ネオン輝く東京の夜。
時刻は深夜一時半を過ぎた頃であるが、キャッチの若い男や、騒がしく道の真ん中を歩く大学生らしき集団など、この街はまだまだ眠るところを知らないらしい。
――そんな中、裏通りの人気のないビルの合間の前で、二人の男が睨み合っていた。
どちらも二十代半ばから後半ほどの年齢であり、それぞれパーカーとジャケットというラフな出で立ち。友人同士と形容するにはあまりに険悪な雰囲気の彼らは、人々の雑踏の中で言い争いをしている。
「おい、今日はちゃんと見張ってろよ。また逃がして大都会の中で鬼ごっこするとかマジ勘弁だから」
「そう言うお前こそ、今回は一発でしっかり仕留めろ。長引かせるな」
「何だとコラ。やるか?」
そう言って凄んだのは、明るい茶髪と吊り気味の瞳が印象的な青年だ。対するもう一人は、落ち着いた雰囲気の黒髪の男である。彼は腕を組み、鬱陶しそうな表情で青年を見やった。
「日向、お前のその減らず口はいつまでも治らないのか?」
その言葉に、不機嫌そうに口をへの字にした青年――日向は、ネオンの光を透かしてさらに明るく見える髪を揺らし、わざとらしく舌打ちを漏らす。彼の手にはどういう訳か金属バットが握られており、カラカラと甲高い音を立ててコンクリートに引きずっていた。
「お前こそたまには素直に『分かりました』って言えないワケ?」
なあ雫さんよォ、と日向は挑発するような口調で黒髪の男に問う。雫、と呼ばれた男は眉をひそめ、何も言わないままに視線を逸らす。無視だ。
シカトかよ、と詰め寄ろうとした日向を手で制し、雫は暗闇が広がる裏路地を顎でしゃくる。
そこには、表通りとは比べものにならないほどに静かで、陰鬱とした空気が流れていた。光も満足に入らないビルとビルの隙間。黒々としたアスファルトにネオンの光が僅かに反射しているその場所の奥で――何かが蠢いていた。
「お、発見」
軽い声音でそんなことを言った日向は、バットを肩に担いでその細い道に足を踏み入れる。傍らに立っていた雫も、手にはめていた指だけ出ているタイプのグローブを弄りつつ、その後に続いた。
「……」
彼らが歩を進めると、すすり泣くような嗚咽の声が聞こえてきて、やがてそれの正体が明らかになった。
それは、一人の女性だ。長い黒髪に、ぼろぼろになったTシャツ、ジーパン。こちらに背を向けるようにしてしゃがみ込んでいる彼女は、どうやら肩を震わせて泣いているらしい。それだけであれば、正直なところ、この東京ではよく見る光景だ。
しかし――彼女は明らかに異質だった。
「こりゃまた、厄介だな」
日向のその呟きに、雫も息を小さく吐き出すことで応える。
その女性は、身長が二メートルほどある、ひどく痩せた身体をしていた。二人の気配に気が付いたのか、この世のものとは思えないほど細い四肢を揺らし、ゆっくりとこちらを振り返る。露わになった相貌は痩せこけ、瞳は白目がなく落ちくぼみ、口を不気味にぱくぱくと開閉させていた。
「あ……アア、ナニ、ちか、近寄らナイデ」
発音のはっきりしない呻き声を上げた彼女は、ふらりと立ち上がる。その様子を眺めながら、遠くの方で響いたクラクションを聞き流した雫は、ちらりと隣に一瞥をくれた。
「ほら、出番だぞ日向」
「言われなくたってやるさ。早く帰って寝たいんだよ、こっちは」
そんな返答をした日向は、手に持っていたバットをぐるりと回して女に近づく。よく見るとそのバットには、元の金属が見えなくなるほどにお札のようなものが沢山貼り付けてある。彼女はまるでそれに怯えるように一歩大きく後ずさるが、行き止まりのためそれ以上は身動きがとれないようだ。
「ヤメテ、離れ、離れタクナイノ、ココ。ヤメテ、ヤメテ……ヤメロ!」
突如として金切り声を発し、女はぐわりと動く。そのまま、歩み寄ってくる日向の方へと、腕を大きく振りかぶり襲い掛かった。それはとても人間とは思えないほどに素早く、まるでこちらを飲み込んでしまうような雰囲気。
だが――。
「そうは言われても、こっちも仕事なんでね!」
