アタシが真っ先に逃げ出したと思う。
ふっ、と。
ディスプレイに平穏が戻った。ピアズのスタート画面。
「どうして、あんなことに……?」
コントローラを握りしめてた手は汗びっしょりだった。
ぴろ~ん♪ と、間の抜けた効果音が鳴った。ピアズを介したメッセージの受信音だ。
あたしは、ポップアップされた便箋マークをタップした。メッセージはシャリンさんからだった。
〈みんな、無事? 読みを外してたわ。ジョチは、ラフじゃなかった。思い出してみれば当然ね。最初のボス、ジャオと戦ったとき、ジョチはいなかった〉
あたしは急いで返信した。
〈ルラは大丈夫っぽいです! でも、ジョチさんじゃなかったって、どういうことですか?〉
ニコルさんの返信と、ほとんど同じタイミングだった。
〈ニコルのデータも問題ない。「ジョチの帳幕《ゲル》」っていうフィールド名にミスリードされたんだ。実際のところ、オゴデイのほうだったわけだ〉
え? オゴデイくん?
少し間があった。シャリンさんが何か発言しようとしてるのがわかって、あたしは待った。すぐにシャリンさんからメッセージが届いた。
〈ジョチのAIプログラムを解析するために容量を割いていたの。そのぶん、同フィールド内のその他のデータは相対的に容量が下がって、ラフは無防備な状態になっていた〉
一旦、メッセージが途切れる。リアクションするより早く、続きが飛んできた。
〈守りの薄くなったラフのそばにオゴデイがいた。オゴデイに憑依しているラフの魂は肉体と引き合って、プログラムを掻き乱した。あのままだったら、フィールドを破壊していた〉
ニコルさんからの返信が来た。
〈シャリン、了解。今、チラッとログインしてきた。セーブデータも無事だったよ。イフリートを倒した状態に保存されてた。次はジョチのゲルから再スタートだ〉
アタシは確認のメッセージを送った。
〈じゃあ、次はオゴデイくんをつかまえればいいんですね? 今回みたいに、シャリンさんが直接オゴデイくんに触れる感じで?〉
〈そうね。協力してちょうだい。解析プログラムを修復しておくわ〉
〈まあ、オゴデイが最大のキーマンというのは、史実を鑑みれば納得だ〉
〈どういう意味ですか?〉
〈たぶん、次回のストーリーで説明されるよ〉
〈何にしても、今度は絶対に失敗しないわ〉
アタシたちは明日の待ち合わせの時刻を決めた。それから、おやすみなさいを言い合って、メッセージの画面を閉じた。
初生がしゃべってくれなくなった。朝、バス停で待ってても、初生は来ない。声を掛けても、聞こえないふりをされる。近付こうとしたら避けられる。
クラスメイトにもバレた。
「笑音、遠野さんとケンカしてるの?」
「んー、まあ、ケンカではないと思うけど」
「あの態度はありえないよね。暗いっていうか、さすがにウザいっていうか」
「いやぁ、でも、悪いのはあたしだし」
「笑音、ああいう子は甘やかしちゃダメだよ。すぐ図に乗るんだから」
笑ってごまかしながら、思い出した。この子、初生と同じ中学だった。わざと初生に聞こえる声でこんなこと言ってる。
やめてよって止めればよかった。へらへら笑ってるだけじゃなくて。初生が傷付くから悪く言わないでって、ハッキリ伝えればよかった。
それができなかったのは、どうしてだろ? 初生なんか傷付けばいいって、あたし、心のどこかで思ってたのかな?
