マッサージ館に帰ったら、電飾が消えて、本日終了の札が出とった。
「うちは朝九時から夜九時までの健全経営だから。最後の客が帰ったら、掃除洗濯メシ風呂寝る。あと細かいことはイチゴちゃんに訊いて」
古参兵の指示で、イッチと二人、サンマルチノについて二階に上がった。
二階には、食堂のほか、洗濯室、シャワールーム、事務室なんぞがあり、住み込みのスタッフが寝起きする個室も四つあった。
「今住み込みしてるのは、主任と永作くんのほか、山岸さんと阿部くんという男性のスタッフ四人なの。永作くんと阿部くんは年も近くて仲いいから、今日から一つの部屋に住んでもらう。一ノ瀬くんは、山岸さんと同じ部屋。ユエナちゃんは、あいた部屋を丸々使っていいよ」
「えらいすんまへんな」
「昨日まで永作くんが使ってた部屋だから、ちょっと男臭いかも。さっき暇だったから掃除して、ベッドメイクもしといたよ。敷いてある布団はわたしんちから持ってきたお古だけど、嫌だったら新しいの買ってあげる」
「……姉さん、親切でんな」
「みんな親切よ。だから生きづらかったの」
じゃあねと言って、サンマルチノは帰った。すると、顔の下半分に青黒いヒゲを生やした、胸にオタマジャクシのバッジをつけたオスガエルが近づいてきて、
「きみらの教育係りをやることになった、山岸です。どうぞヨロピク」
中年が受けようとして、くだらないギャク言いよった。わしは一瞬で嫌いになった。こいつのことは、変態オヤジと呼ぼう。
「ところでとおるちゃんは、無事帰ってきたよ。ユエナちゃんの言うとおりだったって、主任も喜んでた」
変態オヤジに気安く名前を呼ばれて、さぶイボが全員起立した。わしは直感的に、さっきの殺人犯はこいつちゃうかと思った。
「まず最初に、いちばん大事なことを教えておこう。ここでは一日でも早く入ったものが先輩であり、先輩の言うことは絶対である。はい、メモして!」
「メモなんて、持ってまへんがな」
「なにい、メモがない? 言われたことをメモするのがいちばん大事じゃないかあ! 今すぐペンとメモ帳を買ってこい」
「金、持ってまへん」
「口答えするなあ! 先輩が白と言ったら、松崎しげるも白いんだあ!」
ツバがかかると皮膚が溶ける気がして、ウェービングで間一髪避けた。
「兄さん、理不尽でっせ」
「そのとーり。ここでは理不尽が法律だ。ワタシは昨日までいちばん後輩だった。だから、みんなからさんざん理不尽を言われた。しかし、今日からは二人も後輩ができた。先輩になれて天にも昇る思いだ。だからきみたちに理不尽を言うのだ」
「そんな先輩、尊敬できん」
「なんだとお。もういちばん大事なことを忘れたのか。メモしないからだ!」
「あんまり威張ると、タマちゃんに言いつけまっせ」
「タマちゃん? 誰だそれ」
「オーナーはん。そう呼ぶんでっしゃろ」
「な……オーナーのことを、タマちゃんだとお!」
するとそのとき、食堂からシュッとしたキツネ顔がシュッと覗いて、
「ギシさん、今、オーナーのこと、タマちゃんって言いました?」
そう言いながら、長い脚でシュッシュと歩いてきた。
「ダメじゃないですか、レディをいじめちゃあ。優しく教育しないと、みんなにギシさんがオーナーのことを、タマちゃんって呼んでたって言いますよ」
「で、でも阿部さん。この子は先輩に口答えをしたんです」
「今ギシさんのしてることが、口答えじゃないですか。先輩に言われたら、はい以外の返事はしないでください」
変態オヤジがシュンとなった。わしはこの阿部っちゅうオスガエルを見て、こないにちゃんとした、女にモテそうなクールなイケメンが、なんでこっちの世界に落ちてきたんやろうと不思議に思った。
「もう大丈夫だよ、お二人さん。安心して働いて」
イケメンガエルはそう言うと、わしの顔をじっと見て、
「この子はかわいいけど、ぼくのタイプじゃない。清楚じゃないし、せいぜい六十点というところだ。使い走りにしよう」
ズバッと言うと、
「こっちのガキはお荷物って感じだな。奴隷のようにこき使おう。それで潰れたら、放り出せばいい」
イッチが口をあんぐり開けた。イケメンはそれも意に介さず、
「まったく、山岸の顔はいつ見ても気持ちが悪い。吐き気がする。だからこれからもみんなでイジメよう。イジメというのは本当に楽しいなー」
変態オヤジが顔の上半分も青くした。わしはちょっと腹が立った。
「兄さん、聞き捨てならんな。どないな世界でも、イジメが楽しいっちゅう法はないで」
「え? ああ気にしないで。心の声が出ただけだから」
「心の声? そんなもん、しまっときいな」
「そういう器用なことはぼくにはできない。なぜならぼくは、正直者だから」
ニッと白い歯を出して、クールに笑いよった。
「せやけどな、人を傷つけることを言うたらアカンで」
「じゃあ本当のことを言わないで嘘を言うの? ぼくは、嘘ほど汚いものはこの世にないと思う。正直こそ最大の美徳だ」
「イジメが楽しいいうのも美徳か?」
「だって、本当のことだから。ぼくはそれを言わずにはいられない」
落ちてきた理由がわかった。こいつはアホの中のアホや。だから仇名はシンプルに、アホいうことにした。
「山岸は連続幼女誘拐犯だから注意しな。触るとバイキンがうつるよ」
そう言うと、アホは食堂に帰っていった。
「それはひどいよお。ワタシは子どもに面白がられて、石投げられたり、勝手に家までついてこられたりしただけなのに……」
変態オヤジがしゃがみ込んで、オイオイ泣きだした。わしはつい同情し、
「兄さん、気にすんな。子どもに好かれるのはええこっちゃ」
「でも、大人には嫌われる。みんなワタシを気持ち悪いと言う。ワタシは鏡を見てもちっとも気持ち悪くない。みんなの見方のほうが変なんだ」
「ホンマそうやで。見方によっちゃ、ジョージ・マイケルに似てまっせ」
「そうかい? でもまあ、百歩譲ってもしワタシが気持ち悪いとしても、わざと気持ち悪いわけじゃない。みんなだって、うっかり失敗することはあるはずだ。それなのに、わざとじゃないことを責めるのは、人としてまちがってると思う」
「そやそや。兄さんは、うっかり気持ち悪いだけや」
「ありがとう。ユエナちゃんは親切だね。ワタシの天使だ」
さぶイボの整列が止まらんかった。それがキモいんじゃ、ということを指摘しても、たぶんこの変態オヤジは治らん。一挙手一投足、片言隻語がキモい人間はおる。そういうやつは吐く息も臭い。アカも人の三倍出る。
わしは変態オヤジの背中を、嫌っちゅうほど叩いた。
「兄さんは生きとるだけで素晴らしい。わしならとっくに死んどる! 兄さん見たら、自殺考えとった人間も、死ぬのアホらしゅうなるわ。みんなの希望の星やで。これからも頑張ってや!」
「は、はい」
変態オヤジは立ち上がると、両手でわしの手を握りよった。信じられんほど手がネバネバしとる。わしは込みあげる嘔吐物と闘いながら、
「生理的に無理いうのは、兄さんのためにある言葉や。肝に銘じてな」
「うん。これからもヨロピク。ところできみたち、夕飯は?」
「おにぎりがあります」
イッチが答えた。すると変態は、
「食堂は自由に使ってよろしい。ただし、レンジもコンロも使用料は一回百円。すべて給料から引かれる。ワタシもきみたちと同じ研修生だから、そこはツケになってる」
食堂の中を見せながら、次に進んで、
「シャワーも使用料は一回百円。先輩たちが全員使い終わってから使うこと。ただし、誰か一人でも先輩が先に寝ていたら、その日は使用禁止。五分以内で上がれよ」
それじゃあたぶん使える夜はない。朝シャンにするかと考えとると、
「ここが洗濯室。客が帰ったら、タオルを洗濯して干す。私物の洗濯はオタマジャクシのうちは二週間に一回。シフトが休みの日にこっそりやれ。これも使用料は百円」
変態オヤジと同じ洗濯機を使えるわけがない。これはサンマルチノの家で洗わしてもらうことにする。
「一日の流れを整理しよう。ワタシたちオタマジャクシは、朝六時に起きて、先輩方のコーヒーとトーストの用意。先輩方の使った食器を洗ってから自分の食事。下に降りて廊下の雑巾がけとマッサージルームの床掃除。乾いたタオルの用意。営業時間になったら上に戻り、先輩方の部屋の掃除と洗濯。先輩に呼ばれたら下に行き、あいてる部屋でマッサージの練習。先輩方の昼食の準備。夕食の買い出し。なにを食べたいかは事前に訊いておくこと。あき時間があれば少しでも人体の勉強。教科書は事務室にある。先輩方の夕食の準備が終わったら、マッサージルームの清掃。洗濯。先輩方の食器洗い。それから自分の食事と風呂。先輩方の呼び出しがなければ就寝。これがだいたい午前二時」
熟睡できそうやと思う。たぶん夢も見ん。
「休みは月に二回もらえる。ただしその日も、一号館、二号館、三号館が人手不足ならまわされる。そうでなくても、たいていオーナーの実家の農家の手伝いとか、ペットの世話とか、釣りのお供などを言いつけられて一日が終わる」
オーナーの釣りのお供? そらチャンスや。達人と親しゅうなって、現実世界に帰るツボを教えてもらえるかもしれん。
「きみたちは若いから、礼儀作法から覚えなくてはならん。次に人体の知識。それからようやくマッサージの技術。カエルになってデビューできるまで、何か月かかるかわからん。真剣にやらないと、ツケが膨れあがって身動きとれなくなるよ。じゃあ、今日は遅いからもう寝なさい。洗面は食堂でな。ではユエナちゃんは自分の部屋で休んで。一ノ瀬くんはワタシと同じ部屋で生活する。来たまえ」
イッチの背中は暗かった。まだ覚悟が決まっとらんらしい。まあ、さっきまで呑気な高校一年生やったから、無理もないがの。
自分の部屋に入った。広さは六畳くらいで、マッサージルームと同じくらいやった。ただし壁はコンクリートむき出しで、家具はぽつんとパイプ式のベッドが一つ。そこに花柄の布団が敷いてあって、休憩室で脱いだ紺ブレがきれいに畳まれて置いてあった。サンマルチノがやってくれたんやろう。
床は学校の廊下みたいなタイル張りで、足の裏が冷べたい。カーペットが欲しいけど、そこまでサンマルチノに頼んだらずうずうしいかなと思う。
布団に寝転がった。
ここで暮らすんやったら、当たり前の女子として、タンスも欲しいし鏡も欲しいしテレビもステレオも欲しい。ドライヤーも歯ブラシもハンカチもティッシュも欲しい。コップも時計も欲しい。下着の替えも欲しい。
ま、しゃーないわ。稼ぐしかないわい、この身一つで。
今日一日で、そんなふうに思えるようになった。少しだけ大人になったのかもしれん。
そういえば、変態オヤジに手え握られたとき、こらえて殴らんかっただけでも、見ちがえるような進歩や。
一日一日進歩していけばできる。先のことは気にせんと寝るこっちゃ。
そう思うて目を閉じたら、幾野セリイの顔が浮かんできた。あのおなご、ちゃんと屋根の下で寝とるやろか。ちーと心配やで。
頭まで布団をかぶる。サンマルチノのお古やが、わしの布団や。ここはわしの部屋。誰にもジャマされへん。
そうや。今夜からは、本当の父親でもなんでもない、母親の男が勝手に入ってきて、汗臭い手で触られたり、顔面殴られたりせんと眠れる。極楽やで、極楽。
せやけど――
ここは夢や。夢の中の人間ちゅーのは、夢見んのかな? ほんで目覚めたときは、どないなっとるんやろ。夢のままか、それとも現実に戻るんか。このまんまがええか戻るんがええか……えーい、わし、正味わからん!
