出てきよった」

「わたしは仲間よ。苦しくなったらいつでも来て」

 ようやくカエルが手を離した。声はアニメのくせに、力はブルーノ・サンマルチノと同じくらいある。だから、仇名はサンマルチノにした。

「ユエナ」

 通路の先で、イッチが手招きした。そこへ行くまでのあいだ、通路の左右に個室のマッサージルームが二個ずつあった。

 マッサージルームのドアには大きなガラス窓があって、中が見えるようになっとった。せやなかったら、中でセクハラされそうで、わしみたいなレディは入る気せえへん。

 窓から覗くと、ベッドに寝たすだれ髪のおっさんが、カメの絵がプリントされたタオルケットをかけられて、カエルのかっこをした若そうな女に頭皮を揉まれていた。わし、どないに落ちぶれても、おっさんの頭皮だけは触られへん。

 その反対側の部屋では、ベッドに伏さったおばはんの甲羅を、男のカエルが踏んづけたり、エルボーを突き刺したりしていた。確かタイ式マッサージっちゅうやつや。これやったらわしにもできる。ひょうきんプロレスのつもりでやったらええ。

 イッチと古参兵に追いついて、二人が見ている部屋の中をひょいと覗いた。そん中に客はなく、ソバカスの浮いた童顔のオスガエルが、ベッドに横になって、マンガ本を広げて足をバタバタさせとった。

 なるほど。客がなくて手があいてりゃ、マンガを読んでていいらしい。キモいおっさんに触らなくてよければ、なかなかええ職場に思えてきた。

 古参兵がそのドアを開け、オスガエルに怒鳴った。

「おい、永作。ここ使うから、休憩室に行ってろ」

 永作と呼ばれたカエル(仇名はソバカス)が、とっさに直立して帽子を取った。なんだか軍隊チックや。イマドキにしては古いのーと思ったが、あっちとは時代がズレとるのかもしれん。なんせ落ちこぼれどもがつくっとる社会やから、より良い社会になんかなるはずもない。

 ソバカスは、奥目の八ちゃんによう似た目を、遠慮なくじーっと向けてきた。

「ねえ彼女、向こうでなにしたの?」

「コラ、失礼だぞ」

 古参兵が怒っても、ソバカスは目線を外さんで、

「どんなヘマやってこっちに来たのか教えてよ。おれっちも教えるからさ。恥をさらせば楽になるよ。ここで会ったのも、なにかの縁だしさ」

「悪いの。わし勝手に来ただけで、落ちてきたんとちゃうねん。兄さんとちごうて」

「うへえ、お高くとまるねー。でもその顔がかわいいな」

「いいかげんにしろ、永作。女を見たら声をかけずにはいられんのか」

「はい、そうです」

「変なおじさんみたいに言うな! それより、マンガ読んでる暇があったら、山岸にマッサージ教えてろ。早く使えるようにしなきゃ、どうしようもないだろ」

「だって、山岸さんは男だから興味ないし、根暗で変態だから嫌いです」

「だったらその根性を叩き直してやれ! いくら年上でも、ここじゃおまえが先輩なんだからな。それはそうと、腹減ったから、隣でハンバーガー買ってきてくれよ。四つくらい適当に、割引クーポン使って」

「四つですか。食いますね」

「この四人で、一つずつだよ」

「あ、こちらにも? じゃあそっちは一万円バーガーですか?」

「バカ。余計なことを言うな」

「すいません。じゃ、クーポンください」

「そんなものないよ」

「ない? おれっちもないですよ」

「あるフリして買ってこい」

「券出せって言われたら、どうするんです?」

「前のときは、そんなこと店員に言われなかったぞって言え。だいたい外人のレジなら大丈夫だから。それでも文句を言ってきたら、店長呼べって言えばいいんだ。もし割引で買ってこなかったら、おまえ買いとれよ」

「無理っすよ。もうこれ以上給料から引かれたら死にます」

「なら死ぬ気で買ってこい、急げ!」

「はい!」

 ソバカスは、気持ちのええ返事をすると、部屋を飛び出そうとした。

 と、わしらの横を通るときに、眉毛を八の字に寄せて、いかにも同情するような悲しげな表情をつくり、

「かわいそうだけど、こうなったら頑張るしかないね」

 と言うた。

「余計なこと言うなって言ったろっ!」

 古参兵が顔を赤くした。どうやらマジで怒っとるらしい。

「ではさっそく、ツボを教えていただきましょう」

 ソバカスが出ていくと、古参兵が言った。わしは仕方なく、イッチをベッドに坐らせて、玉城レイにされたことを思い出しながら再現した。

「ふーん。手を揉んで、まぶたや首を触って、足首いじって、最後に腹押して、さ・よ・お・な・ら、プー。で、それのどこが秘密?」

「そうしたら、身体が薄うなって、目が覚めたら夢におったんです」

「ほう」

「疑惑、ちゅう目で見てまんな」

「信じてほしかったら、この男の子を消してみてよ」

「せやから、わしらマッサージは素人やさかい、プロならやり方を知っとるかと思って、サンマル……やのうて、受付に訊いたんや」

「つまり、ぼくたちに、ただでマッサージを教えてほしいと?」

「そんなん言うてへん! わしら、誰かに向こうに帰してもらいたいだけや。それができる人を探しとる。兄さんできまっか?」

「無理だね。ぼくはマジシャンじゃない」

「なら、できそうな人知らん? こっちの世界に、マスターと呼ばれるようなマッサージの達人はおらん?」

「達人ならいる。この店のオーナーがそうだ」

「その人呼んでくれへん?」

「オーナーを呼べだって? はっ! あのお方は雲の上の人だぞ。呼び出すなんて、そんな畏れ多いことできるか」

「なら、住所か電話番号教えてな。わしが直接訊くよって」

「ダメだ! わけのわからん小娘にそんなこと教えたら、あとでオーナーに殺される」

「……オーナーはん、サイコでっか?」

「バカモン! 暴言だぞ。すぐさま取り消せ!」

 古参兵が拳を振りあげたときやった。部屋のドアがいきなり開いて、ソバカスが飛び込んできた。

「主任、はいこれ。割引はバッチリです。いやー、天国でしたよ。レジが外人で」

 古参兵は、無言でハンバーガーショップの袋を受けとった。そして、袋からハンバーガーを一つ取って、包みをむいてみるなり、

「おい、永作。ピクルス抜いてないじゃないか」

「あ、言うの忘れました」

「四つともか?」

「はい」

「じゃあ食えねえ。おまえ買いとれよ」

「そんな、嘘でしょ」

 ソバカスが、親にでも死なれたような顔をした。よっぽど金がないらしい。

「きみたちも食べろ」

 ハンバーガーを突き出された。するとイッチが首を振り、

「おにぎりを食べたばかりなんです。それもまだ、たくさん余ってまして」

「若いくせになに遠慮してる。さあ口をあけて」

 古参兵が包みをむいて、イッチの口にハンバーガーを突っ込んだ。

「うまいか?」

「ほうでふねえ……おいひいでふ」

「それ、一万円だから」

「……?」

「もし払えなかったら、ここから帰すわけにいかない」
 ベタベタな詐欺や。

 こんなもん、警察に言うたらしまいや。せやけど、こっちの警察はアテにならん。弁護士を呼ぶ金もない。身寄りも知り合いもない。わしらの立場を考えると、どうやら泣き寝入りっちゅうことになりそうや。あー、アホらし。

 おんなじ結論に達したんか、イッチが覚悟を決めたように、潔く土下座した。

「許してください。お金はないです」

「金がなかったら、誠意を見せてもらおう」

「皿洗いでもなんでもします。だから、この子だけは帰してやってください。身体で払えとか、売り飛ばすとか、クスリ漬けにするとかはどうかご勘弁――」

「アホウ! ぼくがヤクザに見えるか。それにうちは料理屋じゃないぞ」

「じゃあどうすれば?」

「住み込みで働け。そしたら給料が出る。その中から、一万円をぼくに返せばいい」

 ん? 住み込みで働く? ちゅーことは、野宿せんでも済む。なんや、向こうから、ラッキーが転がり込んできたで。

「あの、わしも、お世話になってよろし?」

「もちろん。二人まとめて面倒見よう」

「よかったな、イッチ」

「ちょっと待ってよ、ユエナ」

 イッチがわしのブレザーの袖を引いて、耳元でこそこそ、

「やめようよ。ここ絶対、ブラックだよ」

「ならほかにあるか?」

「隣のハンバーガーショップは?」

「住み込みは無理やろ。それに、さっきの駐在も、条件のいいとこなんかない言うてたやろ。せやったら、ここにおったら、マッサージの達人らしいオーナーはんに会う機会もできる。どや?」

「まあ、ユエナが良ければ……」

「決まりや」

 二人とも雇ってもらうことにした。すると古参兵は満足そうにうなずき、

「こっちの世界のいいところは、法律にやかましくない点だ。たくさん稼ぎたければ、一日二十四時間働いてもいいし、何歳から働いてもいい。めんどくさい契約書なんかも交わさなくていい。あと本当は、お客さんにマッサージするには国家資格が要るんだが、そういう細かいことも無視していい。どうだ、とっても楽だろう?」

 イッチは暗い顔して黙っとったから、わしが適当に相槌を打った。

「そうでんな」

「ただし、人様の身体に触ってお金をもらうんだから、最低限の人体の知識と、プロとしての技術がないといかん。ところがそれもなんと、ぼくたちがただで教えてあげる。どうだ、嬉しいだろう?」