だってね、初生。避けられてたら、あたしだってつらいよ。悪いのはあたしってことはわかってる。ちゃんと怒りをぶつけてくれたら受け止めるのに。
「なんで黙って避けるの? どうすればいいかわからないよ」
帰り道。とぼとぼ歩きながら、ため息と同時に足が止まる。秋風が湿ってる。気温が低い。
屋外の歩道から、ガラスケースに入った車道を見やる。走っていくバスの後ろ姿には、響告大学附属病院、と行き先が書かれている。
ママは、今晩は病院に泊まるって言ってた。あたしは家には帰れない。瞬一と2人になんて、なれるわけがない。
この数日、瞬一は徹底的にあたしを避けてる。家を空けがちなママでさえ気付くぐらい、徹底的に。
昨日、もう限界だった。晩ごはんを食べてママが病院に戻った後、あたしは瞬一とケンカした。あたしが怒鳴って、瞬一も声を荒げた。
「これ以上、おれの精神を掻き回すなよ!」
勉強机を殴りつけた、こぶしの形。初めて、瞬一が男であることをハッキリ感じた。男である瞬一を怖いと思った。
帰り道がわからない迷子になった気分だ。足が進んでいかない。
ぽつっ。
おでこに水滴が当たった。空を見上げる。灰色の雲が、くしゃりと崩れ始める。
「雨……」
びしょ濡れになっちゃおうか。空に向かって笑顔をつくる。もっと降ってきてよ。ぐしょぐしょになるくらいがちょうどいい。みじめっぽくてバカっぽくて、あたしらしい。
どこか遠くへ行っちゃいたい。消えたなくなりたい。だって、教室にあたしがいるだけで、初生はさらに傷付く。家であたしと過ごしてたら、瞬一はまた苦しむ。
悲しくなる。どうしようもなくバカな自分が、もうイヤだ。
「嫌いだよ」
調子に乗って、失敗ばっかり。笑顔が取り柄とか言いながら、そんなのは嘘。うまく笑えない、弱い自分が嫌い。
本物の笑顔に憧れる。パパの笑顔みたいな。風坂先生の笑顔みたいな。悲しくてもちゃんと笑ってる人の強さに憧れる。
雨が冷たい。目を閉じてみる。泣きそうで、呼吸が苦しくて、口を開ける。味のしない水が口に入ってくる。髪が濡れ始める。
雨の匂い。ひんやりした雨音。今日は寒い。
不意に、声が聞こえた。
「甲斐さん……笑音さん?」
雨音のヴェールを通り抜けるしなやかな声に、あたしはハッとして振り返った。
「風坂先生……」
緑色の傘を差した風坂先生が立っていた。ビックリしたような顔だ。それもそっか。教え子がバカみたいにびしょ濡れになってるんだから。
風坂先生が黙ったまま動いた。あれ? と思ったときには、あたしは傘の中にいた。緑色に陰った傘の内側で、風坂先生が微笑んだ。
「どこかまで送ろうか?」
男物の傘は大きい。それでも、2人で入るには小さい。風坂先生との距離が近すぎる。
「え……あ、えと……」
「ずいぶん濡れてるね」
風坂先生が、パーカーのポケットからタオルハンカチを出した。先生は実習を担当してるから、いつも動きやすい格好をしてる。スーツとか見てみたいなって、ぼんやり思った。
ふわっとしてごわっとした布地が、あたしのほっぺたに触れた。風坂先生の手がタオルハンカチ越しに、あたしのほっぺたを包んでる。
「使って」
「……すみません」
「笑音さん、たまに雨に打たれたくなる気持ちもわかるけどね。体を壊したら、元も子もないよ」
優しさをもらうと泣きたくなるのは、どうしてだろう? あたしが優しくされる価値のない人間だから? うん、きっとそう。もったいないって思っちゃうんだ。
「先生、大丈夫です。あたしは1人で大丈夫です」
風坂先生はかぶりを振った。タオルハンカチがあたしの髪とおでこを拭った。ほっぺたと目元を拭った。
「教師ではないぼくだと、頼りないかな? ぼくでも話を聞くことくらいはできるよ。大丈夫だなんて嘘をつかないで」
やめてほしかった。
あたしは誰の前でも笑っていたい。笑えないときは、誰とも一緒にいたくない。なのに、風坂先生の笑顔が優しいから、おかしくなる。
すがりたい。甘えたい。話したい。打ち明けたい。
泣きたい。
そうだ、泣きたいんだ。気付いたら、もう涙が止まらなくなった。強まっていく雨音を聞きながら、あたしは泣いている。
この涙の意味は何なんだろう? 何が悲しいの?
