秋も深まる頃の5時は、既に黄昏を越して夜に踏み入れている。部活の帰り道の坂を上るのは苦ではないが、左の竹林が木枯らしにざわめく様は、人並み以上に図太い神経を持つ少年にも足を早めさせるほどの不気味さがあった。

 幽霊なぞはいないといえ、気味が悪いのは仕方ない。修行が足らんな。


 そう一人ごちつつ、腰を据えてけり足を強める。早く帰らねば家で待つ妹に叱られる。古くなった電灯が点滅する。田舎道は整備が良くない。

 また電灯が瞬く。いつの間にか道の先に人影があった。髪が腰まで垂れているので恐らくは女だろう。体幹は真っ直ぐで淀みのない足取りだが、頭はかかしのようにぐらついて、足を出すたびに前後左右に揺れ動いている。



 危ない奴だ。治安のよさが売りの地方都市では不審者より熊のほうが恐いのだが、どうもついていないらしい。左手に何か握っている。全長120cm程度。緩やかに湾曲した漆塗りの黒い鞘。下げ緒はない。鍔も柄糸も柄頭も、全てが偏執的なまでに黒い。

 刀だ。問題は本身かどうか。いや模造でも全力で殴りつければ死ぬ。逃げるか。いや近すぎる。避ける?受ける?どうやって?



 前髪の間から女の目が見えた。異常に血走って白目が赤く、瞳孔は死んだ魚のように黒々と開いている。茫洋とした視線はどこを睨むでもなく、しかし確かにこちらを見据える。顔が整っているのが余計に幽鬼じみた印象を固め、殺気とも妖気ともつかぬ気配が立ち上っていた。



 おもむろに剣を抜き放ち、鞘を捨てる。頭をぐらつかせながらも凄まじい速さの摺り足で突貫してきた。人間の出力ではない。逃げるどころか身を翻すことさえ不可能、咄嗟に左手を振り上げる。

 一瞬電灯が消え、天を突く剣が闇に浮かび上がる。冴え冴えとした月の輪の輝きが瞳に映り。

 血飛沫が舞った。











 袈裟懸けに振るわれた剣は、軌道を逸らされてアスファルトを打つ。車両の荷重に耐えうる路面に切れ込みが入り、火花が散った。

 左手から血が滴り落ちる。手の甲の皮膚が削れていた。



 少年は相手の体が泳いだ隙をつき、右手で奥襟を取って軸足を払う。体重は人並みらしい少女は見事に一回転して背中から落ちた。それでも握ったままの手を捻り、刀をもぎ取った。

 危機一髪。少年を救ったのは鍛え抜いた鋼の肉体、ではなくお年玉をはたいて買った重力衝撃腕時計4万5千円である。これを小型の円盾|《バックラー》として斜め下から刃に合わせ、辛くもはじいたのだ。

 如何な利剣といえども、刃筋のたたぬ状況で数十メートルからの落下に耐える腕時計界最強の逸品を切り抜くことは出来ない。



 危なかった。あの刹那の闇に刀身が映えなければ、光の反射で切っ先の角度を捉えられずにそのまま首をすっ飛ばされたかもしれない。

 それにしても驚異的な切れ味である。刀という物は肉と骨を撫できる道具であり、地面を叩けば容易く刃こぼれするはずだ。

 だが、アスファルトに2寸ほどの溝を刻みながらも刃先には毛筋の瑕|《きず》もない。

 かの名刀童子切安綱|《どうじきりやすつな》は、生き試しにおいて六つ胴を両断し、挙げ句下の土壇場までかち割ったと伝わるが、切れ味だけならそれには近いものがある。

 そこらの数打ちや安い工業製品ではない。はてどこの名人の作かと太刀を見やる。

 太刀を、見た。



 "おい"



 "聞こえるか"



 "聞こえるだろ"



 声が響く。耳から入ったのではない。頭蓋の奥から湧いてくる。



 "大した奴だ。俺様の袈裟切りを真っ向から捌く使い手なんざ、ざっと5百年ぶりか?仲良くやれそうじゃねえか。なあ"



 剣から言葉が伝わってくる。しわがれた、骨を震わせる波動。この声は、剣が喋っている?



 "手始めに、どうだ。この娘っ子も邪魔だしな。一つ斬ってみるか。尋常の勝負で死ねるんだ、文句はねえだろうよ"



 ぼんやりとした意識が知らぬ間に声に従い剣を取り。













 だが剣が喋るはずがない。



 "え?"



 倒れた少女を素通りして鞘を拾い上げて抜き身の剣を納めると、家に向かって走り出した。無駄に時間をとられた。急いで帰らねば。



 "いや、ちょっと待って聞こえるだろ。おーい"



 警察に電話をすることも考えたが、これ以上厄介事を呼び込みたくない。明日はバイトもあるのだ。



 "待って待って、何?聞こえてないのもしかして。霊感とか零のかた?"



 先ほどから幻聴が酷い。やはり気疲れしているのか。家に帰ったら風呂に入って寝よう。勉強は明日でも出来る。



 "やっぱ聞こえてんじゃん!待てよせっかくいい刀持てたのに斬ったりしないの!?ねえ!"



 冬の気配が忍び寄る11月。人生最大の危地を乗り切った少年は、休む間もなく家路を急ぐのであった。

 それが始まりに過ぎないことは、無論、神ならぬ少年には分かるはずもない。



 "せめて返事くらいしても罰は当たらないだろ!?聞こえてますかー!返事してくださーい!"



 幻聴だけが静寂の中、賑やかに流れてゆく。熱を持つ肌にとって、秋風はまだ涼しい。