身を翻した日向は、ビルの壁面を蹴って身軽にそれを躱した。女の背後に回り込み、バットを躊躇いなく振り下ろす。彼女は咄嗟に飛び退くが、僅かに掠った腕がぼろぼろと砂のように崩れ、宙に消えるのを見て絶叫を上げた。そして長い足をばたばたと動かし、路地の入り口を塞ぐようにして立っている雫の方へ疾走する。
「逃がすなよ、雫!」
「……一発で仕留めろと言ったのに」
面倒そうに溜息を吐いた雫が、グローブをつけた両手を掲げて身構えた。そこに、女が鬼気迫る表情で飛びかかる。
その瞬間――上半身を反らして攻撃を避けた雫の拳が、容赦なく女の顔面にめり込んだ。悲鳴を上げようとした彼女の口が砂に変わり、鼻、目、やがて顔全体から全身がひび割れ、崩壊し始める。やがて吹き抜けたビル風に乗って、その砂すら夜の街並みへと飛んでいった。星屑にも似た煌めきを放った後、それは跡形もなく消えてしまう。
「ジバク、除霊完了~。まったく手間取らせんなよって感じ」
やれやれと言わんばかりに首を回し、日向は欠伸をした。かつん、と彼のバットが固い地面を叩く。それに少しだけ彼の方を見た雫が、鼻で一笑してからグローブの埃を払った。
「相変わらず悪趣味な武器だな。札も何枚か剥がれかかってる」
「別にいーだろ。大体、お前のも同じようなもんじゃん。グローブの内側に札縫いつけてんだから」
「お前と一緒にするな」
「は? ぶん殴るぞ」
「やってみろ」
テンポよく軽口の応酬をする二人は、そのままうるさく言い争いながら路地裏から出て、表通りへと戻る。眩しい照明が未だ輝き続けているネオン街は、酔っ払い同士の小競り合いのせいで警察が出動する事態になっているようで、いつも以上に騒がしい。
道行く人々は誰も、喧嘩をしながら夜闇に姿をくらませた二人に気が付くことはなかった。
翌朝。都会のど真ん中とは思えないほど立派に育った大木を見上げ、雫は目を細めていた。そのまま振り返れば、まず目に飛び込んでくるのは石造りの寺院。小さな池、苔の生えた趣のある灯籠、敷き詰められた小石。
――逢魔寺。酷いネーミングセンスだが、都内では珍しく「厄除け・除霊」に特化しているということもあり、平日でもそこそこ人が訪れる寺院である。
とはいえまだ朝が早く、一見したところ参拝者はまばらだ。寺院を通り抜けた雫は、これまた人の少ない、併設されている墓地へとやって来た。
手桶と柄杓、線香と花を両手に持ち、奥に設置されている小さな墓の前で立ち止まる。『小野川家』と刻んである墓石をしばらく眺め、それを水で清めてから、線香と花を供えて両手を合わせた。
しばらくそのまま目を閉じていた雫だったが、やがて手を下ろし、ゆっくりと踵を返す。
毎日、目覚めたら両親の墓参りをする。それが彼の日課だった。
「……あいつ、また寝坊だな」
そう小さくぼやいてから寺に戻ってきた彼は、爽やかな朝に相応しい鳥のさえずりを聞きながら、本堂の横を通り抜け、奥にある庫裏――寺の住職などが暮らす建物――へと入った。やや重ためな印象のある黒髪を揺らし、廊下の奥の居間へと続く襖を開ける。
「んあ? って、お前か。相変わらず早起きだなあ」
「お前が寝過ぎなんだよ」
そこでは、日向が未だ寝ぼけたような顔でちゃぶ台に突っ伏していた。欠伸をしてまぶたを擦っている彼は、隣に座ってきた雫をちらりと見るが、すぐにまたうつ伏せになってしまう。どうやらまだ寝たりないらしい。
机の上には、湯気の上る味噌汁と玄米、焼き魚が三人分用意されていた。果たしてこれを準備してくれたのであろう人はどこに行ったのかと、雫が周囲を見回したと同時、目の前の襖が開く。
「おや、雫。もしかしたらまだお墓にいるのかと思ったが、早かったね」
「おはようございます、おじさん」
藍色の作務衣を着た初老の男性が、にこにこと穏やかな笑みを浮かべながら部屋に入ってきた。頭は坊主にしており、いかにも僧侶といった出で立ちである。
するとその物音に反応したのか、日向が顔を上げ、ぱっと顔を輝かせた。整えきれていない茶髪がぴょこぴょことはねていて、犬を彷彿とさせる。
