ついに、ソバカスまで逝ってもうた。
残ったのは四人。わし、イッチ、タマちゃん、サンマルチノ。
わしとサンマルチノは口を利けず、ただ突っ立っとった。そのあいだに、イッチとタマちゃんが、ソバカスの首と胴体をどっかに運び、また食堂に戻ってきた。
「これではっきりしたな」
タマちゃんが、荒い息をつきながら、ぼそりと言った。
「永作は、アンドロイドでも宇宙人でもない。おれたちと同じホモ・サピエンスだ。その首が、一滴の血も流さずにとれるなんて、あるはずがない。そのあるはずのないことが、われわれの目の前で起こった」
「そやな」
みんな無言やったんで、わしが相槌を打った。
「もはや人間技じゃない。もし、人間が犯人だとしたら、デビッド・カッパーフィールドしか思いつかん。でも彼は向こうの世界にいる」
タマちゃんが遠くに目を向けて言うと、サンマルチノがはたと手を打ち、
「そういえば、こっちに河童フィールドというのがいたわね。でも彼にできるイリュージョンといったら、せいぜい頭のお皿で目玉焼きを作るくらいだわ」
要らん小ネタを挟んだ。しかしタマちゃんは、それに食いついた。
「河童! そうだ。河童なら殺人をする。やつに尻小玉を抜かれると、死ぬからな」
「尻小玉って?」
「肛門内にあるとされる幻の臓器だ。河童はそれを食う。きみのクラスメートは、同級生の尻小玉を抜いてなかったか?」
「そらないなあ。みんなピンピン生きとったさかい」
そもそも肛門内にそんなもんがあったら、わしらと同じホモ・サピエンスやない気がする。河童犯人説は、その点からも大いに疑問やった。
「まあ、そういうメジャーなやつかどうかは別として、妖怪の仕業なのは確かだ。とすると、おれたちに助かる見込みはないな」
タマちゃんはすっかり観念したようや。顔をあげて天井のどっかを見つめ、
「妖怪さん、さっきは永作が失礼なことを言ってすみませんでした。その報復で首をねじ切ったんですね。すばらしい力です。感服します。もう脱帽です。つきましては、不肖玉城イチロー、あなたの弟子になりたいと思います。殺人の手伝いでもなんでもしますから、どうかわたくしの命だけは、見逃していただきたく存じます」
いっそ爽快なくらい卑怯やった。サンマルチノがタマちゃんを横目でにらみ、
「もし妖怪が、天邪鬼だったらどうするの。反対のことされるわよ」
「反対? とすると……おいコラ、天邪鬼! 殺してみろ、ほら」
カマーンと天邪鬼を挑発した。が、なんも起こらんかった。
「花畑、おれは疲れた。もうどうしていいかわからん」
「そうですね」
サンマルチノも、もはやあきらめムードやった。
「わたし、仲間より長く生きる気なんてなかった。みんなが死ぬのを見るくらいなら、いっそ先に殺されたかった」
「なに言うねん」
わしは本気で突っ込んだ。
「弱気は最大の敵や。最後まで生きよう思わんかったら、人生が劇にならん」
「もういいのよ、ユエナちゃん。わたしは死を見すぎた。わたしだけが生き延びていい理由なんかない。ただ消えたいの」
「死ぬのは痛いで」
「一瞬よ」
「なんのために生まれてきたんや」
「五歳で死ぬ子もいるわ。わたしなんかもう三十よ。充分生きたわ」
「アホぬかせ! わし、姉さん好きなのに」
サンマルチノが黙った。わしはここぞと畳み込んだ。
「悲しむ人をあとに残して、勝手に死んだらアカン。そらな、この世が五歳でも死ぬいう不細工なところやっちゅうことは、小学生でも知っとる。そんな当たり前のことで悩むんは、正しいことやない。笑いとばすんが正解や。お笑い観い。ケタケタ笑うと、元気出るで。この世も捨てたもんやないっちゅう気になる」
「そうね。ありがとう」
サンマルチノが、にこりともせんと言った。
「でもこの状況で、笑うのは無理。助かる気もしないし。どうせ死ぬんだから、みっともない悪あがきはしたくないの」
ちらっとタマちゃんを見た。タマちゃんはいかにも心外そうにムッとし、
「おれへの当てつけか? フン。みっともなかろうが、おれは最後まで自分が生き残る道を探る。ねえ、妖怪さん。あなたに生け贄を捧げましょうか? そうですねえ、まだ十五歳の若い少年少女などはいかがでしょう」
ぎらりと光る目をこっちに向けた。わしはぞっとして、イッチにすり寄った。
「おい、イッチ。あのおっさん、わしらを殺すつもりやで」
しかしイッチは、心ここにあらずといった様子で、
「……え?」
「聞いてなかったんか。妖怪の生け贄に、わしらを差し出す言うとるんや」
「妖怪?」
「どっから聞いてないねん! 耳あるんか、われ」
「ああごめん。考え事してたから」
「恐るべき鈍感力やな。なに考えてたんや」
「いや、昨日骨の勉強してて、ふと思いついたことがあって」
「骨? 骨がどないした」
「まあ、ただの偶然かもしれないけど、先輩たちの身に起こったことに、ひょっとしたら関係あるのかなあって」
「なんや。はっきり言え」
「うーん、でも、なんか羞ずかしいなあ。笑われそう」
「モジモジくんしとる場合か。ほら」
「あのさ、外側のくるぶしは、外果って呼ぶじゃん」
「おう」
「そんで、内側は内果って……ウフフ」
「コラ! オチ言う前に笑うんは最低や。早よ言え」
じれてイッチをどついたときやった。
「ワチャー!」
タマちゃんが、ブルース・リー調の雄叫びをあげながら、ジャンピング・ニーで飛び込んできた。
「おげ!」
イッチの顔面にモロに入った。たまらず後ろに吹っ飛ぶ。キッチンの戸棚に背中からぶち当たり、派手な音を立てた。
「デビルウイング!」
タマちゃんが怪鳥のように宙を舞い、くるりと前方回転して浴びせ蹴りをした。イッチが間一髪でよける。するとタマちゃんの踵が、豪快に戸棚の扉を蹴破った。
「おんどりゃわれ!」
イッチが見たこともないような形相になり、聞いたことのないような汚い河内言葉を発して、戸棚から皿をとってタマちゃんの頭に振りおろした。
コーンと安い音が響く。安いプラスチックの皿や。タマちゃんは不敵に笑い、皿を四、五枚わしづかみにしてイッチの頭を殴った。
皿はペロンと曲がった。紙皿や。つくづく安いモンしか置いてない。二人は互いにプラスチックと紙で攻撃し合ったが、ほとんどノーダメージやった。
「あの人たち、妖怪にとり憑かれたわ」
サンマルチノが二人のほうへ走った。そして険しい顔で手を振りあげ、
「出て行け! 出て行け!」
叫びながら、背中をバシバシ叩いた。タマちゃんもイッチも、電流爆破でやられたように背中をのけぞらせてあえいだ。やっぱり恐ろしいパワーや。
「まだ出て行かないのっ!」
サンマルチノが、ロードウォリアーズばりにタマちゃんを頭の上にリフトアップして、床に思いきり叩きつけた。
わしは、ここが敵を倒すチャンスと見てテーブルにのぼり、悶絶してるタマちゃんの腹にフットスタンプで降りた。
「おごうっ!」
手ごたえ、いや、足ごたえ充分や。
「もういっちょ行くぞ!」
そう言って再びテーブルにあがった。が、よう見ると、サンマルチノが今度はイッチをリフトアップしとる。味方のピンチじゃ!