「さいでんな」

「その研修を、さっそく今日から受けてもらう。時給が発生するのは、それに合格してからだ。あんまり覚えが悪いと、デビューできないこともあるよ。が、たとえデビューできなくても、住み込みは続けてよろしい。どうだ、慈悲深いだろう?」

「ほうでんな」

「じゃあさっそく白衣に着替えてもらおう。彼氏は男子の休憩室で、彼女は女子の休憩室で着替えてから、ここに戻ってきて。永作、彼氏を案内して」

 それから古参兵は、サンマルチノを呼んで、いろいろ指示した。サンマルチノはわしの手をとると、スキップで休憩室に連行した。

 その部屋に入ったとたん、テレビがあんのを発見して、わっと声が出た。

「テレビある! もしかして、お笑いもやっとる?」

「お笑い? たくさんあるわよ」

「わー、やった! 番組は、向こうとおんなじ?」

「たぶんね。今流行ってるのは、面白ポンかな」

「面白ポン? 芸人はん、誰出てまっか?」

「力道川とか、ふんころがしとか、半ば達郎とか」

「ふんころがし……おもろいでっか、それ」

「とってもね。こんどビデオに撮っといたげる。休憩時間にいつでも観ていいよ」

「おおきに。ちなみにやけど、スマホで動画観たりとかはできん?」

「残念。こっちの世界には、スマホどころか、ガラケーもパソコンもゲームもないの。固定電話はあるけどね」

「なんで?」

「ああいうのを開発できる技術者たちは、言ってみればエリートでしょ。そんな人たちは落ちてこないのよ。だからこっちには、それを作る人がいないってわけ。ま、ないならないで、わたしはすぐに慣れちゃったけどね」

 えーとサイズはと言いながら、サンマルチノがロッカーから服を出してきた。ガチャピン色のカエル服。壁のほうを向いてそれに着替え、仕上げにカエル帽もかぶったとき、なんや知らんが妙に気分が高まってきた。

 まるで、芸人デビューするみたいや。

 コスチュームを着て仕事するっちゅうことに、こんな状況で不思議やが、晴れがましさみたいなもんを感じてもうた。

 普通やったら、このかっこは羞ずかしゅうてたまらん。が、ここではそもそも、羞ずかしさを感じる相手がおらん。アホばっかや。どうせ脳たりんのほとんどビョーキ連中しかおらんのやから、堂々とやったらええ。やったるで、わし。世の中に出たるねん。今日がその第一歩や!

「すごい似合ってる。パチパチパチ。あなたお名前は?」

「奥川ユエナ。姉さんは?」

「花畑イチゴ。イチゴちゃんって呼んでね」

 おまえはサンマルチノじゃ、この嘘つき女。わざわざ袖をまくってリストカットの痕をさらしてからに、と思いながら、腕の横線をイチ、ニと数えとると、

「トールチャンッ!」

 突拍子もない声が聴こえてきて、思わず部屋をぐるっと見た。

「なんや、ちっちゃいばあさんでもおるんか?」

「ちがうわよ。とおるちゃん、どこー」

 サンマルチノが大声出して呼ぶと、ピピッという音がし、ロッカーに下がった制服の中から、小鳥がひょこっと顔を出した。

「わ、インコや」

「トールチャンッ!」

「へえー、かわいい。あんた、とおるちゃんいうんか」

 よう見ようと顔を近づけると、その子は服から飛び出して、わしの肩にぴょこんと止まった。全身青色で、くちばしがほんのり桜色をした、体長十五センチくらいの、くるよ姉さんくらいかわいいインコや。

「コザクラインコのとおるちゃんよ。この店のマスコット」

「店で飼ってるんでっか?」

「オーナーが動物好きでね。一号店ではヒューマンジーのオリバー、二号店ではワニのカイマン、三号店ではイグアナのタモリを飼ってるの」

「タモリを飼うなんて、赤塚先生みたいでんな。オーナーはんて、優しい人なんや」

「タマちゃん? そうね……根は優しいのかも」

 するととおるちゃんが、わしの唇をチョンチョンついばんできた。

「ひゃは、痛くすぐったい」

「急に咬むから気をつけてね。みんな一度は、唇を血だらけにされてるから」

「ココデワラワナイト、モウワラウトコナイヨ」

「わ、おしゃべりも上手」

「天才なの。迷い鳥だったんだけど、オーナーが捕まえてこの部屋で飼うようにしたら、どんどん言葉を覚えちゃって」

「ワスレテチョウダイ、ワスレテチョウダイ~」

「この子欲しいわー」

「さ、着替えたら行くよ。あと、胸にオタマジャクシのバッジをつけて。ただ今研修中のマークだから」

 マッサージルームに戻ると、古参兵はおらず、イッチとソバカスと、さっきすだれ髪のおっさんをモミスケしてたメスガエルが、ベッドや椅子に坐っとった。

 制服に着替えたイッチのまわりは、どんよりと暗かった。まるでラブアタックで、かぐや姫に奈落の底に落とされた、みじめアタッカーみたいやった。

「そんでさ、おれっち、殺人以外の悪いことは、全部やったんだ」

「ふーん」

 ソバカスが神妙な顔つきで、女としゃべっとる。女は気だるそうに、脚を組んで煙草をくゆらせとった。

「クミさんは、なんか悪いこと、した?」

 女はカエル帽をとると、髪を掻きあげながら、

「戦争」

 言うた。やっぱりこいつもアホや。おまえは元帥かいいうことで、仇名はマッカーサーにした。

「戦争か。大変だったね」

「そうよ。仲間が目の前でバタバタ死ぬしね。わたしは捕虜の虐殺にも加わった」

「そんなことして、お母さんに怒られなかった?」

「別に」

「おれっちは親に怒られてばっかりで……で、最後は見捨てられて、刑務所に面会にも来てくれなかった」

「帰る家がなかったのね」

 マッカーサーが、紫の煙をぷーっと吐いた。

「クミさんの親って、どうだったの?」

「自由にさせてくれたわ。わたしが戦争なしじゃ生きられないことを、よく知ってたのね。言われたことはただ一つ、生きていてくれさえすりゃいいって」

 イッチの身体が、ビクンと跳ねた。

 わしは、イッチの坐っとる横に立った。

「どうしたイッチ。なんでそないな暗い顔してんねん」

 イッチは、たこ八郎くらいゆっくりしたモーションで顔を向けると、

「秋山さんが、この服、一着四万円だって」

「ほー、高」

「そんで、毎日クリーニングに出せって。クリーニング代は全部こっち持ちで。このシステムだと、ぼくたち一生ここから抜けられないよ」

「しゃーないやん。十五でなんもできんわしらを、雇ってくれるだけでもありがたい思わんと。まずは仕事を覚えるこっちゃ」

「……ユエナって、前向きだね」

「目が前についとんのはそのためや。よう見てみい。まわりはクズだらけや。わしらこん中じゃエリートやで。絶対出世する」

「そうかなあ」

「わしを信じんしゃい」

 ドン、と胸を叩いたときやった。制服の腹のところについたポケットから、

「トールチャンッ!」

 コザクラインコが、ひょっこり顔を出した。

「なんやあんた、わしのポケットに隠れとったんか」

「とおるちゃん?」

 ふと見ると、イッチがなぜか、怯えたような顔つきでとおるちゃんを見とった。

「……どうしてこの子、ぼくの名前を?」

「ああ」

 それで思い出した。イッチの下の名前はトオルやった。どの漢字だったかは、まだ思い出せんけど。

 すると、突然ドアが開いた。

「お待たせお二人さん。きみたちに支給するサンダルを持ってきた。特別におまけして、一足二万円にしてあげよう」

 古参兵が両手にサンダルを提げて立ってると、とおるちゃんがバサバサッと飛んだ。

「あれ? なんでここにいるんだ」

 目を丸くした古参兵の脇を抜けて、とおるちゃんが廊下に出た。

「わっ、まずい! 誰か捕まえろ。いなくなったら、きっとオーナーに三百万円は請求されるぞ!」

 みんな部屋から飛び出した。とおるちゃんとおるちゃん言いながら追いかける。

 しかしとおるちゃんは、一直線に受付に飛んで行き、間悪く、客が来て自動ドアが開いた隙に、夜の街へと消えていった。

「ダメだ、おしまいだ。ぼくはこれで一生ただ働きだ」

「あきらめなさんな、主任はん。鳥には帰巣本能がある。きっと帰ってくるで」

「なに呑気なことを。悪いのはきみだぞ。責任取れ!」

 と、星空の彼方を茫然と見あげていたイッチが、

「もしかして……もしかして」

 うわ言みたいにつぶやくと、突然走って道路を渡った。

「待て、イッチ。どこ行くんや」

 追っかけた。イッチはぐんぐんスピードを上げていく。カエルのかっこをした二人が追いかけっこしとるのを、道行く人が不思議そうに眺めた。

 しまいに道から、人がいなくなった。

「コラコラ。寂しい場所行くな。さっき危ない言うたばかりやろ」

 イッチは走るのをやめない。なんだ坂こんな坂とのぼっていく。もう限界や、ついて行かれへんと思うたとき、イッチがどこに向かっとるかに気づいた。

 空海の松や。

 昼でも暗い林の中に飛び込んでいった。わしには怖くて無理や。巨人が身を寄せ合って聳えとるような松の木を眺めながら、わしはなすすべもなく立ちつくした。

 と、しばらくすると林の中から、

「お父さーん、お父さーん、どこー」

 半べその声が響いてきよった。

「ねえー、すっかり忘れてたけど、ピヨちゃんが帰ってきたよー。こっちの世界に逃げてきたみたーい。お父さんもいるんでしょー、出てきてー」

 その声は、完全に小学生の男の子になっていた。

「ねえーってばー、生きていてくれさえすりゃいいんだよー、生きていてくれさえ……くそおっ! 勝手に死にやがってえ! ぼくも死ぬぞお。ぼくは決めた。お父さんと同じ三十歳になったら、ここに来て、首をつって死んでやる!」

