宣言したとおり、海君は本当にその次の日から、私のところに来なくなった。

「私はどうってことないよ」という強がりと、「少しは一人でもがんばらなくちゃ」という独立心から、私は海君がいない間に引っ越しをした。
 
  手伝いに来てくれたみんなには、
「あれっ? 海君は?」
 と散々聞かれたけれど、 
「何か用事があるみたい」
 となんでもないようにさらっと答えた。
 
「女の子から電話がかかってきて、どうやらその子のところに行ったみたい。しばらく私のところには来れないんだって」
 なんて、絶対に言えない。
 
 可哀相なんて思われたくなかったし、自分だってそう思いたくなかった。
 貴子に、「そんな男はやめておけ!」と叫ばれたくもない。
 
 でも、これまで毎日一緒にいた海君と会わないということは、寂しいというよりも、不満というよりも、なんだか不思議な感じだった。
 
 朝、大学に行こうと思って玄関のドアを開ける。
 ――道の向こうに、海君の姿はない。
 
 大学から帰る時、正門の前で、思わず明るい色の少しクセがかった髪を探す。
 ――やっぱり、海君はいない。
 
 思わずため息が出てしまうほどの、喪失感。
 
(このまま、もう会えなかったりして……)
 根拠の無い不安でさえ、打ち消すことができない。
 
(だって私たちには、確かなものなんて何もないんだもん……)
 改めてそのことを、思い知らされたような気分だった。


 
 前期も終わりに近づいた大学の講義は、そろそろまとめの時期に入っている。
 半分以上講義に出ていなかったんだから、こんな時こそしっかりと遅れを取り戻さないといけないのに、私の頭の中には常に海君のことしかない。
 教授の声は頭のどこかを素通りしていくばかりで、私は気がつけばいつも、窓から空ばかりを眺めている。
 
(あーあ、悔しいな……)
 ペンを持ったままの右手で頬杖をついて、軽く頭を振る。
 ――払っても払っても浮かんでくるのは不安な気持ちだった。
 
 誰がどれくらい誰のことを思っているのかなんて、結局は比べようもないから、安心もできないし、油断もできない。
 
(私が思うくらいに、海君は私のことを好きなのかな? ……本当はもっと好きな相手が、他にいたりしないかな?)
 考えれば考えるほど、何の根拠もない不安はあとからあとからからどんどん湧いてくる。
 
(こんなはずじゃなかったのになあ……)
 講義に集中しようとするけれど、頭の中では、情けない思いばかりが大きくなる。
 
 これ以上頭と体が別々の作業を続けることに無理を感じて、私は諦め、ペンを机に置いた。
 もう一度、講義室の窓から見える青い空を見上げてみる。
 
 海君がいない間に、空は日一日とその色を濃くしているようだった。
 
(もうすっかり夏だな……)
 二人で行ったあの初夏の海は、今頃たくさんの人でごった返しているんだろう。
 
(もう一度、二人で行けるかな……? 今度はあの砂浜を、手を繋いで歩けるかな……?)
 私をふり返る海君の笑顔を思い出すだけで、胸が締めつけられるように痛くて、どうしようもなかった。
 
(誰かを好きになるって、こんなに大変なことだったかなあ……?)
 目を細めて、太陽を見上げる。
 私にとって海君は、この光よりも眩しい存在。
 
 頭をひねって、いくら記憶をたどってみても、こんなに大きな想いを抱えたことは、今までなかった気がする。
 
(まさか、『こんなに好きになったのは初めて』なんて嘘っぽいセリフ……本気で頭に浮かぶ日が来るなんて、思わなかったよ……!)
 
 自嘲するように、降参するように、私は講義そっちのけでいつまでも空を眺めていた。
 その向こうに思い出す海君のことをいつまでも考えていた。


 
「ねえ……やっぱりおかしいって……!」
 アイスコーヒーのグラスをストローでかき混ぜながら、愛梨は組んでいた足を左右組替えて、声高らかに主張する。
 
 かなり丈の短いそのスカートを、眉をひそめて見ていた貴子も、チラリと私に視線を流しながら、うんうんと頷いた。
「私も同感だ」
 
「でも……何かわけがあるのかもしれないでしょ……?」
 私の代わりに返事してくれる花菜は、今日もみんなのお皿におかずを取り分けている。
 昼食時のお給仕役は、もう彼女以外には考えられない。
 
「だってあんなに毎日来てたんだぞ?」
「それがパッタリって……ねえ?」
 花菜のフォローも虚しく、それでも貴子と愛梨は私に問いかけるような視線を向ける。
 
「絶対おかしいって……!」
 確信するように頷かれて、私は正直、たいへん困っていた。
 
 いつものカフェテリア。
 私が作ったお弁当にプラスコーヒーという形で、私たちは四人は今日も遅めの昼食を取っていた。
 
 近くなった試験の話や、私が急いで詰めこまないといけない講義の内容。
 今年はもう諦めるしかなくて、来年にまわさないといけない単位の話。
 ――話題はたくさんあるはずなのに、なぜかみんなの話は、すぐに海君のことへと流れていく。
 