イヤだよ。泣くなんて、みじめなだけじゃん。
だけど、どうしようもないんだ。泣くことしかできない。
弱いなぁ。痛みや苦しみから顔を背けるばっかりで。
泣きたくて泣きたくて泣きたい。涙が止まらない。
風坂先生はタオルハンカチで、あたしの目元を拭ってくれる。泣き顔を見られている。恥ずかしさは涙と一緒に流れて、とっくに消えた。
ずっと泣いていた。傘の中で、寒かった。
どれだけ時間が流れただろう?
目元がひりひりしない。こすらないせいだ。
タオルハンカチでそっと押さえて、肌から水分を拭う。丁寧で繊細な手付きは、風坂先生がプロだから。毎日、利用者さんにしてあげる作業だ。
それに気付いたとき、ふっと、あたしは現実に戻った。
「……もう大丈夫です」
「そう」
「ご迷惑、おかけしました」
風坂先生が、ぽんぽんと、あたしの頭を叩いた。
「迷惑じゃなくて、心配。どうしようもなく苦しいときは、笑わずに泣いていいんだよ」
「でも、風坂先生はいつも笑ってて……」
「ぼくはとっくに大人だから。強がって生きていこうって、ずいぶん昔に選んだから。笑音さんは、まだ迷ったり泣いたりしていい」
見透かされてる気がした。風坂先生は何でもわかってる。また涙が出そうになって、あたしは大きくまばたきした。
「そ、そうだ、先生。初生は、小テスト、パスしました?」
「テストは問題なかったよ。だけど、やっぱり元気なかったね」
「もう仲直りできないかもしれないです」
「そんなことないと思うけど」
「できないです。だって、あたし、初生が悪口言われてるのを止めなかった。怒らなきゃいけなかったのに、黙ってた。友達失格なんです、あたし」
風坂先生の笑顔は、困ったなぁと言うみたいに眉尻が下がっていた。度の強いメガネに、細かい雨粒がくっついてる。
少し、沈黙。それから、風坂先生があたしに尋ねた。
「笑音さん、家はどっちの方角?」
答えられない。あたしは今日、家に帰れない。瞬一と2人になれない。あたしはとっさに嘘を言った。
「今日は学校から直接、病院に行くことになってるんです。響告大の附属病院に」
「病院? どこか悪くしてるの?」
「いえ、パ……父が入院してるんです。母が付きっきりで大変そうだし、たまにあたしも手伝いに行くことにしてて」
口に出すうちに、本当に病院に泊まろうって気になった。パパの顔を見たい。検査でバタバタしてなかったら、話を聞いてもらおうかな。
「じゃあ、病院の近くまで一緒に行こうか? ぼくの家、響告市にあるんだ。響告大の近くにね。だから、病院は帰り道だよ」
風坂先生はゆっくり歩き出した。あたしも慌てて足を動かし始める。状況が今いち呑み込めない。だって、これ、風坂先生と相合い傘だよ?