 わしは林の中に入っていった。足が勝手に前に進む。

 イッチはすぐに見つかった。巨木の幹に頭突きして、ぼこぼこ殴り、わーわー声をあげて泣いとった。

 かわいそうに。

 きっとイッチは、六歳のころから、ずっと泣くのを我慢してたんや。泣き虫のおかんに遠慮して。それが、こんな形で爆発した。

「よしよし、イッチ。気が済んだか。あんまりパチキはあかんで。アホの坂田みたいになるよってな」

「あのね、ピヨちゃんは、ぼくんちで飼ってた鳥なんだ。自分の名前を憶えなくて、ぼくの名前を憶えてさ。それで、お父さんが死んで、お母さんがなんにも世話しなくなったら、あるとき飛んでっちゃったんだよ。ぼく思い出した」

「えらい、よう思い出したな。さ、帰ろ」

「だからこっちには、向こうで見つからなかった迷い鳥が、きっとたくさんいる。それから、死んだと思ってた人間も」

「あんたのおとんは、ちゃんと葬式も出したんやろ」

「でもね、生きていてくれさえすりゃいいよって、言ってあげればよかったんだ。そうしたら死ななかったよ。だからぼく、それを言いに来たんだ」

「六歳には無理や。済んだことはもうええ。あんたがその分生きろ」

「ううん、ぼく死ぬよ」

「なんでや」

「お父さんの子だもん。いつかきっと自殺する」

「コラア、なに甘ったれたことぬかしとんのじゃあ!」

 わしは思わずカッとなり、イッチの胸ぐらをつかんだ。

「おとんが三十で死んだら、わしは三百まで生きたるわいって、男ならなんで思わんのじゃ。親の屍踏んづけて進むんが、子の務めやないけ!」

 イッチの後頭部を、ガンガン木の幹に打ちつけた。するとイッチは目をまわし、

「あ、よいとせのこらせ、あ、よいとせのこらせ」

 ホンマのアホになった。わしはそれを引きずって、マッサージ館に帰ろうとした。

 そんときやった。

 暗い中で、なんかを踏みつけた。

 その感触にぎょっとした。本能的に、人のような気がした。

 ぞくりとしながら見おろす。ズボン――シャツ――顔――すだれ髪。

「おわあ!」

 死体やった。わし、屍踏んづけてもうた。

「自殺しとる、おっさんが! だからここ来るの嫌やったんや」

「ま、待ってよユエナ。どうして自殺なの? 首にロープとかないよ」

「知らんがな。毒でも食らったんやろ」

「警察呼ぶ?」

「アホンダラ! あんなん呼ぶなら落語家呼んだほうがマシや。それにどっちみち、スマホは使えんしの」

「まだ生きてるかもしれない。急いで病院に行って知らせよう」

「絶対死んどるって。触って温度確かめてみい」

 こんなとき、イッチは意外と度胸あった。おっさんの顔にまともに触れ、

「うん、氷みたい」

「ほれ見い。とにかく自殺や。こんな場所で自然死なんて、どう考えても不自然やろ」

「ここに来て死ぬんだったら、首つりを選ぶと思うけどなあ。ぼくはこれ、よそで殺されて、犯人に棄てられたんだと思う」

「……なんやて?」

「殺人だよ。ヒトゴロシ。ゴロゴロあるって言ってたじゃん」

「ほ、方法は?」

「さあ。案外穏やかな顔してて、血も見えないけど、服を脱がしたらピストルの痕とかあったりして」

「なんでこないに無害そうなおっさん殺すねん。動機はなんや」

「ぼくに訊かないでよ。ユエナ、ホームズの生まれ変わりなんでしょ」

「賃貸のホームズ言うたんじゃ! こんなん推理できるかい。早よ帰るで」

「そうだね。犯人がまだ近くに潜んでるかもしれないしね……サイコパスが」

 サイコ聞いたとたん、アンソニー・パーキンスの顔が浮かんで、一目散に逃げた。

 逃げながら、あのおっさん、マッカーサーの客によう似とったけど、同一人物かな、それともただ単に、あの髪型がこっちで流行っとるだけかなと考えた。
 マッサージ館に帰ったら、電飾が消えて、本日終了の札が出とった。

「うちは朝九時から夜九時までの健全経営だから。最後の客が帰ったら、掃除洗濯メシ風呂寝る。あと細かいことはイチゴちゃんに訊いて」

 古参兵の指示で、イッチと二人、サンマルチノについて二階に上がった。

 二階には、食堂のほか、洗濯室、シャワールーム、事務室なんぞがあり、住み込みのスタッフが寝起きする個室も四つあった。

「今住み込みしてるのは、主任と永作くんのほか、山岸さんと阿部くんという男性のスタッフ四人なの。永作くんと阿部くんは年も近くて仲いいから、今日から一つの部屋に住んでもらう。一ノ瀬くんは、山岸さんと同じ部屋。ユエナちゃんは、あいた部屋を丸々使っていいよ」

「えらいすんまへんな」

「昨日まで永作くんが使ってた部屋だから、ちょっと男臭いかも。さっき暇だったから掃除して、ベッドメイクもしといたよ。敷いてある布団はわたしんちから持ってきたお古だけど、嫌だったら新しいの買ってあげる」

「……姉さん、親切でんな」

「みんな親切よ。だから生きづらかったの」

 じゃあねと言って、サンマルチノは帰った。すると、顔の下半分に青黒いヒゲを生やした、胸にオタマジャクシのバッジをつけたオスガエルが近づいてきて、

「きみらの教育係りをやることになった、山岸です。どうぞヨロピク」

 中年が受けようとして、くだらないギャク言いよった。わしは一瞬で嫌いになった。こいつのことは、変態オヤジと呼ぼう。

「ところでとおるちゃんは、無事帰ってきたよ。ユエナちゃんの言うとおりだったって、主任も喜んでた」

 変態オヤジに気安く名前を呼ばれて、さぶイボが全員起立した。わしは直感的に、さっきの殺人犯はこいつちゃうかと思った。

「まず最初に、いちばん大事なことを教えておこう。ここでは一日でも早く入ったものが先輩であり、先輩の言うことは絶対である。はい、メモして!」

「メモなんて、持ってまへんがな」

「なにい、メモがない? 言われたことをメモするのがいちばん大事じゃないかあ! 今すぐペンとメモ帳を買ってこい」

「金、持ってまへん」

「口答えするなあ! 先輩が白と言ったら、松崎しげるも白いんだあ!」

 ツバがかかると皮膚が溶ける気がして、ウェービングで間一髪避けた。

「兄さん、理不尽でっせ」

「そのとーり。ここでは理不尽が法律だ。ワタシは昨日までいちばん後輩だった。だから、みんなからさんざん理不尽を言われた。しかし、今日からは二人も後輩ができた。先輩になれて天にも昇る思いだ。だからきみたちに理不尽を言うのだ」

「そんな先輩、尊敬できん」

「なんだとお。もういちばん大事なことを忘れたのか。メモしないからだ!」

「あんまり威張ると、タマちゃんに言いつけまっせ」

「タマちゃん? 誰だそれ」

「オーナーはん。そう呼ぶんでっしゃろ」

「な……オーナーのことを、タマちゃんだとお!」

 するとそのとき、食堂からシュッとしたキツネ顔がシュッと覗いて、

「ギシさん、今、オーナーのこと、タマちゃんって言いました?」

 そう言いながら、長い脚でシュッシュと歩いてきた。

「ダメじゃないですか、レディをいじめちゃあ。優しく教育しないと、みんなにギシさんがオーナーのことを、タマちゃんって呼んでたって言いますよ」

「で、でも阿部さん。この子は先輩に口答えをしたんです」

「今ギシさんのしてることが、口答えじゃないですか。先輩に言われたら、はい以外の返事はしないでください」

 変態オヤジがシュンとなった。わしはこの阿部っちゅうオスガエルを見て、こないにちゃんとした、女にモテそうなクールなイケメンが、なんでこっちの世界に落ちてきたんやろうと不思議に思った。

