ちょっと気を抜いてボーッとしていようものなら、
「ほら、またあいつのことを考えてる」
 なんて貴子が私をからかう。
 呆れたようにため息を吐いて、
「それで……本当はどうしてこなくなったんだ?」
 何度も何度もくり返した質問を、また私に投げかける。
 
「さあ……?」
 他に答えようはないのかというくらいその返事をくり返した結果、さすがに貴子も飽きたらしく、最近では海君のことには、あまり触れなくなった。
 
「まあ、気にするな……たとえあいつがいなくても、真美の世界は別に終わったわけじゃない……」
 実に彼女らしいスケールの大きな言い方で、これはひょっとして私を慰めようとしてくれているのだろうか。
 頭をぽんぽんと軽く叩かれる。
 
 本当なら一人で帰ることになるはずだった放課後。
 同じアパートの住人になった貴子が一緒に帰ってくれるというのは、私にとって嬉しいかぎりだった。
 もちろん――「貴子が実は私をそういう意味で好きだった」なんて冗談は抜きにして――。
 
 私は夕食を二人ぶん作っては、毎日のように貴子の部屋に遊びにいった。
 貴子は美人でテキパキしているわりには、勉強意外に気がまわらない人だから部屋は散らかり放題だ。
 私は、休んでいた間の講義の内容を教えてもらうお礼も兼ねて、足繁く貴子の部屋に通い、掃除や洗濯にも励んだ。
 
「なんか……お嫁さんでももらった気分だな……」
 貴子は例の意味深な笑いを浮かべて、私の顔を見る。
 私も今ではすっかりその冗談にも慣れてしまって、
「貴子だったら絶対出世しそうだし……お嫁になるのもいいかもしんない!」
 なんて笑って返す余裕も出てきた。
 
 二人で笑いながら、勉強して、食事して、どうでもいいような話をする。
 おかげで海君を気にすることも、幸哉を思い出すこともかなり少なくなって、貴子にはいろんな意味で、感謝の気持ちいっぱいだった。


 
 だけど、ある日の午後。
 早めに講義が終わって、いつものようにカフェテリアでお茶していた時。
 なんの話の弾みでか、貴子に、
「真実……なんなら年下の彼氏の代わりに、夜も私が一緒に寝ようか?」
 なんて言われて、思わず叫んでしまった。
 
「海君と私は、そんな関係じゃないわよっ!」
 
 一瞬、私以外の三人の動きが止まる。
 
「ええええええっ!!」
 
 息をあわせたかのように三人が一斉に叫んで、私たちはカフェテリア中の学生たちから注目を浴びた。
 
 そのあまりの大声にびっくりして、
(え? 何? 今、私、そんなに変なこと言った?)
 私は自分の発言を、もう一度ゆっくりと思い出してみなくてはならなかった。
 
「だって……あんなに毎日ベタベタしてたんだよ。てっきりそうだって思うじゃない……ねえ?」
 私の顔色を伺うようにおずおずと。
 でも言いたいことはしっかり口にする愛梨に、私は顔から火が出そうな思いになる。
 
「最近の高校生は進んでるからな……まさかそんなんじゃないなんて思わないだろ?」
 遠慮を知らない貴子には、いつもの感謝の気持ちもどこへやら、一発ゲンコツで殴ってしまおうかしらと、思わずこぶしを握りしめる。
 
「私もね。海君の真実ちゃんを見る目は、見てるこっちが恥ずかしくなるくらい優しいから、てっきり二人はそういう関係だとばっかり思ってたんだよね……」
 花菜の言葉を借りるならば、三人は三人とも、「私と海君はかなり親密な関係だ」と思っていたのらしい。
 
 私は怒りを通り越して、もうすっかり脱力してしまって、テーブルにバタンとつっぷした。
 「本当にそんなんじゃないのよ……」
 
 伏せた頭の上から、愛梨の声が降ってくる。
「じゃあ……最悪の場合。これっきり海君が来なくなっても、真実は大丈夫だよ……」
 
 なんとなく慰められている雰囲気は伝わるのだが、言われた意味がよくわからない。
 私は愛梨のいる方向に顔を向けた。
「なんで?」
 
 頭を上げる気力さえなく、目線だけを上げた私を、貴子が勝ち誇ったように腕組みしながら見下ろしている。
「お姉さまにそういうお相手してもらうのが目的だった高校生に、真実が騙された挙句、捨てられたんじゃないってことになるだからだろ」
 