「おっちゃん! 早く食おうぜ、腹減った!」
「いやあ、待たせてすまないねえ」
苦笑を浮かべながら二人の前に座った男――名を桂慈圓という――は、両手を合わせて目を閉じた。いただきます、と声が三重に響く。この時ばかりは普段うるさく騒いでいる日向ですら静かにしているのが面白い、と頭の片隅で考えてから、雫は玄米を一口食べた。
「そういえば、二人とも昨日はご苦労様。ジバクが成仏したおかげで、従業員の体調不良が治ったって依頼人からお礼の電話がきていたよ」
「……そういえば何だったんだっけ、あれ。男にフラれて自殺とか?」
その桂の言葉に、焼き魚を頬張りながら日向が尋ねる。味噌汁を飲みつつ、雫も昨日の仕事を思い出していた。路地裏の奥に潜んでいた女。最期までここから離れたくないと叫びながら消えていった、あの瞬間。
「まあ、そんなところかな。交際していた男性と別れたとある女性が、精神的に参ってしまったようでね……衝動的にあそこのビルの屋上から飛び降りた。しかし気持ちの整理ができていないまま死んでしまったから、ジバクとなり、あの地に留まっていたんだとか」
そう説明しながら、桂もご飯を食べている。対する日向は「なるほどねえ」と頷き、もぐもぐと口を動かしていた。口の端にご飯粒がついている。それを呆れたような視線でしばらく眺めていると、日向が眉間に皺を寄せ、何だよ、とぶっきらぼうに言った。
ジバク――現世への未練が残り、成仏しないまま特定の場所や建物に留まってしまう幽霊を、自分達はそう呼んでいる。
彼らの強い残留思念は、その場所に悪影響を及ぼすことが多い。例えば、今回のように、現場に隣接するホテルでポルターガイストが多発したり、従業員が謎の体調不良で何人も寝込んだり。
それを解決するため、ジバクを成仏させるのが雫と日向の仕事だ。
「なんつーか、ちょっと可哀想だな。まあ思い切りバットで殴ろうとしたんだけどさ」
味噌汁をすすり、日向がぽつりと声を漏らす。彼を見つめる桂は、変わらずに優しげな顔で黙っていた。
日向と雫、そして桂は、ジバクを視ることができるだけでなく、彼らを成仏させる能力を持っている。否――少し表現が違うか。正確には、「ジバクが視える日向と雫」が、「ジバクを祓う力を持つ桂」の力を借りて成仏させていると言うべきだろう。
日向は、物心ついた時にはすでにジバクが視えていたらしい。一方の雫は、中学生の頃、事故によって生死の境を彷徨った後から視えるようになった。未だにジバクが視えるようになるメカニズムは不明だが、とにかく二人には本来見えないはずのものが視えている。
そして、桂が祈祷して作った札の力を借りて、ジバクを成仏させているのだ。
「またジバクに同情か?」
少しだけ皮肉げに口端を吊り上げながら雫が問うと、日向はぎろりとこちらを睨んでくる。
「何だよ、その言い方」
「いつもそうだろ。死んだ人間に何を思ったって無駄だ」
「……余計なお世話。ぐちぐちうるせえんだよ、お前はいつも」
その吐き捨てるような口調に、さすがの雫も顔を険しくさせた。文句でもあんのか? とトドメの一撃をかましてきた日向に言い返そうと、思わず口を開きかける――。
「はい、そこまで」
しかし、そこで凜とした声が響き、二人は口を噤んだ。二人の顔を交互に見比べ、僅かに真剣さを含ませた顔つきになった桂が、ゆっくりと茶碗を置く。それはまさに鶴の一声といった様相で、お互いに憮然とした表情はしているものの、雫はおろか日向ですらそれ以上口を開こうとはしなかった。
しばらく黙って様子を伺っていた桂は、二人が喧嘩をしないことを確認すると、傍らに置いてあった封筒から書類を取り出し、ちゃぶ台の上にそれらを広げる。何事かと怪訝な顔になった二人に向かって、彼はまたしても柔和な笑みを浮かべてみせた。
「二日連続で悪いんだけどね。最高に仲が良い君たちに、仕事の依頼だ」
その言葉に、「うげぇ、寝不足なんだけど」と頭を抱えた日向が呻き声を漏らす。一方の雫は書類を手に取って、中身をちらりと確認してから、桂の方を見上げた。