「もう大丈夫だよ、お二人さん。安心して働いて」

 イケメンガエルはそう言うと、わしの顔をじっと見て、

「この子はかわいいけど、ぼくのタイプじゃない。清楚じゃないし、せいぜい六十点というところだ。使い走りにしよう」

 ズバッと言うと、

「こっちのガキはお荷物って感じだな。奴隷のようにこき使おう。それで潰れたら、放り出せばいい」

 イッチが口をあんぐり開けた。イケメンはそれも意に介さず、

「まったく、山岸の顔はいつ見ても気持ちが悪い。吐き気がする。だからこれからもみんなでイジメよう。イジメというのは本当に楽しいなー」

 変態オヤジが顔の上半分も青くした。わしはちょっと腹が立った。

「兄さん、聞き捨てならんな。どないな世界でも、イジメが楽しいっちゅう法はないで」

「え? ああ気にしないで。心の声が出ただけだから」

「心の声? そんなもん、しまっときいな」

「そういう器用なことはぼくにはできない。なぜならぼくは、正直者だから」

 ニッと白い歯を出して、クールに笑いよった。

「せやけどな、人を傷つけることを言うたらアカンで」

「じゃあ本当のことを言わないで嘘を言うの? ぼくは、嘘ほど汚いものはこの世にないと思う。正直こそ最大の美徳だ」

「イジメが楽しいいうのも美徳か?」

「だって、本当のことだから。ぼくはそれを言わずにはいられない」

 落ちてきた理由がわかった。こいつはアホの中のアホや。だから仇名はシンプルに、アホいうことにした。

「山岸は連続幼女誘拐犯だから注意しな。触るとバイキンがうつるよ」

 そう言うと、アホは食堂に帰っていった。

「それはひどいよお。ワタシは子どもに面白がられて、石投げられたり、勝手に家までついてこられたりしただけなのに……」

 変態オヤジがしゃがみ込んで、オイオイ泣きだした。わしはつい同情し、

「兄さん、気にすんな。子どもに好かれるのはええこっちゃ」

「でも、大人には嫌われる。みんなワタシを気持ち悪いと言う。ワタシは鏡を見てもちっとも気持ち悪くない。みんなの見方のほうが変なんだ」

「ホンマそうやで。見方によっちゃ、ジョージ・マイケルに似てまっせ」

「そうかい? でもまあ、百歩譲ってもしワタシが気持ち悪いとしても、わざと気持ち悪いわけじゃない。みんなだって、うっかり失敗することはあるはずだ。それなのに、わざとじゃないことを責めるのは、人としてまちがってると思う」

「そやそや。兄さんは、うっかり気持ち悪いだけや」

「ありがとう。ユエナちゃんは親切だね。ワタシの天使だ」

 さぶイボの整列が止まらんかった。それがキモいんじゃ、ということを指摘しても、たぶんこの変態オヤジは治らん。一挙手一投足、片言隻語がキモい人間はおる。そういうやつは吐く息も臭い。アカも人の三倍出る。

 わしは変態オヤジの背中を、嫌っちゅうほど叩いた。

「兄さんは生きとるだけで素晴らしい。わしならとっくに死んどる! 兄さん見たら、自殺考えとった人間も、死ぬのアホらしゅうなるわ。みんなの希望の星やで。これからも頑張ってや!」

「は、はい」

 変態オヤジは立ち上がると、両手でわしの手を握りよった。信じられんほど手がネバネバしとる。わしは込みあげる嘔吐物と闘いながら、

「生理的に無理いうのは、兄さんのためにある言葉や。肝に銘じてな」

「うん。これからもヨロピク。ところできみたち、夕飯は?」

「おにぎりがあります」

 イッチが答えた。すると変態は、

「食堂は自由に使ってよろしい。ただし、レンジもコンロも使用料は一回百円。すべて給料から引かれる。ワタシもきみたちと同じ研修生だから、そこはツケになってる」

 食堂の中を見せながら、次に進んで、

「シャワーも使用料は一回百円。先輩たちが全員使い終わってから使うこと。ただし、誰か一人でも先輩が先に寝ていたら、その日は使用禁止。五分以内で上がれよ」

 それじゃあたぶん使える夜はない。朝シャンにするかと考えとると、

「ここが洗濯室。客が帰ったら、タオルを洗濯して干す。私物の洗濯はオタマジャクシのうちは二週間に一回。シフトが休みの日にこっそりやれ。これも使用料は百円」

 変態オヤジと同じ洗濯機を使えるわけがない。これはサンマルチノの家で洗わしてもらうことにする。

「一日の流れを整理しよう。ワタシたちオタマジャクシは、朝六時に起きて、先輩方のコーヒーとトーストの用意。先輩方の使った食器を洗ってから自分の食事。下に降りて廊下の雑巾がけとマッサージルームの床掃除。乾いたタオルの用意。営業時間になったら上に戻り、先輩方の部屋の掃除と洗濯。先輩に呼ばれたら下に行き、あいてる部屋でマッサージの練習。先輩方の昼食の準備。夕食の買い出し。なにを食べたいかは事前に訊いておくこと。あき時間があれば少しでも人体の勉強。教科書は事務室にある。先輩方の夕食の準備が終わったら、マッサージルームの清掃。洗濯。先輩方の食器洗い。それから自分の食事と風呂。先輩方の呼び出しがなければ就寝。これがだいたい午前二時」

 熟睡できそうやと思う。たぶん夢も見ん。

「休みは月に二回もらえる。ただしその日も、一号館、二号館、三号館が人手不足ならまわされる。そうでなくても、たいていオーナーの実家の農家の手伝いとか、ペットの世話とか、釣りのお供などを言いつけられて一日が終わる」

 オーナーの釣りのお供? そらチャンスや。達人と親しゅうなって、現実世界に帰るツボを教えてもらえるかもしれん。

「きみたちは若いから、礼儀作法から覚えなくてはならん。次に人体の知識。それからようやくマッサージの技術。カエルになってデビューできるまで、何か月かかるかわからん。真剣にやらないと、ツケが膨れあがって身動きとれなくなるよ。じゃあ、今日は遅いからもう寝なさい。洗面は食堂でな。ではユエナちゃんは自分の部屋で休んで。一ノ瀬くんはワタシと同じ部屋で生活する。来たまえ」

 イッチの背中は暗かった。まだ覚悟が決まっとらんらしい。まあ、さっきまで呑気な高校一年生やったから、無理もないがの。

 自分の部屋に入った。広さは六畳くらいで、マッサージルームと同じくらいやった。ただし壁はコンクリートむき出しで、家具はぽつんとパイプ式のベッドが一つ。そこに花柄の布団が敷いてあって、休憩室で脱いだ紺ブレがきれいに畳まれて置いてあった。サンマルチノがやってくれたんやろう。

 床は学校の廊下みたいなタイル張りで、足の裏が冷べたい。カーペットが欲しいけど、そこまでサンマルチノに頼んだらずうずうしいかなと思う。

 布団に寝転がった。

 ここで暮らすんやったら、当たり前の女子として、タンスも欲しいし鏡も欲しいしテレビもステレオも欲しい。ドライヤーも歯ブラシもハンカチもティッシュも欲しい。コップも時計も欲しい。下着の替えも欲しい。

 ま、しゃーないわ。稼ぐしかないわい、この身一つで。

 今日一日で、そんなふうに思えるようになった。少しだけ大人になったのかもしれん。

 そういえば、変態オヤジに手え握られたとき、こらえて殴らんかっただけでも、見ちがえるような進歩や。

 一日一日進歩していけばできる。先のことは気にせんと寝るこっちゃ。

 そう思うて目を閉じたら、幾野セリイの顔が浮かんできた。あのおなご、ちゃんと屋根の下で寝とるやろか。ちーと心配やで。

 頭まで布団をかぶる。サンマルチノのお古やが、わしの布団や。ここはわしの部屋。誰にもジャマされへん。

 そうや。今夜からは、本当の父親でもなんでもない、母親の男が勝手に入ってきて、汗臭い手で触られたり、顔面殴られたりせんと眠れる。極楽やで、極楽。

 せやけど――

 ここは夢や。夢の中の人間ちゅーのは、夢見んのかな? ほんで目覚めたときは、どないなっとるんやろ。夢のままか、それとも現実に戻るんか。このまんまがええか戻るんがええか……えーい、わし、正味わからん!
 夢やった。

 つまり正解は、夢のままやったということや。

「六時だよ」

 ドアをノックする音と、イッチの遠慮がちな声が聞こえてきた。自分でも意外やったが、すぐに起きれた。慣れない環境で、眠りが浅かったんやろう。

 でも夢は見んかった。夢の中では夢は見んのかもしれん。せやなくとも、一日のスケジュールを考えたら夢見る暇もない感じや。

「おはよう。ついさっきイチゴ先輩が出勤して、これをユエナちゃんにって」

 もう制服に着替えた変態オヤジが、福袋みたいなでかい紙袋を差し出した。中を見ると、洗面セットや洋服なんぞが入っとった。

「おおきに。涙出るほど嬉しいな。でも兄さん、中触ってないやろな」

「しないしない」

「もし触ってたら捨てるで。兄さんの手、ベトベトやからな」

 変態がまたシュンとした。気持ち悪いくせに、傷つきやすいらしい。

「着替えたら食堂に集合。その中にメモ帳とペンがあれば持ってくるように」

 またカエルのかっこに着替えて、食堂に行って歯を磨いた。朝シャンする時間はなかった。イッチはメモを片手に、変態オヤジの後ろに直立不動で立っとった。

「今日はワタシが手本を見せるから、明日からはきみたちが全部やるように。いいね、一度しか言わないよ。まずは男性陣の朝食。主任のコーヒーはブラック。トーストにはバター。阿部先輩は濃いめのコーヒーに砂糖一さじ。パンはカリカリに焼いてイチゴジャムとブルーベリージャムをブレンド。永作先輩は牛乳たっぷり砂糖たっぷりのカフェオレ。パンは焼かないでピーナッツバターを山盛り。ワタシは紅茶に蜂蜜。トーストにはシュガー・アンド・マーガリン。メモした?」