 まさに歯に衣着せぬ言い方に、私は飛び起きた。
「なによそれ!」
 
「真実ちゃん、大丈夫。大丈夫だよきっと……」
 慌てて間に割って入った花菜のフォローも、今回ばかりはなんだかまとが外れているような気がする。
 
「もうっ! ほんとに違うんだから!」
 それがみんなの冗談なんだと、私をからかっているだけなんだということは、ちょっぴりわかっているが、だからといって気は収まらない。
「本当にそんなんじゃないんだから……!」
 悲鳴のように叫んだ私に、その時、誰かが背後から声をかけた。
 
「ひさしぶり。元気そうだな……」
 
 ――言葉どおり、本当にひさしぶりなその声を聞き、まるで金縛りにあったかのように、私は全身が硬直した。
 
 ふり返ると背後に幸哉が立っていた。
 
 午後の眩しい太陽が射しこむガラス張りのカフェテリア。
 室内は汗ばむほどの気温のはずなのに、私の背中には冷たいものが流れ落ちる。
 
 一瞬の硬直のあと、ひきつるように自分の表情がこわばっていくのが、自分でもよくわかる。
 真っ直ぐに私を見つめる幸哉の顔つきに、自然と体が震えた。
 
(なんだか……少しやつれた……?)
 
 きっと気のせいではない。
 どちらかというと大柄で、がっしりした体つきだった幸哉の頬が、病的なほどにこけている。
 そのくせ目ばかりがギョロッと光っていて、その大きな目で、穴のあくほど私を正視している。
 
 その目の奥の光に、言いしれない恐怖を感じて、私は思わず一歩後ろに下がった。
 
 ガタガタガタッと椅子を鳴らして、愛梨も貴子も花菜も立ち上がる。
 幸哉から私を守るように、三人が私を取り囲もうとしたその瞬間、――幸哉が私に手を伸ばした。
 
 ガシャーンと響き渡った大きな音は、とっさに逃げようとした私が、倒してしまったテーブルの音。
 
 カフェテリアにいた学生たちが、いっせいに私たちのほうをふり返った。
 
 幸哉はあんなに私を殴ったけれど、学校で手を上げたことは一度もなかった。
 学校ではあくまでも仲のいい恋人同士。
 けれど幸哉の狭いアパートに帰ると、支配する者とされる者。
 そのギャップが苦しくて、悲しくて、私の幸哉に対する気持ちはどんどん醒めていった。
 
 その幸哉が、みんなの視線が集まる中、そんなことはまったくおかまいなしに、私に手を上げる。
「どうしたんだよ、真実?」
 躊躇なくその大きな手を、私に向かってふり下ろす。
 
 バシーンと大きな音が鳴って、何が起こったのかもわからなかったけれど、気がついたら私は、カフェテリアの床にうつ伏せで倒れていた。
 
 シーンと静まり返る周りの学生たちと、
「ちょっと! 何すんのよ!」
 と叫びながら幸哉に詰め寄る愛梨と貴子。
 
 私は花菜に助け起こされながら、必死で声をふり絞った。
「やめて! 二人ともダメ!」
 
 幸哉が普通の精神状態だとはとても思えない。
 その証拠に、近くにいた男の子に止められながらも、目は私から一瞬も放さず、「真実! 真実!」と叫びながら近づいてこようとする。
 
(もう止めて!)
 私は首を振った。
 
 私を傷つけることになんの意味があるんだろう。
 そうすることで、私よりもっと何倍も心に傷を負っていくのは幸哉自身なのに――。
 
 できることなら、その傷を癒してあげられる存在になりたかった。
 傷つけあうのではなく、労わりあえるような関係になりたかった。
 
「……やめて」
 私の言葉は涙でくぐもって、叫び続ける幸哉の耳にはきっと届かない。
 
「真実! 真実! 俺は絶対に別れない!」
 幸哉の言葉だけを聞いていたら、ごく普通の恋人同士の恋の修羅場にも見えるだろうか。
 
 でも、もの凄い力で周りの人間をふりきりながら、私に駆け寄ろうとする幸哉は、とても普通などではない。
 床に膝をついて、よつんばいのまま進んで、座りこんでいる私ににじり寄る。
 
