きみと駆けるアイディールワールド―緑風の章、セーブポイントから―

「まっ……」
 やっと声が出た。誰の耳にも届かなくなってから、やっと。
 体から力が抜ける。へなへなと座り込む。廊下が冷たい。瞬一の言葉と初生の絶望の意味が、じわじわとわかる。
 初生は瞬一のことが好きで、瞬一はあたしのことが好きで、初生は瞬一の気持ちをわかってた。
 誰も何も言わなければよかったと、初生が吐き出した後悔の言葉が刺さってくる。
 あたし、バカだ。あたしのお節介のせいでこうなった。初生はあたしを責めてる。嫌ってる。
 瞬一は何を思っただろう? あたしのバカさ加減に、呆れるよりもっと深く、いっそ失望しただろうな。
 あたしが2人を傷付けた。あたし、なんでこんなにバカなんだろう?
 唇を噛んだ。床しか見えない。人工の木目がにじみ出す。
 ふと。
「甲斐さん、大丈夫?」
 思いがけない声があたしを呼んだ。柔らかくて伸びやかで優しい声。あたしは顔を上げた。風坂先生があたしの前に膝をついた。
「か、風坂先生……」
「偶然、聞こえちゃったんだ。立ち聞きみたいなことして、ごめんね」
 あたしはかぶりを振った。風坂先生の笑顔は温かすぎて、声を出したら涙まで一緒に出てしまいそうだ。イヤだ、泣きたくない。
「ぼくでよければ、話を聞こうか? 放課後になってしまうけどね。それでもいいかな?」
 どうしてそんなに優しいんですが?
「立ち聞きしたお詫びにね。実は、特進科の甲斐くんとは、たまに話すんだ。甲斐くんは甲斐さんの……って、紛らわしいな。瞬一くんは笑音さんのいとこなんだよね?」
 下の名前で呼ばれた。こんなときだっていうのに、あたしの心臓はドキドキと、身勝手に高鳴った。
 風坂先生にそっと肩を叩かれて、あたしは立ち上がった。授業を受ける教室へと、支えられるようにして歩いた。


 初生は結局、風坂先生の授業に出なかった。小テストだったのに。
 でも、成績の心配は無用だった。風坂先生は、いつもの縦長なえくぼをつくって言った。
「今日うまくできなかった人は、欠席している人と一緒に、3日後に追試です。絶対、全員を合格させるからね」
 風坂先生の出す課題は簡単で、採点はちょっと辛い。落第させるのが目的みたいな難しいテストがない反面、技術を徹底的に身に付けるまで合格が出ない。
 授業の終わりに、風坂先生はあたしに告げた。
「放課後、片付けを手伝ってもらえるかな? 実習に使った人形や道具を倉庫に運ぶから」
 そういう仕事、普通は男子が声を掛けられる。でも、今日は特別。風坂先生はあたしの話を本当に聞いてくれるんだ。
「わかりました。お手伝いします」
 あたしはちゃんと笑顔で答えた。その後の授業も、初生は出なかった。早退したみたいだった。
 放課後、あたしはナースⅢ実習の教室に戻った。
「失礼します」
「どうぞー」
 風坂先生がメガネをかけ直して、あたしに微笑みかけた。メガネを拭いていた布を、シャツの胸ポケットに押し込む。
 あたしは教室を見回して、首をかしげた。
「先生、あの、片付けるものは?」
「もう片付けたよ。重さ50キロの人形を女の子に運ばせるわけにはいかないって。最終コマは授業が入ってなかったし」
 最後が空き時間だったってことは、ほんとは放課後を待たずに帰れたんだ。
「なんか、スミマセン」
 風坂先生は適当な椅子に腰を下ろした。あたしは風坂先生に手招きされて、隣の席に着いた。風坂先生は、ふふっと笑った。
「教室のこっち側って、ずいぶん久しぶりだ。授業をするときは、あっち側だもんな」
「え?」
「普段ぼくが立つあっち側は、大人の側で教師の側。本当は全然、大人なんかじゃないのにね」
 大人ですよ、先生は。たくさん気遣いできる人だもん。あたしはバカで無神経で、頼りなくて情けない子どもで。
 風坂先生は、沈黙を作らないリズムでしゃべってくれる。
「特進科の甲斐瞬一くんは、医学部志望だよね?」
「はい」
「狙ってるのは、響告大医学部の先端医療学科。それ以外は眼中にないって言ってる」
