ニコルさんの足下から、暴風みたいな魔力が吹き上がった。すごい勢いでスキルがコマンドされる。逆立つ銀髪。帽子が吹き飛んだ。ローブがはためく。
「手を緩めろ! 朝綺を解放しろ!」
大なぎに振り下ろされる杖。先端の珠が描いた軌跡そのまま、半月形の光が宙を走る。
“翠輝月刃”
光の刃はマーリドの胸に突き立った。マーリドが動きを止める。でも、オゴデイくんをつかんだ手は緩まない。
「くそっ……!」
ニコルさんが再び詠唱に入る。魔力の噴出が、まるで竜巻だ。こんなの何度も使ってたら、あっという間にスタミナが尽きちゃう。
「落ち着いてください、ニコルさんっ」
「ルラの言うとおりよ。ワタシに考えがある」
低く押し殺したシャリンさんの声に、ニコルさんが呪文の詠唱を止める。
「考え? シャリン、何をするつもりだ?」
「シンプルなことよ。マーリドのプログラムを破壊して削除《デリート》する」
アタシとニコルさんは同時に、悲鳴みたいな声を上げた。
マーリドを削除《デリート》って、ピアズのプログラムを破壊するってことだよね? いくらなんでも法に触れる気がする。
シャリンさんは本気だ。凛として言い放った。
「破壊と同時に、オゴデイのプログラムを解析して、朝綺の意識を分離する。時間がないわ。手伝いなさい」
ヒット判定でフリーズしてたマーリドが、動きを再開する。オゴデイくんのスタミナが、また、じわじわ減り始める。
ニコルさんがうなずいた。
「了解だよ。ボクは何をすればいい?」
うん、そうだよね。そう来なくちゃね。ルール違反なのはわかってる。ピアズに2度とログインできなくなるかもしれない。それでもいい。だって、朝綺さんの命が懸かってるんだから!
「アタシも協力します!」
「当然でしょ。最初から頭数に入れてるわよ」
あ、なんかそのセリフ、嬉しいぞ。信用してもらってる感じ、ひしひし伝わってくるぞ。
「そんじゃ、作戦開始ってことで!」
「ええ。ワタシは今からピアズの裏側に入り込むわ。表層で動くアバターのシャリンはその間、動かせない。ダメージを受けて強制的にログアウトさせられないように、2人でかばっておいて」
「了解です!」
「ワタシがマーリドのプログラムを解析する間、ニコルはマーリドを束縛して。束縛魔法の出力が足りないぶんは、ルラが補って」
わかった、とニコルさんが言って、シャリンさんを背中にかばう位置に立った。アタシはニコルさんの隣だ。杖を持つニコルさんの右手に、アタシは左手を重ねる。
「BPM、いくつですか?」
「いつもと同じ240で行こう」
「威力、もうちょっと上げられますよ?」
「こういうときは、慣れたリズムがいい。譜面はさほど難しくない。右で動いたら次は左、っていうふうに規則性があるし、16分音符も入ってないから」
「わかりました」
「じゃあ、いくよ」
見たことのない譜面がアタシのスキルウィンドウに表示される。なるほど確かに、規則的な8分音符がずっと続くタイプの譜面だ。リズムキープさえミスらなければ、初見でも怖くない。
アタシはニコルさんに魔力を送り込む。同じリズム、同じ譜面、同じタイミング。シンクロすればするほどに、ニコルさんの魔法の最大出力を上げられる。
ニコルさんの杖の先端のキラキラする緑色の珠から、輝きがあふれ出す。泉が湧き出るみたいに、こんこんと。鮮やかに輝く緑色がマーリドを包んでいく。
“翠綿縛花”
真綿で締めるような束縛が始まる。譜面が1巡した。ここでフリーハンドにしても束縛は続くけど、ニコルさんは間髪入れず、2巡目の詠唱に入る。束縛魔法の重ねがけで、マーリドの自由を確実に奪う。
マーリドがうなる。
「生意、気、な……!」
束縛できてる。巨大な体がわなわなしてるのは、魔力がちょうど拮抗してるんだと思う。アタシもニコルさんも身動きすら捨てて、スタミナもヒットポイントも全部注ぎ込んで、魔力に替えている。2人ぶんのフルの魔力で、マーリド1体ぶんってわけ。
魔力が尽きたら、おしまい。延々と続く譜面をミスっても、おしまい。
怖い。緊張してる。なのに、アタシは冷静だ。だって、自分の役割がわかってるから。役割を与えてもらえたことが嬉しいから。
届け、アタシの願い。ルラの魔力と一緒に、ニコルさんに届け。風坂先生の心に届け。あたしは風坂先生と同じ気持ちです。大切な人が生きるのを、精いっぱい手伝いたい。
朝綺さんの魂、こんなところで消滅させたりなんかしない!