「ハイジャンプ魔球、エビ投げ!」
わしは高々とジャンプして、振りかぶった手を、脳天唐竹割りの要領でサンマルチノの頭に叩き込んだ。
「効かぬわ!」
サンマルチノは、イッチを頭上に差し上げたまま、微動だにしなかった。わしはもう一度テーブルにあがり、ホワーッと気合の声もろとも、キラーカーン直伝のモンゴリアンチョップをかました。
「効かぬ、効かぬ」
化け物や。もし妖怪がとり憑いてるんなら、この女や。
「行くわよ!」
サンマルチノがイッチを投げつけてきた。まともにボディアタックを食らった格好になり、後ろにひっくり返って、イッチを抱えたまま硬い床に背中を打ちつけた。
息が詰まる。身体中がしびれて力が入らない。
「オウ、オウ、オウ、オウ」
まずい。サンマルチノがシンクに寄りかかって、野生の遠吠えを始めた。ブルーザー・ブロディの、必殺キングコング・ニードロップがくる!
「オウ、オウ、オウ、オウ、オウ、オウ」
サンマルチノが、ゆっくりと右腕を差し上げた。助走が開始される。もうアカン。あれを食らったら最期、内臓破裂で大量出血し、苦しみぬいてジ・エンドや。
「イッチ。わしは動けん。あんただけでも逃げろ」
わしが言ったんと、サンマルチノが跳んだのが同時やった。もう間に合わん。二人とも、超獣のニーに串刺しにされる。
と。
イッチがさっと身体を反転させて、右足を天に突き出した。そこへサンマルチノが顎から落下した。迎撃ミサイル命中や!
「ハーッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハー」
イッチがぬーっと立ち上がり、アンドレ風に野太く笑った。サンマルチノは大の字に伸びとる。
「時は来た!」
イッチが爆勝宣言をした。そして、サンマルチノの頭をつかんで無理やり立たせると、ブレーンバスターの形に担ぎあげ、マットのない床に垂直落下式DDTを決めた。
ゴーンと、ボーリングの球でも落としたような音が響いた。こいつはエグい。ケネディ大統領みたいに、サンマルチノの頭が爆ぜてなんか出たんちゃうかと思った。
「小川ァ、まだだコラア」
橋本妖怪にとり憑かれたイッチは、相手を完全に小川直也と思い込んどった。スリーカウントは狙わず、サンマルチノを失神させようと、三角絞めの体勢に入った。
「イッチ、危ない!」
いつの間にか復活していたタマちゃんが、イッチの背後に迫った。振り向くイッチ。その顔面に、タマちゃんの口からブーッと液体が吐き出された。
「青汁毒霧じゃあ!」
目を押さえてひざまずくイッチ。タマちゃんはニターッと不気味な笑みを浮かべ、手をひらひらさせながら、イッチのまわりを蝶が舞うようにダンスした。
「ケッケッケ。邪道でけっこうコケコッコー」
調子づいて言うと、おもむろにポケットからチャッカマンを取り出し、イッチの髪の毛を燃やそうとした。
「それがあんたのやり方かあ!」
わしはたまらず、床から頭をあげて叫んだ。するとタマちゃんは、ザコシのアシュラマン漫談のようにカーッカッカッカーと笑い、イッチのまわりを舞っては、ちょいちょい火をつけた。
「クソ……正直、目が見えん」
「落ち着け、イッチ。それ青汁やぞ」
「……青?」
イッチがひざまずいたまま、恐る恐る目を開けた。その瞬間、タマちゃんが電光石火のシャイニング・ウィザードを浴びせた。
イッチがダウンした。まずい。わしがなんとかせんと、イッチが完璧にやられてまう。
「ドドスコスコスコ」
勝利を確信したんか、タマちゃんが腰を振ってダンスし、ありもしない観客席に向かって投げキッスをした。
「そろそろフィニッシュ行くぞー」
悠々とテーブルにのぼり、イッチに背中を向けた。まちがいない。ムーンサルトプレスを決めるつもりや。
タマちゃんが腰を深く沈める。すると、ゴルゴ松本の命のポーズっぽくなった。そういえば、松本という名字には、人志や清張や零士など超ビッグネームが多いが、ゴルゴだけは例外やなとほんの一瞬思った。
くそったれ。わしかて大物になったる。
しびれる身体を起こした。タマちゃんがジャンプする。美しく宙を舞うタマちゃん。わしはとっさに、星飛雄馬のスクリュースピンスライディングを破った掛布を思い出し、下からジャンプして、錐揉み状に身体をねじってタマちゃんに激突した。
タマちゃんがバランスを崩し、側頭部から床に落ちた。首が、なにを唄っても橋幸夫になってあれーっと悩むおさむちゃんみたいに、L字型に曲がった。
「よくもやったな、武藤ォ」
橋本イッチが、ゆらりと立ちあがった。タマちゃんのベルトをつかんで腰を引っ張りあげ、胴に両腕をまわしてガシッとロックする。プロレスの芸術品、ジャーマン・スープレックス・ホールドの体勢や。
「小川ァ、おれごと刈れえ!」
今度はわしが、小川になってもうた。
「いや、タマちゃんはグロッキーや。そのまま後ろにほっぽり投げたらよろし」
「遠慮するなあ、小川」
「わし小川ちゃう。奥川や」
「オゥガァワァァァァ」
アカン。こんなんしてるうちにタマちゃんが息を吹き返してまう。わしはえいと肚を据え、柔道の授業で習った大外刈りのポイントを思い泛かべながら、タマちゃんを抱えたイッチに組みついた。
「いくでSTO、スペース・トルネード・奥川!」
大きく振りあげた右足で、イッチの右足を刈った。イッチ、続いてタマちゃんが、後頭部をゴンゴンと床に打ちつけた。
タマちゃんの口から舌が出た。ちょうどIWGPの決勝で、ホーガンにKOされたときの猪木そっくりに。ということは、まぎれもなく本物の気絶や。
「イッチ、大丈夫か?」
見ると、イッチも舌を出しとる。しまった。ダブル失神させてもうた。
「ペローン、なんちゃって。ぼくなら大丈夫」
イッチが舌をペコちゃんみたいにして、ウィンクした。わしはどっと疲れた。
「驚かすなや。イッチまでやってもうたと思ったわ」
「フフフ。敵をあざむくにはまず味方からってね。さあ、あとはミス花畑だ」
「サンマルチノなら伸びとる。あんたがやったんや」
「え?」
DDTを食らって死んだようになってるサンマルチノを見て、イッチは信じられないという顔をした。
「じゃあ、ぼくたち勝ったの?」
「そうらしいで。二人ともねんねや」
「あの怪人コンビに……勝った……」
その様子は、あたかも猪木・坂口組に勝利して、ホントにおれたちがやったのかと驚き惑う、若き日のマッチョ・ドラゴンを彷彿とさせた。
ちゅーことは。
「やったぞ!」
パク・チュー役のわしと、がっちり抱き合った。
自然な抱擁や。
なんの罪悪感もない。嫌悪感もない。共に死力を尽くして闘い、強敵を破った仲間への、爽やかで純粋な共感しかなかった。
イッチと抱き合いながら、わしは心ん中で母親に向かって叫んだ。
ザマーミロ。わし、あんたらに勝ったで!