普段なら跳びはねるんだけどな。今はダメだ。無理だ。弱ってる。
胸にしまい込んでる笑顔の理由が、ぽろぽろ、こぼれていく。
「父は、検査入院なんです。検査っていうか、正確にはデータ提供のため。響告大附属病院は研究機関でもあるでしょう? 響告大の医学部と連携が強くて、世界的にも有名な博士がいたりして」
「うん。ぼくの利用者さんも入院してるから、よく知ってる」
「父の病気、ALSなんです」
風坂先生が息を呑んだ。
「ALS……筋萎縮性側索硬化症《きんいしゅくせいそくさくこうかしょう》か。脳の司令を筋肉に伝える運動ニューロンが冒される病気だね」
「風坂先生は、この病気、ご存じですよね」
例えば、あたしが誰かに手をつねられるとする。痛いと感じるのは、知覚神経の仕事。痛いから手を引っ込めろと指示を出すのは、脳の仕事。脳の指示を腕の筋肉に伝えるのは、運動ニューロンの仕事。
運動ニューロンは、神経細胞の一種だ。ALSは、運動ニューロンの働きを阻害する病気だ。
ALSに冒された患者の運動ニューロンは、脳の指示を伝えない。つまり、患者の筋肉は使いものにならない。病んだ運動ニューロンは、その数自体をどんどん減らしていく。
風坂先生は淡々と言った。
「病気が進むにつれて、筋肉が動かなくなっていく。手足が動かなくなる。表情筋さえ動かなくなる。食べ物を飲み込むことも呼吸をすることも難しくなっていく。完治させる方法は、まだ編み出されていない」
あたしは足下を見ながら歩いた。風坂先生、きっと苦しそうな顔をしてる。声でわかる。あたしが風坂先生にそんな顔をさせるなんて、申し訳ない。
「父は、闘病じゃなくて『挑戦』って言うんです。世界で初めてALSを完治するんだって。だけど、どんなに元気なことを言ってても、歩くと転ぶんです。お箸、もう使えないんです」
パパの症状はだんだん進んでる。
字を書くのが難しくなった。リハビリで書く文字は、そろそろもう本当に読めない。服のボタンを留められなくなった。だから、ママが着替えを手伝ってる。
こうやって1つずつできなくなってくんだ。
膝当てと肘当てを付けて病院まで歩いたり、血圧を測りながらトランプで遊んだり、もうすぐできなくなってしまう。
読み聞かせをしてくれてた優しい声さえ、いずれ出せなくなる。笑顔も呼吸も、食べ物を飲み込むこともできなくなる。自力で生きることができなくなる。
「あたしは少しでもパパの『挑戦』を手伝いたくて、だから看護師になりたい。パパが生きてるうちに。時間がどれだけあるかわからない。怖いです」
風坂先生がうなずく気配があった。
「今日、瞬一くんとも話をしたんだ。同じ話を聞かせてくれた。育ての父の『挑戦』を成功させるために、先端医療の研究を志しているんだね」
ALS患者の運動ニューロンは機能を失いながら減っていく。治療するためには、健康な運動ニューロンを補う必要がある。
瞬一が目指してるのは「万能細胞」の研究。万能細胞は、体のどの器官にもなることができる。神経にも筋肉にもなれる。
パパの細胞を採取して培養して、万能細胞を作る。その万能細胞から、健康な運動ニューロンを作る。健康な運動ニューロンをパパの体に移植する。もとが自分の細胞だから、移植の拒否反応は出ない。
瞬一が目指しているのは、そういう治療をおこなうお医者さんだ。
「ALSじゃない別の難病では、万能細胞を使った新しい形の治療がもう始まってるんでしょう?」
「うん。実験って呼ばれるような段階だけどね」
「実験、ですか?」
「もちろん患者も合意の上だよ。自分にはまだやりたいことがある、死ぬくらいなら人体実験の素材にもなってやる、って。その実験に、ぼくの妹が関わってる」
風坂先生は雨の中でささやく。それでも、その声はハッキリと通る。悲しみと切なさを秘めた、柔らかい声。
理由はないけど、わかった。人体実験だなんて痛々しい言葉を使ったその患者さんは、きっと風坂先生にとって大切な人だ。