「シャリンさん、どれくらいかかりますか?」
「今……ああ、読めた。マーリドを構成してる言語、アルゴリズムはたいしたことないわ。さほどかからない……パスを解読。別のデータ群と接触。これがオゴデイね。解析を……邪魔、マーリドが邪魔。やっぱり、分離より破壊が先」
シャリンさんは複雑なことを口ずさみ続ける。
「何よ、これ? 意外とパターンが……いくつあるのよ? ……変数、多すぎ……あぁ」
イライラと尖った声。このネットワークの向こう側で、シャリンさんである麗さんは、どんな戦いを展開しているんだろう? 想像もつかない。
固唾を呑むアタシを、不意にシャリンさんが呼んだ。
「ルラ! それとニコルも。サブスキル使う余裕ある?」
「あ、はい、一応」
「ボクもどうにかなる」
「2人とも、弱い攻撃でいいから、一定のリズムでマーリドにぶつけて。アイツの反応パターンが一定化されたら助かる」
「わかりました!」
「了解」
右手でニコルさんへの魔力注入をこなす。左手でサブスキルのウィンドウを開く。単調で低級なサブスキルの譜面を、メインの魔力注入の譜面に重ねる。
最初に覚えたスキルは、ほんとにシンプルな呪文だった。威力もヨワヨワで、野宿の薪の着火用にしか使ってなかったけど。
“チロチロ火の粉!”
クリティカルなタイミング、メトロノームみたいに正確なリズムで、ちっちゃい火の粉を飛ばす。すぽすぽすぽすぽ、気の抜けた効果音。これ以上ないくらいのPFCは、ニコルさんの葉っぱの手裏剣と、完璧なコンビネーションを作り上げる。
「いいわ、その調子よ。パルスが一定になった……いける。変数の値がわかった。ただの四次関数……解けた! 見える。これなら問題ない……読めた、次のパス……」
不思議。
アタシ、今、本気でゲームの中にいる。意識全部でログインしてる。アタシの感覚は丸ごと完全にルラになってる。
ニコルさんが、ときどき、ひゅっと息をつく。シャリンさんが低くつぶやき続ける。
朝綺さん、という人。どんな人なんだろう? 眠っている顔を見ただけだから、アタシはまだ会ったともいえないけど。
話してみたいって思う。友達になりたい。だって、風坂先生を風坂先生にした人だから。アタシの好きな人の、とても大事な親友さんだから。
朝綺さんと話すことができたら、アタシ、風坂先生みたいに強くなれる気がする。パパの病気と本気で向き合えるようになる。
だからお願い、朝綺さん。風坂先生と麗さんのもとに帰ってきて。
「いけた!」
シャリンさんの声が弾んだ。
グラフィックに変化が起こった。緑色の輝きに拘束されたマーリドの姿から、滑らかさが失われていく。画質が急激に下がっていく。
マーリドがざらざらした声を上げた。何かしゃべったんだろうけど、聞き取れない。
「ニコル、ルラ、魔法を止めていいわ」
「了解」
「はい」
マーリドは今、まるでモザイクだ。細かいブロック片の集まりが絵を描いてる。ずーっと昔のゲーム画面のドット絵ってやつより、もっと粗い。
シャリンさんが命令するみたいにささやいた。
「削除《デリート》、開始」
ざーっ、と水が流れる音に似たノイズが、スピーカから聞こえた。
ほどけていく。マーリドだったモザイクが下のほうから、ざらざらとほどけて消えていく。背景のグラフィックに痕跡すら残さずに。
アタシはニコルさんの杖から手を引っ込めた。あちゃー、スタミナがレッドゾーンだ。立ってられない。ぺたん、と座り込みそうになった。
「おっと、危ない」
はい? 視界には、緑色のローブの腕と胸。カメラアイを上に向けると、切れ長な目が微笑んでいた。
「えっと、これ、あの」
ニコルさんに抱き留められてる。