夢やった。
つまり正解は、夢のままやったということや。
「六時だよ」
ドアをノックする音と、イッチの遠慮がちな声が聞こえてきた。自分でも意外やったが、すぐに起きれた。慣れない環境で、眠りが浅かったんやろう。
でも夢は見んかった。夢の中では夢は見んのかもしれん。せやなくとも、一日のスケジュールを考えたら夢見る暇もない感じや。
「おはよう。ついさっきイチゴ先輩が出勤して、これをユエナちゃんにって」
もう制服に着替えた変態オヤジが、福袋みたいなでかい紙袋を差し出した。中を見ると、洗面セットや洋服なんぞが入っとった。
「おおきに。涙出るほど嬉しいな。でも兄さん、中触ってないやろな」
「しないしない」
「もし触ってたら捨てるで。兄さんの手、ベトベトやからな」
変態がまたシュンとした。気持ち悪いくせに、傷つきやすいらしい。
「着替えたら食堂に集合。その中にメモ帳とペンがあれば持ってくるように」
またカエルのかっこに着替えて、食堂に行って歯を磨いた。朝シャンする時間はなかった。イッチはメモを片手に、変態オヤジの後ろに直立不動で立っとった。
「今日はワタシが手本を見せるから、明日からはきみたちが全部やるように。いいね、一度しか言わないよ。まずは男性陣の朝食。主任のコーヒーはブラック。トーストにはバター。阿部先輩は濃いめのコーヒーに砂糖一さじ。パンはカリカリに焼いてイチゴジャムとブルーベリージャムをブレンド。永作先輩は牛乳たっぷり砂糖たっぷりのカフェオレ。パンは焼かないでピーナッツバターを山盛り。ワタシは紅茶に蜂蜜。トーストにはシュガー・アンド・マーガリン。メモした?」
「はい、山岸先輩」
「よし。今言った準備は、先輩が入ってきたらすぐに始める。ちなみに女性陣二人は通いだから、ここで朝食は食べない。ただし、早く来ておしゃべりすることもあるから、そういうときは紅茶かコーヒーを勧めるんだ。先輩が自分でやるからいいよと言っても、やらせてくださいと言ってやるように。そうしないと、なんで先輩にやらせるんだといって、あとで別の先輩に殴られるからな」
「はい、山岸先輩」
「おはよう、ユエナちゃん、一ノ瀬くん」
休憩室で着替えてきたらしいサンマルチノが、朝からでかい声出して入ってきた。
「おおきに、姉さん。えらい助かったで」
礼を言うと、またあの怪力でハグされた。
「姉さんのはただのハグやない。ベアハッグや」
「今日一日、頑張りましょ」
不思議と、化粧の匂いも気にならんようになった。どうやらわし、サンマルチノのことを好きになったようや。
「あの、イチゴ先輩。紅茶かコーヒーを飲みますか?」
「ちがう! お召し上がりになられますかと言うんだ。これもメモ!」
「いいわよ、自分で淹れるから」
「いえ、ぼくにやらせてください」
「よし、いいぞお。もっといいのは、どうかワタクシめにさせてください、これも修行ですからと、頭をこう下げて――」
「山岸さんやめて、気持ち悪いから」
ピシャッと言った。あのサンマルチノをイラつかせるとは、変態オヤジの嫌われぶりも大したもんや。
「おはようございまーす。あ、イチゴさんが自分でコーヒー淹れてる! 山岸さん、どうして後輩がやらないんですか」
ソバカスが入ってくるなり、鬼の首をとったようにはしゃいだ。
「お願いです。どうかワタクシめにさせてください」
「やめて! 触らないで」
「山岸さん。おれっち今、自分でパンにピーナッツバター塗ってるよ。どうして先輩にやらせるの?」
「一ノ瀬やれ!」
「はい、山岸先輩」
「おはよう諸君。やあユエナちゃん。昨日は六十点なんて言ってゴメンね。よく見たら六十五点だった。ところできみがシャワー室に入ったら覗こうと思って待ってたのに、入らなかったね。今夜こそ覗くよ」
「ユエナちゃん、お風呂はうちのを使っていいわよ」
「おおきに」
「ギシさん、ぼくもう椅子に坐ってますよ。どうしてコーヒーが出てないんだろう? しっかしテメーは気持ち悪いな!」
アホが椅子にふんぞり返って鼻をほじっとると、古参兵が入ってきて、
「みんな今日は急げ。朝の支度が終わったら、少し長めのミーティングをするぞ」
ソバカスが眉毛を八の字にして、
「えー、どうしてですかあー」
「新入りが二人もいるからだ。それをオーナーにご報告申し上げたら、今朝八時に来館されることになった」
そのとたん、ソバカスもアホもあわててパンをコーヒーで呑みくだして、下にすっとんでった。変態オヤジは紅茶も飲まんと、
「きみたちは、ここの後片付けをしたら、パンをかじってすぐ下に来い。ワタシは先に行って掃除してる」
そう言って消えた。サンマルチノだけがゆっくりコーヒーを飲んで、
「みんな恐がっちゃってバカみたい。タマちゃんなんて、赤ちゃんみたいなもんなのに」
「おはよう。どうしたのかしら、うちの男ども。召集令状でも来たの?」
マッカーサーがだるそうに入ってきて、椅子に坐って煙草を喫った。
「コーヒーか紅茶をお召し上がりになられますか?」
「いいのよ、坊や。あたしにはこれがある」
スキットルを出して、なんかをクピクピ飲んだ。ふーっと吐く息が酒臭い。
「立ってないで坐ったら。朝食まだなんでしょ」
マッカーサーに言われても、イッチはモジモジしとった。遠慮しとるんやろう。わしはさっさと袋からパンを抜いて、サンマルチノの向かいに坐った。
「イッチも食わんと、あとで腹減って倒れるで」
「わ、イッチだって」
「いいわねー、付き合ってるの?」
「そんなんちゃうけど、コラ、赤くなんなや。だから誤解されるねん」
「あの……男性陣のみなさんは、下でなにをされてるんですか?」
「掃除よ。オーナーが来たときはチェックされるの。よくドラマで、姑が障子の桟を指でなぞるでしょ。あれを本当にやるの」
「じゃあぼくも行きます。ユエナ、後片付け頼む」
結局なんも食わんと出ていった。
「いい子ね。早くつかまえなさい」
「別に、友だちでええんちゃう?」
「ダメよ。こっちにはさ、みんな一人で来るでしょ。誰も身寄りがなくて孤独。だから寄り添う人が必要なのよ。あなたには、最初からそれがいるじゃない」
「せやけど、あいつの胸ん中には、別のおなごがおんねん。わしとちごうて無口な女が」
「あなたはどうなの? 好きなんでしょ、彼のこと」
「ちーと頼りないかな」
「あら、見る目ないのね。彼は大きい子よ。ここの誰よりも」
「そうでっか?」
「結婚しなさい。わたしたち二人が、仲人やったげる」
「気の早い姉さんたちやな……でもわし、幸せになる気ないねん」
「はあ? どういうこと?」
「けがれとるから。男つくる資格なんてないんや」
キッチンに立って、ポットからお湯をついでコーヒーを淹れた。突然、母親の男に触られた場所に、この熱湯をぶちまけたくなった。
振り向くと、姉さんたちがじっと見とった。わしはサンマルチノに、
「オーナーはんて、どんな人でっか」
訊いてみると、マッカーサーのほうが答えた。
「昨日の夜、うちに来たわ。叩いてほしいって言うから、平手打ちしたり、頭踏んだりしてあげたけど」
「叩く? なんでっか、それ?」
「そしたらお小遣いをくれるの。アパート代も払ってくれる」
「叩くだけで?」
「そうよ。それがストレス解消になるらしいの。わたしにはよくわからないけど」
「おとといはうちに来たわ。ミルク飲みたいって言うから、哺乳瓶で粉ミルクを飲ませてあげた。そしたらバブバブ言って喜んでた」
「そんで姉さんにも小遣いを?」
「給料よりたくさんね。今度、ユエナちゃんにもやらせてあげる」
「わし無理や。おじさんには触られへんねん」
「大丈夫よ。いい子でちゅねー、ゲップしまちょうねーって言ってりゃいいんだから」
「それか、この醜い豚、なんで生まれてきたんだって唾吐いて、踏んづければいいから」
変態オヤジを上まわるド変態や。どんなストレスがあるかは知らんが、こっちに落ちてきた理由はわかる気がした。
「これは男性陣には内緒よ。しゃべったらクビ切られて、援助もなくなっちゃうから……あ、タマちゃんのベンツの音がした。まだ七時じゃない。掃除がちゃんとできてるか、抜き打ちチェックするつもりね」
姉さんたちが出て行った。わしも、急いでカップと皿を洗って下に降りた。
受付で、全員直立していた。まるでヤクザが親分迎えるような雰囲気や。わしはイッチの後ろにそっと立って、自動ドアのほうを見た。
ぎょっとした。
ウィンと開いたドアのところに立っとるのは、レイバンのサングラスに、サンローランのジャケット、ビギのパンツ……ありゃ親分やない。まんま兄貴や!
「おはようございます!」
古参兵の号令で、みんな腰を九十度に折った。するとタマちゃんは、ロックスターみたいに両手を広げ、
「よう、みんな。ハッピーかい?」
わしは前にこけてイッチにぶつかった。セリフが兄貴とちゃうやんけ!
「レディース・アンド・ジェントルメン。アンドお父っつあんおっ母さん」
もうむちゃくちゃや。いくらなんでもベタすぎる。
せやけど誰も笑ってない。それが逆に怖かった。
「おこんばんはー、おジャマします、パッ、早乙女主水之介」
わしの横で、ソバカスがプルプル震えとった。たぶん極度の恐怖のせいや。
タマちゃんは、ソバカスに目をとめた。ゆったりとした足どりでソバカスの前に行くと、耳元で一発、
「ホーホゲギョ!」
「ひいっ!」
「どうも、黒鯛チヌ夫です。明日きみは休みをもらいなさい。そしてわたしとチヌ釣りに行くんだ。朝四時に迎えに来るように」
「ありがとうございます!」
ソバカスが頭を下げすぎて膝に頭をぶつけ、気を失った。見ると、制服の股のところが濡れて黒いシミになっとった。
タマちゃんがグラサンをとった。目のまわりにラメがあるかと思ったが、それはなかった。ただし目力はすごくて、全盛期の青空球児か、鈴々舎馬風を思い出した。あ、それでカエルか!
「そのションベンたれを二階に運べ。今から貴様らの部屋をチェックする」
誰かの息を呑む音がした。みんな一階の掃除はしたが、二階は手付かずやった。
「まずはここから。これは誰の部屋だ」
「自分であります!」
古参兵が答えた。その顔はもう血の気を失っとる。
「なんだなんだ……脱いだ服がそのまんまで、スナック菓子もこぼれて」
言いながら、散らかったものを次から次へと手で払って床に落とすと、
「このアニマルッ!」
古参兵の頬をビーンと張った。古参兵はふっとんで、ベッドに鼻血を撒いた。
「殴られなきゃできないヤツは動物だっ! おれは貴様らの飼育係りじゃない。早く人間になってくれ!」
続いて、目をぎらつかせながら例の姑をやり、
「秋山くん、この埃はなにかね?」
指先を古参兵の顔に突きつけると、
「食え。自分できれいにしろ」
「いただきます!」
パクッと指をくわえた。もはや狂気の域や。
息を吹き返したソバカスが、アホと先を争って部屋に飛び込み、あちこち拭っては埃をパクパク食った。
「掃除はもういい。全員集合しろ」
食堂に集まった。仕事前なのに、もうみんな疲れた顔をしとる。
「よく聞け。貴様らはクソひりマシンだ」
一人一人を粘っこくにらむ様子は、ちょうど大喜利メンバーを威圧する、ハリセン大魔王そっくりやった。
「メシを食って、クソを生むことしかできない。メシを食えるのは誰のおかげだ、阿部」
「オーナーであります!」
「感謝したいと思わないのか?」
「思います!」
「ならどうして本気で働かない。本気出せって言ったよね? ぼくをバカにしてる?」
この威圧感は完全に馬風を超えとる。佐山サトルのシューティング教室や。
「貴様はアホすぎて、向こうではどこにも就職できなかった。そうだな?」
「そうです!」
「それを雇ってもらえるだけで、涙が出るほど嬉しいはずだ。そうだろ?」
「そうです!」
「ならもっと働け。今月は先月の二倍稼ぐんだ。それから秋山」
「はい!」
「おまえは向こうでマッサージの仕事をやって、セクハラで逮捕された。もうこの業界では働けない身だった。それを雇ってやったのは誰だ?」
「オーナーです!」
「それを感謝してるんだったら、もっと部下を教育しろ。あと永作……やっぱおめえはいいや」
やり口が、佐山サトルから猪木会長に格上げされた。
「山岸は幼女誘拐の常習犯、ペンネーム花畑イチゴは自作の詩集が売れずに放浪、菊池クミはサバイバルゲームにハマって借金まみれ。どいつもこいつも極めつけのカスだ。それをまとめて面倒見ようなんて慈善家が、おれのほかにいると思うか。よく聞け新人」
目玉がギョロッと、わしとイッチを見た。
「まだイロハのイの字も知らんうちから、メシを食わせてやろうというんだ。おい小僧、肋骨は何本だ」
突然のクイズに、イッチは口をあふあふさせ、
「ろ、六本!」
「ギーロッポン、っておい! JBじゃないんだ。菊池、教えてやれ」
「……百億?」
「ビフィズス菌か! 貴様らホントにポンコツだな。おれが次来るときまでに、骨の名前を全部憶えておけよ。まちがえた数だけ秋山を張り飛ばすからな。それから小娘」
わしの番が来た。
「女は憶える仕事が多いぞ。マッサージのほかに、受付や経理もやってもらう。せんよんひゃくはちじゅうわるよんかけるじゅうにはなんだ」
「わかりま千円」
「ゼッコーモン、ってコラ! 五十過ぎの男に茶魔語を言わせるな。今の数式は、一日十二時間びっちりマッサージをやったときの貴様らの取り分だ。それがどんだけ恵まれてるかよく考えろ。おれが若いときなんかは、月二、三千円でこき使われたもんだ。仕事を教えてやる授業料だといって、給料のほとんどをピンハネされてな。あー、おれはなんて優しいんだろう。神様みたいに見えてこないか、なあ小娘」
「知らんがな」
わしは言った。真正面から目玉をじっと見て、
「昔どんだけ苦労したか知らんが、あんたちょっと威張りすぎやで。多摩川行ってちっと頭を冷やしてきたらどや、タマちゃん」
現場が凍りつく、ちゅうのはこういうこっちゃ。
誰も動かんし、なんも言わん。ビデオの一時停止押したみたいに。
コホン、とタマちゃんが咳払いをした。古参兵がビクッとして、欽ちゃんみたいにぴょんと跳ねた。
「なるほど、タマちゃんか。貴様ら蔭で、おれのことをそう呼んでたんだな」
ソバカスの股にまたシミが広がって、床に水たまりができた。
「誰だっ! その仇名を考えたのは!」
みんないっせいに変態オヤジを指差した。変態オヤジは立ったまま気絶した――リアル西川くんや。
あー、アホくさ。
男性陣はオーナーを恐がっとるが、わしはちっとも恐いことあらへん。サンマルチノたちから聞いて、裏の情けない顔を知っとったし、別にこのおっさんに恩があるわけでもない。怒らせたらビンタ食らって追い出されるかもしれんが、せいぜいそんくらいや。命まではとられへん。それよりも、黙って威張らせとくほうがシャクやった。おっさん、まちごうてるでということを、誰かがビシッと言ってやらなアカン。
「なあ、なんでタマちゃんいうの? 教えてえな」
目玉がこっちを見た。が、不思議なことに、怒った色をしてへん。むしろ面白がるような調子で、
「なかなかいい度胸だな、小娘。よし、気に入ったぞ。おれの名前は、タマキイチローというんだ」
――なぬ、タマキ?