「はい、山岸先輩」

「よし。今言った準備は、先輩が入ってきたらすぐに始める。ちなみに女性陣二人は通いだから、ここで朝食は食べない。ただし、早く来ておしゃべりすることもあるから、そういうときは紅茶かコーヒーを勧めるんだ。先輩が自分でやるからいいよと言っても、やらせてくださいと言ってやるように。そうしないと、なんで先輩にやらせるんだといって、あとで別の先輩に殴られるからな」

「はい、山岸先輩」

「おはよう、ユエナちゃん、一ノ瀬くん」

 休憩室で着替えてきたらしいサンマルチノが、朝からでかい声出して入ってきた。

「おおきに、姉さん。えらい助かったで」

 礼を言うと、またあの怪力でハグされた。

「姉さんのはただのハグやない。ベアハッグや」

「今日一日、頑張りましょ」

 不思議と、化粧の匂いも気にならんようになった。どうやらわし、サンマルチノのことを好きになったようや。

「あの、イチゴ先輩。紅茶かコーヒーを飲みますか?」

「ちがう! お召し上がりになられますかと言うんだ。これもメモ!」

「いいわよ、自分で淹れるから」

「いえ、ぼくにやらせてください」

「よし、いいぞお。もっといいのは、どうかワタクシめにさせてください、これも修行ですからと、頭をこう下げて――」

「山岸さんやめて、気持ち悪いから」

 ピシャッと言った。あのサンマルチノをイラつかせるとは、変態オヤジの嫌われぶりも大したもんや。

「おはようございまーす。あ、イチゴさんが自分でコーヒー淹れてる! 山岸さん、どうして後輩がやらないんですか」

 ソバカスが入ってくるなり、鬼の首をとったようにはしゃいだ。

「お願いです。どうかワタクシめにさせてください」

「やめて! 触らないで」

「山岸さん。おれっち今、自分でパンにピーナッツバター塗ってるよ。どうして先輩にやらせるの?」

「一ノ瀬やれ!」

「はい、山岸先輩」

「おはよう諸君。やあユエナちゃん。昨日は六十点なんて言ってゴメンね。よく見たら六十五点だった。ところできみがシャワー室に入ったら覗こうと思って待ってたのに、入らなかったね。今夜こそ覗くよ」

「ユエナちゃん、お風呂はうちのを使っていいわよ」

「おおきに」

「ギシさん、ぼくもう椅子に坐ってますよ。どうしてコーヒーが出てないんだろう? しっかしテメーは気持ち悪いな!」

 アホが椅子にふんぞり返って鼻をほじっとると、古参兵が入ってきて、

「みんな今日は急げ。朝の支度が終わったら、少し長めのミーティングをするぞ」

 ソバカスが眉毛を八の字にして、

「えー、どうしてですかあー」

「新入りが二人もいるからだ。それをオーナーにご報告申し上げたら、今朝八時に来館されることになった」

 そのとたん、ソバカスもアホもあわててパンをコーヒーで呑みくだして、下にすっとんでった。変態オヤジは紅茶も飲まんと、

「きみたちは、ここの後片付けをしたら、パンをかじってすぐ下に来い。ワタシは先に行って掃除してる」

 そう言って消えた。サンマルチノだけがゆっくりコーヒーを飲んで、

「みんな恐がっちゃってバカみたい。タマちゃんなんて、赤ちゃんみたいなもんなのに」

「おはよう。どうしたのかしら、うちの男ども。召集令状でも来たの?」

 マッカーサーがだるそうに入ってきて、椅子に坐って煙草を喫った。

「コーヒーか紅茶をお召し上がりになられますか?」

「いいのよ、坊や。あたしにはこれがある」

 スキットルを出して、なんかをクピクピ飲んだ。ふーっと吐く息が酒臭い。

「立ってないで坐ったら。朝食まだなんでしょ」

 マッカーサーに言われても、イッチはモジモジしとった。遠慮しとるんやろう。わしはさっさと袋からパンを抜いて、サンマルチノの向かいに坐った。

「イッチも食わんと、あとで腹減って倒れるで」

「わ、イッチだって」

「いいわねー、付き合ってるの?」

「そんなんちゃうけど、コラ、赤くなんなや。だから誤解されるねん」

「あの……男性陣のみなさんは、下でなにをされてるんですか?」

「掃除よ。オーナーが来たときはチェックされるの。よくドラマで、姑が障子の桟を指でなぞるでしょ。あれを本当にやるの」

「じゃあぼくも行きます。ユエナ、後片付け頼む」

 結局なんも食わんと出ていった。

「いい子ね。早くつかまえなさい」

「別に、友だちでええんちゃう?」

「ダメよ。こっちにはさ、みんな一人で来るでしょ。誰も身寄りがなくて孤独。だから寄り添う人が必要なのよ。あなたには、最初からそれがいるじゃない」

「せやけど、あいつの胸ん中には、別のおなごがおんねん。わしとちごうて無口な女が」

「あなたはどうなの? 好きなんでしょ、彼のこと」

「ちーと頼りないかな」

「あら、見る目ないのね。彼は大きい子よ。ここの誰よりも」

「そうでっか?」

「結婚しなさい。わたしたち二人が、仲人やったげる」

「気の早い姉さんたちやな……でもわし、幸せになる気ないねん」

「はあ? どういうこと?」

「けがれとるから。男つくる資格なんてないんや」

 キッチンに立って、ポットからお湯をついでコーヒーを淹れた。突然、母親の男に触られた場所に、この熱湯をぶちまけたくなった。

 振り向くと、姉さんたちがじっと見とった。わしはサンマルチノに、

「オーナーはんて、どんな人でっか」

 訊いてみると、マッカーサーのほうが答えた。

「昨日の夜、うちに来たわ。叩いてほしいって言うから、平手打ちしたり、頭踏んだりしてあげたけど」

「叩く? なんでっか、それ?」

「そしたらお小遣いをくれるの。アパート代も払ってくれる」

「叩くだけで?」

「そうよ。それがストレス解消になるらしいの。わたしにはよくわからないけど」

「おとといはうちに来たわ。ミルク飲みたいって言うから、哺乳瓶で粉ミルクを飲ませてあげた。そしたらバブバブ言って喜んでた」

「そんで姉さんにも小遣いを?」

「給料よりたくさんね。今度、ユエナちゃんにもやらせてあげる」

「わし無理や。おじさんには触られへんねん」

「大丈夫よ。いい子でちゅねー、ゲップしまちょうねーって言ってりゃいいんだから」

「それか、この醜い豚、なんで生まれてきたんだって唾吐いて、踏んづければいいから」

 変態オヤジを上まわるド変態や。どんなストレスがあるかは知らんが、こっちに落ちてきた理由はわかる気がした。

「これは男性陣には内緒よ。しゃべったらクビ切られて、援助もなくなっちゃうから……あ、タマちゃんのベンツの音がした。まだ七時じゃない。掃除がちゃんとできてるか、抜き打ちチェックするつもりね」

 姉さんたちが出て行った。わしも、急いでカップと皿を洗って下に降りた。

 受付で、全員直立していた。まるでヤクザが親分迎えるような雰囲気や。わしはイッチの後ろにそっと立って、自動ドアのほうを見た。

 ぎょっとした。

 ウィンと開いたドアのところに立っとるのは、レイバンのサングラスに、サンローランのジャケット、ビギのパンツ……ありゃ親分やない。まんま兄貴や!

「おはようございます!」

 古参兵の号令で、みんな腰を九十度に折った。するとタマちゃんは、ロックスターみたいに両手を広げ、

「よう、みんな。ハッピーかい?」

 わしは前にこけてイッチにぶつかった。セリフが兄貴とちゃうやんけ!

「レディース・アンド・ジェントルメン。アンドお父っつあんおっ母さん」

 もうむちゃくちゃや。いくらなんでもベタすぎる。

 せやけど誰も笑ってない。それが逆に怖かった。

「おこんばんはー、おジャマします、パッ、早乙女主水之介」

 わしの横で、ソバカスがプルプル震えとった。たぶん極度の恐怖のせいや。

 タマちゃんは、ソバカスに目をとめた。ゆったりとした足どりでソバカスの前に行くと、耳元で一発、

「ホーホゲギョ!」

「ひいっ!」

「どうも、黒鯛チヌ夫です。明日きみは休みをもらいなさい。そしてわたしとチヌ釣りに行くんだ。朝四時に迎えに来るように」

「ありがとうございます!」

 ソバカスが頭を下げすぎて膝に頭をぶつけ、気を失った。見ると、制服の股のところが濡れて黒いシミになっとった。

 タマちゃんがグラサンをとった。目のまわりにラメがあるかと思ったが、それはなかった。ただし目力はすごくて、全盛期の青空球児か、鈴々舎馬風を思い出した。あ、それでカエルか!