「知ってるんですね、瞬一のこと」
 瞬一が目指す響告大学医学部の先端医療学科は、パパが「挑戦」を叶える研究機関だ。
 パパの病気、ALSを治せる可能性があるのは、万能細胞を使った最新の先端医療だけ。響告大医学部は、万能細胞医療の臨床では世界でトップレベルだ。
「実はね、ぼくの妹がそこで研究してるんだ。響告大医学部の先端医療学科、万能細胞研究のラボで」
「それって、瞬一の志望してるとこ……!」
「うん。だから、ときどき瞬一くんと話をするんだよ。1度、妹の研究室に連れて行ったこともある」
 風坂先生はあたしを見ている。露骨に観察するわけじゃなく、でも細心の注意であたしの様子をうかがってる。
 介助士の目だな、って感じた。相手が何を望んでいるか、どうすれば苦痛がないか、読み取ろうとしている。
 あんまり気を遣わせるわけにはいかないよね。あたしはバカだけど、ちゃんと自力で立てるんだから。
 あたしは笑顔をつくった。
「瞬一から、志望校の理由、聞いてますか?」
「具体的には何も」
「そうですか。瞬一があたしの家に住んでるって話、聞きました?」
「それも初耳だよ。妹はいろいろ聞かせてもらったらしいけど。瞬一くんとぼくの妹、タイプが似てるから、話しやすかったみたいで」
「きょうだいとして育ったんです。あたしが姉で瞬一が弟。瞬一はああ見えて、抜けてるところもあるんです。世話、焼かなきゃいけなくて」
 だから、信じられない。あたしが風坂先生の前で抱えるドキドキを、瞬一がいつも、あたしに対して感じてたなんて。
 毎日、同じ家で顔を合わせて、家族同然で、それなのに、あたしは何も気付いてなかった。瞬一は気付かせてくれなかった。
 風坂先生は、癖っぽい髪を掻き上げた。
「遠野初生さんは、瞬一くんのことが好きなんだね? その……告白、したの?」
「あたしが余計なこと言ったのを、瞬一が偶然、聞いたんです。初生と瞬一が付き合えばいいって」
「間が悪かったんだね」
「あたしのお節介な一言のせいで、初生が瞬一に告白することになりました。それで今日、返事を先送りにしてた瞬一が答えて」
「その場面を、ぼくが聞いてしまったわけか」
 風坂先生は困ったように眉尻を下げた。
「巻き込んで、ごめんなさい」
「いや。まあ、悩むよね」
「どうすればいいか、わかんないんです。初生には嫌われたし、瞬一には今まで以上に避けられるだろうし。自分のバカさ加減が、ほんとにイヤです」
 あたしはいつの間にか下を向いていた。
 ふわっと、あたしの頭の上にぬくもりが載った。手のひらだ。風坂先生の手のひら。
 懐かしい感触だった。昔、あたしがべそをかくたび、パパがよくこうしてくれていた。
「えみ、いじけた顔をして、どうしたんだ?」
 頭を撫でてくれる手のひらは大きくて温かくて、あたしは顔を上げる。あたしの前にいるのは、パパじゃなくて風坂先生。
 ドキリと、あたしの心臓が大きく打った。
 風坂先生は「あっ」と小さく声をあげた。苦笑いで、手を引っ込める。
「ごめんね、笑音さん。つい、妹にするみたいなことをしてしまって」
 そっか。妹さんか。あたしもパパのこと思い出しちゃったけど。
 あたしは、背が高くて優しくて年上で声がステキな人が好きで。その根っこにあるのはパパの存在だって、急に気付いた。
「風坂先生って、うちの父の若いころに似てます。あたしがちっちゃかったころの父に」
 もちろん、風坂先生のほうが何倍もイケメンだけどね。風坂先生は苦笑いのまま言った。
「年齢的にも、そんなもんかもしれないな。31歳ともなれば、小さい子どもがいてもおかしくない」
 どさくさまぎれに訊いちゃおうかな。
「先生は、結婚とかしないんですか?」
「相手がいないよ。ずーっと、それどころじゃなかったんだ。今も引き続き、それどころじゃないし」
「仕事のためですか?」
 風坂先生が普段の笑い方をした。その表情、あたしにはわかる。「絶対に笑顔でいよう」って、悲しみを閉じ込めるための笑い方。
 先生は何かを背負っているんでしょう? なぜだかわからないけど持たされちゃってる、運命の大荷物。