「お疲れさま」
匂いを思い出した。風坂先生が傘の内側でタオルを貸してくれたときの、タオルの匂いと風坂先生自身の肌の匂い。ピアズの世界には匂いがないのに。
ドキドキする。
ニコルさんが視線を上げた。見てごらん、と言われて、アタシも慌ててそっちにカメラアイを向ける。
オゴデイくんが、マーリドにつかまった形のまま、何もない空中に宙吊りになっている。少し苦しそうな表情もそのままだ。
「オゴデイくん、フリーズしてるんですか?」
アタシの質問にシャリンさんが答えた。
「問題ない。一時的に止めてるだけ。オゴデイじゃないデータ群を特定した。この言語は……何よ、スラング? 間違いなくアンタね、朝綺」
バトルモードのウィンドウに赤字でエラーと表示された。自動的に、モードが通常へと切り替わる。
アタシの視界に、ふらっと、黒髪の後ろ姿が割り込んだ。
「ラフさん!?」
夢遊病みたいな足取りで、ラフさんが歩いていく。そして、オゴデイくんを仰いで立ち止まった。
襟足で1つにくくった、粗い黒髪。交差して背負った、2本の大剣。裸の上半身に軽量メイルを着けて、皮膚という皮膚には赤黒い紋様が浮かび上がっている。筋肉質に引き締まった右腕が、オゴデイくんへと差し伸べられる。
シャリンさんが告げた。
「分離《セパレート》、完了。戻りなさい、朝綺」
オゴデイくんの灰色っぽい毛並みがきらめいた。きらめきがふわりと浮き上がって、1つの形を作る。人の形だ。髪の長い男の人、背中に2本の大剣を装備した戦士の姿だ。
「あれが、ラフさんの魂……」
きらめきの双剣戦士は、きょろきょろして、ちょっと首をかしげて、ほっぺたを掻いた。「ここ、どこだっけ?」と言うみたいに。
シャリンさんが駆け付けて、ラフさんの体の隣に立った。腕を掲げるラフさんと同じように、シャリンさんもラフさんの魂へと手を伸ばす。
「こっちに来て! アンタの居場所はここ、ワタシの隣。戻ってきて、朝綺。お姫さまのキスで目を覚まして」
おとぎ話にあるよね。王子さまにかけられた呪いを解くためのキス。お姫さまの愛のキス。それが麗さんと朝綺さんのパスワードなのかもしれない。
きらめくシルエットのラフさんがシャリンさんを見た。ハッキリとうなずく。足を踏み出す。透明な階段が空中に存在するように、1歩ずつ降り始める。
と同時に、オゴデイくんのフリーズが解けた。すとんと着地して、ブルーの目をパチパチさせる。
シャリンさんが飛び出した。神速の異名を持つ身軽さで跳び上がる。きらめきが形作るラフさんの右手を、ギュッと握りしめる。その手を引っ張りながら、くるりと振り向く。
「もとに戻って……!」
シャリンさんは、きらめきを連れて走った。きらめきが手を伸ばした。立ち尽くして待つラフさんの手が、その先にある。
ラフさんの魂と体が触れ合った。
きらめきがほどける。形をなくしながら、ラフさんの体へ染み入っていく。一瞬の出来事だった。ラフさんがまばたきをした。
シャリンさんが、震える声で呼んだ。
「朝綺……?」
ラフさんのアバターは動かない。でも、かすかに、スピーカから聞こえた。
「ぁ……」
吐息みたいな、ほとんどかすれた声。男の人の声だ。
風坂先生がコントローラを投げ出した。
「朝綺、目を覚ましたのか!?」
画面の中のシャリンさんは棒立ちになってる。きっと風坂先生と同じ理由だ。ピアズどころじゃなくなったんだ。スピーカが涙混じりの声を届けてくれる。
「おにいちゃん、すぐこっちに来て! 朝綺が目を開けてる! リップパッチが感知できるほどじゃないけど、唇も頬もちゃんと動いてる! 呼んでくれてるの、『うらら』って……!」
早朝の研究所はひとけがない。足音が響く。