 立ち上がって逃げ出そうとした私は、手首をつかまれて引きずり戻され、幸哉の腕の中に捕まった。
 全身の骨が軋みそうなくらいに、強く強く抱きしめられた。
 
「やめて! やだっ!」
 必死に叫ぶ。
 
 でも幸哉はそんなこと、まったくおかまいなしで、
「真実。真実」
 と私の頭に頬を寄せる。
 
(嫌っ!)
 本能的にそう感じて、必死に抵抗するけれども、どうすることもできない。
 
「ちょっと! やめなさいよ!」
 愛梨や貴子に止められても、周りの学生たちがひきはがしに入ってくれても、幸哉は私を胸に抱えこむように抱きしめたまま、放そうとはしない。
 
 そのあまりの強さに、全身を貫く激痛に、――視界が霞む。
 
(……海君)
 こんな時でも、瞼を閉じると目の前に海君の笑顔が浮かぶ。
 
(……会いたいよ)
 どんなに強がってみたって、私の本当の願いは結局それなんだと、改めて思い知らされた。
 
「真実! 真実!」
 狂ったように叫ぶ幸哉の声がだんだん遠くなっていく。
 それに反してどんどん強くなる腕の強さに、私は意識を手放した。
 
 ――気がついた時には、医務室のベッドの上だった。

 
 
「たいへんだったわね……」
 週に何度か、決められた曜日にだけ医務室に勤務している学校医の先生の言葉を、私はぼんやりとした意識の中で、ひとごとのように聞いていた。
 
「……よかった。気がついて……」
 泣くのをこらえたような愛梨の声がするほうへ、ゆっくりと顔を向ける。
 
 その私の様子に、愛梨も貴子も花菜も学校医の先生も、そこにいた全員がホッとしたように息を吐いた音が聞こえた。
 
 私を見下ろす人たちの顔を一人一人確認しながら、私は心の中で首を傾げた。
(ええっと……私、どうしたんだっけ?)
 
 一瞬、どうして自分がここで寝ているのか、いったい何があったのかが思い出せなくて、不安になる。
(私……どうしたんだったっけ?)
 
 ぼんやりと保健室の天井を見上げた。
 その瞬間、幸哉のギラギラと光る目が、脳裏に甦った。
 
(私!)
 常軌を逸した、幸哉のもの凄い力に、自分が屈服したことを思い出した。
 
(あれから……幸哉はどうなった?)
 みんなに尋ねるようとするのに、声が出ない。
 喉のあたりにひどい痛みを感じる。
 
(……何?)
 そっと喉に手を押し当ててみると、
 
「しゃべらない方がいいわ。酸欠になって意識を失うくらい絞められていたんですもの……」
 先生が、労わるように優しく忠告してくれた。
 
(絞められた?)
 私の疑問に答えるかのように、この上なく厳しい表情をした貴子が頷く。
 
「岩瀬が真実を放さなくて……誰も助け出せなくて……そうしているうちにあいつがいきなり……!」
 言葉を飲みこんで悔しそうに俯いた貴子に代わって、花菜が続きを語った。
 
「真実ちゃんの首を絞めたの。周りにいたみんなで、なんとか途中で止めることはできたけど……ごめん、真美ちゃん。遅かったね……苦しかったね……」
 花菜の声は、涙で震えてた。
 
「ごめん真実……もし何かがあっても、きっと守れるつもりでいたんだけど……なんにもできなかった……!」
 苦しそうに表情を歪める愛梨に、私は必死で首を横に振った。
 
(そんなことないよ……こっちこそごめん……!)
 本当に辛そうな表情で私を見つめる三人に、悲しい思いをさせてしまったことが悔しかった。
 
 実際のところは、どちらが先かわからない。
 ――私が気を失ったのが先か。
 幸哉が首を絞めたのが先か。
 
 けれど、騒ぎを聞いた大学の職員の人たちが駆けつけた時には、ちょうど幸哉は私の首にまわした手に、最大の力をこめるところだったらしい。
 
 大人数で幸哉は取り押さえられ、私は助け出された。
 幸哉はそのまま身柄を拘束され、連絡を受けてやってきた村岡さんに引き渡されて、警察署に連行された。
 
「たぶんもう……大学には来れないんじゃないかな……」
 花菜の言葉は、幸哉が退学処分になりそうだということを、遠回しに告げている。
 
「それどころか即効刑務所行きだろ。真実に近寄らないようにって警告だって出てたのに、そんなことまったくおかまいなしだ! どう考えたって、あれは普通じゃない!」
 もともと幸哉のことを嫌っていた貴子の言葉は、花菜以上に手厳しい。
 
