裂け目の中には物理的距離はない。
 いつでもそこは入ったところと同じ場所だ。
 鏡が出入り口になるようなおとぎ話の鏡の国とは違う。
 広がってはいるけれど現実と相対ではない。
 
 そこをかつて巻緒は亜空間と呼んでいた。

 亜空間に距離はない。そして固定された場所もない。
 流動的で闇雲な世界。何も存在しないが起伏はある世界。
 基本的にはそういう空間のはずだ。
 
 主がいない限りは。

「まあいつも通りごくごく普通って感じ?」

 花代の感想に巻緒も頷く。
 
「そうだなあ。特に尖ってもいない。個性もない。没個性でもない。こう普通」

 ふたりは歩を進める。

 なだらかと思えば急。
 開けていると思えば乱雑。
 たとえるなら熱に浮かされてみる悪夢のような無秩序な構造。
 しかし恐怖はない。
 それはただの慣れかもしれないが、花代はこの空間に何も感じなかった。

 このような世界でも命綱には意味がある。
 
 入り口があるならそこは出口になる。
 しかし入り口である裂け目はすぐに空間を流れていき花代からは見えなくなってしまう。
 
 しかし直緒に預けた命綱の先は存在している。
 いざ花代が迷子になって困り果てたとき、彼女はしゃがみ込む。
 そうすると今はピンと張られている命綱に緩みが生じる。
 緩みを感知したとき、直緒はこの命綱を思い切り引っ張る。
 そうすれば花代は素直に引っ張られ現実空間に戻ることが出来る。
 
 命がうごめく現実世界と、無が渦巻く亜空間の橋渡し。

 それが命綱の文字通りの役割だった。
 
「何か手がかりが見つかるまではいつも通りのそぞろ歩きね」
 
「デートだね。デート」
 
「いつもみたいに不審な目で見てくる人間がいないのはいいけどデートはちょっと……」
 
「あはは」

 巻緒は花代の嫌そうな顔とは対照的な笑顔を浮かべた。
 
「鏡は嫌いじゃなかったわ」

 花代は唐突に亜空間に入る前の話題を蒸し返した。
 
「おお、そうかい」
 
「朝、起きて鏡の前で顔を洗ったら、母が髪を結ってくれるの」
 
「……お母さん、か」

 巻緒は花代の母親のことを思い出し、少しだけ顔を曇らせた。
 花代はそれに気付かないふりをして話を続けた。
 
「だから鏡は嫌いじゃなかった。今も、ね」

 花代が小さく微笑んだその時地面が波打った。
 ゴムを踏んづけたかのような弾性を持った床に花代は体勢を崩す。
 
「花代ちゃん!」

 巻緒の警告の声に顔を上げると、遠方から何やら丸いドッジボールのようなものが飛んできていた。
 
「開け!」

 花代は指先でボールと自分の間の空間をなぞる。

 そこに手の平ほどの裂け目が現れ、飛んできた物体は裂け目の中にまっすぐに飛び込んだ。
 
 花代が体勢を崩したことで命綱が軽く引かれる。
 直緒からの合図だ。
 花代は二度引いて命綱の先の直緒に無事だと合図を送る。

 この程度はまだ大丈夫。対処できる。問題ない。

「うわあ。花代ちゃんの宇空間の中ボロボロになっちゃったよ! 俺の私物が!」

 巻緒が悲痛な声を上げた。
 
「状況に集中してください。そして人の宇空間を散らかさないでといつも言っているはずです」

 宇空間。
 
 花代と巻緒が侵入している空間が亜空間と呼ばれているのに対し、宇空間は人の中にある。
 宇空間は個人の持つ空間である。
 
 巻緒は陳腐にも心の中の空間だとでも思えば良いと昔言っていた。
 
 宇空間は意識を持つ生き物であれば誰でも所持している。
 しかしそれを知覚しているものはほとんどいない。
 宇空間は常に内側に閉じこもっているが、花代や巻緒レベルになると自在に外側に向かって開くことも出来た。
 外側に開かれた宇空間は亜空間に転写される。
 自分の心の世界を他者に開き、踏み入れることを許すことが出来る。
 それはあまり愉快な体験ではなく、花代はよっぽどのことが起こらないかぎりそれはやらない。
 
