「どこ、行ったの……? 僕、言われた通り、いい子で待ってたのに。動かないで、声も出さないで、ずっとずっと待ってたのに……」

 ――おかあさん。どこなの、おかあさん。

 悲痛な泣き声が脳内に響き、床が揺れる。がたがたと瓦礫が震えており、ひび割れた窓ガラスが軋んでいた。ここまで強い思念を持ったジバクには会ったことがない。

「くそっ、日向! ここは一旦引いて……」

 体勢を立て直すぞ、と横を向いた雫は言葉を失った。日向は、いつの間にかジバクの方へと近づいていた。しかしどこか様子がおかしい。ふらふらと、心ここにあらずといった様子で男の子へ近づく彼の腕はだらりと垂れ下がっており、金属バットを力なく引きずっている。その表情は何かを堪えるようにしかめられており、どことなく辛そうだ。

「おい、日向!」

 まずい、と思って叫んだが、遅かった。
 彼は呆然とした顔のまま、男の子の眼前に立つ。唇を噛み、しばらくそのまま黙っていたが、やがてゆっくりと頷いてバットを持つ方とは反対側の手を男の子へ伸ばした。

「……寂しい、よな。怖いし、暗かっただろ」

 消え入るような声で、まるで独白のように日向がそう呟いた途端――幻のようにぴたりと揺れや軋みが収まる。うずくまっていた少年は、ゆらりと顔を上げて日向を見上げた。目を丸くさせた彼は、そっか、と無邪気に笑った。公園で仲良しの友達を見つけたような、安堵と嬉しさを孕んだ笑顔。

「お兄さんも僕と同じなんだね」

 少年は、そのまま日向が伸ばした手を取ろうと上体を起こした。が、すぐにはっと息を呑み、大きく後ろへと飛び退く。彼が元いた場所では、雫が振り下ろした拳を再び構えながら、日向との間に立ち塞がっているところであった。

「やめろ!」
「お前、何を考えてる!」

 制止の声を遮り、鋭く怒鳴る。それに何かを言いたげな顔で日向が口を開きかけるが、その前に突然こちらの背後を指差し、「後ろ!」と叫んだ。瞬間、ぶわりと風を切る音が聞こえたので、振り向きざまに拳を突き出せば、雫の顔面めがけて飛んできていた木材の破片が砕けて床に散らばる。

「邪魔、しないで、僕、ここにいなきゃ、おかあさん、待つんだ」

 途切れ途切れの、壊れたスピーカーのような声が反響した。ぐらり、と足下が揺れ、バランスを崩しかけた日向を掴み、出口に向かって駆ける。背後から迫る凄まじい気配から逃れるように階段を飛び降り、建物から距離を取った。腕を掴んだままの日向が何か抗議の声を上げているのが聞こえたが、無視して走り続ける。

 先ほどよりも強くなった雨から逃れるため、適当なビルのエントランスへ身を滑り込ませた二人は、肩を上下させながら乱れた息を整えていた。ぽたり、と、髪を伝った雨粒が地面へ落ちる。それをしばらく黙ったまま眺めていた雫だったが、やがて顔を上げ、目の前で同じように深呼吸している日向の胸ぐらを掴んで引き寄せた。

「おじさんに、あれほどジバクとは言葉を交わすなと言われてただろ。もう少しで引き込まれるところだぞ!」

 明確な怒気を含んだ怒鳴り声を浴びせれば、日向の方もこちらを鋭く睨みつけてくる。そのまま案外強い力で突き飛ばされ、思わず手を離すと、彼は襟元を整えながら口を開いた。

「お前には関係ない。偉そうに指図すんな」

 その言い方に雫は、何だと、ともう一度詰め寄りかける。いつもなら無視して流すような返答だったが、今は状況が状況だ。言いつけを破り、あろうことかジバクを受け入れようとした。到底許される行為ではない。
 しかし日向も、一歩も引かないとばかりに目を細め、雫を見据えた。その瞳に映るのは、苛立ちと――明らかな拒絶。

「家族に捨てられた人間の気持ちが、お前に分かるわけない」

 静かに言い放たれたその言葉に、雫は思わず絶句し、動きを止める。しかしそれは一瞬で、気が付けば日向の横っ面を思い切り殴っていた。大した抵抗もなく地面に尻餅をついた日向は、まるで予想していたような落ち着いた動作で、切れた口端についた血を拭う。しかしその双眸には、未だにこちらへの反抗心が宿ったままであった。

 冷たい雨が降り注ぐ深夜の東京。いつもなら喧噪が包み込んでくれるネオン街も、悪天候のせいか、すっかり人影もなく静まりかえっていた。


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