ひょっとして、あの玉城レイの玉城か?
「あの、オーナーはん。タマキのタマは、玉置宏の玉でっか?」
「えー、一週間のごぶさたでした、っておい! 真似しにくいヤツを選ぶな。でもそれで合ってる」
「ほんで、タマキのキは、城卓矢の城でっか?」
「おれは女は愛しても、ホネまでは愛さん」
「それとも城みちるの城でっか?」
「おれはイルカにも乗らん! でもそれで合ってる」
「やっぱそうなんや。ほんなら、玉城レイってギャル知ってまっか?」
「レイ? 今年高校の?」
「そうそう。わしのクラスメートやねん」
「ほおー、奇遇だな。あれはおれの弟、玉城ジローの娘だ」
「弟さんって、マスターモミゾウと呼ばれとる?」
「うむ。玉城ブラザーズといえば、その道で知らない者はなかった。だが正直言って、弟のほうが優秀だった。おれは拗ねに拗ねた。ひねくれて性格がゆがみ、酒と麻薬に溺れ、気がつけばこっちに来てた。しかし、弟に敗れたおれは、自分でモミスケをやる気はなかった。そこで指導者となって、店の経営に乗り出すことにした。努力の甲斐あって、この四号店を出すまで成功した。ジローは向こうで、そこまで成功してないだろ?」
「オヤジのことはよう知らんけど、とにかくわしとイッチは、レイにモミスケされて、こっちに来てもうたんや。オーナーはん、そのツボ知ってまっか?」
「ツボ?」
「ツボは無限で万能なんやろ。その押し方によって、現実から夢の世界に人を送り込むこともできるっていう……知らん?」
「ああ、知ってる」
「ホンマ?」
「弟が、そういう技の開発にのめり込んでたのは知ってる。おれは弟ほどの技術はもってないが、やり方はだいたいわかる」
「じゃあ、こっちから向こうに戻すことも、ツボでできまっか?」
「理屈上はな。ただしやったことはない」
「やってくれまっか?」
「いや、断わる」
「なんでなん?」
「危険だ。無事に現実に戻れるという保証はない」
「試すだけ、やってくれへん?」
「そもそもおれに、それをやる気、元気、井脇がない。おまえはまだ、おれに一円も儲けさせてない。それどころか、制服とサンダルの借金が丸々残ってる。少なくともそれを完済して、店に百万くらい利益をあげたら、やってやってもいい」
「ほんなら、今すぐモミスケを教えてくれ。アホくさいコーヒー係なんかさせんと」
「うむ、いいだろう。おまえには特別に、おれが指導してやる。筋が良ければすぐにデビューさせてやってもいい。ただし、おれは厳しいぞ」
「ビシビシやっとくんなはれ」
「よし。そっちの小僧と阿部。今からこの小娘にレッスンするから、おまえらも一緒に来い。ほかのヤツらは解散!」
古参兵とソバカスが、その場にヘナヘナと崩れた。よっぽど緊張しとったんやろう。変態オヤジは、まだ西川くんをやっとった。
一階のマッサージルームに、タマちゃん、わし、イッチ、アホの四人で入った。
「阿部、ベッドに伏せろ。おまえには正直という病気がある。今からこの小娘にマッサージさせるから、悪いところは全部正直に指摘しろ。まずはおれが見本を見せる」
太い親指をアホの背中に突き立てて、ぐりぐりねじ込んだ。
「どうだ? 達人と呼ばれた男の指は」
「まあまあですね」
「む……二十年ぶりだから少々錆びついたかな。おい、小僧。おれのやり方をよく見ておけよ。トッププロとド素人のどこがちがうか、あとでこの小娘に教えてやるんだ。さあ、小娘、自由にやってみろ」
わしは玉城レイの手つきを思い出しながら、肩を揉んでみた。
「どうだ、阿部」
「むちゃくちゃ上手です。五十年に一人の天才です」
「本当か?」
「はい。オーナーより全然上です。ダンチです」
「マジかよ……また負けちゃった」
タマちゃんが拗ねた顔をして、指をくわえた。
「ぐすん。もう教えることないや。ユー、やっちゃいなよ。カエルになって、デビューしちゃいなよ!」
そう言うと、わしの胸からオタマジャクシのバッジをむしり取った。
「ついでに小僧も見てやる。やってみな」
イッチがへっぴり腰で、アホの腰をさすった。
「どうだ?」
「まるでダメです。こいつはクソです」
「おれの手つきを見てなかったのか? 指の第一関節、ここで押すんだ」
タマちゃんがイッチの手をつかみ、アホの背中をぐいぐい押させた。
「こんな感じだ。さあ、やれ」
「できません」
「なんでだ」
「今ので指が折れました」
「ふん、まったくカスだな。貴様は最低でも、十年は修行しろ。そうでなきゃとても一人前にはなれん。向こうに帰りたいなんてほざくのは、それからにしろ」
「折れた指は、どうしたらいいですか?」
「そんなかすり傷、唾つけて治せ!」
「はい!」
イッチは素直に、指をチューチュー吸った。
「阿部、おまえはちょっと、休憩室でおれの肩を揉んでくれ。小僧は山岸について雑用。小娘、おまえはこの部屋で待機してろ。ちょろそうな客が来たらまわすように秋山に言っとくから、適当にやってみろ。全身コースは一時間、部分コースなら二十分、時計をよく見てそこだけ注意しとけよ」
タマちゃんはアホとイッチを連れて出ていった。しばらくすると古参兵がやってきて、
「話はオーナーから聞いた。もうすぐ九時だが、今待合室に、開店前から待ってる客が五人もいる。なんにもやることのないジジイとババアだ。どうせボケてるに決まってるから、デビュー戦にはちょうどいい相手だ。ただし、骨は枯木みたいにスカスカだろうから、むちゃして折らないように気をつけてな」
古参兵はそう言って出ていった。すると今度はサンマルチノが来て、
「おじいちゃんが入るわ。全身コース。ユエナちゃんなら絶対大丈夫よ。ガンバ!」
サンマルチノが開けたドアから、タコ社長みたいな感じのじいさんが入ってきた。
「お嬢ちゃん、よろしくねー」
竹中直人の笑いながら怒る人みたいに首を振りながら、いそいそとベッドに乗った。
さてどうするんやろ。とりあえず、カメの絵がプリントされたタオルケットをかけた。
「お父さん、どないしよ。どこ揉んだらええ?」
「こないださあ、とおーっても面白いことがあったんだよ」
「なんでっか?」
「ところでボク、何歳に見える?」
「八十九」
「ボクはねえ、シベリヤで生まれたの。あそこはすんごく寒いよー」
まったく会話にならん。ムカつくジジイやけど、なんにもせんと時間が経ってくれるのはありがたい。これで最後までいったら超ラッキーや。
「ねえ、早く揉んでよ。揉み始めてから時間を計るよ」
トサカに来た。わしがオール巨人なら、まちがいなくパンパンや。
でも、止めてくれる国分くんもおらんので、
「どこにいたしましょう」
優しく言うたった。するとタコ社長は調子に乗って、
「足、足。それから手首の親指のこのあたり。あとお尻。それから手首の小指のほうも。あと首、ここよ、ネック、ネック!」
生き急ぐみたいに注文した。わしは次々揉みながら、ひょうきんプロレスでやったろうかと思った。せやけど、たしか竜介はあれで大ケガした。わし申し訳ないけど、竜介になる気はない。どうせなるなら、でっかく島田紳助や。
「こないださあ、とおーっても面白いことがあったんだよ」
タコ社長の話が戻ってきた。なんでっかと適当に相槌を打つと、
「相撲に行ったんだよねえ、大相撲。お嬢ちゃん、興味ある?」
「ありまっせ。ドルジとか好きや」
「そうかい。だったら今度、チケットあげるよ。ボク、手に入るから」
「おおきに」
「それでさあ、ゆるふん横綱っているじゃない。いつもまわしのゆるい」
「ゆるふん……あ、そっか。こっちの世界の力士はちがうんやな」
「まわしが落ちそうで落ちないスリルとサスペンス。あれが新しいってんで、新人類横綱とも呼ばれてるでしょ」
「知りまへんなあ」
「でもボク、せっかく高い金払って観に行ってるんだから、一度くらい外れてくれないと詐欺だなあと思ってね。落ちそで落ちない詐欺。ね? だからぼく、桟敷席で立ってさあ、落ちろって叫んだのよ。そしたらどうなったと思う?」
「落ちたんでっか?」
「もうお客さんみんながね、落ちろ落ちろの大合唱。そりゃそうだよね。誰だってハプニングが見たいもの。落ちろ、チャッチャッチャ、落ちろ、チャッチャチャ。北天佑のグルーピーみたいにでっかい声出してさ。そしたら横綱、がっぷり四つに組んだまま、きょろきょろし始めてね、巧みにまわしを外した」
「ホンマでっか?」
「うん、たしかにボクは見た。腰をきゅっと捻ってハラリと落とす。モロ出しで負け。八百長にはちがいないけど、あれは見事な神技だったなあー」
「偶然ちゃいまっか?」
「もちろん八百長だよ、八百長。テリーファンクの流血と一緒。そんでもって、天井仰いでぐっと唇を引き結び、涙を一筋流した。露出した悲しみと、しかしながら堂々としてなきゃならん綱の重みとが、あの涙と背中によーく出とった。あれぞ横綱。綱に求められる品格とは、まさしくあれだ」
「ようわかりまへんが」
「よっ、泣き虫横綱って、わしまた立ち上がって賛辞を贈った。綱がちらっとこっちを見て、ボクと一瞬目が合った。はにかんだようなそのロングフェースは、どこか誇らしげでもあった。客の期待に応えた満足感だな。横綱は万雷の拍手の中、まわしを肩に担いで、威風堂々花道を下がっていった」
こいつはどうしようもない嘘つきや。きっと誰にも相手にされんようになって、こっちに落ちてきたんやろう。
「おや、もう時間か。時の経つのは早い。ありがとう、お嬢さん、また来るね。ところでボクは八十九じゃなくて、まだ八十六だからね。失礼しちゃうわー」
ふざけんじゃねえバカヤローと、笑いながら怒って帰っていった。
デビュー戦は終わった。果たしてあんなもんでよかったかいなと考えとると、
「おめでとう、ユエナちゃん。タマちゃんに報告しに行こ」
サンマルチノに連れられて、男子の休憩室に行った。
「失礼します。オーナー、ユエナちゃんが――」
「わ、やめろ!」
「トールチャンッ!」
わしとサンマルチノのあいだを、とおるちゃんが矢のように飛んでいった。
タマちゃんとアホが、唇から血を流しながら、
「早く追いかけて!」
「いなくなったら五百万だぞ!」
全員受付に走った。また自動ドアがあいとる。急いでドアから外に出ると、
「わっ、誰か死んでる」
アホが叫んだ。わしは息を呑んだ。マッサージ館とハンバーガーショップのあいだの歩道にうつ伏せに倒れとるのは、まぎれもなくさっきのタコ社長やった。
「む、老人の行き倒れか」
タマちゃんはタコ社長の身体を抱きあげると、指でまぶたを開いて眼球を覗き、ボールペンの先で黒目をちょんちょんつついた。
「ポックリ逝ったな。おい、阿部。面倒だから、ハンバーガーショップのほうに死体を寄せとけ。そしたら、あっちの店員が通報してくれるだろう」
そう言って立ち上がったタマちゃんの頭に、とおるちゃんがどこからか飛んできて、サッと止まった。
「ピピー」
この子が店から飛び出すと、必ず死体が見つかる。とおるちゃんの鳴く夜は恐ろしい、ピピー……って、まだ昼か。
じゃあ死体はよろしくと言って、タマちゃんがベンツに乗って帰った。腰を一二〇度に折ってそれを見送っていたアホが、車が見えなくなると、
「オーナーの気が早いのにも困るね。どう考えても、きみのデビューはまだ早いでしょ。実際、じいさん一人殺しちゃったしね」
「え? あれ、わしのせい?」
「力任せに揉んで、心臓に負担をかけたんじゃない? まあ別に気にしなくていいよ。これもまた勉強さ」
「そんなに強くやらんかったけどなあ……」
ピーポーピーポーと救急車が来て、タコ社長を運び去った。これでもう、あのホラ話が聞けんのかと思うと、少々寂しい気がした。
「さ、店に戻ろう。ぼくがマッサージを教えてあげる。といって、自分が仕事しないで楽するつもり」
あいているマッサージルームに入ると、アホがごろんとベッドに横になった。
「どこ揉みまっか?」
「足、足。それから手首の小指のほう。次に背中から腰まで全部。また手首の小指のほう。あと首、ネック、ネック!」
なんかデジャブやなーと思いながら言われたとおり揉んどると、そのうちアホがイビキをかいて寝始めた。
アホらしいからアホを残して部屋を出た。すると、通路で古参兵に会った。
「時間があいてたら、少しでも勉強しろ。二階の事務室に本があるから」
事務室に行ってみた。そしたらイッチが、電卓や電話が置いてあるデスクに向かって、本を広げてなにやら読んどった。
イッチは本から顔を上げると、嬉しそうな顔して、
「やあ、ユエナ。すごいね、もうデビューして」
「でも殺してもうた」
「こっちに来てまだ丸一日にもならないのに、これでもう二人も死ぬのを見たね。これじゃあ人口が増えないはずだよ」
「その割りに、お客さんよう来るな」
「安いもん、ここ。オーナーはやり手だよ。従業員を恐怖で支配して、薄給でこき使う。実に社会勉強になる」
「夢のくせに、夢のない話やな」
「夢は現実を反映するのさ」
わかったようなことを言って、内藤陳が決めゼリフをかましたときみたいに得意げに笑うと、開いた本にまた目を落とした。
「なに見てんねん」
「解剖の教科書。主任が、明日の朝テストするから、それまでに骨の名前を憶えておけって。まずは手と足から」