30分くらいの距離を、ぽつぽつ話しながら歩いた。背の高い風坂先生は脚が長い。もっと速く歩けるはずだけど、あたしに合わせてくれた。
風坂先生は大学時代から響告市に住んでるらしい。響告大を出たんだって聞いて、ちょっとビックリ。全国でも5本の指に入る難関校なんだ。
「響告大工学部って、それなら大きい会社にも就職できたんじゃないですか? なのに、ヘルパーになったんですね」
「うん。収入や肩書きより大事なものがあったから」
「大事なもの?」
迷うみたいな、言葉を探すみたいな、沈黙。風坂先生は、そっと続けた。
「親友が生きるのを手伝いたかったんだ」
「前も、そうおっしゃってましたね」
「あいつがいたから、今のぼくがある。大学時代からずっと、そういう関係なんだ。ああ、怪しい意味合いじゃないんだけどね」
わかる気がする。大事な存在ってあるんだ。身内とか他人とか、男とか女とか、そういうのを超えて、守りたくて支えたくて見つめていたい存在。
「親友さん、介助が必要な体なんですね」
「必要な体だった。過去形だよ。今は眠ってる。症状が進み切ってしまった。彼の病気もALSと同じように、体が動かなくなっていく疾患でね」
体が動かなくなって、最後には死んでしまう病気。
「悲しい、ですよね?」
「覚悟の上だよ。ちょっと昔話をしようか。ぼくは小さいころから、親や学校の先生に『人と直に接する仕事に就くのが向いている』と言われてた。介護な保育が天職だろう、って」
「あたしもそう思います。それで本当にヘルパーになったんですね」
「うん。ヘルパーっていう仕事は、人さまの体に触れて生活のお手伝いをする。保育士の仕事に似ている部分もある。でも、決定的に違うんだ。どこが違うか、わかる?」
「お世話をする相手の年齢ですか?」
「年齢にも関わるけど、保育士は『できるようになる』人間を見守る仕事だ。ぼくたちは『できなくなっていく』人間を見守る。獲得じゃなく喪失を目の当たりにする」
「喪失……」
「最初から、ぼくには覚悟があった。ぼくに覚悟させるくらい、あいつはとんでもないやつだった。とんでもなく楽しいやつだったんだ」
風坂先生が自分の心を語る。「あいつ」のことを思い出す声は柔らかくて優しくて、微笑んですらいて、ずっと聞いていたい気もした。耳をふさいでしまいたい気もした。
あたしはあたし自身に戸惑ってる。胸が痛い。よじれるみたいに痛い。鼓動が高鳴って苦しい。泣き出しそうで苦しい。
パパの病気へのやるせなさ、親友のために覚悟を決めた風坂先生へのシンパシー、そして、そんな風坂先生に恋する気持ち。何もかもが、ぐちゃぐちゃになってる。
ぐちゃぐちゃがあふれ出しそうだ。叫びたがる喉を押さえる。
大丈夫。もうすぐ病院に着くから。
響告市の街並みはレトロで、背の高い建物が少ない。おかげで、白くて巨大な5階建ての病院は目立つ。病院の向こう側には、響告大学のキャンパス。雨にかすみながら、赤煉瓦の時計台が見える。
突然、アップテンポの音楽が流れ出した。あたしもよく知ってる曲だ。風坂先生がジーンズのポケットに手を突っ込んだ。
「妹から電話だ。話すけど、いいかな?」
「は、はい」
むしろ、あたしが聞いちゃっていいんですか? 風坂先生はワイヤレスイヤフォンを耳に押し込んだ。
「もしもし? ……うん、今、帰りだよ。一旦家に戻ってから、そっちに行く。え? ああ、わかった。それを持っていけばいいんだね?」
妹さんと話すときも、声と口調の柔らかさは変わらない。風坂先生はやっぱり裏表がない人だ。妹さんもきっと、この声を聞いて、ほっとするんだろうな。
通話時間は短かった。風坂先生はイヤフォンを耳から引き抜いて、苦笑いした。
「ごめんね、急に。世話の焼ける妹なんだ。研究所勤めで、なかなか家に帰ってこなくてね」
「そんなにお忙しいんですか?」