「そのションベンたれを二階に運べ。今から貴様らの部屋をチェックする」

 誰かの息を呑む音がした。みんな一階の掃除はしたが、二階は手付かずやった。

「まずはここから。これは誰の部屋だ」

「自分であります!」

 古参兵が答えた。その顔はもう血の気を失っとる。

「なんだなんだ……脱いだ服がそのまんまで、スナック菓子もこぼれて」

 言いながら、散らかったものを次から次へと手で払って床に落とすと、

「このアニマルッ!」

 古参兵の頬をビーンと張った。古参兵はふっとんで、ベッドに鼻血を撒いた。

「殴られなきゃできないヤツは動物だっ! おれは貴様らの飼育係りじゃない。早く人間になってくれ!」

 続いて、目をぎらつかせながら例の姑をやり、

「秋山くん、この埃はなにかね?」

 指先を古参兵の顔に突きつけると、

「食え。自分できれいにしろ」

「いただきます!」

 パクッと指をくわえた。もはや狂気の域や。

 息を吹き返したソバカスが、アホと先を争って部屋に飛び込み、あちこち拭っては埃をパクパク食った。

「掃除はもういい。全員集合しろ」

 食堂に集まった。仕事前なのに、もうみんな疲れた顔をしとる。

「よく聞け。貴様らはクソひりマシンだ」

 一人一人を粘っこくにらむ様子は、ちょうど大喜利メンバーを威圧する、ハリセン大魔王そっくりやった。

「メシを食って、クソを生むことしかできない。メシを食えるのは誰のおかげだ、阿部」

「オーナーであります!」

「感謝したいと思わないのか?」

「思います!」

「ならどうして本気で働かない。本気出せって言ったよね? ぼくをバカにしてる?」

 この威圧感は完全に馬風を超えとる。佐山サトルのシューティング教室や。

「貴様はアホすぎて、向こうではどこにも就職できなかった。そうだな?」

「そうです!」

「それを雇ってもらえるだけで、涙が出るほど嬉しいはずだ。そうだろ?」

「そうです!」

「ならもっと働け。今月は先月の二倍稼ぐんだ。それから秋山」

「はい!」

「おまえは向こうでマッサージの仕事をやって、セクハラで逮捕された。もうこの業界では働けない身だった。それを雇ってやったのは誰だ?」

「オーナーです!」

「それを感謝してるんだったら、もっと部下を教育しろ。あと永作……やっぱおめえはいいや」

 やり口が、佐山サトルから猪木会長に格上げされた。

「山岸は幼女誘拐の常習犯、ペンネーム花畑イチゴは自作の詩集が売れずに放浪、菊池クミはサバイバルゲームにハマって借金まみれ。どいつもこいつも極めつけのカスだ。それをまとめて面倒見ようなんて慈善家が、おれのほかにいると思うか。よく聞け新人」

 目玉がギョロッと、わしとイッチを見た。

「まだイロハのイの字も知らんうちから、メシを食わせてやろうというんだ。おい小僧、肋骨は何本だ」

 突然のクイズに、イッチは口をあふあふさせ、

「ろ、六本!」

「ギーロッポン、っておい! JBじゃないんだ。菊池、教えてやれ」

「……百億?」

「ビフィズス菌か! 貴様らホントにポンコツだな。おれが次来るときまでに、骨の名前を全部憶えておけよ。まちがえた数だけ秋山を張り飛ばすからな。それから小娘」

 わしの番が来た。

「女は憶える仕事が多いぞ。マッサージのほかに、受付や経理もやってもらう。せんよんひゃくはちじゅうわるよんかけるじゅうにはなんだ」

「わかりま千円」

「ゼッコーモン、ってコラ! 五十過ぎの男に茶魔語を言わせるな。今の数式は、一日十二時間びっちりマッサージをやったときの貴様らの取り分だ。それがどんだけ恵まれてるかよく考えろ。おれが若いときなんかは、月二、三千円でこき使われたもんだ。仕事を教えてやる授業料だといって、給料のほとんどをピンハネされてな。あー、おれはなんて優しいんだろう。神様みたいに見えてこないか、なあ小娘」

「知らんがな」

 わしは言った。真正面から目玉をじっと見て、

「昔どんだけ苦労したか知らんが、あんたちょっと威張りすぎやで。多摩川行ってちっと頭を冷やしてきたらどや、タマちゃん」
 現場が凍りつく、ちゅうのはこういうこっちゃ。

 誰も動かんし、なんも言わん。ビデオの一時停止押したみたいに。

 コホン、とタマちゃんが咳払いをした。古参兵がビクッとして、欽ちゃんみたいにぴょんと跳ねた。

「なるほど、タマちゃんか。貴様ら蔭で、おれのことをそう呼んでたんだな」

 ソバカスの股にまたシミが広がって、床に水たまりができた。

「誰だっ! その仇名を考えたのは!」

 みんないっせいに変態オヤジを指差した。変態オヤジは立ったまま気絶した――リアル西川くんや。

 あー、アホくさ。

 男性陣はオーナーを恐がっとるが、わしはちっとも恐いことあらへん。サンマルチノたちから聞いて、裏の情けない顔を知っとったし、別にこのおっさんに恩があるわけでもない。怒らせたらビンタ食らって追い出されるかもしれんが、せいぜいそんくらいや。命まではとられへん。それよりも、黙って威張らせとくほうがシャクやった。おっさん、まちごうてるでということを、誰かがビシッと言ってやらなアカン。

「なあ、なんでタマちゃんいうの? 教えてえな」

 目玉がこっちを見た。が、不思議なことに、怒った色をしてへん。むしろ面白がるような調子で、

「なかなかいい度胸だな、小娘。よし、気に入ったぞ。おれの名前は、タマキイチローというんだ」

 ――なぬ、タマキ? 

 ひょっとして、あの玉城レイの玉城か?

「あの、オーナーはん。タマキのタマは、玉置宏の玉でっか?」

「えー、一週間のごぶさたでした、っておい! 真似しにくいヤツを選ぶな。でもそれで合ってる」

「ほんで、タマキのキは、城卓矢の城でっか?」

「おれは女は愛しても、ホネまでは愛さん」

「それとも城みちるの城でっか?」

「おれはイルカにも乗らん! でもそれで合ってる」

「やっぱそうなんや。ほんなら、玉城レイってギャル知ってまっか?」

「レイ? 今年高校の?」

「そうそう。わしのクラスメートやねん」

「ほおー、奇遇だな。あれはおれの弟、玉城ジローの娘だ」

「弟さんって、マスターモミゾウと呼ばれとる?」

「うむ。玉城ブラザーズといえば、その道で知らない者はなかった。だが正直言って、弟のほうが優秀だった。おれは拗ねに拗ねた。ひねくれて性格がゆがみ、酒と麻薬に溺れ、気がつけばこっちに来てた。しかし、弟に敗れたおれは、自分でモミスケをやる気はなかった。そこで指導者となって、店の経営に乗り出すことにした。努力の甲斐あって、この四号店を出すまで成功した。ジローは向こうで、そこまで成功してないだろ?」

「オヤジのことはよう知らんけど、とにかくわしとイッチは、レイにモミスケされて、こっちに来てもうたんや。オーナーはん、そのツボ知ってまっか?」

「ツボ?」

「ツボは無限で万能なんやろ。その押し方によって、現実から夢の世界に人を送り込むこともできるっていう……知らん?」

「ああ、知ってる」

「ホンマ?」

「弟が、そういう技の開発にのめり込んでたのは知ってる。おれは弟ほどの技術はもってないが、やり方はだいたいわかる」

「じゃあ、こっちから向こうに戻すことも、ツボでできまっか?」

「理屈上はな。ただしやったことはない」

「やってくれまっか?」

「いや、断わる」

「なんでなん?」

「危険だ。無事に現実に戻れるという保証はない」

「試すだけ、やってくれへん?」

「そもそもおれに、それをやる気、元気、井脇がない。おまえはまだ、おれに一円も儲けさせてない。それどころか、制服とサンダルの借金が丸々残ってる。少なくともそれを完済して、店に百万くらい利益をあげたら、やってやってもいい」

「ほんなら、今すぐモミスケを教えてくれ。アホくさいコーヒー係なんかさせんと」

「うむ、いいだろう。おまえには特別に、おれが指導してやる。筋が良ければすぐにデビューさせてやってもいい。ただし、おれは厳しいぞ」

「ビシビシやっとくんなはれ」

「よし。そっちの小僧と阿部。今からこの小娘にレッスンするから、おまえらも一緒に来い。ほかのヤツらは解散!」

 古参兵とソバカスが、その場にヘナヘナと崩れた。よっぽど緊張しとったんやろう。変態オヤジは、まだ西川くんをやっとった。

 一階のマッサージルームに、タマちゃん、わし、イッチ、アホの四人で入った。

「阿部、ベッドに伏せろ。おまえには正直という病気がある。今からこの小娘にマッサージさせるから、悪いところは全部正直に指摘しろ。まずはおれが見本を見せる」

 太い親指をアホの背中に突き立てて、ぐりぐりねじ込んだ。

「どうだ? 達人と呼ばれた男の指は」

「まあまあですね」

「む……二十年ぶりだから少々錆びついたかな。おい、小僧。おれのやり方をよく見ておけよ。トッププロとド素人のどこがちがうか、あとでこの小娘に教えてやるんだ。さあ、小娘、自由にやってみろ」

 わしは玉城レイの手つきを思い出しながら、肩を揉んでみた。

「どうだ、阿部」

「むちゃくちゃ上手です。五十年に一人の天才です」

「本当か?」

「はい。オーナーより全然上です。ダンチです」

「マジかよ……また負けちゃった」

 タマちゃんが拗ねた顔をして、指をくわえた。

「ぐすん。もう教えることないや。ユー、やっちゃいなよ。カエルになって、デビューしちゃいなよ!」

 そう言うと、わしの胸からオタマジャクシのバッジをむしり取った。

「ついでに小僧も見てやる。やってみな」

 イッチがへっぴり腰で、アホの腰をさすった。

「どうだ?」

「まるでダメです。こいつはクソです」

「おれの手つきを見てなかったのか? 指の第一関節、ここで押すんだ」

 タマちゃんがイッチの手をつかみ、アホの背中をぐいぐい押させた。

「こんな感じだ。さあ、やれ」

「できません」

「なんでだ」

「今ので指が折れました」

「ふん、まったくカスだな。貴様は最低でも、十年は修行しろ。そうでなきゃとても一人前にはなれん。向こうに帰りたいなんてほざくのは、それからにしろ」

「折れた指は、どうしたらいいですか?」

「そんなかすり傷、唾つけて治せ!」

「はい!」

 イッチは素直に、指をチューチュー吸った。

「阿部、おまえはちょっと、休憩室でおれの肩を揉んでくれ。小僧は山岸について雑用。小娘、おまえはこの部屋で待機してろ。ちょろそうな客が来たらまわすように秋山に言っとくから、適当にやってみろ。全身コースは一時間、部分コースなら二十分、時計をよく見てそこだけ注意しとけよ」