わしも本を覗いた。ガイコツが、「ゆーとぴあ、よろしくねっ」のポーズをしとる絵が描いてあった。
「なかなかオシャレな本やな。ほほー、肋骨は六本でも百億本でもなくて、二十四本やったんか。勉強になるな」
「太ももの骨は大腿骨で、すねの骨は二本……腓骨と脛骨か。内側のくるぶしは内果で、外側は外果っていうんだって」
「そんなん憶えてなんになるんやろ。客のためにはならんで」
「テストのためだよ。ふんふん、二の腕の骨は上腕骨で、前腕は橈骨と尺骨か。なんだか字がムズカしいなー」
「そのトーコツだかシャッコツだかを、今日はえらく揉まされたで。そんなんより、ツボの本読んだらどや。そっちのほうが実用的やろ」
「たぶんこれかな」
本棚からイッチが抜いた本の表紙には、深海魚みたいな顔したジジイが白衣着て、両手の親指を突き出した写真が載っとった。
「指圧の心はママの味……変な題やな。エドはるみみたいなかっこして。このジジイやったら、ケーシー高峰のほうがよっぽど男前やで。深海魚の中では」
「わ、これもっとムズカしい。肩井、合谷、手三里だって。全然読めないや」
「読めんでもええねん。わし、調べたいことあるんや」
「なに?」
「レイに押されたツボや。わし、眠らされんようきばって、全部憶えたさかい。手の指、まぶた、首すじ、足首のまわり、最後はどてっ腹っちゅう順番やった。このツボがどこかわかれば、帰れるんとちゃうかな」
「見てみよう。ひえー、指のツボだけでもたくさんあるよ。小商、大腸、小腸、心穴、三焦、肺穴、肝穴、少衛、腎穴……」
「お経みたいに読むな。織田無道思い出すがな。ほんで、そのツボ押すとどうなる?」
「カゼが治って胃が丈夫になって乗り物酔いしなくて肌荒れと鼻炎と痔が改善する」
「さすがツボは万能やな。次行くか。まぶた」
「これかなあ……魚腰?」
「そこ眉毛やな。もっと目んとこやったで」
「睛明? 四白?」
「ちっとわからんな。効果は?」
「顔やまぶたのむくみ、目の疲れ、ドライアイ解消」
「まあ、そんなもんやろ。首は?」
「天柱、風池、完骨、風府」
「どれもちがうな。もっと首の前のほう、のどの近くやで」
「じゃあこれかな、人迎?」
「近いな。なんに効く?」
「高血圧とイビキだって」
「失礼しちゃうわー。次、足首」
「足の裏じゃなくて?」
「ちゃうな。内側のくるぶしと、踵のあたりやった」
「内果と踵骨だね。とするとこれだ。照海、三陰交、大鐘、水泉、然谷」
「なんに効く?」
「不眠症、婦人病、泌尿器・生殖器障害、神経衰弱」
「もうええわ。最後、腹や」
「中院、天枢、関元」
「こん中じゃ、二つめのやな。へその辺やったから」
「天枢だね。あ、これ、万能のツボって書いてある」
「全部万能っちゅう気ィするわ。いちおう効果を聞いとくか」
「下痢、便秘、膀胱炎、精力減退、冷え性、生理痛、生理不順、子宮内膜症」
「ホンマに書いとるか……ホンマや。糖尿病にも効くらしい。えらいなー」
「だけど、これ調べても、意味ないんじゃない?」
「なんでや」
「ぼくたち素人だから、うまく押せないよ。ちょっとでもポイントがずれるとダメでしょ」
「わし、五十年に一人の天才やで」
「でも、ツボの数はこんなにあるんだよ。どの組み合わせかわかる? 押す強さと角度と時間は? そもそもユエナが憶えてるのは、向こうからこっちに来るツボでしょ。こっちから向こうに帰るのも同じツボでいいの?」
「わしかて知らんわい。結局タマちゃんに訊くしかないな」
「無理だよ。ぼく十年は帰してもらえない」
「やっぱし現実が恋しゅうなったか?」
「どうもここブラックだしね。高校行ってたほうが楽だったかも」
「ほなわしと帰ろう。タマちゃんなら大丈夫。赤ちゃんバブバブとお尻ペンペンの秘密握っとるんや。これで脅迫したらきっと白状する」
「でもほんとにオーナーは知ってるのかな。アテにならないよ」
「なにい? 訊く前から負けること考えるバカいるかよ!」
気合一発ビーンと張った。
「痛い! なんでビンタするの」
「やれんのか、おい!」
「ちょ……やりますよ! ○×&%$#△!」
あのおとなしかったイッチが、なにやら叫びながら張り手を返してきた。わしの猪木ギャグが効きすぎて、マッチョ・ドラゴンの魂が乗り移ってしまったようや。
「あ、ごめん、つい」
「ええんや。いいビンタやったで」
「ユエナ」
「なんや」
「好きです」
ぎょっとした。
「もう、勘弁してくれ。密室でなに言うねん。おまわりさーん」
「感謝してるんだ。岩井勇気、じゃなかった、生きる勇気をくれて」
「そんなんやってない! 夢見たんやろ、夢を」
「空海の松のところで、三百歳まで生きろって言ってくれたでしょ。あれでパーッと未来が開けた。ぼく、生きるよ」
「おう。きばって死ぬまで生きてくれ」
「ありがとう。できれば、ユエナと生きられたらいいな」
「やめろ! おどれはセリイがええんやろ」
「サイレントは捜すよ。たぶん、このすべての鍵は、彼女が握ってる」
「どういう意味や?」
「わからないけど、とにかく彼女に会って、どうしてぼくの夢に出てきたのか教えてもらおうと思ってる」
「ほんだら、そのままセリイと結婚したらええやん」
「ユエナ、将来ぼくと、結婚してくれる?」
腰が折れそうになった。
「結婚……ちょい待ち。よう言えるなそんなこと」
「ぼく、一生懸命働くから。ユエナみたいな天才じゃないけど、頑張るよ」
「条件あるで」
「年収?」
「それも大事やけど、もっと大事なことや」
「なに?」
「一生わしに触らんでほしい。約束できるか」
「……ハグも?」
「そや。指一本触れたらアカン。そんなら結婚してやってもええで」
するとイッチが、お陽さんみたいに明るく笑った。
「ありがとう! いつかぼくが立派になったら、よろしくね」
ずるっと足がすべった。
「アホか! ちゃんと人の話聞いとったんか。一生触るな言うたんやで」
「聞いたよ」
「ほんでええのか。おどれ病気か?」
「たぶん健康」
「だったら……ほかになんぼでも、触らせてくれるおなごおるで」
「ユエナじゃなきゃダメだよ。これ以上の人には、もう二度と出会えない」
事務室を飛び出した。
息が吸えん。真っ白な頭のまま、受付に駆け込んだ。
「どうしたの、ユエナちゃん?」
「頼む、イチゴ姉さん、わしの部屋に来とくれ」
サンマルチノを連れて二階に上がろうとした。が、逆にカナディアン・バックブリーカーの形に担がれて、部屋まで運ばれた。
「なにがあったの、セクハラ?」
ベッドにわしを置くと、サンマルチノが心配そうに訊いた。
「求婚された」
「……タマネギ?」
「ちゃう。プロポーズや」
「えっ? 誰に?」
「イッチ」
言うたとたん、蛇口が壊れたみたいに涙が出て、サンマルチノの胸に顔を押し当てた。
「よかったわね、ユエナちゃん。苦労したから報われたのよ」
「ちゃう、ちゃう。そんなん全然ちゃうねん。わし、けがれとるねん」
「ちがうのよ。今のあなたはきれい」
「男に触られたらと考えると、ジンマシン出てきて吐いてまう。死にとうなんねん。だから無理やねん」
「徐々に慣れるわ」
「嫌や! イッチはものすごいええやつなんや。善人の見本、人類の鑑や。わしとはまるっきり釣り合わん」
「善人はあなたよ。初めてオーナーに意見したすばらしい人よ。あなたたちほど似合いのカップルはないわ」
「わし、男を幸せにできん。イッチみたいにええやつを、不幸にするなんて、わしには絶対耐えられん!」
声を上げて泣くわしを、サンマルチノがベアハッグで絞めた。
「なんて優しい子。一ノ瀬くんは幸せよ」
「逆や。不幸のズンドコや」
「彼はあなたに触りたがるの?」
「逆や。指一本触るな言うたら、ありがとう言いよった」
「じゃあいいじゃない。早く彼のところへ行って、ふつつかものですけどよろしくって頭を下げてきなさい」
「……ホンマにそれでええ? 男は寂しないか?」
「約束破って触ろうとしたら、わたしに言いなさい。必殺マシンガンキックを見舞ってやるから」
「まあ、指一本くらいなら、許したってもええけど」
「じゃあ指一本ならいいよって言ってくるのよ。さあ、早く!」
部屋を出て、事務室の前に立った。そーっとドアを開けると、本棚の前にしゃがんだ、カエルの制服の背中が見えた。
「あ、あのな。指一本くらいなら、触ってもええで」
「え?」
驚いた顔をして、変態オヤジが振り返った。
「触ってもいいって、どこ?」
悲鳴をあげた。するとすぐさまサンマルチノがとんできて、変態オヤジをボディスラムで叩きつけた。
「そ、そろそろ先輩たちの、あいだをまわって、昼食はどうしますかと、訊いて、準備す、るんだ」
変態オヤジが胸を押さえながら、あえぎあえぎ言った。ボディスラムは、打った背中よりも胸に効くと聞いとったが、ホンマのようやった。
そこへちょうどソバカスが通りかかったんで、昼はどうしまっかと訊くと、
「適当に買って食べるからいいよ。それよりも、おれっちの部屋をきれいにしといてよ。もう埃を食うのはたくさん」
ソバカスとアホの部屋を掃除しとったら、古参兵がぬっと覗き、
「急いで骨の名前を憶えてくれよ。まちがえた数だけぼくが殴られるんだから。もう手がかすっただけで鼻血が出るようになっちまった。ブッチャーの額と一緒」
ぶつくさ言いながら帰った。ほんなら勉強するかと事務室に行きかけると、
「ユエ、マッサージの練習してみる?」
マッカーサーに呼び止められた。マッカーサーはフフッと笑い、
「ユエなんていうと、ベトナムの戦場を思い出すわね。あの戦争で受けた心の傷は、今もあたしをさいなんでいる」
「姉さん、サバイバルゲームやろ?」
「まあね。でもね、ユエ。本物の戦争のない場所は、夢の中しかないのよ」
あいているマッサージルームで、マッカーサーが横になった。
「顔やってみて。小顔になりたくて、フェイスマッサージを希望する女性は多いの。それからお尻。ヒップアップさせるようにやって。あと背中。背中の血流を良くすると、ダイエット効果があるのよ。最後にお腹の横。ここの脂肪をうんと絞って」
自分のためにやらせとるな、と思いつつ揉んでやった。
ノックの音がしてドアがあいた。振り返るとソバカスが、
「クミさん、指名入りました」
やれやれとため息をついてマッカッサーが出て行くと、入れ替わりにソバカスがベッドに寝て、
「今度はおれっちが教えてあげる。足から尻にあがって腰と背中全部やって首。そうそう。しっぽの先から指先までね。うんうん。首と背中はもう一回やって」
アホと同じでこいつもイビキかいて寝よった。部屋を出て、向かいのマッサージルームのガラス窓を覗くと、中でイッチがせっせと古参兵の坊主頭を揉んどった。
やがて、イッチが部屋から出てきた。
「主任、寝ちゃった」
「みんなそうや。こいつら教える言うて、自分が気持ち良うなりたいだけや」
「疲れてるんたよ、きっと。でも、ああやって気持ち良さそうに寝てくれると、なんだか嬉しくなるね。この仕事が好きになってきたよ」
「ホンマにええやっちゃな、イッチは」
二人で二階に上がりながら、わしはイッチに言った。
「あのな、イッチ」
「なに?」
「わし、家庭に問題あんねん」
「言わなくてもいいよ、別に」
「まだ小っちゃいときに親が離婚してな。母親が再婚したんやけど、わしその男になつかなかってん。したら暴力振るわれてな、母親もそっちの味方しよった。わしよりも、男のほうを選んだんや。ほんだらそいつは図に乗りよって、身体に触ってくるようになった。母親は見て見ぬフリじゃ。だからな、わし、男に触られるの考えると、吐き気がすんねん。死にとうなんねん。堪忍してな」
「ひどい親だな。それでも向こうに帰りたい?」
「わからん。しかしな、帰らんいうのは、逃げのような気がするんよ」
「逃げたっていいじゃん」
「なんでわしが逃げなアカンねん。それが腹立つ。あいつらの思うツボじゃ」
「帰って対決する?」
「対決か……一対二やからな」
「ぼくを入れたら二対二だよ」
「一緒に闘ってくれるか?」
「もちろん。ずっとユエナと一緒にいるよ」
「ありがと。嬉しいわ」
頼りないと思うとったイッチやのに、今はイッチがおらんと、なんもできんような気になってきた。
結婚したい。
「あ、ごめん」
「なにを謝ってる?」
「泣いてるから」
「これは嬉し涙や。それか悲し涙や」
「どっち?」
「わからん。わしみたいな女でええかと思うと、嬉しいけど、悲しくもなんねん」
「泣かないで」
イッチの身体が近づいた。反射的に鳥肌が立つ。こんなに好きでもダメか、と思うたとき、ふと視線を感じた。
サンマルチノやった。食堂のドアの隙間から、明子姉さんよろしく覗いとった。
わしはコホンと咳払いした。
「あのな、イッチ。わしに触らんほうがええで」
「わかってるよ」
「マシンガンキックがとんでくるからな。今は明子姉さんしとるけど、そのうちクルーゾー警部を狙うカトーみたいに襲ってくるで」
「全然わかんないよ。クルーゾー警部って誰? 井上順?」
「井上順って誰や。アンパンマンの旦那か?」
「それは井上純一。井上順は通販の司会だよ。あー、またインディジューンズやってくんないかなー」