パチパチパチ。
拍手の音が聞こえて、ハッと後ろを向いた。
タマちゃんとサンマルチノが、いつの間にかテーブルに寄りかかって立っとった。
「敗けたよ、ヤングパワーに」
タマちゃんが苦笑いを泛かべて、潔く言った。
「空中で蹴られて落下したときは、誇張しすぎたパーフェクト・ヒューマンくらい首が曲がっちまった。あれで勝負あったな」
「わたしも」
サンマルチノも、笑みを見せて言うた。
「DDTを受けた瞬間、目の前がぱーっと明るくなって、オーマイゴッドファーザー降臨って思ったわ」
「ところで一ノ瀬くん」
タマちゃんが、椅子によいしょと坐って、イッチを手招きすると、
「さっきわたしがジャンピング・ニーをする前に言ってた、外果とか内果とかの話。あれはどういう意味か、教えてくれるかね」
わしもそれが気になっとった。
「そや、あの続きを言えや」
イッチはまた、照れ臭そうにモジモジすると、
「たまたま思いついたんだけど」
顔をほんのり赤くして、話し始めた。
「ぼくたちは、ツボを押されてこっちに来ました。どうしてそういうことが可能だったかというと、ツボにはぼくたちの知らない秘密があって、その押す強さ、時間、角度などの組み合わせで、無限の作用を引き起こすことができるからだそうです」
「待ってな、コーヒー淹れたる」
わしはシンクのほうへ行って、四人分のコーヒーを淹れた。
「ありがとう。それで奥川さんは、どこのツボを押されたかをちゃんと記憶していました。ぼくはそれを聞いて、頭の中で反芻してみました。最初に両手の指先、次にまぶた、首すじ、足首のまわり、最後にお腹。ぼくと奥川さんは、ツボの本を見てみましたが、それこそ数える気にもならないくらいたくさんツボがあって、果たしてどの組み合わせだったかを特定するのは、到底不可能だと思いました。だから、なんの知識もないぼくらにそれを再現するのは無理だとあきらめ、マスターモミゾウのお兄さんであるオーナーに教えてもらうしかないと考えたのです」
「すまんな、実はおれもまったく知らん」
タマちゃんが、コーヒーを啜って悪びれもせずに言った。
「どうせそんなことやと思ったわ」
わしはため息をついた。それをアテにしてマッサージ館に来たばっかりに、とんだ事件に巻き込まれ、危うくKOされるところやった。
「もちろん、すぐに教えてもらえるとは思わなかったので、無駄を承知で、指、目、首、足、お腹と、自分で触ってみたりしました。しかしこの中で、首は果たして、首のツボなのかと思いました。というのは、奥川さんの話では、押されたのは首というより、のどの近くだったようだからです。のどというのは変わってるな、そんなところにツボがあるのかな、とぼくは考えました。指、目、のど、指、目、のど」
イッチがコーヒーを飲み、あちっと顔をしかめた。
「そこでぼくは、おやっと思いました。指、目、のどの順番で、頭文字をつなげてみると、ゆ、め、の、となることに気づいたからです。夢の、か。これは面白い偶然だな。残りは足とお腹だから、あ、お、です。ゆ、め、の、あ、お。これでは意味がありません。まあ、意味がなくて当たり前なんですけど、ほかに考えることもなかったので、もう少しこの言葉遊びを続けてみました。足はひょっとして、足ではないのかもしれない。ユエナはどこだと言ってたろう。そうだ、足の内側と、踵だった。そういえば、足の内側のくるぶしのことは、内果というんだったな。内果、踵で、な、か、か」
聞きながら、わしも頭の中で文字をつなげてみた。ゆ、め、の、な……か?
「夢の中!」
思わず声をあげると、イッチがにこっとした。
「面白いでしょ? 最後にお腹を、へそだと考えたの。そうすると、夢の中へ、となるんだよね。夢の中へ、夢の中へって、わ、井上陽水じゃんって思って」
「いやいや、イッチ、陽水になるからおもろいわけやない。まさしくわしらは夢の中へ来たんや。こんな偶然あるか?」
「こじつけだな」
タマちゃんが鼻で嗤った。イッチはますます照れ臭そうになり、
「もちろんこじつけですが、いったん頭文字が気になりだすと、なんでもその法則を当てはめたくなってきました。山岸先輩の死体を発見したあと、しばらくして、そういえば先輩のことをマッサージしたなと思い出しました。階段から落ちて打った場所をさすったんです。あれはどこだったろう、確かお尻とか、背中とか、お腹だったな。あと、すねも触った。尻、背中、お腹、すね。順番はどうだったろう。すねが最初だったかな。す、し、せ、お? だめだな、全然言葉にならない。お腹はへそかな? 待てよ、山岸先輩は、横っ腹と、胃のあたりをさすってほしいと言ってなかったかな。す、し、せ、よ、い? ちがう、すねの次は胃だった。で、最後が横っ腹だった気がする。すね、胃、尻、背中、横っ腹。もしこの順番だったとしたら、どうなるだろう。す、い、し、せ、よ……あ、水死せよだ」
サンマルチノが椅子を蹴って立ちあがった。わしはブーッとコーヒーを噴いた。
「水死しようにも、ここには海も川も、風呂桶もないしね。だから洗濯機に水を溜めて、頭から飛び込んだのかなあなんて、バカなことを考えたりして」
「待って、バカじゃないわ」
サンマルチノが、真剣な顔で言った。
「偶然も、二つ重なると偶然とは呼べない。一ノ瀬くんは、この世に潜む、とんでもない秘密を発見したのかもしれないわ」
「ツボの秘密ですよね。だとしても、発見したのはぼくじゃなくて、玉城レイさんのお父さん、つまりオーナーの弟さんですよ」
「フン、おれじゃなくて悪かったな」
タマちゃんが拗ねて、イッチを上目遣いににらんだ。
「でもおかしいじゃないか。夢の中へ、と押したら、すぐこっちに来たんだろ。水死せよ、と押したら、たちまち水死したのか? え?」
「たぶんそれは」
イッチの代わりに、サンマルチノが答えた。
「夢の中へ、と押したのは、プロみたいに上手な子だったんでしょ。だからすぐに効果が現れたのよ。一ノ瀬くんは素人だから、そこにタイムラグができたんじゃないかしら」
「それこそこじつけだ」
タマちゃんは納得しない。しかしわしは、だんだん興奮してきた。
そうや。わしがモミスケしたあと、あの嘘つきのタコ社長は道で行き倒れた。その次は、マッサージの練習でアホを揉んだ。ソバカスもマッカーサーも揉んだ。それがみんな死んだんは、それとは知らずに、偶然おかしな順番で身体を触ったからやないか? さて、それぞれどの順番で触ったか……
「夢の中へと水死せよか。うまいこと文章になったな。じゃあ秋山先輩はどうだろう。ぼくは、マッサージの練習で秋山先輩を揉んだので、どの順番で触ったかを思い出そうとしました。確か、こめかみのあたりを揉んだな。臀部もやった。指先もやった。そういえば、先輩は恥骨結合炎という疾患に悩まされてるとかで、恥骨も触らされたな。こ、で、ゆ、ち? いやちがう、恥骨が最初だった。ち、こ、で、ゆ? どうもこれじゃあ正解が出そうもない。どうやって死んだかを考えてみよう。秋山先輩は、突然酸素が薄くなったと言って死んだ。じゃあ、酸欠になれ、となるような順番で押したのかな? でも、さ、ん、け、つ、だと、んが入っているからダメだ。だったら窒息ならどうだろう。ち、っ、そ、く、か。小さい『つ』があるからこれも無理かな。だけど、最初が恥骨だとすると、『ち』で合ってるしなあ……あ、そうだ。指先のマッサージをしたとき、爪に触ってるぞ。恥骨の次が爪なら、ち、つ、だ。その次が『そ』か。『そ』で始まる身体の部分……こめかみ……頭……頭の横……わかった、側頭部だ。ち、つ、そ、になった。いいぞ。次は『く』だ。うん、これは首だろう。あと残った臀部は、尻というふうにすると、恥骨、爪、側頭部、首、尻で、ち、つ、そ、く、し、窒息死だ。うん、できた」