 全部私のために言ってくれてるということがわかる。
 だから、私は静かに頷く。
 
「……でも、岩瀬泣いてたよ……」
 愛梨の小さな呟きに、ドキリとした。
 
「真美が気を失って動かなくなったあと、他の人に助け出されて運ばれていくまでずっと、『真実! 真実!』って、子供みたいに泣いてた……」
 愛梨は真っ直ぐに私の顔を見ていた。
 それは怒っているような、哀しんでいるような、不思議な表情だった。
 
(……幸哉!)
 両手で顔を覆おうとして、私はそうできない自分に気がつく。
 腕も首もとても痛くて動かすことができない。
 
 そこだけではない。
 背中も腰も足も、ほぼ全身が、ズキズキと痛む。
 
「ウッ」と声にならない声を上げて、それでも右手を持ち上げた私に、 
「そうとうな力で圧迫されてたのよ。今はまだ無理はしないで……」
 離れたところから見守るように私たちを見つめていた学校医の先生が、優しく諭してくれた。
 
 私は顔の上にかざした自分の右手首を見てみた。
 幸哉の指の跡がハッキリと残っている。
 
 私を放すまいとして、幸哉が抵抗した跡。
 必死で自分のほうに引き寄せようとした跡。
 
(幸哉……!)
 涙が零れた。
 
 そんな私を労わるように、花菜がそっと頭を撫でてくれる。
「もう大丈夫。大丈夫だから……ね」
 
「もうあいつは二度と真実の前には現れない。私たちが近づけさせない!」
 貴子はぷいっと横を向いたまま、怒ったように断言する。
 
 全てが私のため。
 ――でも私の涙は止まらない。
 
 私がどうして泣いているのか。
 その本当の理由は、きっと誰からも理解してはもらえないだろう。
 
(幸哉……)
 そっと心の中でくり返し名前を呼ぶ。
 
(ゴメンね)
 一度も本人には言えなかった言葉。
 そしてこれからも言うつもりはない言葉。
 
(愛せなくて……ゴメンね)
 ずっと心の中に閉じこめていた懺悔の気持ちを、涙と一緒に今、全部流してしまえるのならと思った。
 
 体中が悲鳴をあげるようなこの痛みが、幸哉の愛情の強さだというんなら、私のほうはいったいどれぐらいの想いを、彼に返すことができていたんだろう。
 
 いくら、「好きだ」と言葉にしても信じてもらえない気持ち。
 どんなに傍にいても、疑われる心。
 だったらそれはもう本当に、私の想いが足りなかったのかもしれない。
 
 幸哉が言ったように、「真実が悪い。俺はこんなに愛してるのに、お前はちっとも俺を愛していない」――そういうことだったのかもしれない。
 私にはわからなかったけれど、幸哉にはそれがわかったのかもしれない。
 
(自分の想いよりもずっと軽い……ずっと小さな相手の想い……)
 
 それがどんなに辛いことか。
 苦しいことか。
 ――今の私ならわかる。
 
 自分のほうを向いてほしくて、でも何を言っても、何をしても、それが叶わない時の気持ちは、どんなに救われないだろう。
 
 私の知らないところで幸哉がどんなに傷ついて、どんなに苦しんでいたのか、私には結局わからない。
 ――わかってあげられないまま終わる。
 
(幸哉……)
 でも不幸な私たちの関係を、このまま続けることはもうできない。
 これ以上幸哉を追い詰めてはならない。
 
 何もしてあげられない私が傍にいても、幸哉はもっと不幸になるだけだ。
 傷つくだけだ。
 それに――
 
『もっと早く真実さんに会いたかった。俺が一番に真実さんと出会いたかった。どうしようもないことだってわかってるけど、そう思わずにいられない!』
 
 私にとって何にも替えがたい海君の言葉が、心にしっかりと焼きついている。
(海君……!)
 
 そう。
 ――この痛いくらいの想いが、幸哉が私に求めたもの。
 そして私が幸哉に与えることができなかったもの。
 
(海君!)
 あの夜突然私の目の前に現れた年下の男の子が、全部奪っていってしまった。
 
(海君!)
 どうしようもないくらい、私の心を埋めつくしてしまった。
 
(……会いたいよ!)
 新しく湧き出した違う意味の涙が、もう溢れて止まらない。
 
「真実……」
 どこまで私の心を察してくれたのか。
 間近で私を見つめる愛梨の瞳も、この上なく辛くて、切ない色だった。