「もうええわ。さ、事務室行こ。テストあんのやろ」
サンマルチノに気づかんフリして、食堂の横を通った。襲うチャンスを逃したせいか、チッと舌打ちする音が聴こえた。
事務室に入ると、イッチが言った。
「ぼく今夜、山岸先輩と出掛けるんだ」
「変態とかい。どこ行くねん」
「ぼくの生活必需品を、買ってくれるんだって」
「あいつまだオタマジャクシで、金ないんやろ?」
「ここに来る前に別のところで働いてて、少し貯金があるんだって。誰にも言ってないから内緒だぞって、こっそり教えてくれた」
「ほんでイッチに買うてくれんの? ええとこあるやん」
「ツケだけどね。でもホント、すごくいい人だよ」
「わからんもんやな。仇名をジョージ・マイケルに変えたるか」
「それでね、昨日の夜、サイレントのことも話したんだ。そしたら、買い物のついでに若い女の子がいそうなところも見て、訊き込みしてくれるって」
「ほう、睡眠時間を削ってかい。ますます男前やのう。ウキウキ、ウェイクミーアップ!」
「でね、普通訊き込みするには写真がいるけど、持ってないから、似顔絵描いてみたんだ。ちょっと見てくれる?」
イッチが事務室を出て、紙切れを持って戻ってきた。
「どうかな」
鉛筆で、丸にチョンチョンと点をつけたような絵が描いてあった。
「絵心が……ずうとるびの江藤以来の衝撃やな。わしに任せい。三波伸介ばりに減点パパの要領で描いたるから。えーと、顔は丸顔、目は小さくて、鼻は低い」
イッチのメモ帳にできあがった絵を見ると、イッチの絵と大差なかった。
「あら、おかしいな。川島なお美かエバかっちゅうくらい、絵は得意なんやけど」
「だから、こんな顔なんだよ、サイレントは」
「そっか。あらためてセリイの顔思い出すと、平凡すぎて、どこにでもいそうな、そのくせ逆にどこにもいなさそうな感じが……」
「でしょ? 山岸先輩にこの絵を見せたら、この顔はどこかで見た気がするけど、いくら考えても、それがどこかは思い出せないって言ってた」
「不親切なギャルやで。もっと見つけやすい顔せいっちゅうんじゃ」
するとそのとき、ノックもなくドアがあいて、
「二人とも昼メシは食ったのか? まだならこれを食え」
古参兵が、ハンバーガーショップの包みを突き出した。
「遠慮させてもらうわ。どうせ一万円やろ」
「いやいや、これはぼくのおごり。本当だよ。そんな疑いのまなこでぼくを見ないで」
包みを置いて出ていった。あいつもええとこあるやんかと、見直す気になった。
「まずはメシ食お。食って体力つけんと、夜の訊き込みにも行けんからな」
午後もなにかと忙しかった。オスガエルどもの私物の洗濯やら、マッサージの練習やら、テスト勉強やら、夕食の買い出しやらで時間が過ぎた。
営業時間が終わり、マッサージルームの掃除とタオルケットの洗濯をして、食堂で食器を洗っとると、
「ラーメンでも食いに行くか?」
アホが誘ってくれた。そんとき食堂にいたのは、アホとソバカスと変態オヤジとイッチとわしの五人。古参兵は一人で外食に出かけ、サンマルチノとマッカーサーは、それぞれ自分のアパートに帰っとった。
「ありがとうございます。でも今夜は、山岸先輩と約束がありまして」
イッチが丁寧に断わった。するとソバカスが気に入らん顔して、
「なによ、自分たちだけで遊びに行くの? おれっちは朝四時にオーナーを迎えに行くから、もう寝なきゃなんないのに」
ブーたれた。変態オヤジは黙って下を向いた。
「ギシさん、こいつらにおごるの? そんな金あるんですか? わ、気持ち悪い顔。オエーッ」
「……金ないんで、ここでカップラーメンでも食べて出かけようかと」
「きみたちはカップじゃないラーメンのほうがいいでしょ? おれと行こうよ」
イッチが困ったような顔をして変態オヤジを見た。わしは助け舟のつもりで、
「あいにくやけど、先にした約束のほうが大事や。兄さんには、この次遠慮なくおごってもらうさかい」
すると突然ソバカスが、
「じゃあこうしよう。おれっちが山岸さんに特製コーヒーをおごるよ」
キッチンに立って、コーヒーを淹れ始めた。
「ウフフ」
妙な含み笑いをしながら、ズボンのポケットから紙包みを出し、そこに包んであった白い粉をコーヒーに入れた。
「はい、どうぞ」
変態オヤジが、コーヒーを見つめて固まった。
「どうしたの? 先輩の淹れたコーヒーが飲めないんですか?」
「……なに入れたんですか?」
「は? 砂糖ですけど」
文句あんのかという顔で言うと、アホがクツクツ笑い、
「それは、睡眠薬の錠剤を砕いたのだよ。こいつ、いつでもそれを持ち歩いて、街で女の子に悪いことしてんの」
「阿部さん、すぐ言う~」
変態オヤジが青い顔してうつむいとると、ソバカスはヒートアップし、
「なんでシカトしてんの。飲んで!」
「でもワタシ、睡眠不足で疲れてるから、これ飲んじゃうとちょっと……」
「おれっちはもう寝なきゃいけないって言ってんのに、後輩たちがなんで遊びに行く気でいんの。さあ飲め!」
「飲まんでええで」
また助け舟のつもりで言ったんが、かえってきっかけになって、
「いや、いいよ。ありがとう、ユエナちゃん。いただきます」
一気にガブガブ飲んでもうた。
「ごちそうさま。一ノ瀬ごめんな、今日はもうカップラーメン食べて寝よう。約束はまた今度」
そう言って立ち上がると、ふらふらと出口のほうへ向かった。
「兄さん、どこ行くん?」
「ちょっとコンビニまで。あそこにオバサンがいると、ただで商品をくれるんだ。ただし、いるのがオーナーか店長だと、刃物持って追いまわされるけど」
わしらのために、命懸けでカップラーメンを調達するつもりらしい。ほんなら一緒に行くかと、イッチに目配せして食堂を出たとき、
ドン! ガンデンダン!
でかい音が響いた。急いで廊下を走ると、階段の下で変態オヤジが倒れとった。
「睡眠薬が効いたんだよ。足元おかしかったもん」
イッチが言って駆け降りた。わしも降りて、二人で変態オヤジの身体を起こすと、
「イテテテ。いやー、失敗失敗。上から下まで落ちちまった」
「令和の平田満やな。病院行くか?」
「大丈夫。でも出かけるのはやめてもう寝るよ。一ノ瀬悪い。打ったところを、部屋でちょっとさすってくれ。すねと腹の真ん中とケツと背骨と横っ腹だ」
イッチがおんぶして部屋まで行った。わしは食堂に寄って、アホとソバカスをにらんだ。
「兄さんたち、仲間をケガさせても平気か」
返事はなかった。これ以上ここにおっても胸クソ悪いから、自分の部屋に入った。
なかなか眠れんかった。腹が減ってたし、ムカついてたし、なによりスマホで動画を観れんのが寂しかった。
スタ誕が観たい。新幹線コンビの幻の十週目を探したい。痩せてたころのコロッケを観たい。こんなことになるんなら、もう一度九十九一の一週目を観とけばよかった。あれは歴史に残る名作やった……
にじむ涙をそっと拭いた。そのとき小さなノックの音がした。
「ごめん、ユエナ。開けてくれる?」
ドアを開けると、イッチが深刻な顔して立っとった。
「山岸先輩が、トイレに行くって部屋を出たきり、戻ってこないんだ」
わしは、ふーっとため息をついた。
「夜逃げやな。イジメは罪やで、ホンマ」
「でも、財布は置いてってるし……とりあえず、この建物の中を一緒に捜してくれない? なんだか嫌な予感がするんだ」
部屋を出るとき、サンマルチノがくれた壁掛け時計を見た。もうとっくに十二時をまわって、そろそろ一時になるとこやった。
イッチが二階のトイレを覗いた。個室のドアはあいていて、中には誰もいなかった。
シャワー室も見た。誰もおらん。もちろん、人が隠れられるようなスペースもない。
「事務室も空やったな。となると、アホたちの部屋か、古参兵の部屋や。どっちかに呼ばれて、腰でも揉まされとんのとちゃうか」
「待って、まだ洗濯室を見てない」
洗濯機の動く音は聴こえんから、私物をこそこそ手洗いしてるのかもしれん。その可能性はあるなと思いつつ、電気の消えた暗い洗濯室のドアをあけると、
「あっ!」
イッチが声をあげた。わしは息を呑んだ。
洗濯機から、逆さになった人間の両脚が突き出ていた。そう、あのにしおかすみこの渾身のギャグ、犬神家そのままに……
洗濯槽からは、水があふれていた。ということは、頭は完全に水に漬かっとる。
「山岸先輩」
イッチが声をかけて、パジャマを穿いた両脚に抱きついて引っ張った。ぐしょ濡れになった上半身が洗濯槽から出る。イッチが手を放すと、身体は力なく床に横たわり、変態オヤジの顔があらわになった。
その顔色は真っ青で、目はカッと見開かれ、口が苦しげにゆがんでいた。
「びょ、病院に電話。一一九番、早く」
「待て。どう見てもこれ、瞳孔が開いとる。残念やけど、もう死んでるで」
「蘇生するかもしれないじゃん。救急車呼ぶだけ呼ぼう」
事務室へ行った。イッチが受話器をとって、一一九番を押す。ところが、
「……おかしいな。全然音がしない」
「壊れとんのか? 受付にも電話機あったで」
「あ」
「どうした?」
「見て、電話線切られてる」
イッチが指差した壁のところを見ると、確かにコードが切れて垂れ下がっていた。
「もしかして、通報されないように犯人が――」
「自殺ちゃうんか? イジメを苦にしての」
「こんな方法で自殺は無理だよ。苦しくてすぐに顔上げちゃうでしょ。水死するまで、誰かが上から押さえつけたんだよ」
「……むごいのう。誰がやったんや。アホか、ソバカスか?」
「先輩たちが、そんなことするとは思えないけど」
「現実に死んでるがな。ん、夢に、かな? まあええ。ともかく容疑者はアホとソバカスと古参兵の三人。このうちの誰かが犯人や。もしこれがクリスチィやったら、三人全部が犯人や」
「ホントにホームズみたいになったね」
「チンタイ・ホームズと呼んでくれ。せやけどこれは、ホームズ向きやないな。金田一、いや、マッサージ館の殺人やから、島田潔の出番や」
「ホームズ、犯人の動機は?」
「見当もつかん。ジョージ・マイケル殺して、いったい誰が得するねん。横でギター持ってたやつか」
わし、軽口叩いとるけど、ホンマは悲しかった。イッチの目にも涙がたまっとる。幼女誘拐犯で、変態で、生理的に無理やったけど、不器用で、どこか憎めなかった。こんなギャグっぽい死に方するなんて、悲しゅうて仕方なかった。
変態オヤジが夢の世界に来たのは、現実で生きるには、心が弱すぎたからや。あるいは優しすぎたからや。それなのに、こっちで殺されるなんてむごすぎる。理不尽や。世の中すべて、夢も現実も理不尽なんじゃ!
「ユエナ、どうしよう。警察呼ぶ?」
「あんなもんアテにならん。容疑者どもを絞りあげてゲロさせるには、タマちゃん呼ぶしかないやろ」
「家、わかる?」
「ここに住所録でもあればな。せやけど、こっちの町名見てもどこかわからんな」
「もしオーナー呼んでも、本気で犯人を見つけようとしてくれるかな。身内みたいなもんだし、店のために事件を揉み消そうとするんじゃない?」
「そうなったら、わしらが危ないな。野放しになった犯人に、次に狙われてまうかも」
「そうだね。でもいくら想像しても、あの人たちが人を殺すとは思えないんだよなあ……あっ!」
わしはギャッと叫んで、床から跳びあがった。
「な、なんや、なんか出たか?」
「ううん。ちょっと思いついたことがあって」
「静かに思いつけドアホ! 口から心臓が出たやないか」
「あのさ、犯人は、あの三人じゃないかもしれないよ」
「どういうこっちゃ」
「ぼくたちはすでに、死体を二つ見たじゃん」
「すだれ髪と、タコ社長やろ」
「あれも殺人だったんだよ、きっと」
「連続殺人か? ますます動機がわからん」
「動機なんてないさ。こっちの世界は、サイコキラーが跳梁してるんでしょ。だから、無差別に殺しまわってるだけなんだよ」
「なーんだ、良かった、っておい! そっちのほうが安心できんやんけ!」
「今この瞬間も、下のマッサージルームに潜んでたりして」
「もうすでに、古参兵たちもえじきになってたりして。て、言うてる場合か。どないしたらええねん。ここにおって殺されるのを待つか、逃げて捕まるか」
「先輩たちを信じて、助けを求めよう」
「うーん、やっぱりわし、信用できんなあ。あいつらの容疑はまだ晴れとらん」
「なにか武器を持とうか。食堂に庖丁があったよ」
「わし、先端恐怖症やねん。イッチ持ってくれ」
事務室を出て、食堂に向かった。廊下の暗さに足がすくむ。殺人犯がすぐ近くにいるかもしれんと思うと、身体が勝手にガタガタ震えてきた。
「アカン。動けん」
「大丈夫?」
「泣きそうや。サンマルチノ呼べんかな。あの怪力女がおったら、きっと安心できると思うねん」
「住所わかんないしねえ。出勤してくるのを待つしかないよ。あと五時間くらい」
イッチが食堂に入って、灯りをつけた。とたんにウオッと獣みたいに吠えて、わしに抱きついてきた。
食堂に人がおる――あまりの恐怖に声帯が絞まって声が出ん。わしはヘナヘナと崩れそうになって、無意識にイッチにしがみついた。
「あら、ごめんなさい。おどかしちゃったわね」
なんや。よう見たらマッカーサーやった。まったく人騒がせな女や。ショック死させる気かい、ボケ!