走る風坂先生の背中を、あたしは必死で追い掛けた。足が長い風坂先生は走るのも速い。置いていかれたけど、目的地の場所は覚えてる。息も絶え絶えに、それでも走る。
あたしは朝綺さんの部屋に駆け込んだ。ちょうどその瞬間、風坂先生が白い遮光カーテンを、さっと開けた。
鮮やかな朱色の空。朝の太陽が放つ光は、黄金色な透明。息を切らしながら、目を奪われた。朝焼けがあまりに綺麗すぎて。
風坂先生が朝日を浴びて振り返る。半分シルエットになった顔は、微笑んだ影のほっぺたに涙が光ってる。
「まぶしいだろ、朝綺?」
優しい声は震えながら、親友の名前を呼んだ。
朝綺さんを覆っていたガラスケースは取り外されていた。麗さんが、そっと朝綺さんの髪を撫でた。
あたしは1歩、横たわる朝綺さんに近付いた。朝綺さんはまぶしそうにまぶたを閉じて、また薄く開く。そのたびに、長いまつげがキラキラする。かすかに、ほんのかすかに、朝綺さんの唇が動いた。
キ・レ・イ・だ。
潤んだ目に表情が浮かんでいる。カッコいい人なんだって、初めて、ちゃんとわかった。麗さんとは美男美女でお似合いだ。
数本の管が朝綺さんの腕や胴体につながってる。ベッドサイドにはいくつかの計器があって、朝綺さんの体調がモニタリングされてる。
朝綺さんの血圧も脈拍も呼吸数も、衰弱気味ではあるけど、正常っていっていい。ナースの授業で波形の見方は習った。
生きてるんだ。魂を取り戻したんだ。
風坂先生が朝綺さんのベッドに寄って、麗さんに尋ねた。
「上体を起こすのは、まだ危険かな?」
「布団から浮かせる程度にしておいて。三半規管がついていけなくて、めまいを起こすと思う」
麗さんは冷静だった。大人だな。あたしだったら、相手は寝付いて弱った体なのに、抑え切れずに抱き付いてしまう。麗さんだって、ほんとはそうしたいのかもしれないけど。
風坂先生は床に膝を突いて、朝綺さんの首の後ろに腕を差し入れた。朝綺さんの肩を抱くように、少しだけ上体を起こす。
「今が西暦何年か、教えてやろうか? 2058年だよ。朝綺が冷凍保管《コールドスリープ》に入って4年後。約束どおり、麗が朝綺を目覚めさせたんだ」
朝綺さんは目を閉じて、ちょっと眉をひそめていた。めまいがしたのかな? ゆっくりと、再びまぶたを開く。まなざしが揺れて、麗さんを見つめた。唇が、今度はハッキリと動いた。
あ・り・が・と・う、う・ら・ら。
吐息が麗さんを呼ぶのがわかった。繰り返し呼んでいる。う・ら・ら、う・ら・ら。麗さんが口元を手で覆った。喉の奥が、きゅうっと頼りなく鳴った。
「バカ……!」
つぶやいた麗さんが、声を上げて泣き出した。朝綺さんのやせた手のひらに顔を押し付けて、白い床に座り込んで、小さな女の子みたいに。
朝綺さんと出会ってからの6年間。麗さんが一生懸命に過ごしてきた時間。その苦しみ、喜び、悲しみ、楽しさ、何もかもを、止まらない涙が証明してる。
朝綺さんが、泣きじゃくる麗さんを見つめてる。まばたきの内側に、もどかしそうな色がある。あたしの体が、導かれるみたいに動いた。
「麗さん……麗さんは、ステキです」
あたしは麗さんのそばにしゃがみ込んだ。背中をさすってあげる。朝綺さんが動けない代わりに、あたしが。
朝綺さんを見上げると、うなずくようにまばたきをしてくれた。あたしは、もらい泣きしそうな顔で無理やり微笑んだ。
「初めまして、朝綺さん。あたし、甲斐笑音です。ピアズでは、ラフさんの仲間《ピア》になってます。そっちはルラって名前です。ラフさんの馬鹿力、いつも頼りにしてました」
朝綺さんの乾いた唇がかすかに動く。
し・っ・て・る。