「ぼくがヘルパーになった理由は、親友のためなんだ」
「親友、ですか?」
「最初にあいつの車椅子を押してから、もう10年になる。あいつがぼくの人生を導いてくれたんだよ」
 過去形だ。
「大切な人のお世話や介助をするのは、つらい仕事ですか?」
 覚悟してなきゃいけない。パパが手助けを必要とする体になったとき、あたしは笑っていたいから。風坂先生がいつも笑ってるみたいに。
「いろいろ思ってしまう、かな。ぼくも浮き沈みするよ。あいつには全部、見抜かれてた」
「笑顔でも隠せませんか?」
「隠すことは難しいな。機能を喪失していくあいつを見てることしかできない。治してやることができない。不甲斐なかった」
 風坂先生の経験は、あたしの未来だ。あたしもきっと、先生と同じことを経験していく。
「瞬一は、治したいって考えてるんです。先端医療を勉強して、難病を治せるお医者さんになりたいって」
「頑張ってほしいね」
 風坂先生の柔らかな声は、切実に響いた。
 それからもう少しだけ、風坂先生と話をした。あたしが料理苦手なこと。反対に、風坂先生は家事全般が完璧だということ。
「ぼくは妹と2人暮らしなんだけど、妹は、料理は全然しないんだ。全部ぼくが作ってる」
 いいなぁ、妹さん。風坂先生の手料理、食べてみたい。エプロン似合いそう。
 風坂先生が料理してるところを想像したら微笑ましくて、笑えてきた。そんなあたしに、風坂先生はホッとした顔を見せた。
 大丈夫だ。
 初生のことも瞬一のことも、1つも解決してない。でも、あたしは元気が出た。まだ笑顔で頑張れる。
 風坂先生、ありがとうございます。
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――YES

PASSCODE?
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...OK!
Сайн байна уу, Lula?

...承認しました。
こんにちは、ルラ!


「はい、サロール・タルに到着ーっと。いつも思うけど、何語なんだろ? 『さえんばえの~』って聞こえるけど」
 とんがり黒帽子に赤毛三つ編みの魔女っ子が似合う世界観じゃないよね。森の賢者って感じのニコルさんは不思議と似合うけど、蒼狼族の帽子をかぶってるからか。
 黒のミニスカワンピで、くるっと回ってみる。現実のアタシと違って、ルラは脚が細くていいよね。食べても太らないし。
 たいてい、アタシが1番にログインする。次がニコルさんだ。
「あ。来た」
 ぶぉぉぉん、っていう効果音とともに時空が歪む。そして人影が出現。足から順に上のほうへと、鈍い金属質の輝きが凝り固まっていく。
 色彩がだんだん現れる。緑色の帽子、長い銀髪、緑色のローブ。目は閉じられてる。スッとした鼻筋、薄い唇、尖り気味のあご。
 カッコいい。CGがひたすら美しい。見つめまくり。超ドキドキする。
 ぶぉぉぉんの音が消える。ログインが完了したニコルさんがまぶたを開けた。緑色に輝く目。唇が、微笑みの形に動く。
「こんばんは、ルラちゃん。今日も先に入ってたんだ?」
「あ、今、来たとこです、はい」
 今日も美声ですねー、癒やされる。リアルの笑音に何があっても、ニコルさんのイケボに励まされるルラは元気でいられる。
 どっかで聞いたことあるんだよね、ニコルさんの声。そう思って、手元に持ってるアニメをいろいろ観返してみたんだけど、残念ながら発見できなかった。
「シャリンとラフは少し遅れるらしいんだ。30分以内にはログインできるって言ってたけど」
「合流するのを待つほうがいいですか?」
「いや、進めておいていいって」
 ニコルさんはマップを開いた。アタシも一緒にのぞき込む。距離が近い♪ ディスプレイを遠景に切り替えてみる。うん、接近してる♪
 ってのは置いといて。
 現在地は大陸の真ん中あたりだ。前回よりも西に進軍した地点。蒼狼軍先鋒は、ジョチさんとチャガタイさんの二手に分かれた。オゴデイくんは手勢を率いつつ、連絡役がメイン。