と、怒鳴ったろうと思ったが、どっか様子がおかしい。目に力がなくて、頬がこけとる。仕事が終わって帰るときは普通やったのに、ほんの数時間でこんなにやつれるなんて、いったいなにがあったんやろう?
「姉さん、なんでこんな暗い中におったん?」
すると、マッカーサーは髪を掻きあげて、かすれた声で元気なく嗤った。
「羞ずかしいけど、お腹がすいちゃって。あたし今、スッカラカンなの。お金があってもすぐ費っちゃうのよね。だから財布も冷蔵庫もカラッポ」
「ほんで、パン食いに夜中に?」
「コソ泥みたいにね。空腹で寝られなかったから、朝まで待てなかったの。あなたたちもなにか食べにきたの? それとも……」
じーっと見られてハッとした。まだイッチと抱き合ったままや。
あわてて離れた。イッチの手の感触がまだ背中にある。男の手――嫌悪感、罪悪感。くそ、まだまだわしは、あいつらの呪縛に負けとる。
「お熱いとこ、ジャマしたみたいね」
「ちゃうねん、姉さん。そんな呑気な場合やない」
変態オヤジのことを話した。するとマッカーサーは、怒った顔して「嘘っ」と言い、洗濯室に駆け込んだ。
わしらもあとから行った。マッカーサーは床に膝をついて、動かない変態オヤジの身体を揺すぶっていた。
「どうしちゃったの? ねえ、返事してよ」
ポタポタ涙を落としとる。クールな姉さんやと思ってたが、仲間を想う気持ちは熱いようや。
「変態で、気持ち悪くて仕方なかったけど、いなくなったら寂しい。死んだら二度と会えないのよ。こんな悲しいことってある?」
ウンウン唸って泣いた。わしはしばらくなにも言えず、マッカーサーのうめき声が収まるのを待って、イッチと二人で考えた推理を話した。
マッカーサーは、憔悴した顔をあげてゆっくり首を振り、
「あの三人が犯人なわけないわ。山岸ちゃんがいなくなったら、ストレスの捌け口がなくなるもの。それに、雑用だって増えちゃうし」
「なにか個人的な恨みは?」
「全然。彼を恨む人なんか、この世に一人もいないわ。役立たずって、いつもみんなに罵られてたけど、本当はいちばん役に立ってたのよ。こういう人こそ絶対に必要だった。生きてるうちに、それを言ってあげなくてゴメンね。ウウ……」
またうめきだしたと思ったら、突然ガバッと立ちあがり、
「ちきしょう、サイコキラーめ。あたしが復讐してくれる。ここは二〇三高地。仲間の屍を越えて、必ずあたいが日の丸立ててやる」
洗濯室を出ていこうとするのを、手をとって止めた。
「待って、姉さん。一人でどこ行くん?」
「家に帰って武器をとってくる。サバイバルナイフとスタンガンがあるから」
「途中で捕まったらどないすんねん。男ども起こそか?」
「弱兵を連れて、捕虜にされても困るでしょ。あたしなら慣れてるから大丈夫。ついでに、イチゴちゃんとオーナーを呼んでくるわ。あなたたち五人は固まって防御態勢でいなさい。ラジャー?」
「ラジャー!」
わしとイッチは、思わず敬礼した。
「とりあえず、主任を起こそう」
マッカーサーが颯爽と行ってまうと、イッチがそう言って、古参兵の部屋をノックした。
「……どうした?」
眠そうに目をこすり、不審げな顔で訊いた古参兵に、変態オヤジが死んでることを伝えた。すると、
「はあ? なんだそりゃ」
大声をあげて洗濯室に行った。その音で起きたのか、アホたちの部屋のドアもあいて、
「どうしたの? 幽霊でも出た?」
びびった顔でソバカスが言った。そこでアホとソバカスにも状況を伝えた。
「嘘だあ。なんかのまちがいだろ」
「おまえの入れた睡眠薬が効きすぎて、熟睡してるだけじゃないか」
信じられんという顔をして、二人が洗濯室に向かったとき、
「おい、バカ! 早く救急車を呼べ!」
古参兵の怒鳴り声がした。行ってみると、古参兵は必死で変態オヤジに心臓マッサージをしとった。
「電話線、切られてんねん。たぶん犯人のしわざや」
「は、犯人?」
古参兵の手が止まる。アホが変態オヤジの顔を覗き込んで、
「主任、ダメです。もう完全に死んでます」
男どもが全員、がっくりと肩を落とした。
「クソッ! 誰が山岸を……ひでえことしやがる」
「なんで山岸さんなんだよ。こんないい人殺すなんて」
「ギシさんかわいそうに。犯人マジ許せねえ」
三人とも目が赤かった。わしは疑ったことを反省した。とても演技とは見えんかったし、もしこんな演技ができるようやったら、もっと上手に世渡りして、こっちに落ちてくることもなかったやろう。
と、そのとき、
「ピピピピピピピーッ!」
階下から、鳥の騒ぐ声が聴こえてきた。
「とおるちゃんだ。こんな時間に鳴くなんて変だな。なにかあったんだ」
古参兵が厳しい顔で言うと、ソバカスが震える声で、
「犯人が、休憩室に忍び込んだのかな」
「かもしれん。行ってみるか」
「気づかれないようにそっと行こう。できれば捕まえたい」
「無理するなよ、阿部。相手はどんな武器を持ってるかわからん」
「おれはモップを持っていきます。主任は消火器、永作は庖丁を持って。そっちの二人は、おれたちの後ろについて、なにか見たら知らせるんだ。行くぞ」
アホがリーダーシップをとった。みんな黙って言われたとおりにし、足音を忍ばせて階段を降りた。
男子の休憩室は、階段のすぐ横にある。アホが横開きのドアに手をかけ、慎重に数センチほどあけて、顔をくっつけて中を覗いた。
しばらくそうしとったが、やがて思いきったように大きくドアをあけた。その瞬間、
「トールチャンッ、トールチャンッ!」
部屋からとおるちゃんが飛び出してきた。だけど今回ばかりは、古参兵も追いかけようとはしなかった。そっちは無視して、アホの背後から手を伸ばし、部屋の灯りのスイッチを入れた。
休憩室には誰もいなかった。ロッカーはあいていて中が見えとったし、ほかに隠れられるような場所もない。
「ここの窓は小さいから、こっから外には出られない。別の部屋に移動したかも」
「一応見てまわるか。もう逃げたかもしれんけど」
古参兵はそう言ったが、わしにはまだ犯人がいるように思えた。というのも、
「ワスレテチョウダイ、ワスレテチョウダイ~」
とおるちゃんが、やけに興奮して、ぐるぐる飛びまわっていたからや。きっと怪しいやつが、まだこの建物のどっかに隠れとる。
ところが。
六つのマッサージルーム、トイレ、女子の休憩室、受付と見てまわったが、誰も見つけることはできんかった。
「いないな。クソ、逃げられた」
「怪しいやつがいないか、外を見まわってみるか」
「そこまでしなくていいんじゃない? それよりも、みんなで交番に行こう。あとは警察に任せたほうがいいよ」
ソバカスがそう言うと、アホは黙ってうなずいたが、古参兵が腕組みをし、
「そろそろクミさんが、オーナーを連れてくるだろう。先にオーナーに話してから行ったほうがいい」
男どもは、もう犯人は遠くに行ったと思ってるようや。しかしとおるちゃんは相変わらず興奮して、
「ココデワラワナイト、モウワラウトコナイヨー!」
天井を飛びまわっていた。もしかして、わしらはどこか見落としてるんちゃうやろか。人間一人が隠れられる、盲点の場所を――
と、首を捻って考えとったとき、外で車の音がした。
「オーナーのベンツだ」
みんなあわてて受付に走り、直立不動で待った。
「こんばんは、森進一です」
自動ドアが開くなり、タマちゃんが、不機嫌全開の顔で言った。今回は、さすがに兄貴のかっこやなかったが、すっかり釣りに行く気だったのか、やたらとポケットのついたベストを着とった。
「山岸さんはどこ?」
タマちゃんのあとから、サンマルチノが入ってきた。洗濯室ですと古参兵が答えると、マッカーサーと二人、階段をのぼっていった。
階段を降りてきたとき、サンマルチノは泣いていた。
そして、なんやらうわ言みたいに、言葉をつぶやいとった。
たった一人でこっちへ来て
たった一人で死んじゃった
あんなに必死に生きてきて
だけど逃げずにがんばって
なんのためにがんばったの
だけどそれも消えちゃった
自作の詩らしい。内容が当たり前すぎて、これじゃ売れんわなと思った。
せやが――
わしもちょっと、死、いうもんを考えさせられた。
詩っぽくするとこうや。
なんで人は死ぬんやろ
オギャーと生まれて早十五
わしかてちっとは考える
ヤなことあっても生きてきた
死ぬのは悪いと思うから(誰に?)
せやけど正味、みんな死ぬ
死ぬのは当たり前田のクラッカー
ほいでも悲しい色やねん
こいつは矛盾とちゃいまっか?
こんな矛盾をほっぽって
どうして生きろ言いまんねん(誰が?)
生きる理由を教えてや
気ィついてみたら夢ん中
死体を三つも見てもうた
こいつに意味はあるんかな
それとも意味はないんかな
意味あるんなら知りたいわ
意味ないんなら、ハイ、それまでヨ
サンマルチノが涙を拭いて、わしをじっと見た。
「すべては虚しい、そう思ってるんじゃない?」
わしは答えんかった。そうは思っとらんかったから。
「わたしたちは、たくさん死を見せられている。新聞、ドラマ、小説、歴史、芸術でね。どうしてなんだろう。人はこんなにたくさんの死を見る必要があるのかしら? どう考えてもあふれすぎている。これらの大量の死の結末はなに?」
わしは肩をすくめた。結末なんて、ないと思ったから。
「わたしは山岸さんの笑顔がもう一度見たい。そうでなきゃ虚しすぎる。世の中にいくら美しいものがあったって、最後がこれじゃあ出来が悪すぎるのよ」
わしはそっぽを向いた。サンマルチノはむちゃを言うとる。ほんなら変態オヤジがゾンビになって、復活したらええいうんかい。
――?
ふと、わしの頭ん中に、妙な考えが降りてきた。
夢ん中なら、そいつもアリちゃう?
そんなことあるわけない、というのは、常識に縛られた答えや。ここは常識とはちがう。ほとんど向こうと一緒やけど、なんかがちがう。さて、そのなんかとはなんやろう?