そうなんだ。魂の姿でピアズの中をただよってたこと、朝綺さんは覚えてるんだね。夢を見てた感じなのかな? 話、聞いてみたい。
風坂先生がメガネを外して、その手で両目の涙を拭った。切れ長な目尻に、カラスの足跡形の笑いじわ。あたしの大好きな笑顔がいつも以上にステキだ。悲しみがにじんでいた笑顔は今、本当に輝いている。
「笑音さん、ぼくは昨日、間違ったことを教えたね。ヘルパーは『できなくなっていく』人間を見守る仕事だ、って。違うよね。朝綺にはこれから、できるようになってもらわないといけない。リハビリ頑張れよ、朝綺。ぼくは容赦しないからな」
朝綺さんが吐息で笑った。
バ・ァ・カ。
朝綺さんの病気、筋ジストロフィーは、不治の病と言われてきた。筋ジストロフィーの患者さんのお世話をすることは、死と向き合うことだった。患者さんの能力の喪失を目撃することだった。
絶望を希望に変えたのは麗さんと、麗さんが一途に挑み続けた医療技術だ。ここから新しい未来が始まっていく。
バタバタと、いくつもの足音が聞こえた。何人もの誰かが研究棟の廊下を走ってくる。ぷしゅっと音を立ててドアが開いた。振り返ると、白衣の人たちが息を切らして立っていた。
「か、風坂准教授、何か、あったのですかっ!? 遠隔の計器に、突然、異常な数値がっ!」
准教授と呼ばれた麗さんが泣き止むより早く、風坂先生が笑顔で口を開くより先に、白衣の皆さんは事情を察して雄たけびを上げた。
「お、おおぉぉーっ!」
「患者の意識が戻ってるーっ!」
「准教授、やりましたねーっ!」
万歳したり踊り出したり、麗さんの部下さんたちはにぎやかだ。よかった。麗さん、仲間がいたんだ。一緒に働いて一緒に喜んでくれる人たち。
きっと麗さんはこれからまた大変になるよね。先端医療の研究って意味でも、恋人の看病って意味でも。
麗さんが顔を上げた。笑顔だった。
「ありがと、笑音」
見とれちゃうくらい、麗さんの笑顔はキレイでかわいくて、あたしは思わずギュッとハグした。
「ほんとステキです! 麗さん最高!」
麗さんはあたしの腕の中で、一瞬、体を硬くした。すぐに力が抜ける。あたしの背中に、麗さんの腕が回った。麗さんもあたしをギュッとしてくれた。
風坂先生が笑いながら、あたしたちをからかった。
「女の子同士の友情って、かわいい絵になるね。でも笑音さん、麗にあんまりくっつくと、朝綺が焼きもちを妬くよ? こいつ、動けないんだから」
朝綺さん、また「バ・ァ・カ」って、ささやいたかな? 遠慮なく憎まれ口を叩く姿を、早く見てみたい。
あたしは1人、朝綺さんの病室を出て仮眠室に戻った。ログインしっぱなしだったピアズは、4時間を超えたから、強制的にスタート画面に戻ってた。あたしはピアズを閉じて、端末のメッセージ機能を起動した。
「あれ? 新着がいっぱいある」
そういえば、昨日は全部の通知をオフにしてたんだよね。メッセージも通話も全部。誰にも話し掛けられたくない気分で。
メッセージの送り主を見て、息を呑んだ。甲斐瞬一と遠野初生。2人の名前が、ずらっと。
「寝てないんじゃないの、2人とも?」
それぞれが1時間おきくらいに、メッセ送ったり電話かけたりしてくれてる。2人からのメッセージはシンプルだった。ほとんどすべてが同じ内容の短文で。
〈笑音、ごめん、今どこにいるんだ?〉
〈えみちゃん、家に帰ってないの?〉
メッセ全部に目を通して、留守電も聞いた。泣きそうになった。だって、瞬一も初生もあたしのこと心配してくれてる。あたし、嫌われてなかった。よかった。
瞬一も初生も何度も謝ってる。涙ににじんだ声をしてる。ねえ、瞬一、初生。あたしにも謝らせてね。仲直りさせてもらえるかな?