「……漫画喫茶のあったビルの解体工事が進まない、って?」
「そう。相当年季が入っていたみたいだから、全部取り壊してビジネスホテルを建てたいらしいんだけどね。原因不明の停電だったり、機材の不具合だったり、この前なんか突然の強風で従業員が怪我したりして、思うように作業が進まないんだとさ」
話を聞いてるとどうもジバクの仕業っぽいんだ、と続けられた科白に、成程、と頷きながら雫は書類を捲る。桂がそう思うのであれば間違いないだろうし、どちらにせよ直接現場に行けば分かることだ。隣の日向も「いつも通りぶっ飛ばせばいいんだろ」と言い、残っていた玄米をかき込んだ。
桂も食事を終え、両手を合わせてから書類を片付ける。そしてこちらに視線を寄越すと、人差し指を立てて言葉を続けた。
「ジバクを見つけ次第、すぐ成仏させること。いいかい、いつも言ってると思うけど、ジバクとは決して――」
「『ジバクとは決して言葉を交わしてはならない』……だろ。分かってるって」
もう聞き飽きたよ、と日向は食器を持って立ち上がる。居間を出て行く彼の後ろ姿を眺め、雫は軽く溜息を吐いた。
それは、桂が仕事の前に必ず言う言葉だった。自分達が仕事を行うのは、午前二時から二時半前後の「丑三つ時」で、死後の世界である常世との境界が曖昧になっているため、ジバクとも接触できる時間帯である。が、同時にそれは、ジバクに引き込まれやすいという意味でもあった。必要以上の接触は、ジバクとの繋がりを生む。そうなってしまうと、今度はこちらが彼らに取り憑かれ、体を乗っ取られることになりかねない。
そのため、雫と日向は、ジバクとは言葉は交わさないようにしているのだ。
「確かにしつこいかもしれないけど、私は心配なんだよ」
桂が困ったように笑い、髪のない頭を掻いた。特に日向はやんちゃだから、と付け加えられた言葉に、雫は思わず少し頬を緩める。中学生になってからここに来た雫とは違い、日向は物心ついた頃から桂を親代わりに育ってきたという。桂の方も、まるで本当の息子のように心配なのだろう。
「よく見張っといてくれ、雫」
ぽん、と肩を軽く叩かれ、雫は頷いた。暴走しがちな彼を止めるのが自分の役目でもある。
「いつもは素直じゃないけどね、日向も君がいてくれて助かっているはずだ」
目を細めて笑いながら桂は言った。それはどうかな、と内心では少し疑問だったが、口には出さず、曖昧な表情を浮かべたまま食器を片付けて立ち上がる。
――午前中のうちに寺の掃除をして、それから仕事の準備をしなければ。
そんなことを考えながら、雫もまた居間を後にした。
◆ ◆ ◆
「見るからにやばそうな雰囲気、って感じ」
深夜。午前二時半。降り注ぐ小雨。大通りからは遠く離れた、少し怪しげな建物や看板が立ち並ぶ細い道。
控えめな街灯が照らし出すそのビルには、閉店したにもかかわらず、『漫画喫茶ダラール』との看板が未だに掲げられていた。
いつものようにお札だらけの金属バットを肩に担いでいる日向が、嫌そうに顔をしかめている。先ほどから何とも表現しがたい胸騒ぎがするので、恐らく彼も同様のものを感じているのだろう。
「……さっさとやるぞ。これ以上雨が悪化しないうちにな」
雫はそう言って、足早にビルの中へと入った。髪が雨のせいですっかり濡れてしまった。日向も犬のように首を数回振って水滴を落とし、ひょいひょいと隣に並んでくる。
二人はそのまま一階に足を踏み入れて周りを見回すが、そこは既に埃と瓦礫が積み上がった廃墟となっており、誰の姿も見えなかった。既に漫画喫茶のブース等は撤去されていて、未だ放置された椅子や受付カウンターの残骸などが転がっている。
「んー、いないな」
二階以上にいるのかな、と日向が首を捻りつつ、階段を上った。雫もその後をすぐ追いかけながら、グローブをはめ直して拳を構える。そのまま二階の扉を開けようとしたところで、頬がひりつくほどの凶悪な空気を察知し、ドアノブに手を掛けた姿勢のまま日向は動きを止めた。無言でこちらを振り返ってきた彼に対し、ゆっくりと頷いてみせてから、雫も体制を低くする。