「なあ、イッチ」
小さく声をかけた。イッチが無言で振り向く。
「わしらがここに来たのって、意味あると思うか?」
イッチが肩をすくめた。自分がやるのはええが、人にやられるとむかつくポーズや。
「わしには意味あるいう気がするんよ。だったら、結末もあるのかもしれん。変態オヤジが生き返って、もうイジメられんようになるのが、いちばんええ結末とちがうか?」
イッチは首を捻った。
「ちょっとなに言ってるかわからない」
「そうや。わしにもわからんのや。なんで夢のくせに普通に死ぬ? わしらの状態は普通か? ちゃうやろ?」
「まあ、そうだけど」
「ツボ押されて来たんやで。充分異常や。だったらな、変態オヤジのツボ押して、生き返らせるいうのはどや?」
「それはいくらなんでも――」
「無理、決めつけたらアカン。なんでも試さな。なあ、タマちゃん。ツボは無限で万能ちゅうのは、確かにホンマか?」
タマちゃんは、相変わらずの仏頂面で、
「弟が言うにはな。おれは知らん」
「死者を生き返らせるツボ、聞いたことないか?」
「はあ? なにをくだらんことを。それよりおれは、猛烈に腹が立ってる。味方にグダグダの守備をされた下柳の気分だ。山岸のヤロー、最後まで迷惑かけやがって。店で殺人があったなんて知れたら、客が来なくなっちまう。店が潰れりゃ、貴様らも全員クビだぞ」
すっと心臓が冷えた。こんガキ、なにが下柳じゃ。わしはプッツン切れた。
「おうおうおう。こんなときでも商売かい。おどれは夢の住人失格やのお」
サンマルチノがわしの腕をつかんで引いた。でも止まらんかった。
「現実に帰ったれ、ドアホ! おどれみたいなくされ外道は、向こうがお似合いじゃ。汚く虚しく死んでいけ! わしらと同じ空気吸うな」
タマちゃんはぷるぷるとこぶしを震わせた。わしは、殴んなら殴れと顎を突き出した。
と、次の瞬間タマちゃんは、小早川にホームランを打たれた江川みたいに、床にがっくり膝をついた。
「えーん、えーん、死ねなんて、コンプラ違反だよー」
唖然とした。サンマルチノはため息をつき、
「オーナーはね、すごく打たれ弱いの。マット・ガファリくらい。そう、小川のパンチでコンタクトがずれて戦意喪失した、あの彼くらいにね」
「馬場の裏腕ひしぎでギブアップした、ラジャ・ライオンとどっちが?」
「あれは馬場が強すぎたの」
わしらは揃ってタマちゃんを見た。もはやなんの威厳もないその姿は、裸の王様、いや、パンツまで剥ぎとられた井出らっきょと変わらんわびしさやった。
「なあ、タマちゃん。教えとくれ。このマッサージ館には、隠し部屋とか、床下収納とか、屋根裏とか、屋上シェルターとか、人間が隠れられるような空間がどっかにないか?」
タマちゃんは、えっ、えっと涙をすすっとったが、
「……ない。無駄なものは、作らん主義だから」
「犯人が隠れてたら、わしらで捕まえようと思ったんやがな。しゃーない、そろそろ警察呼ぶか。車で交番に行こう」
するとタマちゃんは、焦った顔して、
「ま、待てコラ。おおごとにするな。客が来なくなる」
「まだ言ってんのかい。ほんならタマちゃん、あんたがホシ挙げてくれるか?」
「せめて事故死にできないかな。そっと死体を移して、川で溺れたように見せかけるとか」
「セコいのう。みんなしらけてまっせ。あんたには、従業員が死んで悲しいとか、犯人が憎いっちゅう感情はないんか」
「ないことはないが……おれにはビジネスを考える責任があるし、悲しけりゃ働かなくていいってわけじゃないしな。みんなも本音はそんなもんじゃないの、なあ阿部?」
突然振られたアホは、「えっ?」ちゅう顔をしたが、
「そうですねえ。三日くらい、休みになったら嬉しいですけど」
アホがそう言うと、タマちゃんは満面笑顔になって手を叩いた。
「ほれ見ろ。仲間が死んでも、そのおかげで仕事が休めたらラッキーと思うのが人情だ。いやー、きみは実に人間味がある。この正直者~」
「じゃあ、明日は休みでいいですか?」
「いや、それは許さん。さっさと山岸を川に棄ててこい」
調子こいて言った。アホはムッとした様子で、
「えー、めんどくさい。それに、客だけじゃなくておれだって、コロシがあった店なんか嫌ですよ。三号館に異動させてください」
「な、なんだと貴様、おれに口答えする気か」
「だって、もうオーナー恐くないもん。号泣見せられたら、さすがにヤバいっしょ」
と、吐き捨てるように言って、受付のカウンターに寄りかかったときやった。
「うっ」
アホが目をむいて、胸に手を当てた。
「ごあっ!」
そのまま前のめりに倒れて、手足をけいれんさせた。あまりに急なことで誰も動けない。
やがて、アホの手足が動かなくなった。そこでようやくサンマルチノが、我に返ったようにアホの身体に飛びつき、ごろんと仰向けにさせた。
アホの顔は紫色に変色し、口から舌がだらりと伸びとった。
「阿部さん!」
ソバカスが叫んで、床に這いつくばってアホの顔を覗き込んだ。
「わ、わ、どうしよう。息してない。心臓マッサージしなきゃ。誰か、AED持ってきて!」
「AEDなんかうちにない。それに、もう無駄だ」
タマちゃんが、アホとソバカスを冷たく見降ろして言った。
「それは、生きている人間の顔色じゃない。百パー死人だ。胸を押さえての突然死となると、きっと、大動脈瘤破裂かなんかだろう」
「そんな。阿部さんまだ、二十二ですよ」
「おれに逆らったから、天罰でも下ったか……いやいや、これはほんのジョーク。そんな恐い目でボクを見ないで」
タマちゃんが黙るとシンとした。たぶん、みんなの胸には、おんなじ想いが渦巻いとるやろう。
これは殺人だ。
病死なんかじゃない。きっと毒殺。カプセルかなんかに毒薬を入れて呑ませ、そのカプセルがゆっくりと溶けて、たった今、アホの心臓を止めた。
犯人は、変態オヤジをやったんと同一人物。つまり、連続殺人や。
とすると――
「タマちゃん、もう、店の営業はあきらめたほうがええで」
わしは、こうなったらハッキリ言うたれ思って言った。
「おんなじ夜に、一人が溺れ死んで、一人が突然死するなんて、そんな話誰も信じんで。あそこはおかしい、縁起でもない店やって、みんな言いまっせ。それにな」
大きく息を吸って、続けた。
「犯人は、店のモンにちがいない、そういう噂も立つやろな」
「なにい」
タマちゃんが、目玉をギョロリとむいた。
「貴様、なにを根拠にそんなことを」
「根拠でっか? 今のポックリやがな。こんなもん、一服盛られたに決まっとる。そうすると、とても行きずりのサイコの仕業とは思えん。ここにいる誰かが、毒薬を用意して、アホの飲み物か食べ物に混ぜたんや」
「ちょ待てよ!」
ソバカスが血相を変えて立ち上がり、キムタクみたいに言った。
「そんなこと言ったら、おれっちが疑われんじゃん。行きずりの女にハルシオン盛って悪さすんのは、おれっちの得意技なんだからさ」
タマちゃんと古参兵が顔を見合わせて、ソバカスに詰め寄った。
「今のは本当か、永作」
そう言った古参兵の唇は、怒りのせいか、わなわな震えとった。
「言え。ハルシオンはどこで手に入れた」
ソバカスは、不満そうに口を尖らせた。
「ちぇ、なんだよ。主任、いつから刑事になったのさ」
「さっさと言え! 言わなかったら、本物の刑事に突き出すぞ」
「はいはい。じゃあ言いますけどね、おれっちの付き合ってるのがナースで、そいつに頼んで流してもらったんです。おれっち不眠症だからって言って。でももらったのは、ハルシオンだけっすよ。毒薬なんて、そいつの勤めてる病院にもないっしょ」
「わからんぞ」
今度はタマちゃんが言った。
「こっちの世界は管理が甘い。手ちがいに手ちがいが重なって、布袋並みのポイズンが病院に置かれてたのかもしれん。もし、阿部が毒を呑まされたんだとしたら、貴様しかやりそうなやつはいない。それが普段やり慣れた方法だからな」
「なに言ってんすか!」
ソバカスが絶叫した。
「おれっちがいちばん仲が良かったんすよ! なんで阿部さんを殺すんすか」
「かわいさ余って憎さ百倍。仲がいいからこそ、ボタンのかけちがいで殺意も生まれるってもんだ。親が子を殺し、妻が夫を殺す。親友殺しなんて平凡パンチだ」
「オーナーは狂ってる」
ついにソバカスは泣きだした。
「キチガイ。バカ。ちんば。乞食。玉袋筋太郎!」
コンプラ違反の連続攻撃や。タマちゃんは、ぐっと踏みこたえると、
「そっちのタマちゃん呼ばわりだけは許さん。言い直せ」
「わかったよ、こんちくしょう。精神障害者。頭の不自由な人。足の不自由な人。ホームレス。知恵袋賢太郎!」
「なにが知恵袋だ、この東ブクロめ。そんな改名考えたやつはぶっ壊してやる」
醜い悪口合戦に、わしもええかげんうんざりしてきた。
「なあ、タマちゃん。まだ独身の若者つかまえて、東ブクロ言うたらアカン。もう知恵袋でええやないか」
「しかし、いくらなんでも賢太郎は……」
悔しそうに唇を噛んだ。するとソバカスが、
「いちばん怪しいのは、そこの二人じゃないか。あいつらを雇ったとたん、こんなことが起きたんだぞ!」
と言って、わしらに指を突きつけた。全員こっちを向いた。わしもイッチも、とっさになんも言い返せんかった。
もちろん、わしらは犯人やない。だから、そんな可能性を云々されても時間の無駄やとわかっとる。せやけど、「やってません」言うてもなんの証拠にもならん。
「ぼくはやってません」
イッチがストレートに言うた。しらけたムードが漂う。
「あのな、イッチ」
わしは考え考え言った。
「今まで平和やった職場に、わしらが来たとたん連続殺人事件が発生した。これは事実や。怪しい思われてもしゃーない。だからわしらには、無実を証明する義務がある」
「アリバイ、ってこと?」
「そのアリバイがないんや。変態オヤジの変死の第一発見者はわしらや。非力なわしらでも、二人がかりで押さえつけたら、洗濯機で人を溺れさすことも不可能やない」
「でもやってないじゃん」
「それにやな、朝のコーヒーに始まって、今日の食事の支度をしたのもわしらや。アホの口に入れるもんに、なんでも混ぜ放題やったわけや」
「……混ぜたの?」
「やっとらんわ! あんたがわし疑ってどないすんねん。困ったな。どう言ったら怪しゅうなくなる?」
「ぼくたちには動機がない」
「そんなもん、みんなかてない言うやろ。だいたい世の中の殺人かて、まともな動機なんてほとんどないがな。なんで人様殺してんねん、アホか、いうもんばっかや」
「太陽のせい、とかね」
「誘惑に負けてしまいましたとか、耳にタコができたからとかな。だからこの際、動機はどうでもええ。誰に機会があったかや」
「ぼくたちにはあった……ねえ、ユエナ。自分で自分の首絞めてない?」
「そやねん。なんかうまい弁明はないかな」
わしは必死で考えた。わしとイッチが犯人じゃない証拠、みんなを納得さすような釈明を、どうにか捻りださんと――
と、またしても、頭ん中に妙な考えが降りてきた。
ここは夢や。現実とはちがう。なにがちがうかはわからん。でもなんとなく感じるのは、ここは現実より、どっか芝居っぽいちゅうことや。
レイに眠らされて、目を醒ましたら別の世界にいた。まるで劇の中に突然放り込まれたみたいや。要するに、当たり前やがここには現実感がない。
現実なら、殺人の被害者になることもあるやろう。冤罪で捕まることもあるやろう。自分には理不尽なことが起こらない、ちゅう保証はどこにもない世界やから。
劇ならどうか。多少理不尽なことはあるかもしれんが、中途半端で意味ないことは起こらん気がする。もし、仮に、これがミステリー劇だとしたら、わしらが犯人っちゅうのはどっか納まりが悪い。わしらの役どころは、たぶんそこやない。
もし、これが劇なら――
あ、そうか。
そういうことか。
こいつは劇なんや!
劇やったら、意味がある。
わしは今、人生を生きとる。それは、わしにとって、自分を主人公にした劇を演じとるのとおんなじことや。
なら、そいつをどういう劇にしたいか。主人公が途中で死ぬ? 殺人犯になる? そんなんアカン。もっとおもろい劇にすんで。
意外な結末。驚愕のトリック。そういうもんはちっとも思いつかんけど、
《茫然の結末。爆笑のトリック》
なら、わしにもなんとかできそうや。
わしは、自分が主役の劇を生きとる。そうなら、もっともっと主人公を大切にせな。途中で死んだり、悪者になったりしたらイカン。そんな劇はつまらんし、意味がない。人生は、劇にしてこそ意味がある。
もし、現実が、理不尽に殺されだり、冤罪があったりする世界でも、わしはそん中でもう一つの世界を生きる。そこではわしが主人公じゃ。負けへんで。ヤなこと全部ふっとばして、逆転して、意味ある劇にしたる。だからわしは、絶対犯人やない。イッチもそうや。わしの人生にとって大切だから、イッチも絶対犯人じゃないんじゃ!
「わかったで、イッチ。わしらは犯人やない」
みんな不思議そうな顔をして、わしを見つめた。わしの声に、深い確信がこもっとったからやろう。
「よう聞いてくれ。わしらは主人公じゃ。だから途中で殺されることもないし、ましてや犯人やない。この殺人事件の謎を解く側なんや」
見事にキョトンの空気が生まれた。わしは焦らずに続けた。
「そらな、主人公が実は犯人でした、いうミステリーもないわけやないで。しかし、そいつはアンフェアや。マッサージ館の殺人っちゅう、本格っぽいタイトルで、アンフェアはまずいやろ。島田潔と江南なんちゃらは絶対犯人やない。そやろ?」
「ごめん、ユエナ。やっぱりなに言ってるかわからない」
「じゃあ訊くがな、イッチはおのれの人生を、どう思ってんねん」
「……?」
「自分が主人公ちゃうんか」
「……人生を、ドラマと考えたらってこと?」
「そうや」
「そうだね。主人公かもしれない」
「せやったら、途中で退場したらアカン。とことん劇を生きるんじゃ。なにがなんでもハッピーエンドを目指したれ」
「それが、ぼくたちが犯人じゃないっていう証拠?」
「おう」
「むちゃくちゃ弱くない?」
「信じきるんじゃ。主人公は死なんし、卑劣な犯人にもならん。事件を通じて成長し、ラストには希望を見出す、ってな。せやなかったら、ここへ来た意味がない」
「いくら信じたって、いつかは死ぬでしょ」
「その弱気がイカンのじゃ。わたし、なんだか死なないような気がするんですよーって、阿部知代も言うてたやろ」
「それは宇野千代でしょ。とっくに死んだけど」
「揚げ足とんな! あっこまで生きたら大勝利や。とにかく気合じゃ。気合じゃ気合じゃ気合じゃ気合じゃ気合じゃ気合じゃ気合じゃ気合じゃ気合じゃあー、ゴース」
「うるさいな! さっきから、なにゴチャゴチャ言ってんだよ!」
ソバカスが、ザコキャラのくせにマジギレしてわめいた。
「なにが主人公だよ。そんだったら、おれっちだって主人公じゃん。そう言い張ったら、犯人じゃないって認めてくれんのかよ」
「兄さんは、どんなタイトルのドラマを生きてんねん」
「タイトル? そうだなあ……永作くんのちょい悪伝説、かな」
「犯人っぽいな。後半の舞台は刑務所がお似合いや」
「ふざけんなよ! もう前半で入っちまったよ」
「兄さんも、一発逆転目指したらええねん。わしは主人公やってとことん信じたれ」
「うーん、おれっちは、どうせなら悪のヒーローになりたいなあ。完全犯罪やって、最後まで捕まらないの」
「やっぱしあんたは最有力容疑者や。でも待てよ、そんなミステリーちっともおもろないなあ。誰が犯人やったら意外でおもろいか……」
古参兵、タマちゃん、サンマルチノと、順繰りに顔を見た。タマちゃんとサンマルチノには、変態オヤジの殺人に関してはアリバイがある。そこが逆に怪しい。いちばん意外でアリバイのあるやつが、この場合は正解――
ん?