いても立ってもいられない気持ちになって、まだ早朝なのに、あたしは電話をかけた。まず瞬一に。それから初生に。
会って話そうって、2人に約束した。来水高校前のバス停で、できるだけ早くそこで落ち合って、始業ギリギリまでちゃんと話をしようって。
通話を終えて、あふれてしまった涙を拭った。顔を合わせるときは泣きたくないな。
「よっし、頑張ろ!」
気合を入れて、こぶしを天井に突き上げる。くすりと、柔らかく笑う声がある。
「本当にいろいろありがとうね、笑音さん」
じゅわっと胸に染みる優しい声だ。いつの間にか、風坂先生が仮眠室の入り口に立ってて、ほっぺたを掻きながら、メガネの奥の目を微笑ませた。
「いえいえいえ、あたしのほうこそ! ゆうべは行くあてがなかったとこを拾っていただいて、ほんとにありがとうございました!」
「あまり眠れてないだろ? 今日1日、学校でキツいと思うけど、頑張って」
「はい、もちろんです! これから出発します。瞬一や初生と待ち合わせしてるんで」
あたしがカバンを手にしたときだった。ぐぅぅ~、きゅるる、という平和な音が聞こえてきた。あたし? じゃないんだよね、これが。
風坂先生のほっぺたが、あっという間に赤くなった。かわいい……!
「あ、あはは、ごめん。安心したら、おなか減っちゃってさ。よかったら、一緒に何か食べない?」
何だこの超役得展開!
「よよよ喜んでっ!」
噛まないでよ、あたしーっ。がっついてるみたいじゃん。いやもうこの際だから、がっつきますけども。
響告大学附属病院を出てすぐのところにある小さなカフェが、こんな早朝から営業していた。風坂先生がホットドッグの朝食セットをおごってくれた。
「ありがとうございます!」
ケチャップの匂いが食欲をそそる。風坂先生だけじゃなく、あたしもおなか減ってた。背の高いカウンターテーブルに風坂先生と並んで座って、黙々と食べた。おいしすぎたんだもん。
まあ、もちろん何かしゃべりたいよ。だけど、それはゆっくりできるときがいい。今はバタバタで、瞬一や初生との約束もあるし。
あたし、ぜいたくになったかも。しょうがないよね。ピアズでの冒険があまりにも特別だったから。風坂先生もあたしのこと、ただの教え子じゃなくて、ちょっと特別な仲間《ピア》だと思ってくれてるよね?
「あの、風坂先生、また朝綺さんのお見舞いに行ってもいいですか?」
風坂先生はにっこりした。唇の端っこにケチャップが付いてる。無防備さがヤバいっす。萌える。
「ぜひ来てやってよ。あいつ、よくしゃべるから、発声が回復するのは早いと思う。話をしに来てほしいな。ああ、そうだ。ぼくと麗の連絡先を教えておくね」
「まままマジで教えてもらっていいんですか!?」
噛むな、あたし。
「こちらこそ笑音さんの連絡先を教えてもらいたいわけだけど、大丈夫かな?」
「ぜぜぜ全然ほんとに大丈夫ですっ」
だから噛むなってば、もうーっ。
学校では内緒だよと言いながら、風坂先生は連絡先を教えてくれた。あたしも自分の連絡先を送信する。端末を操作する間、幸せすぎてふわふわした。
「それとね、お見舞いに来るときは『風坂先生』はやめてもらっていい?」
「はい?」
「麗も准教授だから『風坂先生』なんだよ。まぎらわしいから、お見舞いのときだけは、ぼくのことは下の名前で呼んでもらえるかな?」
「でででではっ、界人先生とお呼びしますっ!」
ますます幸せすぎて頭が沸騰して爆発した。昇天する。
来水高校前のバス停に最初に着いてたのは、瞬一だった。あたしと初生はほとんど同時に到着した。瞬一は目の下に隈ができてる。初生は目が真っ赤に腫れてる。あたしも2人と似たようなもんだと思う。