「お見事!」
わしとサンマルチノは、拍手で讃えた。タマちゃんだけが、歳くって頭が固くなったせいか、しきりに首を捻っとった。
「な、わしにもやらせてくれ」
まずはタコ社長や。どこを触ったっけ。おケツは揉まされた。足ツボもやった。あとは……そう、手首や。変なとこ揉ませるなあと思ったが、自分の手を骨に沿って揉んでみると、これが案外気持ち良かった。
「うん、思い出したで。ケツ、足、手首や。け、あ、て。ちゃうな。ケツは尻かな。待てよ、いちばん最初は足やったな。あ、し、て? だめや。全然できん」
「ギブアップには早すぎるよ」
イッチが、まるでギムレットには早すぎるみたいにマーロウっぽく言うと、わしから奪った名探偵役をすっかり楽しんでる調子で、
「手首って、どのあたりだった。親指側? 小指側?」
「親指や。いや、ちがう。最初親指側を要求して、あとからやっぱこっちも言うて、小指のほうも揉ませよった」
「じゃあそれは、橈骨と尺骨と考えよう。これで、『と』と『し』を手に入れた。いちばん最初に触ったのは足だったんだね。踵とか、くるぶしじゃない?」
「ちゃうな。オーソドックスに足の裏や」
「仮に、あ、としておこう。次は尻? それとも橈骨?」
「うーん、尻やったような……待てよ。手をやって、あいだに尻を挟んで、また手をやれ言うたな。手、尻、手や」
「で、橈骨が先なんだね。足、橈骨、尻、尺骨、あ、と、し、し、か。『し、し』はうまくないな。尻は臀部にしてみようか。すると、あ、と、で、し、だね。あとほかに触ったところはない?」
「あ、思い出した。首をやったで。それが最後や。まちがいない」
「あ、と、で、し、く、あ、と、で、し、く……うーん、なんだかもうちょっとで、文章になりそうな気がするんだけど」
「前半は、あとで、やな。し、く、が変や」
「首はどう? のどじゃなかった?」
「首は首や。ネック、ネック言うて、うなじをさんざん揉まされたで」
「ネックねえ……あ」
イッチが、口をFFのサボテンダーみたいな形にして叫んだ。
「あとで死ねだ!」
「あとで死ね?」
わしも負けじと、口をモルボルくらいでかくして言うた。
「そっかあ。いやー、悪いことしたなあ。あとで死ねなんて、なにも急がせんでも、どうせそろそろ死ぬとこやったのに。あちゃー、やってもうたあ」
後悔先に立たずや。だから後悔はこれくらいにして、先に進んだ。
「そうすると、空海の松んとこで見つけた、すだれ髪のおっさんも怪しいな。あれたぶん、マッカーサーが揉んだんやで」
「きっとあの人も、偶然死ぬような順番で、身体を触られたんだよ」
「たとえば?」
「そうだね。松で死ね、なんてどう?」
「ハハハ。横着しよるな。後半の『で、し、ね』が、タコ社長のときと一緒や」
「ありえるでしょ。まはまぶたで、つは爪。それで、松で死ね。どう?」
「ま、ええやろ。空海の、まで考えるのも面倒やしな。よし、次行こ。タコの次はアホや。なんだかアホも、タコとおんなじようなとこやらせたな」
「あとで死ね?」
「いや、まったくおんなじやない。最初の足と、最後の首は一緒や。あとは、手首は小指のほうだけやったかな。それと、背骨に沿って背中を揉ませよった」
「最後がネックで、その前が尺骨なら『し、ね』だから、そこは死ねで決定しよう。最初は足だったね」
「うん。だんだん思い出してきた。その次は手をやって、あいだに背中を挟んで、また手をやったんや」
「手首は、どっちも尺骨?」
「そうや。足、尺骨、背中、尺骨、ネックでええと思う。とすると、あ、し、せ、し、ね……あしせ死ね? あしせってなんや?」
「わかった。それは背中じゃなくて、背中と腰を含めた全部なんだよ。それを体幹っていうんだ。『せ』を体幹の『た』に変えれば、あしたしね、明日死ねさ。チェキラ!」
わしとイッチは、イエーイと手を打ち合わせた。
「なーるへそ。あれはソバカスに毒を盛られたんやなくて、ただ死んだんか。なんだかわしのはつまらんな。イッチはええのう。溺死とか窒息とか、死なせ方がおもろい」
「くだらんことを言うな! あいつらが死んだのはギャグじゃない!」
タマちゃんが、苦虫を噛んで食ったような顔して吠えた。わしらの名推理に対する嫉妬やろうが、文句ばっかつけるのはただの老害や。イッチも、年寄りはしょうがないねーっちゅう感じで肩をすくめると、
「菊池先輩と永作先輩は、ユエナが揉んだ?」
「おう、どっちもわしや。えーと、マッカーサーは、美容っぽいことばっかやらせたな。フェイスマッサージに、ヒップアップに、脂肪絞りや。確か順番は、フェイス、ヒップ、背中、わき腹やった気がする」
「それだと『ふ、ひ、せ、わ』だね。たった四文字か。それに、それぞれ別の言い方を探さないと、全然文章になりそうもない」
「フェイスは顔、ヒップは尻か臀部。背中は体幹かバック、わき腹はなんやろな、脂肪かぜい肉か横っ腹かな」
「か、し、た、し……か、で、ば、ぜ……これはちょっと難しいな。逆から考えよう。菊池先輩の死に方は?」
「餓死よ」
横からサンマルチノが言うた。わしには即身成仏したとしか見えんかったが、親友がそう言うんならそっちにしとこう。
「餓死、ガシ……し、は尻だな。となると、フェイスを『が』にするには……あ、顔面だ。残りは背中とわき腹で、せ、わ。がしせわ?」
わしははっとして、早押しクイズみたいにテーブルを叩いて叫んだ。
「わき腹は横っ腹や。それで、が、し、せ、よ、餓死せよや!」
頭ん中で、ピンポーンちゅう音が鳴った。なんも言えねえほど、チョー気持ちいい。
「どうや。たった四文字で、文章にしたったで」
「ユエナもすごいじゃん。花畑先輩、やっぱり菊池先輩は餓死でしたよ!」
サンマルチノは、うううと呻いて泣いた。
「じゃあ最後、永作先輩だ。これは難問だね。首がネジみたいにまわって取れたんだから、相当長い文章になるはずだよ」
「あいつ、やたらとあちこち揉ませたからな。ほんでバチが当たったんや。どれ、思い出すで。えーと、ソバカスは、足のほうからどんどん上に向かってやったな。足、尻、腰、背中、首、手。それでも足りずに、また首と背中やれ言うたで」
「あ、し、こ、せ、く、て、く、せ。わー、こりゃ長いなー。別の言い方を考えるにしても、組み合わせの数がむちゃくちゃある」
「これも逆から考えよう。ソバカスの死にざまは?」
「あれ、なんて言うの?」
「ネジ式ソバカス」
「そんな言葉ないよ。リアルTT兄弟?」
「どうかなあ……エジプト十字架のほうが、まだええと思うけど」
「ねえ聞いて」
サンマルチノが、指で涙を拭きながら言った。
「最初の四つは、腰と背中をセットで体幹としたら、足、尻、体幹で、あ、し、た。明日になるわ」
「明日! それええな。姉さん、さすがよのー」
持つべきものは先輩や。ちゃんとええとこでアドバイスをくれる。
「残りは首、手、首、背中や。く、て、く、せ。明日くてくせ……明日の次の『く』が怪しいな。『く』の次に『び』がきたら、一気に正解にいけそうやけど」