 アタシたちは前回のミッションの後、チンギスさんの本軍に呼び戻されて、ちょっとしたお使いをクリアして、それからジョチさんの軍営に入った。今ここ。
「今回のキーキャラクター、ジョチさんですよね。ラフさんの魂、絶対につかまえましょうね!」
「うん、頑張ろう。シャリンは独自の解析プログラムを実装できたから、今度こそは」
「アタシ、何をやれば役に立てます?」
 ニコルさんはマップを畳んだ。
「シャリンが直にジョチに接触するチャンスを作ればいい。シャリンのアバターを解析プログラムのインターフェイスとして使うらしいんだ」
「わかりやすい演出ですねー」
「ゲームという、視覚効果に特化したプログラム上での作業だからね。世界全体を崩壊させないよう一部データだけを解析するために、実存する演出を利用するらしい」
「なるほどー。よし、頑張ろう! シャリンがジョチさんにタッチできそうなとこまで、ストーリーを進めましょ」
「行こうか」
 ニコルさんはローブをひらりとさせて歩き出した。アタシは隣に並んで、ニコルさんを見上げる。にゃはー、横顔もカッコいい!
「あ、そうだ。ニコルさん」
「ん?」
「答えられない質問だったら答えなくていいんですけど、ニコルさんって、プロの声優さんだったりします?」
 くすっと、ニコルさんが笑う吐息。あ、やっぱダメ。イヤフォンで聞くと、刺激が強すぎ。スピーカに切り替えます。
「ボクがプロだなんて、どうしてそう思う?」
「発声とか滑舌とか、トレーニング受けたとしか思えないです」
「わかる人にはわかるんだな。半分正解だよ。本業は別にあるんだけど、ときどき声優や俳優としても活動してる」
「やっぱりそうだった! ニコルさんの声、ステキすぎますもん!」
「ありがとう。実は、ピアズのAIにも、ボクの声を使ってるキャラがいるんだ。もっと低いクラスのステージだけどね」
「あ、だからニコルさんの声を聞いたことがある気がしたんだ」
「出会ってた可能性はあるかもね」
 今のセリフ、録音しておきたかった! 運命感じちゃうセリフじゃない? 前世で出会ってました的な。
「アタシも、本業としては別の仕事を目指してるんですけど、ほんとは声優にも憧れてるんですよね。劇団とか入ってみたいし」
「ピアズはときどきアマチュア声優を募集してるよ。声としゃべり方のサンプルを採って、音声プログラムに落とし込む。それをAIに搭載してしゃべらせるんだ」
「へぇ~。ニコルさんの声も、そうやってピアズに登場してるんですね!」
「声優として採用されたら、報酬もちゃんとあるんだよ。オーディションをパスしないといけないけどね」
「うわぁ、本格的! さすが天下唯一のオンラインRPG『PEERS' STORIES』!」
 ログアウトしたら、早速、調べてみようっと。本業の傍ら声優にもチャレンジかぁ。なんか風坂先生みたい。
 アタシとニコルさんは、そのへんの兵士にジョチさんの居場所を訊いた。
「ジョチさまでしたら、ご自分のゲルにおられるはずですよ。そういえば、オゴデイさまがルラさまたちをお探しでした」
「オゴデイくん? こっちに来てたんだ?」
「チャガタイさまの軍から、先ほど到着されたんです。でも、様子が変だったんですよ。おどおどして焦ってる感じで」
「普段からおどおどキャラだと思うけど」
 とにかく、ジョチさんのゲルに向かいつつオゴデイくんも探す、ってことになった。
 目的は2つ同時に果たせた。ジョチさんのゲルのそばにオゴデイくんがいたんだ。確かに、さっき聞いたとおり、普段以上におどおどそわそわおろおろしてる。挙動不審だ。
「オゴデイくん、どしたの?」
 アタシが声をかけたら、オゴデイくんはビクッと飛び上がった。
「ああ、ルラさんでしたか。ニコルさんもご一緒で。ほかのお2人はどちらに?」
「まだ来てないよ。でも、気にしないで。ニコルさんとアタシで話を聞いてあげるから」
 オゴデイくんは肩を縮めながら、うつむいた。ん? キミ、実は意外と美少年?