――この先にジバクがいる。
声に出さずとも、お互いに分かった。バットを強く握り締めた日向は大きく息を吸い込み、それを吐き出すと同時に思い切り扉を開く。素早く中に駆け込んだ雫は、視線を部屋の中に巡らせ、立ち止まった。すぐ背後で日向が、あ、と小さく声を漏らす。
二人の視線の先――部屋の中央では、一つの影がぽつりと立っていた。背丈はかなり小さく、近づいてみると、こちらに背を向けた男の子であることが分かる。それはこちらの気配に気が付いたのか、おもむろに振り返ってきた。まだ六歳かそこらの、あどけなさの残る顔つき。
「……、子供……?」
呆然とした声音で日向が呟いた。雫は何も言わなかったが、隣の彼と同様に驚きは隠せなかった。子供のジバクは特に珍しくはないが、先ほどの禍々しい気配の根源と思うと違和感が拭えない。
「あ、れ、お兄さんたち、どうしたの」
その時、声が響いた。顔を上げれば、その男の子は真っ直ぐにこちらを見つめ、こてんと小首を傾げている。端から見れば、生きている人間の子供と全く違いがない。無邪気で可愛らしい男の子だ。そのせいか、日向が構えていたバットの先端を下ろし、迷ったような表情で口を一文字に結んでいる。
雫はそんな彼の様子を見て、拳を掲げてから声を上げた。
「日向、やるぞ。子供だろうがジバクはジバクだ」
「……分かってるさ」
まだ躊躇しているようだったが、それでも日向は再びバットを持ち上げる。そして先端を男の子に突きつけ、ゆっくりと振り上げた。幼い子供の見目をしているので気分は乗らないが、これも仕事だ。彼もそう割り切ろうとしているのか、大きく息を吸い込む音が聞こえる。
「おかあさん」
ぽつり、と。
その漏らされた声に、日向は目を見開き、今にも一直線に下ろそうとしていたバットを静止させた。
男の子は、悲しげに顔を歪めて体を丸めている。ここに留まりたい、離れたくない、そんな想いが痛いほど伝わってきて、雫はぶわりと鳥肌が立った。ジバクと対峙する時は大半が同じような感情を露わにしてくるのだが、この子のそれは格が違う。気を抜けばこちらが動けなくなりそうな、あまりにも強い想い。
「どこ、行ったの……? 僕、言われた通り、いい子で待ってたのに。動かないで、声も出さないで、ずっとずっと待ってたのに……」
――おかあさん。どこなの、おかあさん。
悲痛な泣き声が脳内に響き、床が揺れる。がたがたと瓦礫が震えており、ひび割れた窓ガラスが軋んでいた。ここまで強い思念を持ったジバクには会ったことがない。
「くそっ、日向! ここは一旦引いて……」
体勢を立て直すぞ、と横を向いた雫は言葉を失った。日向は、いつの間にかジバクの方へと近づいていた。しかしどこか様子がおかしい。ふらふらと、心ここにあらずといった様子で男の子へ近づく彼の腕はだらりと垂れ下がっており、金属バットを力なく引きずっている。その表情は何かを堪えるようにしかめられており、どことなく辛そうだ。
「おい、日向!」
まずい、と思って叫んだが、遅かった。
彼は呆然とした顔のまま、男の子の眼前に立つ。唇を噛み、しばらくそのまま黙っていたが、やがてゆっくりと頷いてバットを持つ方とは反対側の手を男の子へ伸ばした。
「……寂しい、よな。怖いし、暗かっただろ」
消え入るような声で、まるで独白のように日向がそう呟いた途端――幻のようにぴたりと揺れや軋みが収まる。うずくまっていた少年は、ゆらりと顔を上げて日向を見上げた。目を丸くさせた彼は、そっか、と無邪気に笑った。公園で仲良しの友達を見つけたような、安堵と嬉しさを孕んだ笑顔。
「お兄さんも僕と同じなんだね」
少年は、そのまま日向が伸ばした手を取ろうと上体を起こした。が、すぐにはっと息を呑み、大きく後ろへと飛び退く。彼が元いた場所では、雫が振り下ろした拳を再び構えながら、日向との間に立ち塞がっているところであった。