「び、ねえ。びで始まる身体の部位……鼻骨っていうのがあるけど」
「ビコツって?」
「鼻の骨」
「そら触ってないわ。まあ、うっかり触ったことにしてもええけど、わしインチキだけはしとうない。正々堂々勝負したいんや」
「まだ尾骨もあるよ。尾てい骨ともいうけど、お尻の真ん中へん」
「わ、ビンゴや。しっぽの先やれ言うて、そこ揉まされたがな。く、び、ができた!」
「明日首、の次は?」
「手、首、背中。待て。手っちゅうより、指先やったな。ゆ、く、せ?」
「指先ねえ……爪だと、つ、く、せ。ちがうな」
「親指、人差し指、中指……あ、そうや。中指の爪持って揉んだわ」
「中指……な、く、せ。明日、首、な、く、せ」
「明日首なくせ!」
わしとイッチが同時に叫んだ。
「ひゃー、首なくせかあ。首なくそう思ったら、身体から外すしかないもんなー。ほんであんなふうに、妖怪の仕業みたいになったんか」
「この事件に、妖怪は関係なかったんだよ。すべては偶然だったのさ」
「偶然か。重なるときは重なるもんやのお」
触る順番が一個ちがっても、こんなことにはならんかった。猿がでたらめにキーボードを叩いて、たまたまサラリーマン川柳の一位ができてしまうくらいの確率やが、わざとやったんやない以上、恐ろしい偶然と呼ぶしかなかった。
「おい、貴様ら。本当に偶然か?」
タマちゃんが、人を疑うようにギョロ目を細くした。なんや、自分はちっとも推理できんかったくせにと、わしはカッとなったが、イッチは冷静やった。
「ぼくは以前、ポケットにスマホを入れてたら、勝手にメールを送ってしまったことがあります。振動で、たまたまそうなったんです。しかもそれが、『お前即死して』になってたんです。びっくりして、送ってしまった友だちに必死で謝りましたが、偶然というのは怖ろしいなーと思いました」
「フン。そんなメールが立て続けに送られてきたら、おれなら偶然とは認めん」
「ほななにかい、わしらが知ってやっとって、わざわざ推理してみせたいうんかい。こちとら伊達や酔狂で探偵やっとるんちゃうで。そういや、伊達家酔狂いう落語家がおったけど、今でも生きとるかな?」
「なによ。あなたたちって、テレビで観なくなった芸人は、すぐ死んだことにするのね!」
サンマルチノが金切り声をあげた。えらいカリカリしとる。そら偶然とはいえ、仲間が続々と死んだんやから無理もなかった。
わしとイッチの目が合うた。一瞬で、おんなじことを考えとるなとピーンときた。
イッチが、コホンと咳払いして言うた。
「みなさん、聴いてください。ツボというのは、病気の症状や痛みを軽くするだけではなく、今見たように、正しい組み合わせで押せば、ほとんど無限の効果が発揮できると証明されました。ただ今回は、それが悲劇につながってしまいましたけれど。だったら、そのツボの力を利用して、事態を収拾させるべきだと思うんですが、どうでしょう?」
「なんだ。くどいばっかりで、全然意味がわからんぞ」
タマちゃんが唇を尖らせたとき、とおるちゃんがピヨピヨ鳴いた。鳥でもわかるような単純なことが、このおっさんにはわからんらしい。
「その先は、わしが言うたる。こういうことや」
わしも、エヘンと咳払いした。
「ツボで殺すことができるんなら、その反対もできる。つまり、『い、き、か、え、れ』ちゅう順番で、死体を押したらええんや」
シーンとした。
完全にすべった空気。ちょうど紅白の大舞台で、ミヤコに向かってミソラ言うてしまったみたいに。
「なんやこの静けさは……寒い」
「ゆーとぴあみたいに言うな! じゃあ貴様、肩こりのツボ押したら、死人の肩こりが治るっていうのか。え?」
「たぶん、な」
「ならやってみろ。ほら、そこに菊池が寝てる」
ミイラ化したマッカーサーが、冷蔵庫の横で、うつろな目を天井に向けとった。それ見とると、ええアイデアやと思っとった自信が、みるみるうちにしぼんでいった。
「わし、まちごうとったかな」
「いや、ぼくも同じこと考えてたよ。ツボに不可能はない。さあ、ドーンとやってみよう!」
どうぞどうぞと、イッチがダチョウ倶楽部みたいに勧めるポーズをした。
「イッチに任せるわ。あんた、死体触るの平気やろ」
「まあね。えっと、生き返れか。い、き、か、え、れ……『れ』で始まる場所ってある?」
「れ、れ、れ……らりるれろで始まるのって、日本語には少ないな」
「じゃあ英語で探そう。レ、RE、LE……あった、レッグだ!」
「よっしゃ。い、は胃やろ。き、は?」
「胸骨がある。か、は踵。え、は……えら?」
「えらがあんのは魚やろ」
「いや、顎の外側のことだよ。片桐はいりで有名な」
「おお、あれな。ええんちゃう」
「とすると、胃、胸骨、踵、えら、レッグだね。よし、やってみるよ」
イッチがマッカーサーの死体の横に、礼儀正しく正座し、両手を合わせてお辞儀してから、おもむろに胃のマッサージをした。
「クミちゃん……」
サンマルチノが、複雑な顔で見とった。親友の死体がトップバッターで実験されてるのが、痛ましいのかもしれん。
「もし、これが成功したら、どうなるの?」
「あらわたし、寝てたのかしらって、むっくり起きてくるやろな」
「失敗したら?」
「干からびたまんま、ちゅうことになる」
「半分成功で、半分失敗したら?」
「半分? さあ……ゾンビ化して、襲ってくるんかな」
イッチが真剣に、胸の骨、踵、えらの順番で揉み、最後のレッグにとりかかった。黒のレザーパンツを穿いた脚を、太ももからすねまで丁寧に、両手で包み込むようにしてマッサージする。
「どや? 心臓動きだしたか?」
「いや。でもぼく下手だから、効果が出るまで、何日もかかるかもしれない」
「アカンで。腐乱してから生き返ったら、バタリアンの誕生やからな」
「おい、何時間待ったらいいんだ。朝までは無理だぞ」
タマちゃんが、イライラしたように腕時計を見た。
「客が来る前に、死体を隠さないと。ほかの支店から応援を頼む必要もあるし、タイムリミットは朝の五時、あと一時間だ」
「あんたまだ、営業考えとったんか」
わしは呆れた。金に汚くて、ずうずうしくて、顔と声と態度がでかい。まんま西川のりおやないか。
「あと一時間ですね。では菊池先輩は置いといて、秋山先輩に移りましょう」
料理番組みたいな手際で、イッチが移動した。古参兵は、入口近くの床で、苦悶の表情を浮かべて硬直しとる。
「失礼します。どうか生き返ってください」
趣味の悪い、横縞のパジャマを着て横たわってる古参兵の姿は、脱走に失敗して撃ち殺された囚人みたいに見えた。今さらながら、仇名をザ・コンビクトに変えたくなる。
「さあ、レッグまでやりました。次は山岸先輩か、永作先輩をします」
イッチが、額の汗を拭いて言うたときやった。
サンマルチノが悲鳴をあげた。
反射的に振り向く。視線の先に、マッカーサーの干からびた死体。
そのうつろな目玉が、動いたように、見えた。
「おおっ!」
わしの尻が、勝手にきゅっと固くなった。あ、もしかして、これが尻小玉の正体かと、脈絡もなく思った。
「……クミ、ちゃん?」
サンマルチノが呼びかける。すると完全に、黒目がそっちを向いた。
「生きとるやん。あれ、目玉動いたよな。なあ?」
イッチの腕をつかんで言う。イッチは身体を固くして、なにも言わない。
マッカーサーが、まばたきをした。これで決まりや。死人はまばたきなんかせん。マッカーサーが、生き返った!