「兄のゲルにお入りください。百聞は一見に如かずです」
 オゴデイくんは入口のタペストリーをくぐって、ゲルに入っていった。ニコルさんが続く。そのとたん、ニコルさんは声をあげた。
「ぅわっ」
「ど、どうしたんですか!?」
 アタシは慌ててゲルに飛び込んだ。
「うきゃあっ! 何この黒いもやもや!?」
 ゲルの中は黒い霧で満たされていた。パラメータボックスをチェックする。毒性反応なし。でも、魔力反応ありまくり。
 オゴデイくんが狼の耳をピクピクさせた。
「皆さんも感じますよね。兄をさいなむ悪夢の病の気配を」
「悪夢の病って?」
 ゲルの奥でジョチさんが仰向けに倒れている。黒い霧が濃すぎてよく見えない。ジョチさんの体から霧が噴き出てるんだ。
 ニコルさんがローブの袖から杖を取り出した。
「これはジャラールの魔術かな?」
 オゴデイくんがうなずいた。
「そうだと思います。オレが到着したときには、すでにこの状態で……」
「え、オゴデイくんの一人称、オレなんだ? おとなしい系なのに意外」
 うっかり、しょうもないことを言ってしまった。いかん、シャリンさんがいないと、緊張感がなくなる。
 ニコルさんがアタシにリアクションしてくれた。優しすぎる。
「ボクの一人称と重複しないから、表記上、見分けやすいね」
「そういう演出効果かー」
「そのへんを地味にこだわる作者だからね」
 ちょうどそのとき、アタシの後ろから声がした。
「陰気なことになってるわね」
 アタシは振り返った。シャリンさんがオーロラカラーの髪を掻き上げた。もちろん、ラフさんも一緒にいる。
「シャリンさん! 間に合ってよかったです。ラフさんの状態、大丈夫ですか?」
「調整済みよ。この間みたいに、暴走しかけて震えたりはしないわ」
「暴走しかけてたんですか!?」
「あの後に解析したら、データが穴だらけになってた。本当に暴れていたら、このステージごと危うかったわね。でも、そんな不安定な状態も、ここで終わりよ。ジョチのAIからラフを引きはがすわ」
 シャリンさんはまっすぐ、ジョチさんに向かって進んだ。その距離、あと1歩。
 突然。
 むぉぉぉぉ……ん。効果音とともに、歪み始める空間。黒い霧が渦巻く。フィールド「ジョチの帳幕《ゲル》」のCGが消える。
 暗転して、一面の闇色。シャリンさんが舌打ちをした。
「ストーリーを進めてしまったみたいね。厄介だわ。手っ取り早く作業してしまいたかったのに」
 黒い霧が晴れていく。
 グラフィックがクリアになると、アタシたちは上空にいた。
 足下に町がある。城壁に囲まれた町だ。微妙にかすんでいるのは、夢の中や回想シーンの演出だ。ここはジョチさんの精神世界なんだろう。
「あれ? この町、様子が……」
 おかしい。あちこちから上がる煙。静まりかえった大通り。人がいない。日干し煉瓦の建物が全部、倒壊している。
 すぅっと高度が下がる。広場にジョチさんがいる。剣を提げてたたずんでいる。その剣に、アタシはギョッとする。
 剣は血に染まっている。
 兵士が広場を横切ってきて、ジョチさんの前にひざまずいた。色の薄い目で、ジョチさんは兵士を見下ろす。銀色の毛並みも血で汚れてる。
『死体はすべて集めたか?』
『はい。発見できたものはすべて、墓地に積み上げております』
『死体が疫病を生まぬうちに、焼き捨てよ』
『心得ました』
『使えそうな物資を奪ったら、この町にも火を掛ける。作業を急げ』
『はっ』
 兵士が駆けていく。ジョチさんの顔には何の表情も浮かんでない。切れ長の目は、ただ冷たく光ってる。
 シャリンさんが震える声でつぶやいた。
「何なのよ、これは……」
 この光景が悪夢の病の正体?