「やめろ!」
「お前、何を考えてる!」
制止の声を遮り、鋭く怒鳴る。それに何かを言いたげな顔で日向が口を開きかけるが、その前に突然こちらの背後を指差し、「後ろ!」と叫んだ。瞬間、ぶわりと風を切る音が聞こえたので、振り向きざまに拳を突き出せば、雫の顔面めがけて飛んできていた木材の破片が砕けて床に散らばる。
「邪魔、しないで、僕、ここにいなきゃ、おかあさん、待つんだ」
途切れ途切れの、壊れたスピーカーのような声が反響した。ぐらり、と足下が揺れ、バランスを崩しかけた日向を掴み、出口に向かって駆ける。背後から迫る凄まじい気配から逃れるように階段を飛び降り、建物から距離を取った。腕を掴んだままの日向が何か抗議の声を上げているのが聞こえたが、無視して走り続ける。
先ほどよりも強くなった雨から逃れるため、適当なビルのエントランスへ身を滑り込ませた二人は、肩を上下させながら乱れた息を整えていた。ぽたり、と、髪を伝った雨粒が地面へ落ちる。それをしばらく黙ったまま眺めていた雫だったが、やがて顔を上げ、目の前で同じように深呼吸している日向の胸ぐらを掴んで引き寄せた。
「おじさんに、あれほどジバクとは言葉を交わすなと言われてただろ。もう少しで引き込まれるところだぞ!」
明確な怒気を含んだ怒鳴り声を浴びせれば、日向の方もこちらを鋭く睨みつけてくる。そのまま案外強い力で突き飛ばされ、思わず手を離すと、彼は襟元を整えながら口を開いた。
「お前には関係ない。偉そうに指図すんな」
その言い方に雫は、何だと、ともう一度詰め寄りかける。いつもなら無視して流すような返答だったが、今は状況が状況だ。言いつけを破り、あろうことかジバクを受け入れようとした。到底許される行為ではない。
しかし日向も、一歩も引かないとばかりに目を細め、雫を見据えた。その瞳に映るのは、苛立ちと――明らかな拒絶。
「家族に捨てられた人間の気持ちが、お前に分かるわけない」
静かに言い放たれたその言葉に、雫は思わず絶句し、動きを止める。しかしそれは一瞬で、気が付けば日向の横っ面を思い切り殴っていた。大した抵抗もなく地面に尻餅をついた日向は、まるで予想していたような落ち着いた動作で、切れた口端についた血を拭う。しかしその双眸には、未だにこちらへの反抗心が宿ったままであった。
冷たい雨が降り注ぐ深夜の東京。いつもなら喧噪が包み込んでくれるネオン街も、悪天候のせいか、すっかり人影もなく静まりかえっていた。
◆ ◆ ◆
『成程ね。それで帰ってきた、ってことか。……二人だけで大丈夫かい? もし厳しそうであれば、私が戻ってきてから一緒に行くこともできるけど』
「いや、それだとジバクの成仏が遅くなって依頼人にも迷惑が掛かる。こっちは大丈夫だ、今日で決着をつける」
『……まあ、それならいいんだけどね』
電話の向こうで桂がやや心配そうな声を出す。そのまま、また何かあったら連絡してくれ、と続けてから彼は通話を終了させた。短く息を吐き、雫はスマホをしまって窓の外に視線を向ける。
桂は昨日の午後から、ジバク成仏の依頼があった物件の下見のため、長野の方へ出張に行っていた。数件回るようで、帰ってくるのは明後日の夜となっている。ジバクの怨念が強力で除霊に手こずっているとの旨は伝えたが、日向がジバクと言葉を交わしたことは何となく伏せた。今のところ問題はないようだし、何よりこれは日向自身の問題であると思ったので、告げ口するようなことはしたくなかった。
――家族に捨てられた人間の気持ちが、お前に分かるわけない。
昨夜、彼に言われた言葉が脳内で反芻する。
自らの拳を見下ろした雫は、未だに日向を殴った時の感触が残っているような気がして、思わず顔をしかめた。珍しく感情的になった、と少しだけ後悔しているところはあるが、だからといってあの発言はどうしても許すことができない。
日向は、児童養護施設育ちだ。