「クミちゃあん!」
サンマルチノが、泣きながらマッカーサーにむしゃぶりついた。マッカーサーの目が、不思議そうな色を浮かべ、わしらを順繰りにきょろきょろと見た。
「ちょっと……重い」
マッカーサーが言うた。するとサンマルチノが、わーわー号泣した。わしもつられて、涙がすーっと頬に流れた。
「イッチ、やったで。あんた、人を生き返らせたんや。あんたこそ、マスターモミゾウや!」
イッチの腕を揺さぶって言うた。イッチはそれに答えず、ガタガタ震えていた。どうしたんかと思って顔を見ると、星飛雄馬ぐらい泣いとった。
「どうして泣くん。いいことしたんやで、イッチ」
「いや、オーナーを見たら、つい……」
イッチの指差したほうを見た。テーブルに手をついて立っていたタマちゃんが、腕を目に当てて、まるで母を亡くした少年のように泣いていた。
「あれれ、鬼の目にも涙やな。なんやみんな泣いて。ええことなのに。喜ばしいのに泣くなんて、ホンマ、人間っておかしいなー」
サンマルチノの手を借りて、マッカーサーがよろよろと立った。テーブルに行って坐ると、ふっと照れたような顔になって、
「ごめんなさい。なにか食べようと思って食堂に来たんだけど、お腹がすきすぎて、気を失っちゃったみたい。ところで、山岸ちゃんを殺した犯人は?」
シンとした。みんなこの状況を、どう説明したらええかわからんのやった。
「えっとな、姉さん、落ち着いて聞いとくれ。姉さんさっきまで、死んどったんや」
「……?」
思いっきり、ハテナの顔をした。するとそれがおかしかったんか、サンマルチノがぷーっと噴き出した。
「なによ、イチゴちゃん。今のどこが面白いの?」
サンマルチノは床に崩れて、ヒーヒー笑い転げた。タマちゃんも、涙に濡れた顔でゲタゲタ笑った。イッチすら声をあげて笑った。わしも、腹筋がヒクヒクなって、M―1の観客くらい爆笑した。
「さっきまで死んでた? 空腹で倒れただけなのにい」
もうたまらんかった。わしもイッチもタマちゃんも、みんな床を転げて笑った。そうや、これが真理や。人が生きるんは、むちゃくちゃ泣けてむちゃくちゃおもろい。わしはそれを知ったで!
「いいかげんにしてよ、もおー。はいはい、あたしは死にました。そして生き返りました。これでいい?」
「ええ、ええ、姉さんビンゴや。あー、もうこれ以上笑かさんでくれ。わしらのほうが死んでまう」
「なんだかちっともわからないけど……ねえ、主任、この人たちどうしちゃったの?」
床からよいしょと立ちあがって、なにげなく横を見たら、古参兵が普通に立っとった。わしはまた、わっと床にひっくり返った。
「どうしちゃったっていうか……あれ、おかしいな。クミさん、死ななかったっけ?」
「なによ主任まで! みんなしてバカにする気」
「どうも記憶が……はて。おれ今、なにしてたんだろう」
「今の今まで死んでたで」
「?」
また爆笑が起こった。わしら四人は、お互いの身体をバシバシ叩き合い、床をバタバタ蹴って、涙が涸れるまで笑った。
「あーおかしい。この調子で、みんな生き返らせてくれ」
「任せて。オーナーも、手伝ってくれますか?」
「おう!」
イッチとタマちゃんが食堂を出ていった。そのあいだに、わしとサンマルチノで、起きたことの説明をマッカーサーと古参兵にした。
「おれが窒息う?」
古参兵は首を捻ったが、マッカーサーがミイラ化したのは憶えとったから、
「クミさんは、確かに死んでたしなあ。うーん、じゃあおれも、一回死んだのかもしれん。妙な気分だな、テヘッ」
「あたしが餓死したかどうかは別にして、山岸ちゃんは確実に水死したでしょ。それが生き返るっていうの?」
「変態オヤジだけやない。アホもソバカスも死んだんや。今からそれを起こすで」
これがうまくいったら、すだれ髪もタコ社長も生き返らせたい。死体がどこにあるかはしらんが、きっとやってみせるでと闘志が湧いた。
「だけどさあ」
古参兵が、イマイチ納得できんという顔をした。
「電話線が切られてたじゃん。あれがあったから、これは殺人事件だと思ったんだけど、もしツボが原因だとしたら、誰がどんな理由で切ったんだ?」
「もしかしたら、で、ん、わ、せ、ん、き、れ、いう順番で、誰かのツボを押してしまったのかもしれん」
「なんだよ、それ。ん、が二回もあるぞ」
テレフォン、でもンが出てくるし、さてほかにどんな言い換えができるかと、一生懸命考えとると、
「おいみんな!」
ソバカスが興奮気味に、変態オヤジを引っ張って食堂に飛び込んできた。
「山岸さんが蘇生した!」
爆笑。マッカーサーも古参兵も、大口開けて笑った。やっぱり真理や。生き返りは、テッパンの爆笑ネタなんや。
「あんたかて、立派に死んどったがな」
わしは腹がよじれるほど笑った。しかし、イッチの上達ぶりは恐ろしかった。ちょちょっと揉んで、あっという間に外れた首をつけるんやから。
「兄さんホンマに、首とれたの知らん?」
今度は変態オヤジとソバカスに、これまでのことを説明した。
「ワタシが犬神家?」
「おれっちがTT兄弟?」
信じようとしない二人に、サンマルチノとわしが、身振り手振りで解説した。
「そんなあ。首がネジなわけないっしょ」
「ワタシ、いくら世をはかなんでも、洗濯機に身投げはしません」
とそこへ、階段を駆けあがる音がして、アホが入ってきた。
「みんな、オーナーがおかしくなったぞ。ギシさんが生き返ったとか言い出してる」
「ワタシですか?」
変態オヤジが振り向くと、アホがわっと飛びあがった。
「わーっ、気持ち悪りい! オエーッ!」
走って出ていった。おおかたトイレで吐いてくる気やろう。泣く、笑う、のほかに、人によっては吐くという反応があることもこれで学んだ。
「いやー、まいった、まいった。ほんとにギシさんですか?」
タマちゃんとイッチが食堂に戻ってきたあと、アホが神妙な面持ちで入口に立ち、まじまじと変態の顔を見つめた。
「う、また胃が……このキモさはやっぱり本物だ」
「阿部さん」
ソバカスが、感に堪えんという様子で言った。
「生き返ってくれてありがとうございます。もう少しでおれっちが、阿部さん殺しの犯人にされるところでした」
「なに言ってんの?」
アホにも説明した。アホはアホやから、なかなか理解できんでいたが、最後は無理やり自分を納得させた感じで、
「言葉の意味はわからんけど、とにかくギシさんが生きてるのはわかった。ということは、元に戻ったわけだ」
「そうや。これで死んだスタッフは、全員生き返った。ノー問題や」
「そうだ、貴様ら。今日も一日通常業務、永作はおれとチヌ釣りだ」
「うへー、また地獄の日々が始まる」
みんな笑った。タマちゃんも、自分がディスられたのにも気づかず陽気に笑い、
「さあ、手をつなごう。輪になろう!」
調子に乗ってはしゃいだ。みんなも、なにはともあれめでたいと、手をとり合って輪になった。
「右にステップ、ワン、ツー、スリー、フォー」
全員が、時計まわりの反対にまわりだす。わしの右手はイッチ、左手はサンマルチノにつながれとる。
なぜか、このとき、背すじを冷たいものが走った。
「うふふ、面白いわね」
サンマルチノが、横で小さく笑う。その手を離そうとしても、万力のように固く締まって離れない。
「大道めぐり、大道めぐり」
サンマルチノが囁く。アカン、と言おうとしたが、どういうわけか、上唇と下唇が引っついてはがれない。
みんなが生き返って喜んだのも束の間、得体の知れない恐怖が襲ってきた。
この、ぐるぐるまわってる人らは、一回死んだことにも気づかず、生きてる。
ということは、もしかして、わしも――?
