「…………日向」
雫は小さく、相対している男の――否、その中で精神が閉じ込められているだろう、相棒の――名を呼んだ。
すると、気のせいかもしれないが、一瞬だけぴくりと彼の体が動いたように見えた。しかしすぐにまたバットを両手で持ち、躊躇いもせずに殴りかかってくる。それを一歩後ろに下がることで避けた雫は、もう一度口を開いた。
「おい日向。この馬鹿、よく聞け」
真っ直ぐに日向を見つめ、今までに語りかけたことのないほどに真剣な声音で言う。それに日向は、少しだけ足取りをふらつかせたものの、再びバットを構え直した。
「お前、家族に捨てられた奴の気持ちは分からないって言ったよな」
また、避ける。ゆらゆらとこちらに近づく日向から距離をとりつつ、雫はさらに言葉を続けた。
「だけどな、お前はそもそも、家族に捨てられてなんかないだろ」
横薙ぎにされたバットが、壁に小さな穴を開ける。からん、と引き抜く反動で甲高い音を立てたそれを持つ日向の表情は、大きな変化はないものの、心なしか先ほどよりどこか苦しげだ。――まるで中にいる彼が、己の体を乗っ取っているジバクと戦っているかのように。
「家族ってのは、血が繋がってないと駄目なのか? お前を育ててくれた桂のおじさんはどうなんだ。教わったのはジバクに関することだけじゃないだろ、他にも沢山、生きていく上で必要なことを必死に教えてくれたあの人こそ……親じゃないのか」
からからとバットを引きずる彼の動きが、やや散漫になっている。その表情は険しく、汗も滲んでおり、ジバクと彼の葛藤が伺えた。
「それに……俺は、どうなんだ。確かにお前とは言い合いしてばかりだし、性格も合わないし、いつも心配を掛けさせられてばかりだが……俺はお前のことを兄弟だと思ってる」
例え血が繋がっていなくとも、と言って、ゆらりと振り下ろされたバットを大きく右に避けた。日向の前に立った雫は、握っていた拳を開き、全身に溜めていた力を抜く。
「俺たちは家族だろう。なあ、日向……もう次の攻撃は避けない。どうするのかはお前が決めろ」
雫は、そう静かに告げ、状況にそぐわない穏やかな表情を浮かべた。一方の日向はひどく重たそうにバットを持ち上げ、その眼前に立つ。頭上に掲げられたそのバットは、かたかたと小刻みに震えながら空中で静止している。
今にも振り下ろされそうな位置にあるそれを雫が見つめていると、突如として、日向がぐらついた。必死の形相で片膝を床につけ、肩で息をした彼は――やがてにやりと、不敵な笑みを浮かべる。
「…………相変わらず、おせっかい、なんだよ。……お前は」
その声音は紛れもなく、自分がよく知る日向のものだった。彼は金属バットを支えにして床でうずくまっているが、先ほどまでの空虚な表情ではなく、見慣れた生意気な相棒の顔つきをしている。それに思わずほっと安堵の溜息を吐いた雫も口元を緩め、やれやれとかぶりを振った。
「そう言うお前はいつも危なっかしいんだ、馬鹿」
笑って日向に手を差し伸べれば、彼も力強くそれを掴んでくる。彼を立ち上がらせてから周囲を見回すと、部屋の中央には、体育座りで泣いている男の子――守の姿があった。恐らく、意識を取り戻した日向の体から追い出されたのだろう。
「どうして、僕はひとりぼっちなの? 僕、ここで待ってたのに、なんでお母さんは戻ってこないの?」
悲痛な泣き声を上げている彼に、雫は複雑そうな顔で拳を構えた。が、それを手で制したのは、今し方助け起こされた日向だ。彼は雫に「大丈夫だから」と小声で言うと、ゆっくりと守に近づき、微笑んで口を開いた。
「……もう、待たなくていい」