「これはスィグナクの町。ジョチにいさんが攻め滅ぼした町の記憶です」
 オゴデイくんの言葉に、アタシは耳を疑った。
「攻め滅ぼした? でも、ジョチさんは、できるだけ戦いたくないって言ってた」
「だからこそ、ジョチにいさんは、記憶にさいなまれているんです。スィグナクの町を全壊させた。住人を皆殺しにした。圧倒的な勝利ではありました」
「どうして皆殺しなんてことになったの?」
 答えたのは、ジョチさんだった。うっすらと透けた姿をしたジョチさんは、いつの間にかアタシの隣にいて、血塗れた過去の自分を見下ろしている。
「騙されたのだ」
「騙されたって、誰にですか?」
「スィグナクの町の連中に」
 ジョチさんが、ふわりと飛び下りる。過去のジョチさんがそれを見つめて、淡々と語る。
『降伏すると彼らは言った。オレは腹心の部下たちをつかわして話をさせた。連中はオレの条件を呑むふりをした。部下たちを油断させた。そして殺した』
 無表情な過去のジョチさんと裏腹に、現在のジョチさんは苦しげに眉をひそめた。
「約束を違えた連中を許せなかった。スィグナクの町はオレをあざむいた。交渉というオレの戦い方を否定した。だからオレも応じた。連中の卑怯で残酷なやり方を、そのままやり返した」
 過去のジョチさんが剣をまっすぐに上げる。血が付いたままの切っ先が、現在のジョチさんの喉元にある。
『今さら何を後悔している? オレは蒼狼族の戦士だ。戦うさだめを背負って生きている。たかが数千人の町を滅ぼすだけで心を揺らしてどうする?』
「確かにオレは戦士だ。だが、彼らは戦士ではなかった。欺くことでしか身を守れぬ、もろくて弱い民だった。武力を持たぬ彼らを、オレは殺し尽くした」
 剣を突き付けながら、過去のジョチさんが冷たく笑う。
『ならば、部下を殺されたまま、おめおめと引き下がればよかったのか? 誇り高き蒼狼族が?』
「それは……できない」
『オマエはオレを憎んでいるか?』
 現在のジョチさんが、喉元を狙う剣をつかんだ。嘲笑う過去の自分をにらむ。剣をつかむこぶしから、血のしずくが落ちた。
「憎い。オレは、オレが憎い」
『そうだよな、忌み子ジョチ。オマエは、オレは、何者だ?』
 すとん、と風景が変わる。
 立ち尽くすジョチさんの前に、銀色の毛並みの、狼の耳を持つ男の子がいる。子どものころのジョチさんだ。ふっくらしたほっぺたに、えくぼはない。ひどく冷たい目で、大人のジョチさんを見上げている。
 シャリンさんが「動けない」とささやいた。アタシはハッとして、コントローラをいじる。ほんとだ。動けない。このムービーが一段落するまで、ジョチさんに近寄れない。
「見たくないのよ、こんなの……」
「シャリンさん?」
「例えゲームの中でも、人のトラウマになんか触れたくない」
 繊細な人なんだって、改めて思った。シャリンさんは、たぶん、ほんとはすごく優しい。
 小さなジョチさんが、大人のジョチさんに言った。
『生まれてきて、ごめんなさい。生きていて、ごめんなさい。お詫びに、頑張るから。誰よりも賢くなるから。誰よりも強くなるから』
 どこからともなく、残酷な声が聞こえてくる。
『誰の子なのか、わからない』
『ボルテさまもお気の毒に』