タマちゃんとサンマルチノと闘ったとき、床で頭を打った。あのときに、ひょっとしたら、死んだのかもしれない。
そのあと、イッチも殺されたのかもしれない。
だとすると、今いるここは、死者の国――?
「大道めぐり、大道めぐり」
サンマルチノの声が大きくなる。まわればまわるほど、気が遠くなっていく。
いったいなにが本当なんや。わしは生きてるのか、死んでるのか。
ここは夢の国か、それとも死者の国か。
そもそもわしはどうしてここに来た? ツボ? あれは本当か。もしそうでなかったら、これはただの夢か。だとしたら、いつ目が醒めるのか。
それとも現実世界で、わしはもう、死んだことになっとるのか――
「大道めぐり、大道めぐり。さあ、数えなさい。わたしたちは何人いる?」
頭の中で指を折る。わし、イッチ、タマちゃん、サンマルチノ、マッカーサー、古参兵、アホ、ソバカス、変態オヤジで、九人。
手でつながった輪を見る。全員知ってる顔。それ以外には誰もいない。わしから始めて、左まわりに数える。一、二、三、四……
「七、八、九……十」
サンマルチノを数えたとき、それは、十になった。
「出てきたわね」
サンマルチノの視線の先を追う。わしの右、それはイッチのはず。
が。
「まいど」
きっちり散髪されたヘアースタイル。三角眉毛に黒縁メガネ。
「……オーマイゴッドファーザー降臨」
日本一の漫才師が、そこにいた。
怒るでしかし……正味の話……どないやっちゅうねん……メガネメガネ……
わしの横で、やっさんが、身をくねらせて熱演しとる。
わしは固く目を閉じた。
やっさん、あんたのことは大好きや。ずっと逢いたかった。でも師匠、あんたはとっくに死んだんやで。頼む、ゆっくりしいや……
そっと薄目を開けた。恐る恐る横を見る。
「神の御前に身を委ねたるぅ~、一ノ瀬どのの願いを叶えたまーえ~」
茫然とした。いくらなんでも、サービス精神がありすぎる。本物の横山やすしは、こんなに安っぽくギャグを披露したりせん。
「おまえ誰や!」
一喝した。するとそいつは、メガネのフレームに人差し指を当てて、わしを上から下まで舐めるように見まわし、
「キー坊、えらい若返ったな」
「アホウ! わしの目は騙されんで。正体をさらせ、妖怪!」
「口悪い姉ちゃんやなー。どないやっちゅうねん。ほな目ン玉かっぽじってよう見い」
そう言うと、そいつはヘアーをぐちゃぐちゃにし、メガネをはたき落とし、ネクタイをゆるめ、コラァなにすんねんと、顔を真っ赤にして怒った。
「なんで怒ってんねん。全部自分でやっといて。しっかし、ちっちゃいお目々やなあ」
そいつの顔を見た。メガネをとると、いかにも特徴がない。小さい目もそうやが、鼻も口も顎も、どこにでもいそうな平凡な――
「あ」
そこにいたのは、男物のスーツを着た、幾野セリイやった。
「やっとわかったか。ちょこっとメガネして髪型変えただけで、クラスメートの顔を忘れるやつがあるか」
「……あんた、口利けたんか」
「ドアホウ! わしはな、向こうの世界はゲー出るくらい肌に合わんかったんや。息吸うのもヤなくらいじゃ。考えてみい。息吸わんで口利けるか?」
ジーンとした。わしがクラスで流行らせたエセ関西弁――それでまくしたてるギャルを見とると、ほんの二日ほどこっちにいただけなのに、懐かしさが込みあげて、無性に帰りとうなってきた。
「ホンマはあんた、おしゃべりなんやな。春やすこかおきゃんぴーくらいに」
「そや。おどれとしゃべんのは特に楽しかったで。でもそのうち窒息しかけてな、しゃべるのやめさせてもろうた。堪忍、スマン」
「ええねん。わしのために、いちばん大好きなやっさんにまで変装してくれたし」
「おどれのためちゃう。わしもやすしがいちばん好きや。みんなそうやろ」
「天才やし」
「愛敬あるしな」
なぜか泣けてきた。自然とセリイに寄りかかった。セリイは背中を抱いてくれた。
「あんた、これみんな、わしのためか?」
「ま、あんたと一ノ瀬やな。ええやつなのに、苦しんでた。なんとかしたくてな」
「ええやつちゃうで。わし、あんたがいなくなっても、どうでもええと思ってた」
「わしがわざとそう思わせといたんじゃ。そろそろ消えよういうときに、気兼ねのないようにな」
「あんたの正体は?」
「夢、思うてくれ。現実を救うために存在しとる、夢やと」
「ようわからんな」
「ようわからんことなんて、世の中になんぼでもあるやろ」
「とにかく、救ってくれたんやな」
「あんたはもう大丈夫や。心配せんで、向こうに帰り」
「もうちょっと、いたい気もするな」
「情が移ったんかい。アホやな。ぐずぐずせんと、とっとと一ノ瀬連れて帰れ」
「サイレント」
イッチが不意に、声をかけた。
「子どものときに、ぼくの夢に出てきたのって、きみ?」
するとセリイが、ぶるっと身震いし、
「きみ言うのやめい。さぶイボ出るがな。まあそうや。懐かしかったか?」
「うん、すごく」
「子どものころの夢忘れんやつは、ええやつや。わしのこと憶えてくれとったら、わしかてほっとけんやろ」
「ありがとう。ねえ、サイレント」
「なんや」
「きみはいったい、なにをしたの?」
「簡単や。レイの心に、ツボは万能っちゅう考えを入れた」
「で?」
「ほんで、そういう法則で世界が動くようにした。あとはあんたらの推理どおりや。ちょっとした手ちがいで、想定外にたくさん人が死んでもうたけど、あんたらでうまく収めてくれたしな。おおきに」
「電話のコードを切ったのは?」
「わしや。警察来たら面倒や思うてな」
「あの、お話し中すみませんが」
えらい低姿勢で割り込んできたのは、タマちゃんやった。
「あなたは、その、座敷わらし様で?」
「む……ま、親戚みたいなもんや」
「あのー、ぶしつけなお願いなんですが」
気色の悪い笑顔を浮かべ、揉み手をしながら言う。
「ずっとうちの店にいてくださいませんか。誠心誠意、おもてなししますから」
「誠意は死語やがな。平成のバカップル知っとるやろ」