「ごめん!」
「ごめん!」
「ごめん!」
開口一番、3人で見事に重なった。誰が誰に謝ってんだか、わけわかんない。
何をどう言おうかって、朝の道を歩きながら考えてきたのに、いざとなったら、あたしの頭は働いてくれない。あたしはたぶん間抜け顔。初生は泣きそうな顔をした。怒った顔の瞬一が言った。
「何で笑音が謝るんだよ? おれが聞きたいのは、謝罪なんかじゃない」
ちょっと長めの前髪からのぞくまじめな目は、男の顔をして怒鳴った瞬一じゃない。頑張りすぎる頑張り屋の、いつもの瞬一だ。おかげで、あたしは声が出る。
「瞬一が訊きたいことって? あたし、何言えばいいの?」
「昨日の晩、どこにいたんだよ? 通信、全部切ってただろ。夜になっても帰ってこなくて、おれ、不安で……」
初生が、震える声を挟んだ。
「甲斐くんがわたしに電話してきたの。わたしのところにえみちゃんがいるんじゃないかって。そのとき初めて、えみちゃんが帰ってないって知った。心配したんだよ?」
瞬一の怒った顔も、初生の泣きそうな顔も、あたしのことを心配してくれたから。
「黙っていなくなってて、ごめんね」
全部を一気に説明するのは難しいかな。ピアズで経験した、途方もない冒険のこと。
朝綺さんの魂をつかまえるためのオンラインの旅。リアルで積み上げられてきた麗さんの努力、風坂先生の切ない献身。今朝迎えたクライマックス、みんなで見た朝焼けがとても綺麗だったこと。
瞬一と初生には余さず教えたいけど、今このまま全部しゃべったら、始業ベルには間に合わなくなっちゃう。
「響告大附属病院にいたんだ、あたし。パパのとこじゃなくて、風坂先生と、先生の妹さんと、妹さんの恋人と、一緒にいた。事情が複雑だから、改めてまた話すね。素晴らしい体験をさせてもらってきたんだ」
初生が大きな目をぱちぱちさせた。
「えみちゃん、すごくスッキリした顔してる。どうしたの? 何があったの?」
「えへへ、まぁね。そう言う初生こそ、何か吹っ切れた感じがあるよ?」
初生はうなずいて、微笑んだ。
「うん、吹っ切れたの。わたし、100か0かの二択だと思ってた。えみちゃんのことを100%の好きじゃなくなった瞬間、0%になったんだと思ってたの。でも、0%じゃなくていい? 3%の嫌いがあっても、残りの97%の好きで打ち消すから、許してくれる?」
「当たり前だよ! 許すも何もないってば。友達でいてよ、初生。悪いとこあったら教えてよ。あたし、直すから。優しくてまじめなのは初生のいいとこだけど、100%でいようなんて無茶なこと思わないでいいよ」
実は似てるんだなー、って気付いた。初生って、瞬一と似てるよ。まじめなせいで不器用なところ、そっくり。
初生が瞬一を見つめて言葉をつないだ。
「甲斐くんとも同じ話をしたの。100%じゃなくていいよねって。50%の友達同士になれないかなって」
瞬一は初生の視線をまっすぐに受け止めた。口元に小さな微笑みがある。
「遠野さんとおれは、志望校も志望学部も一緒だ。遠野さんは看護学科で、おれは先端医療学科だけどな。受験教科はかぶってる。励まし合える友達になれたらいいかなって話したんだ」
「いいじゃん、それ。一緒に勉強しようよ」
「笑音もかよ? 笑音は勉強が頼りないからな、おれと遠野さんの足を引っ張るなよ?」
からかう口調に、ハッとした。瞬一が冗談を言うなんて久しぶりだ。ひょっとして、始まってるんじゃないかな? 瞬一の新しい恋と、初生の生まれ変わった恋。
うわー、気になる。だけど、学習したよ。今はまだ言っちゃダメなんだよね。あたしは見守るから。
「友達、だね?」