『見ろ、あの蒼くない毛並みを』
『チンギスさまには似ておらぬ色だ』
『蒼狼族らしくない、あの銀色は何だ?』
 ジョチさんが、いやいやをするみたいに首を振る。数歩、後ずさって、自分をさいなむ過去から顔を背けようとする。
「オレは……だが、父上は……」
 小さなジョチさんが大人のジョチさんの前に回り込んだ。
『父上はね、オレの目を見てくれないの。どうしてだか知ってる? オレを見ると、弱かった自分を思い出すから』
「やめろ」
『父上は弱くて、母上を守れなくて、そしてオレが生まれたんだ。父上がオレのことを嫌いでも仕方ないよね』
 小さなジョチさんが弓に矢を番えて引き絞る。矢尻は、大人のジョチさんに向けられている。
『まだわかってないの? 大人になったのに? 父上と同じくらい、力が強くなったのに? 兵隊をいっぱい連れて、戦争にも行ってるのに? まだ、自分が誰なのか、わかってないの?』
「わからない」
『弱いね。自分が誰かわからなくて、迷ったり悔やんだりしてばっかりで、情けないね』
「言うな……もう十分だ。思い知っている」
『思い知っている? 何を? 忌み子の自分に価値がないことを?』
「ああ」
『生きてる意味、ないんじゃない?』
 大人のジョチさんがうつろな目をしてつぶやいた。
「殺してくれ」
 小さなジョチさんが、ニヤリと笑った。
 その瞬間、パラメータボックスがけたたましいアラームを鳴らした。バトルモードが発動する。
「ジョチさん、ダメ!」
 アタシたちはバトルフィールドに降り立った。小さなジョチさんが不気味な笑顔をアタシたちに向けた。
「殺されに来たの? アンタたち、邪魔なんだけど。オレ、ジョチを殺すように命じられててさ。引っ込んでてくれる?」
 かわいい顔のはずなのにソイツの笑みはどす黒い。アタシはゾッとした。ソイツはいきなり、アタシに矢を放った。
「危ないっ……!」
 オゴデイくんがアタシの前に飛び出した。手にした弓で矢を打ち払う。
「助かったよ!」
「アナタに傷付いてほしくない」
「はい?」
「いえ、何でもありません」
 ニコルさんが呪文を唱え始めてる。コンボ用のスキルは、安定のBPM240。アタシが詠唱に入った瞬間、ニコルさんの魔法が完成した。杖の先端の珠がまばゆい緑色に輝く。
「正体を見せてもらおうか!」
 ニコルさんが杖を振るった。光と風が、小さなジョチさんのふりをしたソイツに襲いかかる。
 “翠光明真”
 幻覚系の効果を全部リセットする魔法だ。ソイツがかぶった仮面が、フィールドの背景もろとも吹っ飛んだ。
 シャリンさんが毒舌を放った。
「またランプの魔人なの? ワンパターンなステージね」
 巨大でムキムキな魔人はニヤリと笑った。
「前のシャイターンと一緒にしないでくれる? オレの名はイフリート。煙の立たない炎から生まれた魔人。シャイターンなんかより、はるかに高等な存在だ。むろん、オマエたちよりもね」
「しゃべり方、ムカつくわ」
「同感ですっ!」
 ニコルさんがシャリンさんの剣に魔法をかける。シャリンさんの剣が緑色に発光した。
「ルラ、援護して!」
「はい!」
 ちょうど魔法が完成したもんね。デカいヤツには、これがいちばん。
 “ピコピコはんまーっ!”