詳しいことは本人には聞いていないが、桂からそれとなく聞いた話によると、元々シングルマザーで育ててくれていた母親がある日突然失踪し、栄養失調になりかけていたところを近所の人が通報して、施設に行くことになったのだという。まだ小学生になる前だったそうで、母親の記憶も朧気。本人曰く「思い出したくもない」だそうだ。
彼は、幼い頃からジバクが視える体質だった。誰も居ないように見える虚空をじっと見つめていたり、「あの人誰?」と天井あたりを指差しながら尋ねたりと、そんなことを繰り返していたら、周囲の人間にひどく気味悪がられたらしい。施設の子供たちだけでなく、そこで働いている大人たちも、やがて彼を遠巻きに眺めるようになった。
そうして孤独に過ごしていた彼を引き取ったのが、児童養護施設の責任者と個人的な関係があった桂というわけある。
一方の雫は、両親を中学の時に事故で亡くした。自動車の事故で、横から赤信号無視のトラックが突っ込み、両親はほぼ即死。後部座席に座っていた雫も重傷を負ったが、何とか一命を取り留めた。そしてその後目を覚ました病院で、前までは見えることのなかった奇妙なものが見えるようになったのだ。親戚の家に預けられた後もそれは消えることなく、異変に気が付いた親戚が「お祓いをした方がいい」と逢魔寺を勧めたことで桂と出会った。
つまり、日向は雫とは違い――家族、というものに触れてこなかったのである。
「……腹立つな」
ぼそ、と雫は呟き、腕組みをした。椅子の背もたれに体重を預け、何気なく窓の外を見る。こちらの気分とは裏腹に晴れた空がそこには広がっていた。
日向とは、雫がここに来て以来ずっと喧嘩ばかりだった。とにかく行動が先のやんちゃな彼と、あらゆる可能性を考えて計画を立てる自分との相性は、お世辞にもいいとは言えなかったが、それでもあそこまで明確な拒絶をされたのは初めてである。まるで彼と自分の間に見えない壁があるような、大きな隔たりを感じた。
雫はふと、手元に視線を落とす。そこには、桂がファックスで送ってくれた今回のジバクに関する追加情報があった。いつもなら感情移入しないように、という理由で、除霊対象のジバクの過去は探らないようにしているのだが、日向の件もあるので特別に調べてもらったのである。
ざっと目を通すと、書類には以下のような記載があった。
『対象・岩崎守。年齢不詳だが、恐らく五、六歳の男児。二年前、当時営業中だった漫画喫茶ダラールの大型コインロッカー内にて衰弱死した状態で発見された。警察の調べによると、母親が育児放棄のため故意に男児をロッカー内に放置する姿が監視カメラの映像に残っていた。その後母親の行方を捜索したが、やがて静岡県の山奥で首を吊った死体となって発見され、何とも報われない結果でこの事件は幕を下ろした』
『母親に会いたい、ここで待っていればきっと戻ってきてくれる、という強い想いが周辺に悪影響を及ぼし、ビルの解体工事の妨げとなっている』
なるほどな、と、それを読んだ雫は思わずかぶりを振る。日向が経験してきたことを踏まえれば、あのジバクの言葉に共感してしまうのも無理はない。彼もまた、施設の入り口で毎日母親が帰ってくるのを待っていたらしい。ジバクである守の寂しさ、心細さは痛いほど分かるのだろう。
「なら尚更、とっとと片付けないと面倒だ」
そう言い切って顔を上げた雫は、広げていた書類を片付けて立ち上がる。長引けば長引くほど――守と接する時間が長ければ長いほど、日向の判断が鈍るだけだ。今日こそ成仏させなければ、と決心し、雫はいつも使っているグローブに一瞥をくれた。
◆ ◆ ◆
阿藤日向は怒っていた。
ぶすっとしたふくれ面のまま、前を歩く男の背中を睨みつけている。些細な反抗とばかりに、わざとうるさい音を鳴らしながら金属バットを引きずるが、男は何の反応も見せない。
――相変わらずつまんねえの。おせっかいだし。
舌打ちをして、視線を周囲に巡らせた。繁華街のど真んを突っ切っているせいか、酔っ払いが通りで寝ていたり、明らかに水商売風の服装をした女がこちらに手招きしていたりしている。時刻は既に深夜二時を回っているというのに、この街はいつまでも眠らない。