「羽賀様のことでしたら、それはもう……」
「もうええ。あんたの心がキレイなら、わしはいつでもそばにおる。ただし、従業員からむしるようなら、今日にも出ていくで」
「それだけはご勘弁を」
「ほんだら給料倍にして、休みも倍にせい。今すぐや!」
「は、はい!」
とたんにスタッフたちが、ワーイと歓声をあげて飛び跳ねた。
小早川にホームランを打たれた江川みたいにうずくまったタマちゃんの肩に、セリイがポンと手を置いた。
「あんたには、まだやることがある。死体置場に行け。今度のことで不慮の死を遂げたジジイの死体が二つある。それを生き返らせてくるんや」
「……わかりました」
「おっとその前に」
セリイが、わしとイッチのほうを向き、ニコッとした。
「タマちゃんに、ツボ押してもらいな。も、と、の、せ、か、い、へ、ってな」
「もう帰っちゃうの?」
サンマルチノが寄ってきて、わしの手を握った。
「む……もちょっと優しく握ってくれ。姉さんおおきに。セリイを呼び出してくれて」
「ああすれば、なにかが出てくると思ったの。でもこちらのお友だち、座敷わらしとはちがうみたいね」
「そや、セリイ。あんたなんで、大道めぐりで出てきたんや。電話線切ったときみたいに、いつでも出てこれたんやろ」
「なんもなかったら出づらいやん。あれが出囃子になってな」
「とおるちゃんが騒いどったのも、あんたの気配を感じてたんやな。やっぱし動物には、わしらの見えんもんが見えとるらしい」
「できました」
イッチがどこか遠慮がちに、タマちゃんに言った。
「も、はもも、つまり大腿部で、と、は橈骨。の、はのど。せ、は背中。か、は踵。い、は胃。へ、はへそで、元の世界へ、となります」
「そうか」
タマちゃんが、ゆっくり立ちあがって、イッチを正面から見すえた。
「短いあいだだったが、これもなにかの縁だ。つらいことがあったら、おれと花畑を見事に敗ったことを思い出すんだ」
「はい!」
「うちで一日修行したら、向こうの世界では、どこに勤めても一年間は通用する。一年もったら三年続く。三年できたら一生大丈夫だ。頑張ってくれ」
「はい!」
イッチとタマちゃんが固く抱き合った。いつの間に師弟関係ができたんか、わしにはようわからんかった。
まあええ。世の中わからんことばかりでも、きっとなんとかなる。子どものころに見た夢を忘れず、心をキレイにし、そしてたぶん、いつでも笑いを愛していれば、夢が助けにきてくれるから。
「おれっちのこと、忘れるなよ」
「ワタシも」
「たまには遊びに来いよ」
「戦争になったら逃げてきなさい」
一人一人とハグをした。そのあと、わしとイッチはそれぞれの部屋へ行き、高校のブレザーに着替えて戻ってきた。
イッチがセリイに向かってうなずいた。椅子に坐って目を閉じる。タマちゃんがその前に立ち、ももをマッサージし始めた。
「時間を巻き戻して、わしが消えた少しあとに帰れるようにしとく。ツボの法則はなくすから、もう自由には来れんで」
「なんかヘマして、穴に落ちんかったらな」
「そうならんようにしとき。この次は戻れんかもしれんで」
タマちゃんの手が、イッチのへそに置かれた。イッチの身体が薄くなり、やがて見えなくなった。
「次はわしやな」
椅子に坐って力を抜く。もも、橈骨、のど、背中、踵まで来たとき、ふと気になってセリイに訊いた。
「わしらが戻ったあと、セリイは来るんか?」
「いや。ホームルームで担任が、幾野セリイさんは都合で転校されましたって発表するさかい、驚いたフリして、えー言うてくれたらよろし」
「ほんでしまいか」
「いつでもおるで。やっさんを好きでいるかぎり」
「一生好きに決まっとるやろ!」
タマちゃんにへそを押された。意識がすっと遠のく。
あ、寝てまう、と思うと同時に、寝てもうた。
ふっ、と目が開いた。
机が見えた。顔を起こす。教室。ブレザーの袖でよだれを拭く。
右を向く。一ノ瀬イッチが、ちらっと視線をよこした。
チャイムが鳴った。
まだ頭がはっきりせん。イッチに訊いた。
「今、何時間目や」
イッチがフンと鼻で嗤う。
「もう授業は終わりだよ。爆睡だったね」
「そうか……われは起きとったんか」
「当たり前じゃん。なんつって。実はぼくもさっき起きた」
「夢、見たか?」
「見たような気もするけど、憶えてない」
「一つ訊いていいか」
「なに」
「われ、三十歳で死のうと思ってるか?」
「えっ? どうしてそれを」
「アカンで。三百まで生きな」
「ああ、そうだね……」
するとイッチが、ふと眉をひそめ、突然肩を触ってきた。
「なにすんねん、いきなり。痴漢やぞ」
「いや、その……男に触られても、平気?」
わしは、ぶるっと震えた。
「うん。そんぐらいなら平気や」
「よかった」
「でもそんぐらいにしとき。わしらまだ十五やからな」
前を見た。担任が、無表情に口を開く。
「先ほど連絡がありました。本日早退した幾野セリイさんは、都合で転校することになりました」
みんなが、えーと言った。わしとイッチは顔を見合わせた。
「なんだかわし、まだ夢見とるようや。現実感がない」
「なんで夢ってあるんだろうね。よく考えると不思議だね」
「まあな」
そう言って、机に頬杖をついたとき、ブレザーの中でなにかが動いた。
「わっ、なんや」
「トールチャンッ!」
コザクラインコが、制服の隙間から飛び出して、教室をぐるぐる飛びまわった。
「あ、ぼくのピヨちゃん」
イッチが立ちあがって、捕まえようとした。教室がパニックになる。
「誰だよ、鳥なんか持ってきたの!」
「やだ、フンした」
「キレイね。羽が真っ青」
「幸せの青い鳥だ」
「捕まえろ!」
みんな勝手にわーわー騒いで、ホームルームはむちゃくちゃになった。
「ワスレテチョウダイ、ワスレテチョウダイ~」
わしは、しばらく呆気にとられとったが、急に気になって、机の下でそっとスマホを開いた。
お笑いの動画を検索する。イヤホンを耳に入れて、急いで確認する。
トムちゃんは、見事に十週を勝ち抜いていた。
(おしまい)