 海君が私のところに来なくなってから、十日が経っていた。
 
 それまでが毎日毎日、正門の前で私を待っていてくれただけに、みんなの疑問が尽きることはない。
「ねえ……なんで海君来なくなっちゃったの?」
 
 いくら聞かれても、自分自身その答えを知らない私には、小さく首を傾げて、
「さあ……」
 と答えることしかできない。
 
 みんなは私が何かを隠していると思っているのかもしれないが、本当に私には、
「わからない」
 としか答えようがなかった。
 
「ま、いいさ。真実のことだったら、私がちゃんと守るし……」
 引っ越しして、同じアパートの住人になった貴子は、長いサラサラの髪を耳にかけながら、わざと意味ありげな含み笑いをする。
 
 貴子の真正面に座っていた愛梨は、綺麗に手入れされた眉をほんの少しだけ上げて、
「へえ……ひょっとしてそうじゃないかと思ってたけど、やっぱり貴子ってそうだったんだ……」
 同じく意味深な言い方をした。
 
 私はわけがわからず、隣に座る愛梨の顔をのぞきこむ。
「どういうこと?」
 
 でも愛梨はニヤニヤと笑っているばかりで、何も答えてくれない。
 貴子も同様。
 首を捻るばかりの私を見かねて、花菜がそっと耳打ちしてくれた。
「つまり……貴ちゃんは、真実ちゃんが好きってことよ」
 
(…………?)
 私だって貴子の事は大好きだ。
 それをどうしてこんなに、こそこそと話さなければならないんだろう。
 
「それが……どうかしたの?」
 首を傾げながら言いかけて、ようやくみんなの何か含みのある表情の原因に思い当たった。
 
(え? でも、まさか……?)
 疑惑の思いで目を向けた貴子は、なんとも言えない真剣な表情で、私のことを見つめている。
 
「ええええええっ!?」
 悲鳴を上げて、椅子を倒しながら私が立ち上がった瞬間、三人は申しあわせたように、お腹を抱えて大笑いを始めた。
 
「嘘だよ。嘘」
「もう……冗談に決まってるでしょ!」
「真実ちゃんダメだよー。そんなに簡単になんでも信じちゃー」
 
 楽しそうに笑い転げる三人を前に、私は真っ赤になって叫んだ。
「もうっ! 私はみんなのおもちゃじゃないのよっ!」
 
 こぶしを握りしめて叫んだ途端、私をからかってばかりいた海君の顔が、一瞬、チラッと頭をかすめた。
 
 悪戯っ子みたいな顔。
 私を見つめる笑いを含んだ瞳。
 嬉しそうな満面の笑顔。
 
 悔しいくらいにあまりにも脳裏に焼きついていたから、私はぶるぶると頭を振って、その面影を追い払う。
 
(別に平気だもん……海君がいなくっても、私はどうってことない……!)
 
 わざわざ自分に言い聞かせているあたりが、もう全然平気ではないのだけれど、私はそれでもまだ、強がりを貫きとおす。
 
(……負けないもの!)
 
 海君の秘密にも。
 彼を恋しがる自分自身にも。
 ――その強がりがいったいいつまで持つのかは、もはや微妙な段階だった。


 
 大学からの帰り道。
 みんなと一緒に買い物に行った時、一度だけ海君によく似た人を見かけたと思った。
 
 歩いていた私たちと、すれ違うように反対向きに走り抜けて行ったタクシー。
 初めて会った夜に、海君がタクシーから降りて来たことを思い出して、私はドキリとした。
(……まさかね?)
 
 一瞬だけ見えた、後部座席の人が海君に見えた。
 
 でも、背もたれに体を預けるようにして寄りかかる姿。
 堅く閉じた目。
 透きとおるほどに白い顔。
 ――その全てが、私の知っている海君とはあまりにもほど遠い。
 
(そんなわけないか……)
 そう結論づける。
 でも何かが心に引っかかる。
 
(あれ? ……でもあんなふうに、あまり顔色のよくない海君を……私、どっかで見たことなかったっけ?)
 
 細い記憶の糸を必死にたどろうとした。
 その時――
 
「真実ー、何してるの? 置いてっちゃうよー?」
 私を呼ぶ愛梨の声がした。
 
 さっきまで四人で並んでいたはずなのに、気がつけばいつの間にか、私だけが取り残されている。
 慌てて追いかけ始めたら、考えごとは中断せずにいられない。
 
「ははーん。あいつのことを考えてたな?」
 貴子がわざと意地悪に、唇の端をほんの少しだけ上げるようにして笑うから、
「そっ、そんなことないわよ……」
 それに対抗するように、答えずにはいられない。
 海君について考えることを、放棄せずにはいられない。
 
「本当かー?」
「本当だもん!」
 大急ぎで走ってみんなに追いつく。
 
(本当に私は平気なんだから! 海君がいなくたってどうってことないんだから!)
 
 私の虚しい悪あがきは、自分だけじゃなく三人にもきっと、もう筒抜けだった。