今、こちらに背を向けて歩いている男――吽野雫――とは、喧嘩中だ。
喧嘩、といえるのかは分からないが、少なくとも日向はそう認識している。昨日の仕事の最中に、とあることがきっかけで、自分達は久しぶりに喧嘩をした。いや、喧嘩ならいつもしているのだが、本気の喧嘩、というのは、今までにそう多くはない。
正直、「自分が悪い」ということなど、日向には分かっていた。普段からあれほど言われていたのにジバクと会話をしてしまったこともそうだし、その後の発言もきっとよくなかった。
――けど、あんな言い方しなくたっていいだろ。こっちにはこっちの、色んな事情があるんだよ。
こっそりとバツが悪そうに顔をしかめる。意地を張って言い返してしまった手前、謝るに謝れない。というか、向こうは手まで上げてきたんだから、あっちから謝るべきだろ。いや、まあ確かにこっちも悪かったかもしれないけど、などと、先ほどからうだうだ考えながら、昨日も訪れたあのビルへ歩を進めていた。
未だ痛む殴られた頬を擦りながら、日向は幼いジバクの姿を思い出す。お母さんに会いたいと叫んでいた、あの男の子。とても他人事と割り切ることは出来なくて、こっちまで苦しくなりそうだった。
自分には、親の記憶はほとんどない。父親は初めからいなかったし、母親だって、もうその顔も声もよく思い出せない。ただ唯一覚えているのは、手を繋ぎ、あの施設へ一緒にやって来た母親が、「ここでちょっと待っててね」と言い残したという事実だけだった。日向はその言葉通り、じっと待っていた。お前はもう捨てられたんだと施設の子供に言われても、ずっと待っていた。しかしとうとう母親は現れなかった。
もし自分があのまま死んでいたら、ジバクになっていなかったと、果たして言い切れるだろうか。昨夜からそんなことばかり考えてしまう。
「……おい」
突然声を掛けられ、日向は肩を震わせた。前を向けば、そこには怪訝そうな表情の雫が立っている。どうやら何度も声を掛けられていたらしい。
「行くぞ」
「……、分かってる」
ぶっきらぼうに応えるが、雫は特に気にする素振りも見せず、例のビルへと足を踏み入れた。何だよ、と口を尖らせながら、日向も大人しくその後に続く。
昨夜と同じく、まずは一階を捜索するがやはり人影はなかった。ならば二階か、と雫が階段を上って部屋の中へと踏み入れる。ジバクが原因のポルターガイストのせいで瓦礫が散乱し荒れていたが、ここにも誰もいないようだ。
「おかしいな」
雫が首を捻りながら呟いた。そのまま部屋の奥を調べていこうとする彼の後ろ姿をぼんやり眺めていた日向だったが、そこで何かの気配を感じ、背後を振り返る。そこには当然誰もいないのだが、もっと奥――否、もっと上から、呼ばれている気がした。
ふらり、と、意図せずに足がそちらに向く。部屋の外に向かって歩き、階段を上がる。雫に一言何か声を掛けてからにしないと、と思っているのに、口が動かなかった。
まるで何かに引っ張られるように、虚ろな表情の日向が三階に辿り着くと、そこには昨日も会ったジバクの男の子が立っている。にこにこと、嬉しそうに、楽しそうに無邪気な笑顔を浮かべている彼は、日向に近づき、その手を取った。
「お兄さん、来てくれたんだ!」
その声に、日向は何かを応えようとしたが、やはり言葉が出てこない。早くこの子を成仏させなければ、とバットを持ち上げようとするのだが、力が全くと言っていいほど入らず、終いには取り落としてしまう。カラン、と甲高い音が響き、自らの武器が床に転がるのを見つめた日向は、冷や汗が頬を伝うのを感じていた。
――ジバクとは決して言葉を交わしてはならない。
桂から何度となく言われていた言葉。その本当の意味が、今分かったような気がする。
「ね、お兄さんも寂しいんだよね。じゃあ、僕たちきっと友達になれるよね」
そんなことを言った男の子は、さらに口角を上げて笑みを深くする。それを見た瞬間、日向の意識は暗転し――どさりと、彼はその場に倒れた。