静かに紡がれたその言葉に、おずおずと守は顔を上げる。つい先ほどまで自分の体を乗っ取ろうとしていたはずのジバクに向かって、日向はさらに続ける。
「家族ってさ、きっと自分で探し出せるものなんだよ。お前はもうこの場所に留まらなくたっていい。新しい場所で、新しい魂で、家族を探しにいけばいいんだよ」
そうだろ? と日向は雫を振り返る。だから雫も、そうだな、と頷いた。
すると守はしばらく瞬きを繰り返した後に立ち上がり、二人のことを見上げた。そしてまるで安心したような無邪気な笑顔を浮かべると、
「そう、なんだ。僕はもう、ここで待たなくてもいいんだ」
小さくそう呟く。そのまま、まるで眠りに入る幼子のように、ふにゃりと目尻を下げた守は、日向のことを見つめた後にちらりと雫の方に視線をやり、「そっかあ」と声を漏らした。
「お兄さんたち、本当に家族なんだね。……僕も早く見つけたいな、お兄さんたちみたいに信じ合える大切な家族を」
楽しそうに、どこか嬉しそうに彼は笑って――次の瞬間、その顔の輪郭が徐々にぼけて、煌めいていく。体が星の欠片のような光の結晶となり、ふわりと宙に浮いたかと思うと、夜風に流されてそれは消えた。
後に残ったのは、月明かりだけが差し込む空の部屋のみだった。
「……」
しばしの沈黙。守が先ほどまで立っていた場所を静かに眺めていた雫は、ようやく大きく息を吐き出した。どうやら自分達の仕事は完全に終わったようだ。それも珍しく、ジバクの自主的な成仏、という形によって。
「……帰るか、俺たちも」
ぽつりと言葉を掛ければ、日向が顔を上げた。そこには僅かな疲弊が浮かんでいるものの、どこか憑き物がとれたような表情を浮かべている。
「ああ、そうだな。帰ろう」
――俺たちの家に。彼はそう言うと、少しだけ照れたように笑った。
◆ ◆ ◆
雫は小さく、相対している男の――否、その中で精神が閉じ込められているだろう、相棒の――名を呼んだ。
すると、気のせいかもしれないが、一瞬だけぴくりと彼の体が動いたように見えた。しかしすぐにまたバットを両手で持ち、躊躇いもせずに殴りかかってくる。それを一歩後ろに下がることで避けた雫は、もう一度口を開いた。
「おい日向。この馬鹿、よく聞け」
真っ直ぐに日向を見つめ、今までに語りかけたことのないほどに真剣な声音で言う。それに日向は、少しだけ足取りをふらつかせたものの、再びバットを構え直した。
「お前、家族に捨てられた奴の気持ちは分からないって言ったよな」
また、避ける。ゆらゆらとこちらに近づく日向から距離をとりつつ、雫はさらに言葉を続けた。
「だけどな、お前はそもそも、家族に捨てられてなんかないだろ」
横薙ぎにされたバットが、壁に小さな穴を開ける。からん、と引き抜く反動で甲高い音を立てたそれを持つ日向の表情は、大きな変化はないものの、心なしか先ほどよりどこか苦しげだ。――まるで中にいる彼が、己の体を乗っ取っているジバクと戦っているかのように。
「家族ってのは、血が繋がってないと駄目なのか? お前を育ててくれた桂のおじさんはどうなんだ。教わったのはジバクに関することだけじゃないだろ、他にも沢山、生きていく上で必要なことを必死に教えてくれたあの人こそ……親じゃないのか」
からからとバットを引きずる彼の動きが、やや散漫になっている。その表情は険しく、汗も滲んでおり、ジバクと彼の葛藤が伺えた。
「それに……俺は、どうなんだ。確かにお前とは言い合いしてばかりだし、性格も合わないし、いつも心配を掛けさせられてばかりだが……俺はお前のことを兄弟だと思ってる」