 タマちゃんはアホとイッチを連れて出ていった。しばらくすると古参兵がやってきて、

「話はオーナーから聞いた。もうすぐ九時だが、今待合室に、開店前から待ってる客が五人もいる。なんにもやることのないジジイとババアだ。どうせボケてるに決まってるから、デビュー戦にはちょうどいい相手だ。ただし、骨は枯木みたいにスカスカだろうから、むちゃして折らないように気をつけてな」

 古参兵はそう言って出ていった。すると今度はサンマルチノが来て、

「おじいちゃんが入るわ。全身コース。ユエナちゃんなら絶対大丈夫よ。ガンバ!」

 サンマルチノが開けたドアから、タコ社長みたいな感じのじいさんが入ってきた。

「お嬢ちゃん、よろしくねー」

 竹中直人の笑いながら怒る人みたいに首を振りながら、いそいそとベッドに乗った。

 さてどうするんやろ。とりあえず、カメの絵がプリントされたタオルケットをかけた。

「お父さん、どないしよ。どこ揉んだらええ?」

「こないださあ、とおーっても面白いことがあったんだよ」

「なんでっか?」

「ところでボク、何歳に見える?」

「八十九」

「ボクはねえ、シベリヤで生まれたの。あそこはすんごく寒いよー」

 まったく会話にならん。ムカつくジジイやけど、なんにもせんと時間が経ってくれるのはありがたい。これで最後までいったら超ラッキーや。

「ねえ、早く揉んでよ。揉み始めてから時間を計るよ」

 トサカに来た。わしがオール巨人なら、まちがいなくパンパンや。

 でも、止めてくれる国分くんもおらんので、

「どこにいたしましょう」

 優しく言うたった。するとタコ社長は調子に乗って、

「足、足。それから手首の親指のこのあたり。あとお尻。それから手首の小指のほうも。あと首、ここよ、ネック、ネック!」

 生き急ぐみたいに注文した。わしは次々揉みながら、ひょうきんプロレスでやったろうかと思った。せやけど、たしか竜介はあれで大ケガした。わし申し訳ないけど、竜介になる気はない。どうせなるなら、でっかく島田紳助や。

「こないださあ、とおーっても面白いことがあったんだよ」

 タコ社長の話が戻ってきた。なんでっかと適当に相槌を打つと、

「相撲に行ったんだよねえ、大相撲。お嬢ちゃん、興味ある?」

「ありまっせ。ドルジとか好きや」

「そうかい。だったら今度、チケットあげるよ。ボク、手に入るから」

「おおきに」

「それでさあ、ゆるふん横綱っているじゃない。いつもまわしのゆるい」

「ゆるふん……あ、そっか。こっちの世界の力士はちがうんやな」

「まわしが落ちそうで落ちないスリルとサスペンス。あれが新しいってんで、新人類横綱とも呼ばれてるでしょ」

「知りまへんなあ」

「でもボク、せっかく高い金払って観に行ってるんだから、一度くらい外れてくれないと詐欺だなあと思ってね。落ちそで落ちない詐欺。ね? だからぼく、桟敷席で立ってさあ、落ちろって叫んだのよ。そしたらどうなったと思う?」

「落ちたんでっか?」

「もうお客さんみんながね、落ちろ落ちろの大合唱。そりゃそうだよね。誰だってハプニングが見たいもの。落ちろ、チャッチャッチャ、落ちろ、チャッチャチャ。北天佑のグルーピーみたいにでっかい声出してさ。そしたら横綱、がっぷり四つに組んだまま、きょろきょろし始めてね、巧みにまわしを外した」

「ホンマでっか?」

「うん、たしかにボクは見た。腰をきゅっと捻ってハラリと落とす。モロ出しで負け。八百長にはちがいないけど、あれは見事な神技だったなあー」

「偶然ちゃいまっか?」

「もちろん八百長だよ、八百長。テリーファンクの流血と一緒。そんでもって、天井仰いでぐっと唇を引き結び、涙を一筋流した。露出した悲しみと、しかしながら堂々としてなきゃならん綱の重みとが、あの涙と背中によーく出とった。あれぞ横綱。綱に求められる品格とは、まさしくあれだ」

「ようわかりまへんが」

「よっ、泣き虫横綱って、わしまた立ち上がって賛辞を贈った。綱がちらっとこっちを見て、ボクと一瞬目が合った。はにかんだようなそのロングフェースは、どこか誇らしげでもあった。客の期待に応えた満足感だな。横綱は万雷の拍手の中、まわしを肩に担いで、威風堂々花道を下がっていった」

 こいつはどうしようもない嘘つきや。きっと誰にも相手にされんようになって、こっちに落ちてきたんやろう。

「おや、もう時間か。時の経つのは早い。ありがとう、お嬢さん、また来るね。ところでボクは八十九じゃなくて、まだ八十六だからね。失礼しちゃうわー」

 ふざけんじゃねえバカヤローと、笑いながら怒って帰っていった。

 デビュー戦は終わった。果たしてあんなもんでよかったかいなと考えとると、

「おめでとう、ユエナちゃん。タマちゃんに報告しに行こ」

 サンマルチノに連れられて、男子の休憩室に行った。

「失礼します。オーナー、ユエナちゃんが――」

「わ、やめろ!」

「トールチャンッ!」

 わしとサンマルチノのあいだを、とおるちゃんが矢のように飛んでいった。

 タマちゃんとアホが、唇から血を流しながら、

「早く追いかけて!」

「いなくなったら五百万だぞ!」

 全員受付に走った。また自動ドアがあいとる。急いでドアから外に出ると、

「わっ、誰か死んでる」

 アホが叫んだ。わしは息を呑んだ。マッサージ館とハンバーガーショップのあいだの歩道にうつ伏せに倒れとるのは、まぎれもなくさっきのタコ社長やった。

「む、老人の行き倒れか」

 タマちゃんはタコ社長の身体を抱きあげると、指でまぶたを開いて眼球を覗き、ボールペンの先で黒目をちょんちょんつついた。

「ポックリ逝ったな。おい、阿部。面倒だから、ハンバーガーショップのほうに死体を寄せとけ。そしたら、あっちの店員が通報してくれるだろう」

 そう言って立ち上がったタマちゃんの頭に、とおるちゃんがどこからか飛んできて、サッと止まった。

「ピピー」

 この子が店から飛び出すと、必ず死体が見つかる。とおるちゃんの鳴く夜は恐ろしい、ピピー……って、まだ昼か。
 じゃあ死体はよろしくと言って、タマちゃんがベンツに乗って帰った。腰を一二〇度に折ってそれを見送っていたアホが、車が見えなくなると、