 ただし巻緒との間ではそれは例外である。

 5年前のとある事故以来、巻緒と花代の宇空間の一部は常に繋がっている。
 その事故が起こる前は花代は亜空間も宇空間も、それどころか裂け目すらも認識していなかった。
 しかし亜空間や宇空間に干渉する能力を持っている巻緒と宇空間を共有することにより花代は宇空間を自在に操り、裂け目を目視し、亜空間に自分の意志で出入りできるようになった。
 
 これだけのことが出来る人間を花代は自分をのぞけば巻緒以外に知らない。
 巻緒の弟である直緒も扉である裂け目を視認できるだけで亜空間に入って自己を保つことは出来ないし、宇空間の操作もできない。

 亜空間の探索は花代と巻緒がやるしかないことだった。
 
「どうやらこの亜空間を生じさせた主はこちらに敵意があるようだねえ」
 
「そうじゃなかった人間を今まで見たことないんだけど……」

 亜空間は普通では操れない。
 亜空間を操るためには自分の宇空間を亜空間に開いて転写する必要がある。
 自分の心をさらけ出す必要がある。
 つまり亜空間に踏み入れている花代は亜空間の主の心を土足で踏み抜いているに等しいのだ。
 
「どっちにしても自分で裂け目を閉じることも出来ない程度のずぶの素人だ。ガンガン行こうぜ。花代ちゃん」
 
「人がやると思って気楽に言ってくれる……行くけど」

 この先に名前は知らないが顔くらいは知っているクラスメイトがいるはずなのだ。
 救出のために立ち止まっている暇はない。

 ドッジボール一個で弾切れしたのか、遠距離からの攻撃はもうない。
 ただ床は相変わらず波打っていて、バランスを取りづらい。
 それでも進行方向は決定した。
 
 花代は足元がぐらつくのを気にせず歩みを進めた。
 
「ドッジボール一個を持ち込むのが精一杯の宇空間の広さ……うんうん素人だねえ」
 
「そうやって油断して痛い目を見るのが常でしょう……」
 
「そして彩りの足りない亜空間……年季も浅いと来ている」
 
「…………」

 淡々とした批評家のような巻緒の言葉を花代は聞き流す。
 巻緒は敵対のための情報整理をしている。それは花代も分かっている。
 それでも人の心をそういう風に評価している巻緒の様を見るのは花代にはあまり良い気分ではなかった。

 しばらく行って、花代は到達した。
 
「……見つけた」
 
 自分と同じ制服を着た一人の少女を花代は発見した。
 顔に見覚えはある。クラスメイトだ。名前は知らない。
 
「あなた……」

 驚いている彼女も花代の顔に見覚えがあったようだった。
 
「確か……変な名前の……」
 
「怒ったわ」

 花代は断言した。
 
「長すぎる名前も覚えにくい名前も書きにくい名前も珍しい名前も許してきたけれど変な名前は許さないわ。それはただの悪口じゃない。あなたは敵よ。顔を覚えたから夜道には気をつけることね」
 
「花代ちゃんの気持ち分かるなあ」

 花代と同じく長くて覚えにくくて書きにくくて珍しい名前の巻緒はうんうんと頷いた。
 
「……敵というのは間違いないね」

 名前も知らないクラスメイトはそう言った。
 次の瞬間、花代の足元に裂け目が開いた。
 
「花代ちゃん!」
 
「大丈夫! 巻緒はそのまま残り2名の探索を!」

 花代の体が命綱ごと裂け目に落ちていく。
 万力込めて命綱が引かれるのを感じる。
 花代の世界は急激に色を変えた。