「そうだね。純粋に忙しいっていうのもあるけど、現場を離れたくないっていうのがいちばんじゃないかな。研究職とはいえ、患者ありきの仕事だから」
瞬一もそんなふうになっちゃいそうだな。体、壊さなきゃいいけど。
「あの、全然違う質問、していいですか?」
「ん?」
「風坂先生も『PEERS' STORIES』をやるんですね?」
だって、さっきの着メロ、ピアズのテーマソングだった。
「うん。ぼくはけっこうゲーマーだからね。大学時代にゲームを創作するサークルに入ってたくらいだし。この話は、前にもしたかな」
「はい。あたしもピアズのアカウント持ってるんです」
「やり込んでるほうなんだろ? この曲に気付いてくれたのは笑音さんが初めてだよ。イントロだけだったのにわかるとは、さすがだ」
「だって、あの曲、好きですもん。曲も歌詞もステキで」
『PEERS' STORIES』のテーマソング、『リヴオン』は、4年前にリリースされた。オープニング画面からリンクが貼られてるボーナストラック。ユーザになったら、無料で聴けるんだ。
テーマソングっていっても影が薄い。ゲーム本編で流れるわけじゃないし、リンク自体を知らないユーザも多い。
アップテンポで明るいメロディに、切なくて繊細な歌詞。曲調は、21世紀初頭風のレトロなロック。
歌ってるのは「ヨワムシ勇者《バァトル》」っていうバンドだ。ヴォーカルは、1度聴いたら耳に残って離れなくなる、不思議な声をしている。しなやかに伸びる中に、少年っぽく尖った響きも持った声だ。
「笑音さんは、この曲が生まれた由来を知ってる?」
「え? 知りません」
「ヨワムシ勇者《バァトル》っていうバンドは滅多にコラボレーションをしないんだけど、『リヴオン』は例外でね。ピアズの最初の開発者のために、その恋人が作詞に協力したんだ」
「じゃあ、リヴオンってメッセージは……」
間奏に、女の人がつぶやくセリフが入っている。「リヴオン」は「live on」だ。「生き続けて」という意味だ。
パパの病気を目の当たりにするあたしは、そのセリフを含めた歌詞に惹き付けられた。
ピアズの開発者さんもパパと同じなのかな? 普通に生き続けることができない体なのかな?
風坂先生はハッキリした答えを出さず、優しい笑顔で『リヴオン』の裏話を続けた。
「ヨワムシ勇者《バァトル》は、開発者が特に好きだったバンドなんだ。ぼくも好きだよ。レトロな感じがいいよね。彼ら、素朴な音質を好むから」
風坂先生の好きなものを、また1つ知った。あたしの好きなものと同じで嬉しかった。パパの影響だけど、あたしもレトロなロックは好きなんだ。
響告大学附属病院のそばの交差点で風坂先生と別れた。雨はほとんど止んでいた。
あたしは、傘を畳んだ風坂先生の後ろ姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。風坂先生は振り返らなかった。仕事関係の電話をこなしながら歩いていたから。
1つ、大きな息をつく。
「大丈夫かな、あたし?」
顔をぺたぺた触ってみる。笑えるかな? パパに心配かけない顔、できるかな?
とりあえず、パパかママに連絡して、あたしも今日は病院に泊まりたいって言わなきゃ。
今日もニコルさんたちと、ピアズで待ち合わせしてる。家族用のカプセルベッドにこもれば音漏れは少ない。そこからログインしようと思うけど、ベッドが空いてるかどうかが問題なんだよね。
あたしは通話用のイヤフォンを耳に着けた。パパの病室をコールする。10秒くらい待ったら、パパが電話に出た。
〈もしもし、えみ? どうした?〉
優しい声。風坂先生より、太い声質。電話越しだと、にじんだように柔らかく響く。
「えっと、どうもしないけど」
嘘。
〈久しぶりだな、えみの声を聞くのは〉
「うん。だから、かけてみたの」
〈ありがとう。えみもしゅんも無理しすぎてないかな?〉
「あー、瞬一は頑張りすぎだよね。まあ、あたしが見張ってるから問題ないよ!」