「オーナーの気が早いのにも困るね。どう考えても、きみのデビューはまだ早いでしょ。実際、じいさん一人殺しちゃったしね」

「え? あれ、わしのせい?」

「力任せに揉んで、心臓に負担をかけたんじゃない? まあ別に気にしなくていいよ。これもまた勉強さ」

「そんなに強くやらんかったけどなあ……」

 ピーポーピーポーと救急車が来て、タコ社長を運び去った。これでもう、あのホラ話が聞けんのかと思うと、少々寂しい気がした。

「さ、店に戻ろう。ぼくがマッサージを教えてあげる。といって、自分が仕事しないで楽するつもり」

 あいているマッサージルームに入ると、アホがごろんとベッドに横になった。

「どこ揉みまっか?」

「足、足。それから手首の小指のほう。次に背中から腰まで全部。また手首の小指のほう。あと首、ネック、ネック!」

 なんかデジャブやなーと思いながら言われたとおり揉んどると、そのうちアホがイビキをかいて寝始めた。

 アホらしいからアホを残して部屋を出た。すると、通路で古参兵に会った。

「時間があいてたら、少しでも勉強しろ。二階の事務室に本があるから」

 事務室に行ってみた。そしたらイッチが、電卓や電話が置いてあるデスクに向かって、本を広げてなにやら読んどった。

 イッチは本から顔を上げると、嬉しそうな顔して、

「やあ、ユエナ。すごいね、もうデビューして」

「でも殺してもうた」

「こっちに来てまだ丸一日にもならないのに、これでもう二人も死ぬのを見たね。これじゃあ人口が増えないはずだよ」

「その割りに、お客さんよう来るな」

「安いもん、ここ。オーナーはやり手だよ。従業員を恐怖で支配して、薄給でこき使う。実に社会勉強になる」

「夢のくせに、夢のない話やな」

「夢は現実を反映するのさ」

 わかったようなことを言って、内藤陳が決めゼリフをかましたときみたいに得意げに笑うと、開いた本にまた目を落とした。

「なに見てんねん」

「解剖の教科書。主任が、明日の朝テストするから、それまでに骨の名前を憶えておけって。まずは手と足から」

 わしも本を覗いた。ガイコツが、「ゆーとぴあ、よろしくねっ」のポーズをしとる絵が描いてあった。

「なかなかオシャレな本やな。ほほー、肋骨は六本でも百億本でもなくて、二十四本やったんか。勉強になるな」

「太ももの骨は大腿骨で、すねの骨は二本……腓骨と脛骨か。内側のくるぶしは内果で、外側は外果っていうんだって」

「そんなん憶えてなんになるんやろ。客のためにはならんで」

「テストのためだよ。ふんふん、二の腕の骨は上腕骨で、前腕は橈骨と尺骨か。なんだか字がムズカしいなー」

「そのトーコツだかシャッコツだかを、今日はえらく揉まされたで。そんなんより、ツボの本読んだらどや。そっちのほうが実用的やろ」

「たぶんこれかな」

 本棚からイッチが抜いた本の表紙には、深海魚みたいな顔したジジイが白衣着て、両手の親指を突き出した写真が載っとった。

「指圧の心はママの味……変な題やな。エドはるみみたいなかっこして。このジジイやったら、ケーシー高峰のほうがよっぽど男前やで。深海魚の中では」

「わ、これもっとムズカしい。肩井、合谷、手三里だって。全然読めないや」

「読めんでもええねん。わし、調べたいことあるんや」

「なに?」

「レイに押されたツボや。わし、眠らされんようきばって、全部憶えたさかい。手の指、まぶた、首すじ、足首のまわり、最後はどてっ腹っちゅう順番やった。このツボがどこかわかれば、帰れるんとちゃうかな」

「見てみよう。ひえー、指のツボだけでもたくさんあるよ。小商、大腸、小腸、心穴、三焦、肺穴、肝穴、少衛、腎穴……」

「お経みたいに読むな。織田無道思い出すがな。ほんで、そのツボ押すとどうなる?」

「カゼが治って胃が丈夫になって乗り物酔いしなくて肌荒れと鼻炎と痔が改善する」

「さすがツボは万能やな。次行くか。まぶた」

「これかなあ……魚腰?」

「そこ眉毛やな。もっと目んとこやったで」

「睛明? 四白?」

「ちっとわからんな。効果は?」

「顔やまぶたのむくみ、目の疲れ、ドライアイ解消」

「まあ、そんなもんやろ。首は?」

「天柱、風池、完骨、風府」

「どれもちがうな。もっと首の前のほう、のどの近くやで」

「じゃあこれかな、人迎?」

「近いな。なんに効く?」

「高血圧とイビキだって」

「失礼しちゃうわー。次、足首」

「足の裏じゃなくて?」

「ちゃうな。内側のくるぶしと、踵のあたりやった」

「内果と踵骨だね。とするとこれだ。照海、三陰交、大鐘、水泉、然谷」

「なんに効く?」

「不眠症、婦人病、泌尿器・生殖器障害、神経衰弱」

「もうええわ。最後、腹や」

「中院、天枢、関元」

「こん中じゃ、二つめのやな。へその辺やったから」

「天枢だね。あ、これ、万能のツボって書いてある」

「全部万能っちゅう気ィするわ。いちおう効果を聞いとくか」

「下痢、便秘、膀胱炎、精力減退、冷え性、生理痛、生理不順、子宮内膜症」

「ホンマに書いとるか……ホンマや。糖尿病にも効くらしい。えらいなー」

「だけど、これ調べても、意味ないんじゃない?」

「なんでや」

「ぼくたち素人だから、うまく押せないよ。ちょっとでもポイントがずれるとダメでしょ」

「わし、五十年に一人の天才やで」

「でも、ツボの数はこんなにあるんだよ。どの組み合わせかわかる? 押す強さと角度と時間は? そもそもユエナが憶えてるのは、向こうからこっちに来るツボでしょ。こっちから向こうに帰るのも同じツボでいいの?」

「わしかて知らんわい。結局タマちゃんに訊くしかないな」

「無理だよ。ぼく十年は帰してもらえない」

「やっぱし現実が恋しゅうなったか?」

「どうもここブラックだしね。高校行ってたほうが楽だったかも」

「ほなわしと帰ろう。タマちゃんなら大丈夫。赤ちゃんバブバブとお尻ペンペンの秘密握っとるんや。これで脅迫したらきっと白状する」

「でもほんとにオーナーは知ってるのかな。アテにならないよ」

「なにい? 訊く前から負けること考えるバカいるかよ!」

 気合一発ビーンと張った。

「痛い! なんでビンタするの」

「やれんのか、おい!」

「ちょ……やりますよ! ○×&%$#△!」

 あのおとなしかったイッチが、なにやら叫びながら張り手を返してきた。わしの猪木ギャグが効きすぎて、マッチョ・ドラゴンの魂が乗り移ってしまったようや。

「あ、ごめん、つい」

「ええんや。いいビンタやったで」

「ユエナ」

「なんや」

「好きです」

 ぎょっとした。

「もう、勘弁してくれ。密室でなに言うねん。おまわりさーん」

「感謝してるんだ。岩井勇気、じゃなかった、生きる勇気をくれて」

「そんなんやってない! 夢見たんやろ、夢を」

「空海の松のところで、三百歳まで生きろって言ってくれたでしょ。あれでパーッと未来が開けた。ぼく、生きるよ」

「おう。きばって死ぬまで生きてくれ」

「ありがとう。できれば、ユエナと生きられたらいいな」

「やめろ! おどれはセリイがええんやろ」

「サイレントは捜すよ。たぶん、このすべての鍵は、彼女が握ってる」

「どういう意味や?」

「わからないけど、とにかく彼女に会って、どうしてぼくの夢に出てきたのか教えてもらおうと思ってる」

「ほんだら、そのままセリイと結婚したらええやん」

「ユエナ、将来ぼくと、結婚してくれる?」

 腰が折れそうになった。

「結婚……ちょい待ち。よう言えるなそんなこと」

「ぼく、一生懸命働くから。ユエナみたいな天才じゃないけど、頑張るよ」

「条件あるで」

「年収?」

「それも大事やけど、もっと大事なことや」

「なに?」

「一生わしに触らんでほしい。約束できるか」

「……ハグも?」

「そや。指一本触れたらアカン。そんなら結婚してやってもええで」

 するとイッチが、お陽さんみたいに明るく笑った。

「ありがとう! いつかぼくが立派になったら、よろしくね」

 ずるっと足がすべった。

「アホか! ちゃんと人の話聞いとったんか。一生触るな言うたんやで」

「聞いたよ」

「ほんでええのか。おどれ病気か?」

「たぶん健康」

「だったら……ほかになんぼでも、触らせてくれるおなごおるで」

「ユエナじゃなきゃダメだよ。これ以上の人には、もう二度と出会えない」

 事務室を飛び出した。

 息が吸えん。真っ白な頭のまま、受付に駆け込んだ。

「どうしたの、ユエナちゃん?」

「頼む、イチゴ姉さん、わしの部屋に来とくれ」

 サンマルチノを連れて二階に上がろうとした。が、逆にカナディアン・バックブリーカーの形に担がれて、部屋まで運ばれた。

「なにがあったの、セクハラ?」

 ベッドにわしを置くと、サンマルチノが心配そうに訊いた。

「求婚された」

「……タマネギ?」

「ちゃう。プロポーズや」

「えっ? 誰に?」

「イッチ」

 言うたとたん、蛇口が壊れたみたいに涙が出て、サンマルチノの胸に顔を押し当てた。

「よかったわね、ユエナちゃん。苦労したから報われたのよ」

「ちゃう、ちゃう。そんなん全然ちゃうねん。わし、けがれとるねん」

「ちがうのよ。今のあなたはきれい」

「男に触られたらと考えると、ジンマシン出てきて吐いてまう。死にとうなんねん。だから無理やねん」

「徐々に慣れるわ」

「嫌や! イッチはものすごいええやつなんや。善人の見本、人類の鑑や。わしとはまるっきり釣り合わん」

「善人はあなたよ。初めてオーナーに意見したすばらしい人よ。あなたたちほど似合いのカップルはないわ」

「わし、男を幸せにできん。イッチみたいにええやつを、不幸にするなんて、わしには絶対耐えられん!」

 声を上げて泣くわしを、サンマルチノがベアハッグで絞めた。

「なんて優しい子。一ノ瀬くんは幸せよ」

「逆や。不幸のズンドコや」

「彼はあなたに触りたがるの?」

「逆や。指一本触るな言うたら、ありがとう言いよった」

「じゃあいいじゃない。早く彼のところへ行って、ふつつかものですけどよろしくって頭を下げてきなさい」

「……ホンマにそれでええ? 男は寂しないか?」

「約束破って触ろうとしたら、わたしに言いなさい。必殺マシンガンキックを見舞ってやるから」

「まあ、指一本くらいなら、許したってもええけど」

「じゃあ指一本ならいいよって言ってくるのよ。さあ、早く!」

 部屋を出て、事務室の前に立った。そーっとドアを開けると、本棚の前にしゃがんだ、カエルの制服の背中が見えた。

「あ、あのな。指一本くらいなら、触ってもええで」

「え?」

 驚いた顔をして、変態オヤジが振り返った。

「触ってもいいって、どこ?」

 悲鳴をあげた。するとすぐさまサンマルチノがとんできて、変態オヤジをボディスラムで叩きつけた。