夏休み最初の日曜日。
この日は有名音楽企業が主催する音楽祭で、私は家から離れたコンサート会場に来ていた。

練習も兼ねて、私とピアノ教室の大石春茶(オオイシ ハルチャ)先生は一足先に会場に入っていた。
練習場所であるスタジオには他の演奏者も沢山いる。

「うん!大丈夫そうね。茜ちゃん、緊張もしていないみたいだし」

「いや、結構緊張してるんですけど」

「大丈夫だって!茜ちゃんはやれば出来る子だもん」

「そうですか・・・・・」

ピアノの前に座る私は、目の前の美人な女性に冷たい視線を送る。

だけど彼女は私の視線を気にしないように、優しい笑みを見せてくれた。
長く綺麗な茶色の髪に大きな瞳。

今年二十七歳を迎える春茶先生に、彼氏や旦那さんはいない。
恐ろしく前向きな性格で、私の調子を何度も狂わされる変わった人。

そんな私のピアノ教室の先生でもある春茶先生は、『国内の音楽関係の人間なら知らない人は居ない』と言っても過言じゃないほどの、有名なピアニストでもあった。
この国に大きなピアノブームを作り出した伝説のピアニスト。

どれくらい凄い人かと言うと、数年前にヨーロッパで行われたピアニストの世界一を決めるコンクールで、春茶先生は日本人初の優勝。
世間では春茶先生一色で、どのテレビのチャンネルを見ても春茶先生の特集が組まれていた。

当時の少年少女は春茶先生に憧れてピアノを習うなど、音楽業界に新しい風を巻き起こした偉大な人だ。

でもそのピアノブームが終わると同時期に、春茶先生は舞台から姿を消した。

世間でも行方が分からない状態が続いていたのだが、その二年後。
なんと私の住む街でピアノ教室を開いていた。

春茶先生から話を聞くと、『自分が過ごした街で、自分自ら音楽を教えたかった』って教えてくれた。
一方で私は運がいいのか悪いのか分からなかった。

偶々行ったピアノ教室の先生が、その天才ピアニストと呼ばれた春茶先生。

その『天才』に教えてもらえるピアノ教室の生徒である私。
普通に考えたら幸せなんだと私は思う。

お陰で『かなり実力も付いて来た』と、嬉しい言葉を春茶先生から言ってくれるし。

でもそんな春茶先生に不安を口にする人もいた。

その不安とは、春茶先生の性格の問題じゃない。
ただみんなとは少しだけ、彼女は違うところがあるだけ。

春茶先生には事情があるのだ。