また、嘘。
〈頼もしいな。でも、えみも頑張りすぎるなよ〉
「へーきへーき。あたしは全然、もっと頑張らなきゃいけないし。あたしのまわりにいる人ってさ、瞬一も初生も、優秀すぎて困っちゃうよ」
ああ、ダメだ。
どうして? あたし、どうして嘘しか出てこないんだろう? パパに嘘なんかつきたくないのに。
でも、止まらない。
「あたしのほうは、ほんとに大丈夫だよ! パパこそ、検査とかリハビリとか大変でしょ? 転んだりしてない? ママに心配かけさせちゃダメだよ?」
あたしはパパに心配かけたくない。
〈えみは元気そうだな。その声を聞くと、安心するよ〉
顔を見せたら、あたしが嘘ついて笑ったふりをしてるってバレる。そんなのダメだ。
「今日ねぇ、いいことあったんだ! 憧れの先生と、ゆっくりお話できたの」
元気で脳天気でいつも笑顔の、おバカな笑音。あたしはそういうキャラだから。
〈憧れの先生? 女の先生、それとも、男の先生かな?〉
「うふふ~、内緒~♪」
パパが楽しい気持ちになれるなら、あたしは、嘘でも無理でも笑ってみせる。パパがいつもそうしてくれるように、弾んだ声を保ってみせる。
あっ、とパパが言った。パパの声の向こうに、甲斐さん、とパパを呼ぶ声があった。看護師さんだろう。
〈ごめんね、えみ。これから診察に行けないといけなくてね〉
「そっか~。忙しいね、パパ」
〈たまには見舞いに来てくれよ。おいしいものをおみやげにしてくれると嬉しいな〉
「えー、太るよー?」
〈それを言うなよ。おいしいものは、入院中の数少ない楽しみなんだぞ〉
「ま、許可してあげましょう。次のお見舞いのときは、何かおいしいもの持っていくね。じゃ、グッドラック、パパ」
通話を切ろうとした。その直前に、パパがささやいた。
〈苦しいときは、弱音を吐きにおいで。ときどき思い切り泣くのが、笑顔でいるためのコツだから〉
パパのほうが先に通話を切った。あたしは立ち尽くした。
「じゃあ、どうすればいいの? 泣くの笑うの、どっち?」
パパのバカ。あたしは必死で強がったのに、全然わかってない。
あたしはふらふらしながら歩いて、公園に入った。小さな公園は、ドーム型の強化ガラスで覆われてる。上がったばっかりの雨のせいで、ガラスは少し曇っていた。
あたしはトンネル型の遊具に潜り込んだ。膝を抱える。狭くて薄暗くて、ちょうどいい。なんだか落ち着く。
もう、今日はこうやって過ごそう。夜、寒くなっておなかが減ったら、適当なお店に入ろう。響告市は学生の町だ。響告大学のキャンパスでは、夜通し、学生さんが研究をしてる。おかげで、夜通し開いてるお店も多い。
あたしはカバンから薄型プラスチック製のPCを取り出した。ハンカチみたいに畳んでたのを展開する。起動させて、ミュージックポッドを呼び出す。
イヤフォンをPCにつないだ。お気に入りリストをランダム再生する。目を閉じる。
1曲目から、あのイントロ。アップテンポの明るいロックチューン。だけど、歌詞はとても切ない。
『リヴオン』。
「目覚めるために眠るんだ」と
氷に閉ざされた唇は微笑んだ
その身を蝕む呪いさえ笑い飛ばして
命の灯を輝かせる貴方
「愛してるぜ my princess」と
冗談ばっかりの減らず口を叩いて
最後に流した涙は笑顔の代わりだと
信じてるから 私
ひずむスクリーン
暗転のセカイ
ひび割れたヴォイス
届かないネガイ
「呪いを解くのはお姫様のキス」
私の耳元で囁いた あの声も
「この世が尽きるまで一緒に居たい」
私の髪をそっと撫でた あの指も
守りたい
私は 私に目覚める
「Live on... 生き続けて 信じてるから」
そっぽを向いて照れていた貴方
私の扉をこじ開けた それが始まりの日
乱暴な言葉と裏腹 硝子《ガラス》の貴方
私に道を拓いたの そして続く日々
守りたい
呪いを解く魔法を 今
貴方のお姫様が 今
貴方にキスをするから……