 イフリートにヒット判定。と同時に、シャリンさんが飛び出す。その速さも目で追えるようになってきた。
「うわ、シャリンさん危ない!」
 イフリート目がけて突っ込むシャリンさんを、真横から、ギラッと光る剣が襲う。反り返った刃がシャリンさんに迫る。
 キィン、と甲高い音。
 ギリギリのところで体勢を切り替えたシャリンさんが、カウンターで攻撃を防いだ。剣と剣がぶつかって火花が散る。
 シャリンさんを襲った相手に、アタシは頭が真っ白になる。
「ジョチさん、どうして!?」
 何の感情も宿さない目が赤く染まってる。手にした武器は半月剣《シャムシール》。ジョチさん本来の武器じゃない。蒼狼族は弓矢使いだ。
 ニコルさんが索敵魔法を発動させた。
「ジョチの意識はイフリートに冒されているみたいだな。パラメータボックスを見てごらん。イフリートと並んで、ジョチのヒットポイントも表示されている」
「ほ、ほんとですね。しかもジョチさん、じわじわ弱っていってる」
 イフリートがゲラゲラと笑った。
「オマエたちがオレを倒すのが先か、ジョチが弱って死んじまうのが先か。言っとくけどな、ここはジョチの精神世界だ。ジョチがくたばっちまったら、オマエらもオダブツだぜ」
 ニコルさんが、ぼそっと苦言を呈する。
「ペルシアやアラブの伝説に登場する魔人が仏教用語を使うとは、設定が甘い」
「どーでもよくないですかー?」
 シャリンさんが剣を構え直した。
「ふざけたバトルを仕掛けるんじゃないわよ。何がなんでも、ジョチをつかまえなきゃいけないの!」
 シャリンさんのコンボ設定が解除された。スキルのBPMは∞。これ、配信されてる中で最高ランクだ。途中でBPMが変速するやつ。最初が333で、222まで落ちて、ラストは444。
 地獄な難易度のスキルをPFCで完成させて、シャリンさんがまがまがしくも神々しい光のオーラをまとう。イフリートへと突っ込む。その進路に、ジョチさんが立ちはだかる。
「邪魔よ! どいて!」
 シャリンさんが進路を変える。スキル発動。凄まじい速さの突きが連続して繰り出される。
 “Infernal Izanami”
 ヒット判定が出る寸前、イフリートの姿が消失した。シャリンさんの攻撃が炸裂する。ダメージを示す数字が飛び散る。
 シャリンさんがつぶやいた。
「しまった……!」
 イフリートじゃなかった。そこに立っていたのは、ジョチさんだ。ジョチさんのヒットポイントが激減する。
「ジョチにいさんっ!」
 オゴデイくんが走っていって、ジョチさんを助け起こそうとした。その足が、直前で止まる。傷だらけのジョチさんがオゴデイくんに剣を向けている。
 すかさず、シャリンさんが素手でジョチさんにつかみかかる。よけられる。ジョチさんが剣を振るう。シャリンさんが飛びのく。
 イフリートが再び、ジョチさんの背後に現れた。
「言ったはずだぜ? ここはジョチの精神世界で、オレはジョチを操ってる。つまり、オレはここでは何でもできるってことさ」
 ニコルさんがピシリと言った。
「シャリン、今は下がって」
「でも」
「下がって」
「……わかったわ」
 シャリンさんが戻ってきた。オゴデイくんが呆然と立ち尽くしてる。
「オゴデイくん、そこにいちゃ危ない! 戻ってきて!」
 アタシが呼んだら、オゴデイくんはハッとした様子で走ってきた。
「ジョチにいさんを助けてください。イフリートの魔術は完全ではありません」
「そうなの?」
「イフリートはジョチにいさんを操るのに精いっぱいです。その証拠に、攻撃してこないでしょう?」
 確かに、攻撃してるのはジョチさんだけだ。しかも、こっちに向かってくるんじゃなくて、反撃だけ。
「ニコルさん、これって、戦っても倒せなくてループするタイプですよね?」
「うん。キーワードで洗脳を解除していくタイプの、ストーリー型のボス戦だね。ここはルラちゃんに任せるよ」
「アタシですか!?」
 ジョチさんは無表情で半月刀《シャムシール》を構えている。赤く染まった目が、魔術に冒されてる証。魔術から解き放ってあげるには、言葉をかけるしかない。キーワードにヒットすれば、だんだん正気を取り戻していくんだ。
 でも、アタシひとりでやるの? ニコルさんのほうが知識を持ってるのに? シャリンさんのほうがずっと頭いいのに?
 オゴデイくんが切実な表情でアタシを見つめた。
「オレの声は、今のジョチにいさんには届かない。むしろ傷付けるだけです。ルラさん、お願いです。ジョチにいさんを元に戻してあげてください」
 繊細な声に、うるうるした目。そんな顔されたら、アタシは弱い。
 うん、相手がAIでも、アタシの信条は変わんないもんね。誰かが困ってたら、助けてあげたい。よーし、やってやる!
「ジョチさん、聞いてください! 死にたいなんて思っちゃダメだよ。自分を責めちゃダメだよ」
 すとん、と背景が変わる。