おかしい。どこにもマッカーサーがおらん。
「戦争好きの姉さん、どこ行った?」
みんなも気づかんかったらしく、まわりをきょろきょろと見た。
「トイレにでも行ったかな。そのうち帰ってくるだろう」
古参兵が言うと、サンマルチノが首を振り、
「ちがうわ。わたしと一緒に二階へ行ったあと、降りてきてないのよ。まだ山岸さんのそばにいるのかも」
「だとしたら遅すぎる。花畑、見に行ってこい」
タマちゃんがそう言ったとき、わしの脳裡に、マッカーサーがランボーみたいに、サバイバルナイフを持って待ち伏せしとる絵が浮かんだ。
そうや。腹減ったとか言って、夜中に食堂に忍び込んでたマッカーサーこそ、いっちゃん怪しい。そこそこ意外性もある。
「一人で行くのは危ない。行くならみんなで行こ」
わしの提案で、みんなで一列になって階段を昇った。先頭は古参兵で、最後尾にはピーピー鳴きながらとおるちゃんがついた。
「電気点けろ。サイコが隠れてる可能性もあるからな」
タマちゃんの命令で、古参兵が廊下の灯りを点け、洗濯室を覗いた。変態オヤジの死体があるだけで、マッカーサーはいない。
「クミちゃん」
呼びながら、サンマルチノがトイレを見た。が、ここにもおらん。
「食堂で、パン食ってないかな」
わしが言うと、タマちゃんが食堂のドアを開けた。ここの灯りは最初から点いとる。
「あっ!」
サンマルチノが叫んだ。その瞬間、わしにも見えた――マッカーサーが、冷蔵庫のそばにうつ伏せに倒れとるのが。
真っ先に駈け寄ったサンマルチノが、マッカーサーの身体を揺すった。しかし反応はない。仰向けにする。顔が見える。サンマルチノが悲鳴をあげた。
マッカーサーの顔は、土色に変色し、すっかり干からびていた。
超常現象や。
さっきまで、普通に生きとった人間がミイラになる。そんなことあるか? でもあれはまちがいなくマッカーサー。じゃあ、なんらかのトリックで?
ミイラ……即身仏……布団パック即身成仏……電撃ネットワーク……犯人はギュウゾウ?
いやいや。布団圧縮袋で窒息はしても干からびはせん。もっと別のトリックや。そういえば、パン食いに来たとき、やけにやつれとると思ったが、それとこの死に方は関係あるんやろうか。いったいどうしたら、見る見るやつれて干からびる?
どう考えても、そんなトリックがあるとは思えん。無理や。もはやミステリーの範疇やない。ブードゥーの呪いとか、吸血鬼とかの世界や。
そうか。こいつは本格やなくて、実はホラーやったんか――
「もう嫌だ!」
ソバカスが、突然泣き声を張り上げて喚いた。
「冗談じゃねえや。こんな職場にいられっかよ。今すぐ辞めさせろ!」
「なにい」
タマちゃんも、負けじと全力投球で喚いた。
「そんなのは、借金全部返してから言え。このタコ!」
「なにコラあ。タコはそっちじゃ、タコ!」
「金なら返せんってか。大川総裁気取ってねんじゃねえぞ、このタコ!」
「タコ!」
「もうやめて!」
サンマルチノが、不毛な言い争いに割って入った。
「ケンカしてる場合じゃないでしょ。クミちゃんが餓死したのよ!」
「餓死だって?」
古参兵が、ポカンと口を開けた。
「昼に野菜スティック食ってたぞ。餓死なんてするもんか」
「きっとそれ、指をしゃぶってたのよ」
「いやいや、ニンジンとかセロリを食ってたって」
「指にいろんな色塗って、みそつけるフリしてたのよ」
「んなアホな……うっ」
古参兵が、突然苦しげに顔をゆがめた。
「く、空気」
「どうしたの?」
「酸素が薄い。苦しい」
「パニック? 落ち着いて。酸素ならあるわよ。さあ、ゆっくり息を吸って」
「酸素!」
古参兵の顔が、紫イモみたいになった。なんでか知らんが、古参兵のまわりだけ、急に空気が薄くなったようやった。
「過呼吸だな。金魚みたいにパクパクして。まあ、部下が三人も死んだんだから無理もない。おい、秋山。そいつは時間が経てば治るから、あわてず息を吐いてみろ。吸う、吐く、吐く、吸う、吐く、吐くのリズムだ」
「むむむむむむむむ」
ついに古参兵は、床に転がってジタバタしはじめた。サンマルチノが、シンクの抽斗を漁ってビニール袋を取ってきて、古参兵の口にあてがおうとした。が、首をブンブン振って暴れるので、全然できずにいた。
「オーナーどうしよう。秋山さん死にそう」
「過呼吸じゃ死なんよ。そう見えるだけだ。そのうち落ち着く」
「ほっといていいの? もうすっかりゆでダコみたいよ」
「ハハハ。千と千尋に出てくるオヤジみたいだな。意地汚くバクバク食って、こんな顔色になったっけ」
と、ソバカスが、むきになって反論した。
「なに言ってんすか、オーナー。千と千尋に、そんな場面ないっすよ」
「いや、ある。おれは宮崎にはちょいと詳しいんだ」
「オーナーの言ってるのは、カリオストロのルパンでしょ。血が足りねえってバクバク食って、食ったから寝るってやつ」
「そんな場面あったか?」
「オーナー」
サンマルチノが、しゃがんだままタマちゃんを振り仰いだ。
「秋山さん、死にました」
「へ?」
タマちゃんの顔が、クラリスに次元様と言われて、くわえタバコを髭に落としたときの次元そっくりになった。
「でも死ぬはずないんだけどなあ……ホントだ、死んでる。おかしいなー。過呼吸じゃなくて、のど飴でものどに詰まらせたかな」
「秋山さん、のど飴舐めてたの? ひどい。目の前で、クミちゃんが餓死したっていうのに」
「いや、舐めてたかどうか知らんけど、ほかに理由が思いつかん」
「みんな、いいかげん目を覚ませよ!」
ソバカスが叫んだ。
「こんなにジャンジャン人が死ぬなんて、どう考えてもおかしいだろ。こいつらのせいに決まってる。こいつらが、向こうから殺人ウイルスでも持ってきやがったんだよ!」
またわしらを犯人呼ばわりした。
「山岸さんは溺死ウイルス、阿部さんは頓死ウイルス、クミさんは餓死ウイルス、主任は窒息死ウイルスで殺したんだ」
「殺してません!」
イッチが試合後の大仁田みたいに、涙の出ない涙声で訴えた。
「もしかしたら、ぼくたちが来たことで、なんらかの異変がこちらの世界に起きてしまったのかもしれません。もしそうだとしたら、本当に申し訳ないと思います。だけど、意図的に殺したりは絶対にしてません」
「なんらかの異変って、なんだよ」
「ぼくにもさっぱりわかりません。ユエナ、どう思う?」
いきなり振ってきよった。ホンマ、アドリブの効かんやっちゃ。
「自分で言っといて、どう思うってどないやねん。フリートークが苦手やと、せっかく売れても生き残れんで」
「たとえば?」
「いくらでもおる。うなずきトリオがそうやろ。あとクールポコや」
「そこ限定?」
「まじめはいいけどなんかしゃべれって、どつきたくなんねん。今のあんたがそうや。異変がなにかくらい、口から出任せでもいいから言え」
「出任せじゃダメじゃん。ゴマスリ行進曲じゃないんだから」
「誠心誠意、嘘をつく。そうすりゃ嘘もまことになるって、道徳の時間に習ったろ」
「それは、昭和の政治家のセリフでしょ。だいたい古いんだよユエナは。誠意なんて、平成のバカップルとともに死んだよ」
「おいコラ待て。イッチの言うてるのは、ウキウキウォッチングの羽賀研ちゃんのことやろ。古いなー。平成のバカップルいうたら、今やモーニングの辻ちゃんや」
「全然バカのスケールがちがうじゃん」
「漫才はやめろ!」
ソバカスの怒声が響いた。
「今度は誰が死ぬんだ。え? おまえらの正体はなんだ。テロリストか?」
「テロリストちゃうわい。藤原組長みたいに言うな」
「じゃあなんなんだよ。なんでみんな死ぬんだ。説明しろ!」
「わしらかて、知らん言うてるやろ。テロリストでもなきゃ魔術師でもなきゃ妖怪でもないねん……あ」
突然わしは、妖怪いう言葉から、あることを連想した。
「なあ、イッチ。もしかしてこれ、本物の妖怪の出てくるミステリーちゃうか?」
「どうしたの、ユエナ。稲川淳二がホラ話をするときみたいな顔になってるけど」
「もしかしたらわしら、妖怪に化かされてるのかもしれん」
「たぬきとか?」
「わからんけど、たとえばタイトルに魍魎とあっても、ホンマに魍魎が犯人やないやろ。でもなんとなく、魍魎いう怖ろしげなもんがどっかで出てきてほしいなーって、期待して待ってることないか?」
「ごめんなさい。一ミリもわかりません」
「とおるちゃん見てみい。さっきから、妙にビクビクしとる。わしらには見えんもんが、あの子にはバッチリ見えとるんちゃうか?」
「別に、ピヨちゃんは、普通の鳥だよ」
「動物の能力は、人間には計り知れん。こんなん出ましたけどいう白蛇も、なんか見えとったんやろ」
「あれも動物? ただのクラブのママでしょ」
「まあそれはたとえや。とにかく、ここは現実とどっかがちがう。そのどっかとは、本物の妖怪がいるっちゅうことやと推理したわけや」
「当てずっぽうじゃん」
「直観推理こそ、ミステリーの王道じゃ。名探偵は、みんなそうして大きゅうなった」
「直観とは、推理によらず物事を認識することである」
「当たっとればいいんじゃい! ここまで言えば、イッチにはピーンとくると思っとったんやけどな」
「もっとヒントを」
「象印クイズかい。ほんならズバリ言うたるわ。幾野セリイや」
「サイレント?」
「そや。なんかおかしかったやないけ。口利かんのもそうやし、夢に出てくるのもそうやし、どっかで見た気がするけどどこにもいないっちゅう……妖怪やろ?」
「けど、あっちでクラスメートだったんだよ」
「向こうの世界じゃ、力を封印されてたんやろうな。それを玉城レイが余計なことして、こっちへ送り込んだもんで、力を解き放って殺しまくってるわけや」
「そんな子じゃなさそうだったけど」
「甘い! 妖怪には倫理もへったくれもない。だから怖いんじゃ」
「いい妖怪もいるじゃん。鬼太郎とか」
「あんなもん、目玉をお父さん呼んどるキチガイや。名前に鬼つけられとるしな。わしはな、セリイはマッサージ館にとり憑いた、座敷わらしやとにらんどるんよ」
「座敷わらし?」
「昔っから、それっぽいなとは思ってたんや。あれに憑かれた家は、次々に不幸が起こって、没落するんやなかったな」
「どうかなあ。直接人殺す?」
「殺す殺す。華麗なる没落目指して一直線や。そして誰もおらんようなる」
「いったいなんの話だっ!」
タマちゃんが、おさむちゃんです言う直前くらい、額に青筋立てて吠えた。
「うちに座敷わらしがとり憑いた? はっ! 冗談は顔だけにしろ。座敷わらしがいる家は栄えて、いなくなった家が没落するんだ。貴様の言ってるのは真逆だ」
わしは、ほーっと感心した。
「タマちゃん、えらい詳しいでんな」
「常識だ。だいたい座敷わらしは、いたずら好きのおちゃめさんだからな。人殺しなどはせん。ただし赤いわらしを見ると、一家全員食中毒で死ぬそうだ」
「やっぱり怖いわ。確かサイレント、赤い靴履いとったで」
「クラスに座敷わらしがいたのか?」
「それっぽいのがな」
「子どもにしか見えないから、貴様らの歳では見えんはずだぞ。でも最近の学生は精神年齢が低いから、そういうこともあるかもしれん」
「先生にも見えとったで」
「先生なんてもっと幼稚だ。で、そいつがこっちに来たのか?」
「わしら、そのギャルを追ってきたんや」
そもそもの最初から説明すると、タマちゃんは腕組みをしてうーんと唸り、
「確かに怪しいな。レイはとんでもないことをしたのかもしれん。ぜひその子を見つけたいもんだが、なにか呼び出す方法はないかな」
「わたし、こんな話知ってる」
サンマルチノが、得意げに胸を張って言った。
「宮沢賢治の童話に、ざしきぼっこのはなしというのがあるの。その中で、十人の子どもたちが大道めぐりをやってると、いつのまにか十一人になって、増えた一人がざしきぼっこだって書いてあった。だから、みんなでそれをやったら呼び出せるかもしれない」
「大道めぐりって?」
わしが訊くと、サンマルチノは首を傾げ、
「よく知らないけど、手をつないで円くなって、ぐるぐるまわる遊びみたい」
「なにがおもろいのかわからんな。かごめかごめと一緒か?」
「さあ。でも結局、増えた一人がどの子かわからなくって、それなのに、何度数えても十一人いたんだって。不思議でしょ?」
「不思議を通り越しとる。数学的にありえへん」
「くだらねえ話はやめろ!」
これで何度目かの爆発を、ソバカスがした。
「妖怪なんているもんか。アホくせえ! ごまかしてんじゃねえよ」
「ごまかす気はないで。一生懸命考えとるんや」
「ふざけてるようにしか見えねえよ。おい、妖怪、いるなら出てこい。姿を見せろ、アホ。ほら見ろ、いねえじゃねえか」
「妖怪をバカにしたらいかん。なんかされるで」
「なんかしてみろ、妖怪! なんかようかいじゃねーよ、バーカ。ほら見ろ、なんにも……え?」
ソバカスが、不意に口をつぐんだ。
「どうした?」
ソバカスが、のどに手を当てて、やけに難しい顔をした。さっきの古参兵みたいに、急に空気が薄くなったんやろうか。
「え……あれ……て、て、て、て、て」
「手? 手がどないした?」
「ティ、ティ、ティ、ティー」
「ティー? 紅茶か?」
「ティー、ティー、ティティーティティー!」
ソバカスの口から絶叫がほとばしり、両手がピーンと横に伸びた。そして、首がぐるっと三六〇度まわった。
「え?」
「ユエナ、見るな!」
イッチが手を伸ばして、わしの目をふさいだ。でもその前に、見てもうた。
ソバカスの首が、胴体から離れて落ちたのを。
血は出んかった。まるで、その箇所がネジ式になっとったみたいに、きれいに外れてポトリと落ちた。
「ティー!」
断末魔の絶叫が、まだ耳に残っとる。首がとれ、腕を水平に広げたソバカスの姿は、あたかもエジプト十字架の再現……いや、完璧なTT兄弟の体現やった。