例え血が繋がっていなくとも、と言って、ゆらりと振り下ろされたバットを大きく右に避けた。日向の前に立った雫は、握っていた拳を開き、全身に溜めていた力を抜く。
「俺たちは家族だろう。なあ、日向……もう次の攻撃は避けない。どうするのかはお前が決めろ」
雫は、そう静かに告げ、状況にそぐわない穏やかな表情を浮かべた。一方の日向はひどく重たそうにバットを持ち上げ、その眼前に立つ。頭上に掲げられたそのバットは、かたかたと小刻みに震えながら空中で静止している。
今にも振り下ろされそうな位置にあるそれを雫が見つめていると、突如として、日向がぐらついた。必死の形相で片膝を床につけ、肩で息をした彼は――やがてにやりと、不敵な笑みを浮かべる。
「…………相変わらず、おせっかい、なんだよ。……お前は」
その声音は紛れもなく、自分がよく知る日向のものだった。彼は金属バットを支えにして床でうずくまっているが、先ほどまでの空虚な表情ではなく、見慣れた生意気な相棒の顔つきをしている。それに思わずほっと安堵の溜息を吐いた雫も口元を緩め、やれやれとかぶりを振った。
「そう言うお前はいつも危なっかしいんだ、馬鹿」
笑って日向に手を差し伸べれば、彼も力強くそれを掴んでくる。彼を立ち上がらせてから周囲を見回すと、部屋の中央には、体育座りで泣いている男の子――守の姿があった。恐らく、意識を取り戻した日向の体から追い出されたのだろう。
「どうして、僕はひとりぼっちなの? 僕、ここで待ってたのに、なんでお母さんは戻ってこないの?」
悲痛な泣き声を上げている彼に、雫は複雑そうな顔で拳を構えた。が、それを手で制したのは、今し方助け起こされた日向だ。彼は雫に「大丈夫だから」と小声で言うと、ゆっくりと守に近づき、微笑んで口を開いた。
「……もう、待たなくていい」
静かに紡がれたその言葉に、おずおずと守は顔を上げる。つい先ほどまで自分の体を乗っ取ろうとしていたはずのジバクに向かって、日向はさらに続ける。
「家族ってさ、きっと自分で探し出せるものなんだよ。お前はもうこの場所に留まらなくたっていい。新しい場所で、新しい魂で、家族を探しにいけばいいんだよ」
そうだろ? と日向は雫を振り返る。だから雫も、そうだな、と頷いた。
すると守はしばらく瞬きを繰り返した後に立ち上がり、二人のことを見上げた。そしてまるで安心したような無邪気な笑顔を浮かべると、
「そう、なんだ。僕はもう、ここで待たなくてもいいんだ」
小さくそう呟く。そのまま、まるで眠りに入る幼子のように、ふにゃりと目尻を下げた守は、日向のことを見つめた後にちらりと雫の方に視線をやり、「そっかあ」と声を漏らした。
「お兄さんたち、本当に家族なんだね。……僕も早く見つけたいな、お兄さんたちみたいに信じ合える大切な家族を」
楽しそうに、どこか嬉しそうに彼は笑って――次の瞬間、その顔の輪郭が徐々にぼけて、煌めいていく。体が星の欠片のような光の結晶となり、ふわりと宙に浮いたかと思うと、夜風に流されてそれは消えた。
後に残ったのは、月明かりだけが差し込む空の部屋のみだった。
「……」
しばしの沈黙。守が先ほどまで立っていた場所を静かに眺めていた雫は、ようやく大きく息を吐き出した。どうやら自分達の仕事は完全に終わったようだ。それも珍しく、ジバクの自主的な成仏、という形によって。
「……帰るか、俺たちも」
ぽつりと言葉を掛ければ、日向が顔を上げた。そこには僅かな疲弊が浮かんでいるものの、どこか憑き物がとれたような表情を浮かべている。
「ああ、そうだな。帰ろう」
――俺たちの家に。彼はそう言うと、少しだけ照れたように笑った。
◆ ◆ ◆